文化と芸術の最近のブログ記事

ここ数日、日本の大手電機メーカーの大幅な赤字決算が、立て続けに発表されています。震災、タイの洪水、そして円高、確かに日本企業にとって極めて厳しい環境であることは確かです。しかし、赤字を発表する経営陣が、それらを言い訳に利用しているように見えてなりません。まるで、「誰が社長でも、今期は利益出せないよ」と開き直っているように見えることすらあります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、ですか・・・。

 

今回の赤字は構造的なものであって、決して震災などの一過性のものではないことに気づくべきです。TVが売れないのは、円高だからではなく、魅力的な製品を出せないからです。多くの経営者はあまりに他責に陥っているようで、非常に不安です。

 

これまでの日本企業はスペックでの競争が得意でした。また、それを顧客も評価してきました。ところが今は違います。薄型TVに代表されるように、スペック面での進化は、顧客の認識レベルを超えるところまでいきついてしまいました。つまり、「もうたくさん」なのです。そうなると、あとは価格競争しかありません。他国の競合も、そのレベルのスペックに到達しているのですから。

 

この構図はあらゆる製品において実現しており、かつそのスピードはどんどん速まっています。スペック競争に代表される機能的価値の商品価値に占める割合が、どんどん低下しているのです。

 

では、機能的価値以外にどんな価値が重要になっているのでしょうか。それが意味的価値です。主観的価値とも言えます。つまり、定量的にその良さを説明するのは難しいけれど、「好きだから」少々高くても買うという場合に、顧客が余計に支払う金額で表現されるものです。マーケティングの世界ではそれをブランドと呼ぶのかもしれませんが、ブランドの源泉となる何かです。

 

現在、最もそれが得意なのがアップルでしょう。日本でいえば無印良品や任天堂(Wii以降ぱっとしませんが)もそれに近いかもしれません。また、かつてのSONYもそうでした。

 

なんとなく日本企業は、機能的価値創造は得意なのだが、意味的価値創造は苦手という風潮がありませんでしょうか?今回赤字決算発表をした経営者の言葉の端々にそんな印象を受けます。私は決してそんなことはないと思います。それは言い訳にすぎない。日本人ほど、意味的価値を好み、受け入れ、対価を支払ってきた国民はいないでしょう。たしかに、ここ十数年はデフレの波にさらされ、低価格志向は高まっていますが、それは表面的な現象だと思います。

 

たとえば、桃山時代以来のお茶椀を愛でる伝統。機能的価値はほとんどわずかのモノに対して莫大な値段がついてきた。そう、意味的価値のかたまりです。

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歌舞伎や能、落語といった芸能を、数百年にわたって大事に育ててきた。役者の機能的価値には、どれだけのものがあるでしょうか。日本人は意味的価値を高く評価し、また生み出す高い能力を備えているのです。高い美意識を持っているといういい方もできます。でも、それらをどこかで忘れてしまった・・・。

 

あらためて、自らの原点に立ち返り、自らの強みを認識し、活かす方法を考えてもいいのではないでしょうか。それなくしては、日本の再起はあり得ないように思います。いや、それどころか意味的価値の競争では、日本は世界のどの国にも負けないはずです。

 

今朝の朝日新聞で、今や日本を代表する現代美術家である村上隆のインタビューを興味深く読みました。彼は明確な戦略のもとで世界を狙って成功しています。

 

なぜ海外で評価されているのか、との質問にこう答えていました。

 

日本の美を解析して、世界の人々が「これは日本の美だな」と理解できるように噛み砕いて作品を作っていることだと思います。僕は、戦後日本に勃興したアニメやオタク文化と、江戸期の伝統的絵画を同じレベルで考えて結びつけ、それを西洋美術史の文脈にマッチするように構築し直して作

727727(l).JPG品化するということを、戦略的に細かにやってきました。それが僕のオリジナリティーです。

 

なるほどねー。マーケットを世界に定め、彼らに分かりやすくすることを重視している。いいものはいいんだ、というありがちな作家の一人よがりはありません。そして、作品の題材は、一見異なる戦後日本のサブカルチャーと江戸期の伝統絵画を交差させたこと。我々日本人から見れば、この二つを交差させることによる違和感やそれは変だという理由はいくらでも説明できます。

