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文化主義の帰趨

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夏目漱石の小説を読むと、明治末期から大正初めの若い世代は、とてつもなく教養に富み、深くものを考えているように感じます。そういった知性的な人びとによって、大正デモクラシーは推進されたのでしょう。

 

しかし、大正デモクラシーと昭和初めの全体主義は隣接しています、というよりも重複しています。これは不思議でした。なぜ、知性や教養が盛り上がっていく時期に、同時に軍国主義が芽生え、やがてそれ一色に染まってしまうのか?そんな疑問を抱いきながら、昨日ある哲学の勉強会に参加しました。ぼんやりですが、その答えが見えた気がします。

 

 

1904年の日露戦争に勝った日本は、一等国として恥ずかしくない教養を身に付けることが奨励される雰囲気でした。その最前衛たる大学生や旧制高校生は、あきらかなエリート。そうしたエリートは、大衆に交わるべきではなく知の城に「籠城」すべきと考えられていました。

「第一高等中学校の生徒は、・・・日本を指揮すべき人びとなれば、俗世の大衆凡下との接触を断ち寄宿舎に拠りて真の指導者としての規律・倫理を身に付けるべし」(明治19/1886年 木下康次一高校長)

 

明治末期になると、より社会性を重視する方向も出てきます。その代表が、同じく一高校長も務めたクリスチャンでもある新渡戸稲造です。

「籠城主義もいいが、それは手段であって目的ではない。寄宿舎の窓を開いてもっと世の中に接し、社会的観念を養成して実社会に活動できる素地をつくれ」(明治39/1906)

 

世界にも目を向けた新渡戸の考えは、「修養主義」「人格主義」と呼ばれました。戦後の教育基本法にも、その思想が引き継がれたそうです。

 

その後、世界は第一次世界大戦(1914-1919年)による大きな影響を受けます。欧州での戦火により日本は戦争景気に突入。まさにバブル。しかし、戦争終結後の反動はその分大きく、日本は一転大不況へ。さらに、1923年には関東大震災、1927年には世界大恐慌。戦争景気で供給力が大幅に増強された日本経済は、そのはけ口として、大陸への侵攻を目指すことが期待されるようになります。そして満州事変が起こります。(昭和6/1931年)

 

一方、第一次世界大戦後の社会改造の要求に伴う世界的な不安によって、日本においても1919-1920年に思想動乱の絶頂がもたらされます。そこから、生活の根本の見直しが生じ、精神のあり方として文化への態度が重視されるようになりました。(「文化住宅」は1921年からつくられました)

 

この頃の思想は、「文化主義」と呼ばれ、和辻哲郎、吉野作造、阿部次郎といった今日でも有名な方々が盛んに発信しました。文化主義とは、文化の向上・発達、文化価値の実現を人間生活の最高目的とする立場・主張であり、ドイツの新カント学派の影響を受けています。

 

文化主義を説明する際には、以下の表現が使われることが多いようです。

批判主義的、反原理主義的、反理念優越性、反自然主義的、理性主義的、普遍主義的、目的性、価値性、人格主義、人道主義、自由主義、歴史性、統合性、全体性、反独占主義、反軍国主義

 

こうした、文化主義のいわばエリートから大衆への啓蒙の流れとともに、大衆からの自発的な展開も時を同じくして広まっていきます。大正初めには、早くもカフェ文化が始まり、1915年には日本橋三越開店、1919年には宝塚音楽歌劇学校が開校、1920年代に入ると大正デモクラシーの波に乗って、モボ・モガが街を闊歩するようになります。

 

このようにエリート発と大衆発のふたつの流れが文化主義にはありました。しかし、前者つまりエリート発の文化主義は、政府によって弾圧されていきます。1909年(明治42)には、反共産/社会主義の観点から新聞紙法が成立し、新聞統制が始まります。1911年には大逆事件、社会主義者幸徳秋水が明治天皇暗殺を謀ったとの捏造で死刑に処せられました。また、1919年には新聞言論統制が強化され、1930(昭和5)には、治安維持法違反で三木清が逮捕、いよいよ社会主義者ではない文化主義者まで拘束されていきます。

