2009年5月アーカイブ

普段、中国や韓国から歴史問題で非難を浴びることに慣れているためか、日本は世界の嫌われ者なんじゃないかと思ってしまいがちです。

 

 

キューバでのハバナビエンナーレから戻った友人から、キューバは親日的だと聞き、ちょっと驚きました。アメリカと一体と見られてもおかしくないのに。

 

彼女は2000年に続く二度目の訪問でした。以下、彼女の話です。

 

キューバ人は、日本が戦争で焼け野原になっても、不屈の精神で急速な発展を遂げ、経済ではアメリカを脅かすまでになったことに驚きと尊敬の念を持っているようね。

 

2000年当時、カストロが、サトウキビの大増産を奨励した有名な演説をした。その中で、「イチ」の精神を見習って精進しようと国民に呼びかけたそう。イチとは、座頭市のこと。カストロは、盲目でも強いサムライ(?)座頭市の大ファンだった。

 

町の人は、私が日本人だとわかるとオチン、オチンと呼び近寄ってきた。最初意味がわからなかったが、「おしん」のことだった。「し」が発音できず「チ」と発音する。やはり、逆境から這い上がる「おしん」に現代の日本人をも重ねているようだった。

 

今回は、オチンがイチローに変わっていた。WBCで日本チームに大敗し、彼らは日本チームから大事なことを学んだという。それは何か尋ねたところ、こう言った。

「野球でピッチャーは大切なんだ」

 

 

彼女は、そんな大らかで親日的なキューバ人が大好きだそうです。

 

文化の力の偉大さと、多面的なものの見方の大切さを、あらためて感じました。

 

 

キューバ.jpg

「ほとんどビョーキ」で一世を風靡(?)した山本晋也監督が、こんなことを書いていました。(うろ覚えですが)

山本晋也監督.jpg 

中学生くらいの頃、映画にはまった。周りの大人達は映画=不良と思って顔をしかめた。そんな中で自分が大きな影響を受けた祖母は、こう自分に言った。

「映画を観ることは品行の悪い行いだが、品性を高めることにはなるかもしれない」

 

この言葉が監督の人生を変えたそうです。

 

品行とは、その時代の常識的行動基準に合うか合わないかではないでしょうか。だから時代によって変わるものです。

 

 

80年代、私も「トゥナイト」での監督のレポートを楽しみにしていました。当時を知る男性はご存じと思いますが、そこではまさに日本における「風俗」の進化を感ずることができました。ロマンポルノを撮っていた監督ですから、そのルポは楽しくかつ鋭いものでした。でも、なぜか「下品ないやらしさ」や「じめじめした暗さ」はあまり感じませんでした。それは、監督の品性にあったのだと、先の記事を読んで思い至ったわけです。

 

 

品行は時代によって変わっても、品性はいつの時代にもひとつのあるべき基準のようなものがあるように思います。つまり、普遍的なのではないでしょうか。

 

 

そういえば、小津安二郎監督は、

「品行は直るが、品性は直らない」と言っていたそうです。

 

品性は、長い時間をかけて蓄積され、形成されるものなのでしょう。一夜漬けではどうにもなりません。いやはや、どうしたものでしょうか・・・・。

ヒトが必要とする新しい情報や知識を外部や内部から得て、修得することを学習と呼ぶならば、学習のゴールは修得することです。

 

では、修得とはどうなることでしょうか?分かりやすいのは、「使える」ようになることでしょう。では、どうすれば、使えるようになるか。

 

学習を初歩段階から順に並べていくと、以下のように進展していくと考えます。

 

1)(知識を)記憶した -暗記

2)納得し、記憶した -納得

3)長期的に記憶が維持された -強化された暗記

4)忘れてしまっても、自分で創りだせる -使える!

 

いわゆる受験勉強は「暗記」で、関心の薄い科目の知識は、ほとんど残っていませんね。でも、納得感や美しさを感じた知識は、暗記にそれほど苦労しなかったと思います。でも、数年も経てば忘れてしまいます。

 

長く記憶されているのは、知識を与えられたのではなく、自分で見つけ出した場合ではないでしょうか。小学校4年生くらいの頃、理科の授業では年度の最初に教科書が配られると同時に、先生に回収されてしまいました。学年末まで、手本にはありません。授業は、先生との対話で進められたように思います。

 