 

しかし海外コレクターから見れば、戦後のアニメやオタク文化も琳派などの江戸絵画も、自分たちと異質な視点で形成されたという意味では同じレベルにあります。というか、同じレベルであっても、さほどおかしくは感じない。さらに、西洋美術史の文脈にマッチするように構築し直すことで、彼らの認識の土俵に置いてあげている。きっと、彼らから見れば自分たちが村上を「発見した」と思うのでしょうが、実際は発見するように綿密に仕向けているのです。

 

こういった、一見すると異質なもの同士を、受け手の文脈にマッチするように再構築して、受け手に発見の喜びを与えるという戦略は、アート以外の世界でも使える気がします。創造とは「異質の組み合せ」ともいいますし。

 

科学的創造の話ではありますが、1791年に英国で内燃機関の特許が取られてから、1885年にベンツによって自動車が開発されるまで100年近くかかっています。内燃機関と車輪を結びつけ、移動手段という文脈にそれらを置くことは、後で思うほど容易ではないのです。「(19世紀の)馬車の利用者にどれだけインタビューしても、誰も自動車がほしいとは答えない」と言ったのは、スティーブ・ジョブズです。誰も想像すらしていないものを、組み合せて創造した人こそ真のイノベーターです。

 

 

話を戻しますが、文脈にそったうえでの意表をついたズレと連結が、人間の感情を揺さぶるのでしょう。村上やジョブズのようにそういった仕掛けをデザインできたら、きっと楽しいでしょうね。

 

これからの社会では、経済活動と人間の感情の結びつきがどんどん強くなっていくことは間違いありません。その時、村上のようなマインドというかスタンスは、ビジネスパーソンにとっても重要になってくるでしょう。

昨日、今話題沸騰の東京国立博物館「北京故宮博物館200選」を見にいったのですが、何と入場は60分待ち、目玉の「清明上河図」を見るのにさらに210分待ちとあり、さすがに諦めました。でも、せっかく上野まで行ったので常設展を見てくることにしました。常設展は有難いことに無料です。

 

常設展では、「日本美術の流れ」のタイトルのとおり、古代から近代までのあらゆる一級の作品が時代、テーマごとに展示されています。その質、量とも圧倒的で、日本美術教科書の実物版の趣き、国宝もたくさんあります。会場は広々としているし、客はまばらだし、ゆったりとかつ豊かに楽しむことができました。これは絶対お薦めです。

 

これだけの作品群を一同にみることで、日本人の深層に流れるものの考え方や志向、価値観がよくわかります。それは繊細、丁寧、緻密、簡潔といったものです。それをいつの時代も大切にしていました。もちろん、桃山時代みたいに絢爛豪華を振れた時期もありますが、そういった時期は長くは続かずすぐ揺り戻しがあり、大きな流れは変わっていません。秋にみてきたヨーロッパの芸術作品とは明らかに志向が異なります。

 

例えば研ぎ澄まされた鎌倉や室町時代の刀剣、形はいたってシンプルです。でもその鋭い輝きは、みる者に精神性を感じさせます。もちろんみる人によって受けとめる精神性はさまざまかもしれませんが、こちらに訴えかける「力」は誰でもが感じることでしょう。

 

また、禅画や墨跡、墨一色で、非常に多くの情報を発信しています。作者

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の性格、その時の感情、生き方、そんなものまで伝わってくるようです。でも、それらは合理的にはなかなか説明できません。日本の美術作品の多くにいえることは、みる側に多くを委ねているということです(これは能などの芸能にもいえます)。

 

つまり、作者はみるものの想像力を刺激する「入れ物」を用意しているにすぎない。その「入れ物」に何を入れるかは、完全にみるものに委ねているのです。時に強く主張する作品もなくはないですが、日本人の美意識ではその価値を認めにくい。「説明」を嫌うのです。そのあたりは、日本オリジナルなのではないかと思います。想像することを重視するがゆえ、「見立て」に大きな価値が置かれる。

