文化と芸術: 2017年9月アーカイブ

ジャコメッティ展

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開催期間が終わるほとんど直前、新国立美術館でジャコメッティ展を観てきました。とても興味深く、もっと早く行っておけばと後悔。(作品は、こちらのサイトで鑑賞下さい)


ジャコメッティといえば細長い人の彫像で有名です。しかし、あのスタイルに至るプロセスが本展覧会では垣間見ることができます。戦前の作品は、恐ろしく小さいものでした。マッチ棒ほどにまで。この時代のことを、彼はこう語っています。

 

「見たものを記憶によって作ろうとすると、怖ろしいことに、彫刻は次第に小さくなった。それらは小さくなければ現実に似ないのだった。それでいて私はこの小ささに反抗した。倦むことなく私は何度も新たに始めたが、数か月後にはいつも同じ地点に達するのだった」

 

記憶に基づいて制作するのであれば、いくらでも拡大して細かい部分も造りこむことができそうな気がします。にも関わらず、極小化するのはなぜか。なぜ小さくなければ現実に似ないのか。私の想像ですが、記憶の中の人物の姿は全体に焦点が当たった状態で合成されている気がします。一方、実際に目で見る人物の姿は、どこか一点に焦点が当たりそこにピントが合っているので、他の部分はぼんやり見えている。

 

そして、全体一様にピントが合っている記憶の中の姿を、記憶の外すなわちこの世界に彫像で表現しようとすると、ピントが合う大きさすなわち極小サイズでない一貫しない、と彼は認識してしまうのではないでしょうか。だから造りこめばこめるほど極小になってしまう。

 

歩く人.jpg

なんとか大きな作品をつくろうと決めた彼は、1mの大きさという制約を自ら設け制作を始めた

そうで

す。そうすると、今度はどんどん細くなっていった。彼の目は人物のコアな部分に集中し、それは顔とか足といったパーツではなく、縦方向の構造だったのではないか。そこに人間の本質が現れるとの直観でしょ

うか。

 

さらに、1950年頃から一つの台座に複数の人物が立つ群像作品が増えていきました。ある場における複数人間の運動と関係性に関心があったのでしょうね。関係性と動きを最もシャープに表現するのには、リアルな肉体像はかえって邪魔だったんだと思います。

 

1951年制作の「犬」。これは、彼独自の「細さ」が雄弁に対象の性格や感

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情を語ることを実現して見せた傑作だと思います。ジャン・ジュネは、「孤独の最高の理想化」と称したそうですが、全く同感です。「孤独」という概念を、これ以上に雄弁かつ崇高に語る「形」を見たことがありません。概念と形象との一致の最高到達点でしょう。

 

さて、大きな彫像に取り組んだ彼は、記憶ではなくモデルを見ながら制作するようにします。そうなると、今度は「見えるとおりに捉える」ことに固執します。かといって、具象の世界に行くのではありません。具象とは、「誰もがそのように見えているはず」の形を表現するものだと言えるでしょう。いわば写真のように。しかし、人間は写真のように見えるわけではありません。能面が表情豊かに見えるように。

 

彼の人物デッサンが多数展示されていますが、人物の鼻と目を執拗に何度も何度も書き込んでいます。描いては消し、消しては描いている。モデルはその間、微塵も動くことを禁じられていた。だから普通の人にモデルは務まらなかった。(数少ないモデルの一人が矢内原伊作でした)

ジャコメッティの視点は、鼻と両目で結ばれた狭いエリアに集中していたのではないでしょうか。そして、そこを起点にして人物像を捉えていった。

 

しかし、残念ながら「見えるとおりに捉え」作品にすることは不可能です。なぜなら、「見える」形はその瞬間のもので、次の瞬間にはまた別のものが見えるからです。見える形は時間とともに姿を変えてしまう。そう、三次元ではなく四次元です。四次元を三次元に固定化するのは不可能なのです。彼はそれを百も承知でそれを追求していった。

 

1956年に、10点の女性立像によって構成される「ベネチアの女」というシリーズを制作します。解説によると、まず一体を制作しそれを石膏型に取る。石膏型を外した後、先程の作品にさらに手を加えて完成させる。その作品をまた石膏型に取り、再びまた手を加えるということを10回繰り返したそうです。その上で残った10体の石膏型にブロンズを流し込み、10体のブロンズ像が完成する。10体並んだ立像は、一体の彫像の「見えた姿」の変化の軌跡という時間をも取り込んだ作品と言えるのではないでしょうか。

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これも、「見えるとおりを捉える」苦闘の結果でしょう。

 

1960年制作の「大きな女性立像Ⅱ」には圧倒されました。2.76mもあります。最後の到達点。一見して、法隆寺の百済観音像(2.11m)を思い出しました。どちらにも共通するのは、人間を超越した「気高さ」。ジャコメッティも晩年には、記憶の中のイメージを実物大以上の大きさで表現できるところにまで到達したのです。

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