ある時、唾液にある液体を落とすと赤紫色にそまる実験をしました。子供心に、色が変わるのに感銘を受けました。生徒はみな、その澱粉に反応する液体の名前を知りたくなったのですが、先生は教えてくれません。「これは、とても大切な液体だ。先生に教わるのでなく、自分たちで調べなさい。」といい、あとは自由時間にしたのだと思います。私たちは、図書館で必死に探したのだと思います。子供向けの参考書などなく、難しい百科事典などにあったのでしょう。

 

結局、子供たちが独力で、その液体の名前を探り当てました。その「ヨウ素液」という名称は、今でも忘れません。

 

その後、一度もヨウ素液を見たことはありませんので、それほど重要だったかどうかは疑問ですが、私に「自分で見つけたものは忘れない」という教訓を残してくれたように思います。

 

さらに、見つけ出すだけでなく、自分で創りだすことで、さらに「使える」レベルが上がります。たとえば、標準偏差の公式は中学で習うでしょう。でも、単に記憶しただけでは、すぐ忘れてしまうのではないでしょうか。

 

なぜ、標準偏差という指標が必要で、それはどういう考え方で生まれたのか、そのプロセスを自分自身でたどっていけば、決して忘れません。いや、忘れても自分で組み立てられるので、「使える」のです。

 

ここまで来て、初めて学習したと言えるのではないでしょうか。知識を単に記憶するだけであれば、本で十分です。受け身ではない、主体的活動を組み込んだ学習を設計することがますます、重要になっています。

評価と決定は一体のものだと思っている方は多いのではないでしょうか。評価するから決定できる。決定するには評価が必要だ。それはそうでしょう。でも、評価と決定との間には、大きな大きな溝があります。

 

 

骨董の目利きになるためには、本物をどれだけ観たかはとても重要です。でも、ただ観ただけでは、本当の眼は養われないと言います。では、どうすべきか。

 

身銭を切って、なけなしのお金を清水の舞台から飛び降りるつもりで、自分が本当に欲しいと思う骨董を買うことです。それも、青山二郎.jpgできるだけたくさん。もちろん、まがい物を掴まされることもあるでしょう。しかし、そういう傷が多ければ多いほど眼が鍛えられるのだそうです。

 

私の数少ない経験でも、何となくそれを感じます。単に、観ているだけの時と、買うつもりで観るときでは、本気さが違うのです。理屈ではありません。当然、学習効果も全く異なります。

 

 

自分は安全地帯にいて、評価するだけ、批評するだけなら簡単です。でも、自分がリスクを背負って「買う」という意思決定をすることは、全く次元の異なる世界に踏み出すことなのです。

 

 

これは、骨董の世界に限るものではないでしょう。私は、評価だけでなく、リスクを取って決定した人に敬意を払いたいと思います。成功、失敗はそれほど重要ではありません。人として付き合いたいか、学びたいと思うか、を決めている基準も、そんなところにあるような気がします。

 

他人はともかく、そもそも自分自身が決定し行動できる人間でありたいと切に思っています。

誰もが習った景気循環の3パターン、覚えていますか?

 

1)キチンの波 約40か月 在庫変動に由来

2)ジュグラーの波 約10年 設備投資に由来

3)クグネッツの波 約20年 建設需要や世代交代に由来

4)コンドラチェフの波 約50年 技術革新の由来

 

 

最近、このような循環の考え方が景気変動だけでなく、身近な経営の場面にも応用できるのではと考えています。たとえば、こんなふうにです。

 

1)コンサルティング業界マッチポンプの波 約40か月

2)現場意思決定者世代交代の波 約15

3)会社の寿命の波 約30

4)破壊的技術革新に基づく生産性の飛躍的向上の波 約50

 

 

1)は、魔法の杖を求める経営者と、その要求に応えることを生業としているコンサルティング会社の利害が一致したときに発生します。だいたい一つのコンセプトで3,4年は「食える」ということらしいです。

2)は、入社早々の若手が花々しく活躍する上司や先輩に憧れて、自分もそうなりたい(同じ美味しい目を味わいたい)という気持ちが潜在的に持続され、やっと自分もそれをできる地位にたどり着いたときに発生します。その時点では、かつての上司は自分の間違いに気づいているのですが、既に影響力は弱まり、かつての部下を諭すことはできません。現象として分かりやすいのは、繰り返し発生するバブルとミニバブルでしょうか。

3)創業者の清真な気持ちは、概して20年以上は続かないようです。うまく世代交代できればいいのですが、それも一般には難しく30年経過すれば並以下の会社になってしまう確率が高いようです。