 

こういった独特の美の世界では、つくり手とみるもの(使うもの)の間で、暗黙に了解された美意識や文化的素養が必要です。海に囲われた日本列島という地形の特殊性がそれを可能にしたのでしょう。しかも、ときどき海を渡って入ってくる海外(中国、朝鮮、ベトナム、オランダなど)の美的情報も、その希少性ゆえ、適度の日本化される余裕もあった。希有といえば希有な環境です。(その意味では、戦後のアメリカ文化の流入は過剰だったかも)

 

では、グローバル化が進む今後はどうなっていくのか。私は楽観的です。これからの日本人にとってのグローバル化は、自らのアイデンティティ認識がなければ難しくなるでしょう。それにみんな、何となく気づいているように私は思います。昨年の東日本大震災が、それを後押しする契機にもなっているのでは、ないでしょうか。

 

美意識とは決して芸術や文化の世界だけのものではなく、経済、政治などあらゆる場面で活かされるべきものです。2012年は、日本人自身が、日本が海外に誇れる最高の資源はこういった「美意識」にあることを、再認識する年になるような気がします。

映画監督の森田芳光さんが昨日亡くなりました。それほど森田監督の映画を観たわけではないのですが、ちょっと気になる監督でした。商業映画デビュー作「の・ようなもの」はとても印象に残っています。


の・.jpg公開は1981年とありますが、私が観たのはたぶん翌82年。大学入学のため上京した年です。細かいストーリーは覚えていませんが、落語家の風采のあがらない弟子(志ん魚/しんとと)が主人公(伊藤克信)で、多少恋愛話も絡むのですがなんという出来事もなく、淡々と日常が過ぎ去っていくという話だったと思います。

 

ただ、今でもよく覚えているシーンは、つきあい始めた彼女の家で両親に会って披露した落語が下手だとバカにされ、落胆しながら下町を一晩かけて歩くシーンです。栃木弁で何やら語りながら、合間合間に「・・・・しんとと、しんとと・・・」と自分で合いの手を入れて歩くのです。そして、あたりが明るくなるにつれて、その語りが力強くなっていったように記憶しています。本当になんていうこともないシーンなのですが、それが妙に印象深く、頭の中から「しんとと、しんとと」というフレーズがいつまでも抜けませんでした。

 

今思えば、はじめて東京に出てきた漠然とした不安、自信の無さ、の・ようなものが、志ん魚とダブって共鳴したのかもしれません。でも、映画を観た時は、全くそんなことは思いませんでした。

 

一晩歩き通し朝方到着した家の前で、はにかんだ表情の彼女が待っていたと記憶しています。だからと言って何も起きません。でも、なんだかそんなシーンにもほっとした。少しの希望が見えたからかもしれません。

 

それまで私にとっての映画とは、ドラマチックなものだったと思います。しかし、この映画は全然ドラマチックではない。でも、心に引っかかる。そんな、映画のあり方を学ばせてくれた映画だったように、今は思います。

 

 

私にとっての森田芳光は、「の・ようなもの」の監督であり、大学入学時のなんともいえない不安と期待とゆるーく流れる時間を映像に残してくれた監督であり、映画の可能性を広げてくれた監督なのでした。

そう言ったのは誰だったか忘れましたが、本当にそう思います。アートがなかったら、人類にとってもっと人生は乾いたものになっていたことでしょう。

 

最近、3つの展覧会にいきました。「ベネチア展」(江戸東京博物館)、「ジャクソン・ポロック展」(愛知県立美術館)、「南蛮美術の光と影展」(サントリー美術館)です。

 

「ベネチア展」では、9月にベネチアの行ってきたばかりなので、その時の風景と感覚を蘇らせてくれました。旅行前にこの展覧会を観ておけば、また違った感じ方もあったと思い、やや残念。今回の展示は、ベネチア派の絵画展ではなく、都市の生活と芸術の関わりに焦点があたってい

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ました。作品の多くはコッレール美術館のものです。たしかに、コッレール美術館へも行きましたが、ちょうどその時期は「ジュリアン・シュナーベル