 

1932年には青年将校が5.15事件を引き起こし、犬養首相を殺害。1935年(昭和10年)には天皇機関説が排撃され、国体明徴声明がなされました。あとは敗戦までまっしぐらです。5.15事件の裁判では、多くの国民が加害者たる青年将校たちに同情的だったそうです。政党政治への失望と昭和恐慌による農村の疲弊が、大衆の既存体制への攻撃を促し軍部を支持するようになっていきます。

 

エリート発の文化主義は、格差が急速に広がる日本社会の中で、理想主義的で無力な存在だと失望されていったのではないでしょうか。政府の弾圧がそれに拍車をかけた。一方の大衆発の文化主義は、それほどは弾圧されず、文化主義自体は衰えても大衆は力を蓄えていきました。その力を、軍部と政治が、ポピュリズムを実行するための対象としてうまく利用していったようです。賢い文化的エリートが唱える文化主義は弾圧し、大衆の文化主義はうまく育て国家の意図通りに動くように飼いならし動員する。非常に賢い行動だと思わずにはいられません。

 

こうして、大正デモクラシーのもと花開いた文化主義が、見事にわずか15年の間に国家主義/軍国主義を導いたのです。バブルとその崩壊、不況、大地震、格差社会、政党政治の劣化・・・、なんだか現在の状況と似ているようで、薄気味悪くなります。

NHKの「サラメシ」っていう番組、面白いですね。日本にはいろんな仕事があって、いろんな職場がある。そこにはいろんな人々がはたらいていて、当然ランチを取る。ランチに注目することで、いろんなことが見えてくる。

随分古い回で恐縮ですが、すごくいい話がありました。記憶を頼りに書き起こしてみます。



東大阪市にある中小企業経営者三代目Mさんは、父親から会社を継いだものの社員の確保に苦労していた。典型的な町工場に来てくれる若者なんていない。


6年前のこと、知り合いの経営者から技能実習生制度を活用してベトナムから若者を採用できることを聞いた。日本人の半分以下の給料で、真面目にどんな仕事に取り組んでくれるらしい。Mさんは早速制度を活用し、20代前半のベトナム男性三人を採用した。確かに彼らは、日本人の若者が嫌がる単純作業を黙々とこなしてくれる。Mさんは安い労働力を確保でき、また彼らは日本でお金を稼ぎいずれ母国で家でも建てるのだろうと考えると、素晴らしい制度だと思ったものだ。


しかし、半年が経過したある日、三人は突然Mさんに食ってかかった。リーダー格の青年は、片言の日本語でこう訴えた。「この会社潰れる。僕たちはバカじゃない。」Mさんは、最初何を訴えているのか理解できなかった。彼らは満足していると思っていたからだ。しかし、うすうす彼らの不満を感じとっていた経理を務めるMさんの妻は、涙が止まらなかったという。


やっとMさんは気づく。自分はなんてひどい仕打ちをしてきたんだと。三人は日本で技術を身に付けて、母国の発展に役立とうと大決心して日本にきたのだ。なのに自分は、彼らを安い労働力としか考えていなかった。ヒトとは思っていなかったのかもしれないと。それからMさんは、三人に難しい作業も教え任せるようにしていった。妻は週に三回は彼らのためにまかないを始め、皆で一緒に昼食を取るようにした。彼らに喜んでもらうように、ベトナム料理も勉強した。職場の雰囲気はよくなり、彼らの習熟度もどんどん上がっていった。やがて彼らは実習期間を終えベトナムに帰っていった。Mさんは、その後もベトナムから実習生を招き続けている。