4)過去をご破算にしてしまうだけの技術革新と、それをビジネスに適用し飛躍的生産性向上を図ることができる状況が、半世紀に一度程度訪れるようです。パラダイムシフトといってもいいでしょう。2000年頃のインターネット革命が直近のそれでしょう。

 

 

変化は必ずしも一方向ではなく、時間軸を広げてみれば必ず循環がある。そして、今、自分が直面している経営課題や経営上の環境変化が、果たしてどのレベルの循環に即しているものなのかを、しっかり自分の目と耳、頭を使って判別することがとても重要になっていると思います。情報量が飛躍的に増加しているので、迷いもそれだけ大きくなっているわけですし。

 

 

ところで、某国首相は今を「百年に一度の不況」と言ったそうですが、どのような歴史観のもとでの発言なんでしょうか。

 

初めて時間価値を財務理論で学んだときは、結構感動しました。そうか、確かに明日もらう一万円より、今もらう9,500円のほうがありがたいかもしれない。

こういう合理的な思考は、さすがだなと感心したものです。

 

バブル崩壊後、日本企業は競って成果主義を輸入し採用しました。お題目はともかく、それによって給与総額を引き下げることを狙ったと思われても仕方ないでしょう。目先のコスト削減が大事で、その後どなるかは深くは考えていなかったようです。このような先のばし体質は、日本企業に特有かもしれません。

 

時間価値すなわち割引率を、日本人は他の国に比べて大きく想定しているのかもしれません。

 

 

4月から始まった高速道路1000円均一サービス。国民は喜んで、それまであまり使わなかった自家用車を引っ張りだし、大した目的もなしに高速道路に繰り出しました。今、割引を受けなければ損だとばかりに。

 

しかし、冷静に考えれば、割引原資は自分たちの税金で賄われており、いずれそのしわ寄せが自分たちを襲うであろうことは明らかです。

 

一方政府も、目先の景気対策最重視で、将来の借金も、地球環境への悪影響もすっかり忘れて大盤振る舞いです。つまり、国民も政府も目先が大事なのです。いいかえれば、「将来のことはわからない、今を楽しもう」ということです。

 

 

日本企業は、長期的視野で経営すると評価されることもあります。一見、それと高い割引率は矛盾しているようですが、私はそうは思いません。例えば、長期的取引慣行が、その代表として示されることがあります。多少高くても、古い付き合いで安心できるところからしか買わないとういやつですね。

 

購買担当者が、最も重視するのは下方リスクです。大きな成功かつ大きな失敗の可能性のある選択肢と、小さな成功かつ小さな失敗の可能性のある選択肢であれば、間違いなく後者を選びます。前者は、会社の将来に大きな貢献をする可能性を秘めているかもしれないにもかかわらずです。それより、今失敗することを極端に恐れるのです。つまり、将来よりも現在を重視しているのです。ただ、それが低リスクの安定的経営を可能としているともいえるでしょう。

 

終身雇用はどうでしょうか。これも長期的経営の代表とされていましたが、優秀な社員をできるだけ早い時期に囲い込むための業界ぐるみの仕組みということもできるでしょう。将来確保できるかどうかわからないので、新卒一括採用で確保(青田買いもあり)し、あとはゆっくり育てる。10年経って、実は優秀ではなかったと判明しても、退職はさせません。そんなことをすれば、新卒採用が困難になりますから。そうなると必然的に会社が急成長しない限り、中途採用はできません。

 

このような日本企業の行動は、目先のキャッシュより長期的継続的な利益を重視しているように見えます。その意味では長期志向と言えるかもしれません。

 

ただ、決して長期的ビジョンに基づいて戦略的行動を取っているというわけではなく、仲間うちの目先の局地戦(当然現在重視)の結果、幸いそうなっているに過ぎないのかもしれません。

 

 

奈良時代に編纂された、大衆歌を集めた「東歌」を分析した加藤周一は、こう書いています。

 

「時間の概念についてみれば、地方の大衆の世界はすぐれて『現在』の世界であった。(中略)唯一の現実は、今・此処において、直接に感覚的にあたえられ、実際の行動の対象としてあらわれるところの、他人および身近な自然から成る日常的世界であった」(「日本文学史序説」より)

 

 

時間の概念は、非常に抽象的なものです。古代から日本人は抽象的概念が得意ではありませんでした。それは、現在の企業行動にも正しく継承されているように思えてなりません。

 

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)
加藤 周一
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唐突ですが、私は昔から美術館に行き、作品を観るのが好きです。観るにあたっての作法も、何となく自分で決めてきたように思います出光美術館.jpg。それが「観感聴思読確」です。当然ですが、これは私が勝手に作った言葉です。