展」開催中で、常設の作品群はほとんど観られませんでした。でも、豪華で巨大なボウルルームに彼のこれまた大きな作品が並べてられているのは圧巻でした。

 

海上に浮かぶ小さな都市国家が、貿易による巨万の富を使って芸術で豊かに実らせていく姿が、この展示でよくわかります。どこか、日本にも通ずるところがありそう。食に関する展示もあり、そこの解説文では、芸術と料理が融合した17世紀のベネチアでカルパッチョ(料理)が発明されたという表現がありました(カルパッチョは当時の有名画家です)。でも、それは間違い。1963年にベネチアでカルパッチョ展が開催されていた頃、あのハリーズバーで考案されたものです。まあそれはいいとして、歴史と芸術の都市、ベネチアの魅力が立体的に味わえる展覧会でした。

 

「ジャクソン・ポロック展」は、生誕100年記念の日本発の回顧展です。最高傑作のひとつ「インディアンレッドの地の壁画」1950年)もはるばるテヘランから初出国で来ています(今テヘランの英国大使館は暴徒で大変ですが・・)。私も大傑作と思います。この作品を、よーく観てみてください。わけのわからない図形にすらなっていない絵画です。観ていて左脳を働かせる余地がありません。抽象画であっても、まだ四角や円などの図形であれば、そこから何か既存のイメージを想像しますが、それもできません。つまり、純粋に「感じる」ことだけで味あうことができるのです。それが彼の作品の優れた特徴と思います。では、どのように感じますか?ひとそれぞれと思いますが、私は・・・・・、言語にすると陳腐になるのでやめておきます。

 

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しかし、50年代以降の彼は苦しみます。50年に到達してしまった地点から抜け出そうともがくのですが、やればやるほど俗っぽくなり質が落ちていきます。ならば50年と同じスタイルの作品を量産すればいいとも思いますが、芸術家である彼はそれが絶対にできないのです。その苦悩が、その後の作品から痛いほど伝わってきて、観ているこちらも苦しくなります。そて、1956年飲酒運転による交通事故で死亡。いろんなことを感じて、考えさせる好企画だと思います。そう、アトリエの再現まであり、中に入れます。(写真もOK)

 

最後は、「南蛮美術の光と影展」。 天正少年使節の本(クアトロ・ラガッツィ)が蘇ってきました。15,6世紀日本におけるキリスト教(カソリック)の地位付けやその影響、そして悲劇が概観できる展示でもあります。もちろん目玉は、「泰西王侯騎馬図屏風」の左右両揃い踏み。誰が何の目的で書いたのか、今もその謎は深まるばかりです。

 

左右それぞれ4人ずつの騎乗する王が描かれていますが、王の描かれ方は余りに凡庸です。西洋の王は、家柄のいいお坊ちゃんばかりだと言わんばかりに。一方、馬に関してはどれも驚くほど緻密に迫力を持って描かれています。王より馬が主役のように。日本には当時描かれたアラビア種の馬は存在しなかったはず。馬は現代の戦車にあたる重要な兵器ですから、西洋にはこんなに強力な兵器があるのだと、江戸幕府に半ば脅しをかける目的で描かれたのではないでしょうか。私たちは兵器たる馬を贈呈することもできる。だから私たちを大切にしなさいと。それと同時に、兵器では西洋はすごいが、王の器は大したことはない。その点、あなた方(将軍ら?)のほうが遥かに立派である、というヨイショも忘れなかった。そう考えると、日増しに圧力を強められたイエズス会が、将軍に対する一発逆転を狙った贈り物として、この屏風が描かれたような気がします。二つの屏風の間に、偉大な姿に描かれた将軍の絵もあったら面白いですね。将軍が世界の王たちの中心にいて従えている、なんて。ちょっとヨイショしすぎかもしれませんね。観ていて、こんな空想が膨らみ、なんか楽しくなりました。

 