仕事を拡大していったMさんは、昨年ベトナムに工場を設立した。現地で中心となっているのは、あの「この会社はつぶれる」といった一期生たちだ。


ここからいろんなことが見えてきます。

 ・労働者を機械とみるか、ヒトをみるか。ヒトをみたほうが生産性は高まる

 ・一般に日本の会社は労働者をヒトとみるが、途上国からの労働者は機械と見なす傾向がある

 ・小さな職場は「生産の場」でもあり、ヒトとヒトが関わりあう場であり「共同体」

 ・共同体では、食事という生きるために最も重要なことを共ににすることで結束が高まる

 ・共同体では、「育てる」ことが必須の機能であり、育てられたヒトがやがて共同体を支えるという循環が起きる

 ・しかし日本をはじめ先進国では、共同体の破壊が進んでいる。かつては日本では会社が共同体の役割を担ってきたが、それも弱まっている。もし人間にとって共同体が必要だとすれば、今後何がその役割を担っていけるのか


ファシズム初期の兆候

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 昨日、伊藤塾の伊藤真塾長の講演を聴く機会がありました。とても熱い方で、緻密な論理とともに想いがビシビシと伝わってきました。お話の中で紹介していただいた「ファシズム初期の兆候」が大変興味深かったので、ここに記録しておきます。それは、アメリカにあるホロコースト博物館の研究者が、世界中の過去の様々なファシズムを研究してまとめたものだそうです。

 

 

・強力で継続的なナショナリズム

・人権の軽視

・団結の目的のため敵国を設定

・軍事優先(軍隊の優越性)

・はびこる性差別

・マスメディアのコントロール

・安全保障強化への異常な執着

・宗教と政治の一体化

・企業の力の保護

・抑圧される労働者

・知性や芸術の軽視

・刑罰強化への執着

・身びいきの蔓延や腐敗(汚職)

・詐欺的な選挙



ファシズムは遠い昔の出来事だったと思っていましたが、案外そうでもないかもしれません。



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総選挙報道を見ていると、日本政治も来るところまできたかと嘆息してしまいます。国会議員の多くは国家よりも自分が大事と考えていることが、毎日明るみに出ています。ただ、国会議員を嘆くことは、国民を嘆くこととほぼ同義。日本国民は、みみっちくて気の短い自分のこと目先のことしか考えていない人々の集団なのでしょうか。私もその一人であることを認めざるを得ません。

 

熟議がもともと苦手。他人の意見にすぐ左右される。問題があれば、手っ取り早くすぐに解決する結論が欲しくてたまらない。未解決の状況に耐えられない。

(本質的に解決されなくても、「XXX会議」「YYY革命」というものを立ちあげれば解決した気になる)

 

企業研修の場面でもしばしばみられる光景です。「で、答えはなんですか?」経営に正解はないと何度言っても、「じゃあ、先生の考える結論を教えてください。」問題を最短時間で解くことを求められたこれまでの人生、いきなり正解はないと言われても困ってしまう。とりあえず、すっきりすればそれで満足。

 

ここで受講者が望むような速最短で問題解決できる能力を、「ポジティブ・ケイパビリティ」といいます。特に近年、この能力開発に焦点があてられています。

 

それに対する「ネガティブ・ケイパビリティ」とは何でしょうか?本書によると、

不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ、不思議さや疑いの中にいられる能力。

 

以前私は「知的強靭さ」と表現しましたが、似ています。

 

手っ取り早い結論にすぐ飛びついて自分の心理的不安定さを解消するのではなく、そこを耐え、立ち止まってより本質を追求しようとすることができる能力です。この力によって、詩人キーツは本質に近づくことができたのですし、著者は精神科医として患者に向き合うことができたのだそうです。

 

道端に咲く花を見ても何も感じない人もいれば、その花の美しさに感動し詩や絵画で表現できる芸術家もいる。その病気を治癒することができないとわかって受診を拒否する医者もいれば、患者に共感し寄り添い続けることでいい影響を与えることのできる医者もいる。

 

人の判断は、ほとんどが過去の経験や知識に基づきます。つまり自分の持つ小さなフィルターを通してしかものを見て、そして判断せざるを得ません。そして結論を急げば急ぐほど、そのフィルターは小さくなりものが見えなくなります。問題も単純化せざるを得ない。短期的にはそれでもいい。(コンサルタントはその道のプロです)

 

しかし、人間が生きていくということは、単に問題を次々に解決し続けることではない。問題に直面したときに安易に判断せず、場合によっては問題と共存し時間を経ることで適応していくことも大切です。そこで必要なのがネガティブ・ケイパビリティです。