 

「観」:これは作品をまず、観ることです。当たり前だと思われるかもしれませんが、案外そうでない方が、特に最近多いようです。作品を観る前に、作品解説を読む方が異常に増えた気がします。美術館サイドも、年々解説プレートを充実させています。有料解説テープも普通になってきました。

 

「感」:感じることです。作品のエネルギーであったり、奇怪な雰囲気であたったり、とにかく五感で感じようと努めます。

 

「聴」:五感の中でも、特に音を聴こうとします。音楽作品でなくてもです。特に絵画は、じっと観ていると音が聞こえてくるような気がします。もちろん、

モンドリアンなどの抽象画も。マチスのJAZZは、まさに音楽的作品(切り絵)ですね。そういえば、この感じご理解いただけると思います。

 

「思」:そして何かを思います。決して、考えるのではありません。「考える」という行為は、二分法の発想に基づく気がします。つまり暗に、「AではなくBだと考える」というわけです。これは左脳の働きです。そうではなく、何かのイメージやストーリーなどを「思い浮かべる」のです。

 

「読」:作品を一通り観終わった後、まだ時間と体力があれば、新ためて最初から観(見)に行きます。こんどは、作品を観た後、解説プレートを読みます。なるほど、と感心するものもあれば、時間の無駄だったと思うものも結構あります。なにしろ、この時点では、結構疲れてきていますので。

 

「確」:そして、文章を読んだあと、あらためて作品を観て、確認するのです。的を射た解説を読んだ後でまた観ると、また別の感じ方ができたりします。

 

これで、やっと完了です。観から思までは、右脳の働きに頼り、読と確は、主に左脳の働きによります。

 

先に左脳を使ってから右脳を使ったらどうだ、との意見も出そうですが、それはうまくいきません。一度左脳で理解してしまうと、なかなか右脳モードに行かないのです。それだけ、私が左脳に毒されているということかもしれません。左脳の誘惑を断ち切るのは、案外難しいのです。

 

 

ところで、人間が学習するプロセスにも、「観感聴思読確」が活用できないか、今思案中です。

 

昨日、大日本印刷と集英社、講談社、小学館といった既存書籍川上ビジネスの大手が共同で、ブックオフ・コーポレーションの株式の三分の一弱を買い取ることを発表しました。

ブックオフ.jpg 

これにはとても驚きました。再販制度のもとで、新刊本を発行印刷する企業にとって、その枠外で中古本を販売するブックオフは、いわば仇敵です。新刊本不況の原因のひとつはブックオフだ、と言われるくらいです。それが、手を組むと言っているわけですから、驚くのも無理ないでしょう。

 

ブックオフは経営難に陥っているのですから、本件に関してが受け身の立場でしょう。既存体制破壊を唱えてブックオフを創業した坂本氏も、もう経営陣にはいないので、大株主のファンドのなすがままなのかもしれません。

 

しかし、既存連合もこのご時世、資金に余裕があるわけではないでしょう。なのに、この買収です。その意図はどこにあるのでしょうか。まだ、報道されていないので、勝手に推測してみましょう。

 

 

それを考える上でのポイントは再販制度の存続か否かだと思います。既存大手にとって、再販制度は価格維持でき、既存チャネルである中小書店を守ってくれる、有難い制度でしょう。ただ、制度の下で、大量の書籍が書店から戻ってきます。印刷部数の4割弱が返本され、出版社の在庫(ほとんど破棄)となり、出版社の資金繰りを苦しめています。

 

 

ならば、印刷部数を4割減らせばいいと思いますが、そうしたら書店に並ばず、販売部数も大幅減少してしまうに違いないのです。だから、4割のロスを覚悟で刷り続けざるをえません。

 

書店も、売り場に並んだ4割の本を返品する作業も、それは大変な重労働です。だから、卸しから届いた段ボール箱を開封もせず、そのまま返品することも中小書店では、珍しくないそうです。

 

再販制度は、書籍という文化の源を、広く日本全国に流通させるための仕組みだと思います。東京にいるとなかなかわかりませんが、地方や田舎の中小書店に入ると、そのありがたさを感じることがあります。

 

既存勢力は、再販制度をどうしたいと考えているのでしょうか?