しばらくブログ書く余裕もなかったのですが、今回これを書いてちょっと気分がよくなりました。これもアートのサプリメント効果ですね。

大学三年生のとき、初めての海外旅行でオーストラリアにいきました。その時、一番印象に残ったのは人々の歩き方です。誰もが胸をはって、堂々と歩いていました。唯でさえ彼らに比べ貧相な体格なのに、いっそう自分のことをみすぼらしく感じたのでした。そこでその後も、せめて歩き方くらいは堂々としようと、自然に背筋が伸びる歩き方を意識していたように思います。おかげで、姿勢がいいねと言われたりしました。

 

数年前、矢内原伊作がエッセーで「西洋人は股で歩くが、日本人は膝で歩く」と書いているのを発見しました。矢内原といえば彫刻家ジャコメッティのモデルにもなった哲学者です。なるほど、と膝を打ちました。確かに私がかつて強く印象を受けたオーストラリア人に代表される欧米の人々は、背筋を伸ばしているだけではなく、大股歩きで前に踏み出した側の足の膝はまっすぐのびています。股を起点にして、靴が振り子になるような歩き方です。その極端なのが軍隊の行進でしょう。

 

それに対して我々日本人は、ほぼ間違いなく踏み出した足の膝も、くの字に曲がっています。極端にいえば、膝を起点にしているようです。何となく日本人の歩き方が貧相に見えるのは、そのせいだとわかりました。

 

では、日本人はなぜそんな貧相に見える歩き方をしているのでしょうか。ところで、能では歩く所作は「すり足」です。つまり常に膝を曲げてちょっと前傾姿勢ですーっと、すべるように歩きます。手は振らず両手を両太ももの前に軽く添えます。

 

現在の日本人の歩き方は、西洋人のそれと能の所作の中間のように思います。しかし、能の歩き方を貧相だとかみすぼらしいと感じたことはありません。なぜでしょうか?それは、能役者が着ているのが洋服ではなく能装束/和服だからでしょう。つまり、服にはそれに合った歩き方がある。現代の日本人は、和服の歩き方をどこか引きずりながら洋服を着て歩いているから、不自然に見えるのだと思います。成人式の頃、振袖を着てさっそうと歩く女性を見て不自然だと思うのは、その反対側です。

 

おととい、城西国際大学エクステンション・プログラム「日本人の身体の美意識」という講演を聞いてきました。とても面白かった。そこで、日本人の身体技法について学ぶことができました。矢田部先生によると、日本人は鼻緒のついた下駄や雪駄で歩いてきたので、重心が爪先にかかる。そして爪先を移動させて歩くには前傾姿勢で膝から歩くことになるのだそうです。そういう歩き方に慣れた人が、ハイヒールのようなかかとに重心を置くことを想定した靴を履くと、足先に大きな負担が掛り体に良くないのだそうです。外反母趾などはそれが原因なのでしょう。

 

先生によれば、服装に合った身体技法を身につけることが大切なのだそうです。さらにいえば、生活・生産活動-服装-身体技法、それらから美の基準も紡ぎ出される。矢田部先生が写して見せてくださった日本舞踊の名人

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武原はんの二枚の写真、舞踊中の姿と洋服で盛装した姿は、その重要性を如実に語っていました。どちらも完璧に「きまって」おり美しいのです。

 

つまり、状況に応じて身体を操作する技術「身体技法」を身につければいいだけの話で、決して日本人の体格や稲作文化のDNAを理由にして諦めるようなものではない。日本人だから洋服が似合わないのではなく、ふさわしい身体技法ができていないから不格好なのです。

 

そう思えば、体格を変えることはできなくとも何とかなりそうな、希望が湧いてきませんか。何事にも理由があり、それを克服する方法を身につければ、大抵の問題は解決できる、そんな希望も・・。

9/1927の間、久しぶりにヨーロッパに行ってきました。出発する日は猛暑で汗をかきながら家を出たのに、帰国した日はもうすっかり秋の涼しさとなっていました。この間、大きな台風を東京が直撃し大変なことになっていたようですが、海外でもTVニュースで大きく取りあげていました。トーンとしては「踏んだり蹴ったりの日本」でしょうか。

 