 

不確かさの中で、それから逃れることとは違います。かつてバブル崩壊直後、銀行の不良債権が積み上がっても、いずれ地価は上昇するだろうと高をくくって手を打たなかった銀行。これは、不確かさから逃れる態度です。一方、不確かさや曖昧さに正面から向き合うということは、心理的にはダメージがあるとしても地道に不良債権処理を進めることです。前者は、本当に地価が再上昇すると予測したのではなく、不良債権処理という後ろ向きな仕事をしたくないと思うが故の、希望的観測に基づいていたのは明らかです。それよりも、勇気を持って問題を正面から受け止め向き合うことが、適切な道であったことは歴史が証明しています。

 

これからますます不確実性が高まる世の中になっていきます。過去の知識に基づくポジティブ・ケイパビリティ―の威力はどんどん低下していく一方で、ネガティブ・ケイパビリティの必要性は高まる。

 

ネガティブ・ケイパビリティは、寛容とも近い概念です。拙速に敵味方、善悪、損得を判断し選別することの正反対です。たとえ異なる意見であっても、熟議し共通点を見つけて歩み寄る、それこそが「日本的美徳」だったのではないでしょうか。不寛容は日本だけでなく、世界中に渦巻いています。溜息がでます。

4022630582ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)
帚木蓬生
朝日新聞出版 2017-04-10

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ここのところ、「働き方改革」のスローガンのもとに、長時間労働がやり玉に挙げられています。電通の事件のインパクトが大きいのでしょう。法定時間を超える労働を、会社が指示してさせたのであれば明らかに犯罪です。しかし、社員が自主的に長時間労働をした場合も、会社が罰せられるべきなのでしょうか。

 

社員が自主的に長時間労働をするには、いくつかの理由が考えられます。

1)上司から与えられた成果を決められた期限までに出すには、長時間労働せざるを得ない

2)仕事に夢中になり、つい長時間労働してしまった

3)なんとなく早く帰りづらい雰囲気。早く帰るとやる気がないと思われてしまいそう。

4)早く帰ってもつまらないから会社にいる

 

1)のケースでは、会社や上司の配慮が必要です。まさにマネジメントの問題であり、会社の問題です。2)のケースでは、社員に好きにさせるべきだと私は考えます。社員が成長するとてもいい機会ですから。4)は論外。3)のケースが最も多いのではないでしょうか。この状態を解消するために、22時に全館消灯したりする。

 

では、なぜ本当は帰りたいのに帰れないのでしょうか。今どき、労働時間で部下のやる気を測り、それを評価に結び付ける管理職がいるとは思えません。

 

部下はこう考えます。「上司は私が早く帰るのを見て、私は仕事に対する意欲が低いから早く帰ると考えるに違いない。意欲がないから帰るのではないが、そうは考えないだろう。だったら、意欲がないと思われたくないから、まだ会社にいよう。先輩たちも遅くまで仕事を頑張っているのだし」

 

先輩たちもきっとこの部下と同じことを考えているに違いない。上司も同じ考えで帰らないかもしれません。つまり、誰も早く考えることと意欲がないことは同じではないとわかってながら、結果として全員が他の人はそう考えているに違いないと想像し皆帰らない。

 

このように相手の行動から「相手の意図」を推し量る性質が人間にはあるために起きる認知の間違いを、「帰属の基本的エラー」といいます。こういった認知の間違いで日本人の集団主義が形成されているとも言えそうです。

 

 

新入社員のAさんが、定時に真っ先に帰ったとします。五年目のBさんは羨ましいとは思うものの、Aさんは意欲がないとは思っていません。もしかしたら、明日は自分が定時に帰ろうと思うかもしれません。しかし、Bさんは皮肉交じりに他の社員に言います。「A君はいいよな。新人のうちくらいしか定時には帰れないのだから・・・。」

 

そう言っておかなければ、今度は他の人から自分が困ったやつだと思われてしまうのではと、漠然と怖れるからです。自分は早く帰ることはいいことだと思っているが、他の社員はそうは思っていないと思うから。

