文化と芸術: 2012年2月アーカイブ

ここ数年、元気のない日本人を勇気づけるためのノスタルジー趣味なのか、「坂の上の雲」が盛り上がっておりましたが、震災以降は「坂の下」に投げ捨てられたものに少しずつスポットがあたっているように思います。

 

録画しておいたEテレ番組「日本人は何を考えてきたのか 第二回 森と水とともに生きる ~田中正造と南方熊楠」をやっと観ましたが、現

photo_kumagusu.jpg

在の日本にとって重要な示唆を与えてくれた番組だと思います。明治期と現在の問題は、根底でずっと続いているのだとよくわかります。

 

田中も南方も、単なる自然/環境保護活動とは一線を画し、人間がこの地上で生きていくということの本質を、あらゆる角度から問い続けた。「森」から着想された南方の思想は、宇宙の相似形である森を破壊することは、必然的に人間を破壊することになるということだと理解しました。我々日本人にとっては、理解しやすい思想だと思いますが、西欧の科学や効率の思想とは相いれません。

 

 

ところで、先日日本科学未来館で開催中の「ウメサダタダオ展」にいってきました。印象に残る彼の言葉がいくつもあったのですが、そのひとつが「探検があらゆることを教えてくれた」というものです。近年、彼ほど自分自身の体を使って思考し、しかもそれにもとづいて行動した日本人はいないのではないでしょうか。その原点がジャングルや砂漠、極地などへの探検だということは、南方が森をその思想の原点としたことと相通じるものがあるように感じました。日本オリジナルな思想は、自然との関係性の中から生まれるということなのでしょう。

 

南方同様「知の巨人」の梅棹は、軽々とジャンルの壁を乗り越えます。そもそも誰かが作った既存のジャンルなど、彼にとってはどうでもいいものなのです。日本の学者では希有なスタイルです。それは、やはり自然界と

umesao.jpg

直接向かい合わざるをえない探検がベースにあるからなのでしょう。そんな、真っ白な脳味噌がとても羨ましく感じました。

 

梅棹の情報整理法は大変有名ですが、実際のカードなどの展示をみて、それは脳の活動をリアルなモノ(カードやホルダーなど)で再現しているように見えました。その独特のツールは、「忘却のためのツールだ」といった記述がありましたが、リアルなモノで脳の活動と似た作業をするプロセスのなかで、同時に脳も作用し情報は脳の必要な個所に収容されていたのではないでしょうか。つまり、忘れてもいいように情報をカードに蓄積しておくのではなく、そもそも脳での処理は終わっているので記憶する必要がない。「知識」が必要になったときは、リアルなカードをぺらぺらとめくるだけで、脳に格納されている情報が適切に連結されて「知識」として出てくる、そんなイメージではないかと推測します。つまり、カードは知識を引き出すためのスイッチにしかすぎず、重要なのは整理のプロセスではないか。だからこそ、あれだけ膨大なエネルギ―を費やして、情報整理に精力を傾けたのではないでしょうか。その意味では、カード類は確かに脳に通じる外部脳なのです。

 

情報整理と言うことだけであれば、現在はデータベースを駆使することでいとも簡単に梅棹以上のことができます。でも、それはあくまでデータベースに過ぎずスイッチにも外部脳にもなりえないでしょう。それが、リアルな肉体の力なのです。

 

もうひとつ面白かったのは、「ハードからソフトへ、物質から情報へ、そして経済から文化へ」という文明進化に関する認識です。頭の二項目は言い古されていますが、三項目は新鮮です。また、「日本は文化による安全保障を目指すべき」ということも言っています。やっと文化の意味を、あらためて見つめ直すときにきたのだと思います。

昨晩、文楽二月公演第三部(18時半開演)を観に(聴きに)にいってきました。先日懇意にさせていただいている人形遣いの方から、夜の部の入りがいまいちと伺っていたのですが、案の定八分程度の入りで、普段いく週末とはだいぶ雰囲気が異なっていました。ちょっと頑張れば仕事後でも気軽に行けるので、興味がある方はぜひ足を運んでみてください。演目は、定番中の定番「菅原伝授手習鑑」と、一種の怪獣もので八岐大蛇が珍しい「日本振袖事始」です。対極の二演目ですが、文楽初心者には最適なラインナップと思います。

 

先の人形遣いの方によれば、橋下大阪市長は大阪での公演をちらっと覗いたもののそれっきり、それで文楽助成金の大幅削減を打ち出したそうです。その方いわく、好き嫌いはあるでしょうが、せめて三回はじっくり観て判断して欲しかったとのこと。数少ない大阪を基盤とした芸能でしかも世界文化遺産の文楽です。「儲かり」はしないでしょうが、文化の価値を認めるべきでしょう。本物の文化は、損得に関係なく何があっても守って継承させていくべきです。

 