1)なんとしても維持したい

2)維持したいのはやまやまだが、それは不可能なので、廃止を睨んで手を打ちたい

3)既に役割を終えたので、廃止の方向で進めたい

 

もし1)だとすると、既存大手にとって今回の買収の意味は何でしょうか。以下、仮説です。

・再販制度破壊の首謀者たるブックオフを傘下において、動きを封じ込める。また、再販にこだわらない他社が買収することを防ぐ。

 

2)だとすると、

・どうせ再販制度がいずれなくなると、書籍も完全自由競争となる。その際は、販売力のある大手書店チェーンを持っているかどうかが勝負の分かれ目になりそう。ブックオフの運営力と店舗網を手に入れることは魅力的。

ただし、この意思決定が本来望んでいない再販制度廃止の引き金になりかねないので、やはり再販制度廃止を時間の問題だと認識しているのだろう。

 

3)だとすると、

一気にこの機会に、業界が雪崩を打って再販制度廃止の方向に意見を変えることを促す。潮目を変えるアクションである。そして、その後の業界変動の主導役を目指す。

 

果たして、どうなんでしょうか?

 

既存勢力が、業界の敵を傘下に入れるという非常に珍しいケースなので、今後の動向に目が離せません。

これまで何度も書いてきましたが、この不況によって企業の教育投資が、大幅に削減されています。また、出張旅費も同様に大削減され、やむを得ない社用出張であっても、会社が交通費を負担しない企業も出てきています。

 

このような状況がどのような影響を与えるか、様々な懸念が表明されているようですが、私が問題視しているのは、地方と東京との人材育成に関する格差の増大です。

 

企業を対象とした、一定以上の品質の研修/セミナ/フォーラム等の大部分は東京で行われます。また、一流講師はほとんど東京に集中しています。これまで地方企業の方は、出張にかこつけたり、それを目的に出張し、かろうじて学習する機会を確保してきたとのだと思いますが、それがほぼ全滅になっているようなのです。

 

東京周辺のビジネスパーソンであれば、少なくとも交通費や宿泊費はほとんどかからないので、まだ受講することもできなくはないでしょう。

 

一方、企業の財布が絞られたとしても、個人の学習意欲はまだ衰えていません。逆に危機感を抱えた個人は、資格取得のための学校へ殺到しているという現象も起きています。

 

資格取得が効果的かどうかはともかく、自分の意思で学ぶ機会や学校などは、やはり東京に集中しています。地方企業のビジネスパーソンが、自己啓発的に学ぶ機会は極端に少ないのです。

 

もちろん、だからeラーニングを導入しているんだ、という企業もあるでしょう。しかし、残念ながらeラーニングは、知識の習得には効果的かもしれませんが、思考を深めたり対話を通じて知恵を生みだすという、これからの時代に求められる教育には、まだまだ力不足です。

 

このような状況を放置すれば、さらに地方企業の地盤沈下が促されることでしょう。企業や社会人教育業界、さらに企業を支える金融業界は、そのことへの問題意識をもっと持つべきだと考えます。

昨日、国立劇場の5月文楽公演(第一部)を観てきました。ことしは、大阪の国立文楽劇場開場25周年ということで、その記念公演寿式三番叟.jpgとなっています。

 

お祝いということで、最初に「寿式三番叟」が演じられました。この出し物は、能の「翁」を文楽に解釈しなおしたものです。

 

翁は、能の多くの演目な中でも別格で、演目というよりも呪術的な儀式の色が濃いものです。初めて観たときは、厳かで日本古来の信仰に根ざしたものと感じました。

  

それが大阪の大衆芸能である文楽で演じられるので、どうなるのか楽しみでした。前半は能の雰囲気を残した厳かな語りと舞いでしたが、終盤は文楽特有のおちゃらけ(ちゃり場)も入り、笑いを取って終わるという、らしいものに解釈されていました。さすが、文楽です。

 

また、三番目の演目は、「日高川入相花王」でした。これも、能の「道成寺」をモチーフに大幅に創作を加えたものです。もちろん歌舞伎でも「娘道成寺」は人気の演目です。

 

能から文楽に、文楽から歌舞伎にと、ある演目がそれぞれ創作を加えながら引き継がれるということは、珍しいものではありません。珍しいよりも、多いと言ってもいいでしょう。

 

 

考えてみれば不思議な現象です。そもそも、能の後に文楽が生まれ、また歌舞伎が生まれたわけですが、決して能が滅んで文楽や歌舞伎に入れ替わったわけではもちろんありません。同じ系譜にありながら、決して進化したわけではなく、枝分かれしたにすぎません。新が旧を滅ぼすのではなく、共存する存在として多様化していく。