 

仮にBさんがAさんから、早く帰ってもいいかとの相談を受けたとします。Bさんは、こういうでしょう。「気にすることはないよ。俺だって課長に仕事より大事なことがありますって啖呵をきって、早く帰ったこともあるよ。」多分Bさん以外であっても同じように応えるでしょう。こうして、誰も望んでいない長時間労働の職場が出来上がります。

 

これは、日本の職場が閉鎖社会だから起きるのだと思います。閉鎖社会では、お互いに無意識に監視しあってしまうため「王様は裸だ」と誰も言えないのです。そう言えるのは、その社会に属していない「子供」だけです。そう考えれば、働き方改革でまずやらなければならないのは、従業員の多様性と流動性を高めることだと考えます。

 

では、なぜそもそも皆が「早く帰る=意欲がない」との前提を積極的ではないとはいえ共有しているのでしょうか。(これは勤勉さを貴ぶ性向とは異なると思います。)この集団的主観ともいえるものに対して、それに逆らうと損するので、とりあえずそれに従っておこうという判断するのでしょう。

 

かつて日本社会において、国をあげて自分を殺してまで労働することが促進された時代がありました。第二次世界大戦中です。いうまでもなく戦中は兵器を増産し戦争に勝つために、全国民が動員されたものです。そしてそこでは精神論が幅を利かす。(高度成長期もその傾向があったかもしれませんが、私はよくわかりません。戦中の記憶を前向きに活用したのかもしれません)いずれにしろ、戦中の記憶が今にまで影響しているとすれば、ちょっと恐ろしい気もします。

 

 我々日本人は、すぐに対症療法に走りがちです。現象が起きる原因、関係性を冷静に把握し、本質的解決策を実行する体質に、そろそろ変わりたいものです。

「ベンチャーを育てる教育」というタイトルのエッセーが、昨日の日経夕刊に掲載されていました。元内閣府事務次官の松元崇氏によるものです。

 

一部引用します。

「日本のベンチャー投資実行額は、(中略)米国のわずか2%という数字に愕然とさせられるが、その背景にあるのは日米の教育の違いだ。私はかつて米国スタンフォードビジネススクールで学んだが、その時最も人気のあった科目はベンチャー企業経営。(中略)そういった学生を育てる教育が、7.1兆円のベンチャー投資を産んでいるのだ。」

 

日米でベンチャー投資の規模に大きな差があることは明らかです。その背景(原因ではなく)に教育の違いがあることにも賛成します。しかし、そこでの「教育」は初等教育ではなく高等教育、なかんずくビジネススクール教育にあえて焦点を当てているのには同意できません。もちろんビジネススクール教育による影響もあるでしょうが、それが最もインパクトが大きいのでしょうか?私には付け焼刃、対症療法にしか思えません。

 

「(中略)では国がやればいいかというとそうもならない。そんなエリート教育よりも、授業についていけない子供をなくす教育のほうが先だとなるからだ。だが、ベンチャーを育成する教育は、いわゆるエリート教育だろうか。(中略)失敗にめげない人材、再チャレンジする人材を育てる教育があってもいいはずだ。」

 

授業についていけない子供をなくす教育も、再チャレンジする人材を育てる教育もどちらも大切です。松元氏はベンチャー教育への政策的(税金による)資源配分をもっと増やすことを主張しているようですが、果たして国が税金を投入してするようなことでしょうか?その資源投入による費用対効果が高いと考えているのでしょうか?そもそも国が介入するべきことなのでしょうか?私は費用対効果の面からも、国がやるべき(国でしかできない)ことは圧倒的に、授業についていけない子供なくす教育だと考えます。

 

日本でベンチャーがなぜ育たないかという議論は、もう二十年くらい延々と続いています。私の考えはシンプルで、日本において起業は「割に合わない」からです。つまり、リスクとリターンの関係でいえば、起業はハイリスク・ミドル(ロー?)リターンであり、一方大企業正社員はローリスク・ミドルリターンだと考えます。そうであれば、起業するのは相当の変わり者です。