ところで、科学技術や経営手法の進歩は、一般大衆の手には入らなかったホンモノを、モドキを開発することで誰にでも手に入るようにした、という大きな貢献があったと言えるでしょう。たとえば、絹に対する人絹(レーヨン)、注文服に対する既製服、昆布だしに対する味の素(うま味調味料)、演劇に対する映画、映画に対するTV番組・・・、いくらでも思い付きます。国民厚生の観点からは、非常に大きな貢献です。

 

しかしその一方で、それらは所詮モドキに過ぎないということも事実です。レーヨンはどこまでいっても絹の価値を超えられません。もちろん絹にない新しい価値を備えているかもしれませんが。

 

一番怖いのは、ホンモノの価値を知らないがためモドキで満足してしまい、その結果ホンモノが滅んでしまうという現象です。悪意を持ってホンモノを滅亡させようとしているのではなく、単に関心がないだけです。あるいは、ホンモノにはそれ相応のコストがかかるため、経済合理性に基づけば好ましくないと判断されるからです。その土俵に立てば、それが正解かもしれません。

 

しかし、それでいいのでしょうか。以前糸井重里さんの「不要だからと(消費を)削っていくと魂を小さくする」ということばを紹介しましたが、それと同じことだと思います。経済合理性も大事ですが、それでは測ることができない人間らしい感情や感覚を、もっともっと大切にしていくべきです。

 

バーチャルも含めたモドキだけの世界でも、生活していくことはできます。でも、もっともっと「楽しい」ことが世界には山のようにあるのです。その世界に入っていくためのきっかけが、ホンモノに触れることではないでしょうか。

 

私はこれからの時代、世界中でホンモノ回帰が起こると予感しています。どれだけのホンモノに触れ手に入れるのか、それが人間の豊かさの一つの基準になっていくように思います。

 

では、ホンモノとは何か?それはまた今度じっくり考えてみたいと思います。

ここ数日、日本の大手電機メーカーの大幅な赤字決算が、立て続けに発表されています。震災、タイの洪水、そして円高、確かに日本企業にとって極めて厳しい環境であることは確かです。しかし、赤字を発表する経営陣が、それらを言い訳に利用しているように見えてなりません。まるで、「誰が社長でも、今期は利益出せないよ」と開き直っているように見えることすらあります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、ですか・・・。

 

今回の赤字は構造的なものであって、決して震災などの一過性のものではないことに気づくべきです。TVが売れないのは、円高だからではなく、魅力的な製品を出せないからです。多くの経営者はあまりに他責に陥っているようで、非常に不安です。

 

これまでの日本企業はスペックでの競争が得意でした。また、それを顧客も評価してきました。ところが今は違います。薄型TVに代表されるように、スペック面での進化は、顧客の認識レベルを超えるところまでいきついてしまいました。つまり、「もうたくさん」なのです。そうなると、あとは価格競争しかありません。他国の競合も、そのレベルのスペックに到達しているのですから。

 

この構図はあらゆる製品において実現しており、かつそのスピードはどんどん速まっています。スペック競争に代表される機能的価値の商品価値に占める割合が、どんどん低下しているのです。

 

では、機能的価値以外にどんな価値が重要になっているのでしょうか。それが意味的価値です。主観的価値とも言えます。つまり、定量的にその良さを説明するのは難しいけれど、「好きだから」少々高くても買うという場合に、顧客が余計に支払う金額で表現されるものです。マーケティングの世界ではそれをブランドと呼ぶのかもしれませんが、ブランドの源泉となる何かです。

 

現在、最もそれが得意なのがアップルでしょう。日本でいえば無印良品や任天堂(Wii以降ぱっとしませんが)もそれに近いかもしれません。また、かつてのSONYもそうでした。

 

なんとなく日本企業は、機能的価値創造は得意なのだが、意味的価値創造は苦手という風潮がありませんでしょうか?今回赤字決算発表をした経営者の言葉の端々にそんな印象を受けます。私は決してそんなことはないと思います。それは言い訳にすぎない。日本人ほど、意味的価値を好み、受け入れ、対価を支払ってきた国民はいないでしょう。たしかに、ここ十数年はデフレの波にさらされ、低価格志向は高まっていますが、それは表面的な現象だと思います。

 

たとえば、桃山時代以来のお茶椀を愛でる伝統。機能的価値はほとんどわずかのモノに対して莫大な値段がついてきた。そう、意味的価値のかたまりです。

斑絵.jpg

 

歌舞伎や能、落語といった芸能を、数百年にわたって大事に育ててきた。役者の機能的価値には、どれだけのものがあるでしょうか。日本人は意味的価値を高く評価し、また生み出す高い能力を備えているのです。高い美意識を持っているといういい方もできます。でも、それらをどこかで忘れてしまった・・・。

 

あらためて、自らの原点に立ち返り、自らの強みを認識し、活かす方法を考えてもいいのではないでしょうか。それなくしては、日本の再起はあり得ないように思います。いや、それどころか意味的価値の競争では、日本は世界のどの国にも負けないはずです。

 

このアーカイブについて

このページには、2012年2月以降に書かれたブログ記事のうち文化と芸術カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブは文化と芸術: 2012年1月です。

次のアーカイブは文化と芸術: 2012年3月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1