今回は、ドイツのハンブルグ、ドレスデン、チェコのプラハ、そしてイタリアのベニスというルートでした。ハンブルグは一泊、その他は二泊と駆け足で、やっとトラムやバスの乗り方を把握したと思ったら移動で、それぞれもう二泊はしたかったという気がしました。

 

プラハとベニスは世界中から観光客が集まる街です。25年前にもベニスを訪れましたが、その時と比べて街はほとんど変わっていないのですが、観光客の顔ぶれが全く変わっていると感じました。25年前のベニスを訪れるのは、ほとんどがヨーロッパ系の人々だったと思います。そこにアメリカ人や私のような日本人の学生(卒業旅行)がちらほらいると感じでした。

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ところが、今回、プラハもそうでしたが、ベニスのサンマルコ広場周辺行くと文字どおり世界中から人々が集まっていることを肌で感じました。中国、ロシア、ブラジル、インド、そうまさにBRICSです。ベールを被ったアラブの人も何度もみかけました。彼らの多くは団体旅行で、集団で移動しますので、いやがおうにも目立ちます。世界の縮図がそこにあるようでした。

 

この四半世紀で世界全体に豊かさが広がったことを実感すると同時に、この先どうなるのだろうと、ちょっと不安になりました。地球が果たしてそれに耐えられるのだろうかと。

 

今回ベニスを訪れた目的は、現在開催されているベネチア・ビエンナーレです。ベネチア・ビエンナーレとは、二年に一回開催される現代美術の祭典です。今回は第54回、つまり100年以上続いている世界最古にして最高の現代美術イベントなのです。

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そこでは、ベニスの違った顔が見られました。会場は主に島の東側にあり、そこを訪れるのはビエンナーレ目的の人だけで、サンマルコ広場にたくさんいた世界中からの観光客はいません。世界で最も美しい街に来ているのに、わけのわからない現代美術作品をみるのに時間を使おうという酔狂な人は、そう多くはありません。したがって、同じベニスとはいえ、全く異なる人々が集まってくるのです。

 

そこで団体といえば、イタリア国内の学校の遠足(社会見学)くらいのもの。その他は現代美術が好きな個人たちです。美術が目的なので、落ち着いた雰囲気で多くの会場をじっくり周っています。いかにもイタリアの上流階級といった感じのマダム達も数多くいます。リゾート地に来て、今日はアートにでも接してみようかといった風情。ファッションといい振る舞いといい、日本ではなかなかお目にかかれません。さりげない華美さというか、生まれた時からの品の良さみたいなものが自然ににじみ出てくる感じです。成り金ではなく、長い時間をかけて作り上げられた風格とでもいいましょうか。もちろん女性だけでなく男性も。(私には無縁の)有名なイタリアブランドの服やバッグも、こういう人が身につけるために存在するのだと、よく理解できました。


その時ふと思いました。現代の日本にはこういう光景はなさそうだ、もしあったとすれば江戸時代の御花見や紅葉狩りか。浮世絵には、そういう風情のある光景がたくさん描かれています。

 

日本人は戦後アメリカを追いかけ、成り金を目指してきたように感じます。そうして、古い日本を忌み嫌いどんどん捨ててきた。しかし、イタリアではそうではなかったようです。古いイタリアを、プライドを持って維持してきた層が確実にいるのです。日本もイタリアに負けないほどの伝統と歴史、そして独自のスタイルを持っていました。それなのに、そのほとんどを捨ててしまった。我々は大きな勘違いをしてきたと、早く気づくべきです。

 

そして、そんな日本の失敗を新興国の人々が繰り返さないことを、祈らずにはいられません。

昭和13年山本嘉次郎監督作品のこの映画は、主演の高峰秀子と原作の豊田正子との不思議な縁を感じさせます。当時13歳だった高峰と15歳だった豊田、若くして人気者となったふたり。奇しくも二人は昨年12月、相次いで亡くなりました。


原作は、東京下町の貧しい一家の長女正子を中心とした物語です。家族は貧しさゆえ窮地に陥ったりしますが、威張っているものの気の弱い父と気丈な母、無邪気な二人の弟とともに、ひっそり暮らしているのです。