 

これは、芸能だけでなく文学もそうですね。和歌や俳句や現代詩なども併存しています。時代を経るに従って、どんどんバリエーションが増えていく。でも、なんとなく一貫性はあるわけです。

 

 

中国の王朝は、勃興と滅亡の歴史です。対して日本は、政府はいろいろ勃興しますが、天皇を中心とした日本という国の概念は、何となく続いてきています。

 

日本企業のM&Aも、欧米企業のように資本の論理により、買収企業が被買収企業をあからさまに征服するような形態はまれだと思います。また、そうしてもうまくはいかない。

 

このように考えてみると、日本というのはつくづく特殊な国だと思いますね。何となく吸収し、何となく咀嚼し、何となく続いていく。そういうゆるい生き方(行き方)は、市場経済にはなじまないとして、ここ20年くらい否定され続けてきましたが、世界同時不況の今日、見直されてしかるべきと思います。

 

でも、何となく適応しながら生き残っていく、その原動力は何なのでしょうか?

3/27にご紹介した(http://www.adat-inc.com/fukublog/2009/03/cafe.html)「caféから時代は創られる」を、ゴールデンウィーク中にやっと読了しました。

 

4434122746 caf´eから時代は創られる
飯田 美樹
いなほ書房 2008-09

by G-Tools

 

本を読む前に、著者から内容をお聴きしたという珍しいケースでしたが、いやはや、やはり本は自分の力でしっかり読まないとだめですね。全然、本質を理解していなかったことがわかりました。それだけ、刺激に満ちた素晴しい本でした。

 

いろいろ刺激を受けたのですが、今日は中で述べられている「偶発力」について書いてみたいと思います。

 

 

Caféにただ通えばいいのではなく、そこでの偶然の予期せぬ出会いを楽しみ、そのチャンスを自分のものにしていく力を、本書では「偶発力」と呼んでいます。

 

偶発力を活かした出会いを、さらに創造に結び付けるには、「着想力」が必要でしょう。私はそれを、「ある事実から知識や着想を得て、意味のある形で別の事実や知識と結びつけることにより、行動を促す新たなアイデア/知識を創出」する能力と定義しました。(「人材開発マネジメントブック」P73

 

 

本書では、ピエール・ルヴェルディの以下の言葉で、着想力の重要性を紹介しています。

 

「イメージは精神の純粋な創造物である。それは、比較から生まれえず、多少とも隔たった二個の実在の接近から生まれる。近づけられた二つの実在の関係がかけ離れ、しかも適切であればあるほど、そのイメージはいっそう強烈で、いっそう感動と詩的現実性をおびるだろう。」(ここでの「接近」は、着想とほぼ同じ意味だと思います。私が言いたかったことは、こういうことでした。)

 

 

このような、偶発力や着想力(本書では、着想力という言葉は使われていませんが)を可能にするのは、何でしょうか。

 

野中郁次郎さんの言葉を引用しながら、

「出会いがあっても、それをどうつかみ、どう生かすかという偶発力がなければ創造にまで導かれるわけではないということである。ところで、偶発力をつけるためには、『小さなことでも見逃さない直感、それに偶然に起こる現象に心を開いて受け入れること』が大切である。」

 

と著者は述べています。それを促す「場」が重要であり、それがcaféなのです。これも同感です。

 

 

私は人材開発の文脈で着想力について考え、本書の著者の飯田さんはcaféという「場」(その構造も含んだ)の文脈で偶発力を考えたのです。

 

同じ山を別のルートで登っていたのが、ある時ばったり出会った、そんな楽しさと興奮を、本書を読んで味わったのでした。

 

飯田さん、ありがとうございました!

哲学者の鶴見俊輔さんが、ETV特集で非常に含蓄のあることをおっしゃっていました。うろ覚えですが、以下のような言葉です。

鶴見俊輔.jpg 

「ハーバード大学在学中(注:16歳で入学、19歳で卒業!)、大学にヘレンケラーが来訪され、こんなことを言われた。『私は大学で多くのことを学びましたが、社会に出て全てunlearnしました。あなたもunlearnしなければなりませんよ。』unlearnという言葉を初めて聞き、最初意味がわからなかったが、だんだんわかってきた。単純に学んだことを忘れるということではない。学んだ知識を、いったんその厳密性から解き放ち、日常で使える知恵に変えるということなんだね。つまり『学びほぐす』ことだ。」

 