映画では、高峰演ずる6年生の正子は、小学校で綴方(作文)がとても上手だと先生に褒められます。その後、つらいことがあっても綴方をひた向きに書き続けることで、明るさを保っていきます。大好きなその先生は、その後も正子を支えます。


一方、現実の高峰は5歳から子役として脚光を浴び小学校すらまともに通えませんでした。そんな彼女の楽しみは、ファンやスタッフからもらった絵本や雑誌などを見て、ひとり字を覚えることだったそうです。しかも育ての母親は、高峰を金づるとしか見ていない。夜中に布団の中でこっそり本を読んでいると、それを見つけた養母は、「字の読めない私へのあてつけか!」と怒鳴り、本を破って捨てたそうです。

 

貧乏だが優しい家族や先生に恵まれた豊田、おカネはあるが不幸な家庭で学校にも行けない高峰、同年代でありながら対照的な二人だったことで

綴方教室.jpgしょう。映画化の際撮影所を訪れた豊田に高峰が女工を見下した発言をしたと豊田が書いたことの反発した高峰が、内容証明でそれに反論する騒ぎもあったそうです。末恐ろしいふたり・・。

 

その後、ご存知の通り高峰は名作「二十四の瞳」で、先生を演じました。「綴方教室」で先生の愛情をいっぱい受けた正子を演じた小学校にも通えなかった高峰にとって、特別な役ではなかったかと想像します。この役で、女優の名声を確かなものにしました。

 

ところで、書籍「綴方教室」はベストセラーになりましたが、豊田は貧乏生活から抜け出せたわけではありません。その本の著作権者は豊田ではなく、あの先生のものになっており、豊田には一銭も印税は入ってこなかったからです。何ということでしょう。


小学校を卒業し女工になっていた豊田は、その後も創作を続けます。空襲で弟を失い、戦後は共産党に入党。文化大革命時の中国に渡り苦労したようです。夫からは捨てられ、帰国後もほそぼそと宝飾店で働きながら、創作を続けました。あるエッセーに、共産党は貧乏人の味方だと思っていたがそうではなかったと、書いたそうです。

 

幸せな結婚生活を送り早くに女優を引退、その後エッセイストとしても活躍した高峰、創作を続けながら貧乏と戦い続けた豊田、その二人は昨年12月に相次いで亡くなりました。何が二人を分けたのでしょうか。昭和の歴史がここでもひとつ幕を閉じた。そんなことを感じた映画「綴方教室」でした。

俳優の原田芳雄さんが昨日亡くなりました。実は3年くらい前まで、あまり俳優としての原田さんに注目してきたわけではありませんが、あることをきっかけに私にとってはちょっと気になる俳優となっていました。

 

 

200853日、長野県大鹿村で300年続く大鹿歌舞伎の春公演を初めて観ました。そこで地元住民が演じる役者の演技と、三味線と大夫を同時に務める登大夫さん、そして何よりおひねりが飛び交う観客と一体となった雰囲気に強く惹かれました。その後、翌年と今年の3回見物しています。(09年はブログにも書きました)

 

その最初の年、公演が終わるとすぐ観客席の後ろから促されるようにして舞台下に現れたのが原田さんでした。(その年原田さんは、大鹿歌舞伎にも触れたNHKドラマに出演し、その縁で来られていたのだと思います)観客席後方に座っていた私にも、原田さんが感動に打ち震えているのがわかりました。そして、うわずった声でこう叫びました。

 

「ここに芝居の原点を私は見つけました。これまで私がやってきた芝居なぞ、足元にも及びません。本当の芝居を教えてもらった思いです。ありがとうございました」(あいまいな記憶ですが・・・)

 

そのセリフは決してお世辞などではなく、心の底からほとばしり出てきたことばでした。私は本当にこの人は芝居が好きなんだなあ、とそのことに感動したほどです。

 

 