私もunlearnという言葉は知っていましたが、そこまで理解していませんでした。合理的で普遍的であっても、それは学問的厳密性の世界でのみ価値があることで、実践の世界では通用しないことが普通です。だからといって、それを否定すればいいというものでもないでしょう。理論を実践に適用できるように学びほぐすことが、現実の世界では必要なのです。

 

その後の鶴見さんの学問及び社会活動は、まさに学びほぐしから生まれた活動だったように感じます。

 

学びが学びほぐしになっていくには、以下のようなプロセスを経るように思います。

    知識として理解する

    他人に説明できる

    実践活動に適用できる

    自分の経験を通じて解釈し直す

    自分の経験に基づく言葉で語ることができる

 

自分の言葉になっているか、すなわち血肉化しているかどうかが大切なのだと思います。

 

そして、学びほぐしに終わりはなく、人間が経験を積み重ねるにつれて異なる『ほぐし』がなされることでしょう。当然、人が違えば、異なる『ほぐし』がなされます。そういった、いくつもの学びほぐしが交差、つまり対話されることにより、さらに進化するとともに共有知になっていくのではないでしょうか。

 

学びほぐしの技術、それは「Learning engineering」と呼べるような領域なのかもしれません。面白そうですね。

 

 

 

3日、昨年に続いて長野伊那谷の大鹿村に江戸時代から続いている地歌舞伎である大鹿歌舞伎http://www.vill.ooshika.nagano.jp/kyoiku_iinkai/kabuki_teiki_koen09haru.htmlを観に行ってきました。秘境ともいえる大鹿村に、このような伝統芸能が続いていること自体驚きですが、それよりも客席と演者(村民)が一体となっての舞台の雰囲気は、きっと歌舞伎も文楽も昔はそうだったんだろうなと感じさせるものがあります。

千秋楽.jpg 

役者とは別に三味線を弾きながら語る浄瑠璃弾き語りの存在が、ユニークです。文楽であれば、三味線や大夫は、観客のほうに向かっていますが、ここでは、役者の方に向かっています。やはり主は、太夫ではなく役者なのです。

 

ただ、大鹿歌舞伎の場合は、82歳になる竹本登太夫の力量が役者に比べて抜きんでているため、つい舞台より太夫さんを聴き入ってしまいました。

 

急峻な山々に囲まれた耕地も乏しい典型的寒村にもかかわらず、幕末から明治にかけて13もの芝居専用小屋があったそうです。現在でも村内に7か所の舞台が残っています。今は、春と秋に、各一日別の舞台で演じられています。いずれも回り舞台と太夫座まで備えています。

 

春の午後、地歌舞伎と弁当を楽しんだわけですが、日本が古くから伝えてきた農村の豊かさにあらためて考えさせました。物質的豊かさではなく、精神的豊かさこそが、人を幸福にするという、当たり前のことですが、忘れがちなことを思い出させてもらった気がします。

 

娯楽が乏しかったということもあるでしょうが、自分たちで娯楽を作り上げるバイタリティーは、是非とも参考にしたいものです。

 

そして、帰り道、こちらも昨年に続いて分杭峠のパワーパワースポット.jpgスポットにも寄ってきました。本州の中央を走る中央構造線上には、パワースポットがいくつかあるそうですが、その中でも最も強い「気」が出ているとされているそうです。http://bungui.fineup.net/

 

信じない方もいるかもしれませんが、そのスポットに近づいていくと、手の指先や足の裏からびりびりした電流のようなものを感じます。そして、不思議にリラックスできるのです。(入口の看板の写真を貼っておきます。)

 

 

その後、数年ぶりに駒ヶ根市の「アンシャンテ」というベンガルカレーの店に寄り、カレーを持ち帰りしました。この近くに海外青年協力隊の研修施設があり

隊員には有名な店です。ご主人も、協力隊員としてバッグラデシュに派遣され、そこでのカレーの味を忘れられず、全くに素人にも関わらず店を始めたそうです。ものすごく美味しいのですが、いつ来ても商売っ気がなく、素朴にご夫婦で経営されています。儲けよりも味の追求を重視する姿勢に、学ばされる思いです。

 

ちょっと変わった行楽案内みたいになってしまいましたが、GW故ご容赦ください。でも、日本は奥が深い・・・。

 

 

今ではもう、レバレッジって何?という方はあまりいなくなりました。でも、それもここ5年くらいのことでしょうか

 

私がビジネススクールで学んでいた80年代末、日本企業は銀行借入への依存度が高く、高いレバレッジでした。一方米企業は、自己資本を厚くした低レバレッジ経営が多かったと思います。