そして今年の53日、再び舞台の下に原田さんの姿がありました。今度は

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、大鹿村を舞台にした映画の企画兼主演して、監督(阪本順治)や共演者(岸部一徳、大楠道代)を従えていました。原田さんが登場すると観客席から、「いよー、大物!」との掛け声。2週間、村に寝泊まりして撮影した原田さんらは、すっかり村民となじんでいました。そのときの雰囲気に、どうみてもこの映画は監督より原田さんの映画だとわかりました。

 

4人が順番に挨拶しました。最後の原田さんは、3年前初めて大鹿歌舞伎を観て感動したこと、その時大鹿歌舞伎を題材にした映画を撮りたいとおもったことをゆっくり語りました。その希望がかない、こうして歌舞伎の舞台の下でそれを発表できることが、本当に嬉しそうでした。(直前に、村での試写会を行ったようでした)しかし今思えば、うれしさの割には、少し元気がなかったように思えます。

 

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そして、先週の土曜、その映画 「大鹿村騒動記」は封切られまし

711日の試写会に車椅子で舞台に立ったのが、後の公の場での姿でした。大鹿村にも悲しみが広がっているそうです。

 

 

まだ映画は観ていません。封切りを楽しみにしていたのに、まさか観る前に亡くなってしまうとは、本当に残念です。ただ、勝手な思いですが、原田芳雄という一人の俳優の最後の仕事に、少しだけ立ち合えたような気がしています。

 

遺作というフィルターを通してしまうとは思いますが、原田さんの思いを感じながら映画を大いに楽しんでこようと思います。


心より冥福をお祈りいたします。

7/26(土)2030から何と三時間にわたって、草間彌生の特集世界が私を待っている「前衛芸術家 草間彌生の疾走」)がNHK-BSプレミアムで放送されました。

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彼女の水玉模様の作品をご覧になった方は多いと思いますが、現在のアーチストとしての生の姿が描かれていました。もう40年近く精神病院から近所のアトリエに通う(その逆ではありません!)姿は、驚きを通り越して神々しさまで感じてしまうほどです。

 

もう84歳になるというのに、その欲望は衰えません。「もっとたくさんいい作品を描かないとピカソやミロを超えられないわ」と、世界巡回展のための百連作を描き続けます。彼女は本気で、ピカソを超えるつもりです。

 

そう語った直後に、アシスタントに尋ねます。「ねえ、カレーはまだ?」このギャップこそが草間彌生。

 

また、ロンドンの契約ギャラリー(超老舗)のオーナーにこう言います。

「なんかスタッフが、もう少し値段が上がんないかなと言っているだけど・・」

こう彼女に直接言われたオーナーは、了解せざるをえません。表面的にはスタッフの要望にしていますが、彼女以外の誰がそんなことを考えるでしょうか。

 

創作中も、驚くほどスタッフに意見を聞いていました。「ねえこれ、これでいいと思う?」「もっと、こうしたほうがいかしら」でも、スタッフはYESという以外にありません。自分自身で全て決めているにもかかわらず、それだと不安なので同意を求めているのでしょう。それはわずかに身につけた処世術なのかもしれません(岡本太郎も晩年は敏子に同意を求めていたそうです)。そんな草間は、ちょっとかわいらしくも見えました。

 

彼女は、作品を創造し続けなければ生きられないと語ります。もし、創造できなければ自殺していると。それは本心だと思います。生きることとは創造することであり、創造するからには一番でなければ満足できない、そしてその指標は「値段」である、この考え方は非常につらく厳しいものといえるでしょう。人間、そこまで自分を追い込めるものではありません。

 

 

 

84歳にもなってそこまで追い込まなくてもと凡人は考えるのでしょうが、彼女の場合84歳にもなっているのだから、残されたわずかな時間で極みを目指さなければ意味がない、そう思いつめエネルギー源としているようです。きっと、そういう生き方しかこれまでもこれから先もできないのだと思います。

 

彼女が世界で高く評価されているのは、そういった生き方やエネルギーが作品に込められているからなのでしょう。

 

草間の眼は岡本太郎の眼に似ています。外野の視線には全く関知せず、自分自身を生き抜く人に共通の眼なのかもしれません。草間彌生という存在自体が既に芸術作品になっています。

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