 

借金はできるだけ減らすべきだと思っている学生が、借金はいいことだと納得することはそう簡単ではありませんでした。だって、目指すべき米企業は借金が少ないのに・・・。

 

ところが、バブル崩壊後、日本企業は債務圧縮に努める一方、ファンドが台頭してきた米国では、どんどんレバレッジを高めていきました。それが株主重視の経営。

 

確かにレバレッジは、1の投入資源で10の成果を得るということですから、効率的に違いありません。 レバレッジ.jpgしかし、世の中そう簡単ではなく、それに応じてリスクが高まるのです。結局、効率性とリスクのバランスをどう取るかという、判断になります。

 

レバレッジ重視は、掛け算の経営ともいえるでしょう。掛け算は、足し算より簡単に大きくなります。でも、どこか一つでもゼロになればすべてがゼロに転じてしまいます。足し算はそうではありません。

 

 

少ない大口顧客に依存するのは、高レバレッジの掛け算経営です。多くの小さい顧客ベースを抱えるのは、足し算経営です。今のような不況期には足し算経営に歩があります。そして、老舗企業は、たいてい足し算経営です。

 

人間、調子のいい時はリスクを低く見積もって、レバレッジをかけたくなるものです。そして、今のような時は、思いっきりリスクを高く見る。だから、大きな景気の波が生じるのです。人間が経営する以上、これは避けて通れないでしょう。

 

ただ、人間は経験から学ぶものです。経験と理性が精度を高めるはず。でも、組織は同じ過ちを犯します。それは、組織の意思決定者が、時間を経て変わるからではないでしょうか。そして、経験が伝承されない。

 

既に、戦争経験のある人は、日本の政治や経済、学会の中心にはほとんどいなくなっています。日本が学ばないのではなく、学んでいない人がリーダーになるシステムなのでしょう。

ゴッホは、浮世絵の大ファンでした。そしてついに、浮世絵に現れている日本の陽光に憧れて南仏アルルに移り住みました。そこで、描かれた作品群は、確かに光にあふれた名作ぞろいです。

 

でも、不思議でした。19世紀当時日本は、そんなに陽の光に溢れていたのでしょうか。今、目にできる浮世絵を見ても、ゴッホが感じたような光の色を感じることはあまりできません。どちらかといえば、くすんだ褪せた色しかないのですから。

 

浮世絵の顔料は、とても光に弱く、当時の色を維持していることは、ほとんど不可能なのだそうです。

 

昨年、江戸東京博物館でボストン美術館所蔵の浮世絵展がありました。それらは、所蔵されてからほとんど公開されていない作品群だったので、刷られた当時の色がかなり残っていました。ゴッホの感動が、少しですが共有できた気がしました。

 

明治以降、浮世絵制作の技はほとんど廃れてしまいました。だから、本当の意味でゴッホの感動を共有できるのは不可能かと諦めていたのですが、なんと日本でただ一人、その技を会得した作家がいることを、偶然昨年知りました。

 

立原位貫さんです。立原さんは、富山の旧家から見つかった浮世絵の版木から国芳の絵を、昨年かた今年にかけ国立歴史民俗博物館の依頼に基づき復刻しました。それが、NHK-hVで放送されました。(https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20090419-10-15004)情けないことに私の家のTVは、ハイヴィジョン放送は映らないので、5/16の総合放送番組を待っています。

 

幻の色.jpg 

その復刻浮世絵を観ると、こんなに浮世絵は鮮やかで明るいんだと感動します。確かに、当時の色彩感覚は今とはだいぶ違って大胆だったのです。ゴッホのみならず多くのフランス人がたまげたのも分かります。

 

 

先日、話題の阿修羅展を観てきました。奈良の興福寺では、何度も観ていますが、展示方法がまったく異なるため、新しい発見がたくさんありました。その中で大きかったのは、天平の仏像や彫刻に施されている色の鮮やかさです。奈良でよく認識できなかった色が、今回は、照明の工夫や、背後にも回って見られるため認識できるのです。十大弟子像も、老僧の衣装に残ったかすかな色から、なんて派手な僧衣をまとっていたんだと驚きます。想像する当時のイメージが大転換します。

 

現代から見ると、残っている遺物の色合いから、天平や奈良時代は枯れた色彩が中心だったように思いこんでしまいがちですが、全くそうではなかったのです。

 

やはり、本物に接することが大切なんだと、つくづく思います。

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