 

昨日朝日朝刊の論壇時評に、小熊慶応義塾大学教授が面白い思考実験について書いています。

 

「その政策とは、時間給の最低賃金を、正社員の給与水準以上にすることだ。なお、派遣や委託その他、いわゆる非正規の働き方への対価も同じように引き上げる。(中略)『正社員よりも高いなんて』と思うかもしれない。だが、仕事内容が同じなら、正社員の方が高い根拠はない。むしろ非正規は、社会保障や雇用安定の恩恵(コスト)がない場合が多いから、そのぶん高くていいという考え方をしてみよう。」

 

さっきのリスクとリターンの関係を適用してみると、現在正社員はローリスク・ミドルリターンであり、仕事内容が同じ非正規はハイリスク・ローリターンです。だから、正社員を辞めることは非合理です。(だから、ブラック企業なんぞが存在してしまうのでしょう)小熊教授は、そのおかしな前提を疑ってみようと言っているわけです。

 

非常におおざっぱではありますが、現在の日本においてもまだ合理的な行動は大企業正社員になることであり、起業や非正規を選ぶことは非合理的行動なんです。

 

大企業正社員の中でも相似の構造がありました。少し前までは(今はよく知りません)、規制で守られた金融機関や放送局は、その他の一般企業よりも給与水準が高かった。まさに、ローリスク・ハイリターンだった。これも変です。合理的に考えたらありえない。(お役人は一応表面的にはローリスク・ローリターンだった)セグメント間の移動が不自由だとしたら、これは一種の階級社会です。

 

こういった、自由な市場経済が機能しない社会で、どんな高等教育をしたところで、ベンチャーが育つはずがない。戦後復興期にソニーやホンダが出現したのは、起業の機会費用(大企業正社員が得、それを選ばないのは損)が戦争で消滅したからでしょう。バブル前より低下したものの、現在もまだ機会費用は明らかに存在しています。

 

小熊教授は続けます。

「では、最低賃金を時給2500円にしたら、日本社会はどう変わるか。(中略)正社員にしがみつく必要がなくなる。研修やスキルアップ、社会活動や地域振興のため、一時的に職を離れることが容易になる。転職や人材交流が活発化し、アイデアや意見の多様性が高まる。起業やイノベーションも起きやすくなり、政界やNPOに優秀な人材が入ってくるようになる。」

 

ベンチャーが育たないのは、日本人の特性でも高等教育のためでもなく、構造の問題なのです。構造改革とはこういった構造にメスを入れることなのだと思います。このような環境ができて初めて、ベンチャー教育の意義が生まれます。本質的原因に切り込まないで、補助金などの対症療法しかしない政治で、日本が変われるはずがありません。

日本化?

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秋もだいぶ深まり、リオ・オリンピックの記憶も少しずつ薄れてきています。とはいえ、今年の夏の大イベント、オリンピックでは日本人選手の活躍で盛り上り、表彰式で流れる「君が代」は何度聴いてもいいものでした。

 

近年のオリンピックでは、メダル獲得競争の傾向が高まり、新聞は毎日ランキングを掲載します。日本は、金メダルは何個で第何位か

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、メダル総数は何個で第何位か、その競争を煽っているようです。かつてのオリンピックでもそうだったでしょうか?メダリストのパレードなんてかつてなかったし、やったとしてもあれほど盛り上がらなかったでしょう。

 

私個人としては、日本人選手の活躍は期待しますし、メダリストには敬意を表しますが、体操の団体戦じゃあるま

いし、日本選手団のメダル獲得数にはほとんど興味がありません。日本人以外の選手の卓越したパフォーマンスをもっと見てみたかったのですが、TV報道は日本人選手の活躍と感動秘話ばかりで、そういった報道は回を追うごとに減っていっているように感じます。

 

オリンピックを世界中のアスリートの祭典と見る視点が薄れ、各国の選手団に所属するアスリートの祭典となりつつあるように思えてしまいます。

 

オリンピック後にはノーベル賞も発表され、今年も日本人(大隅教授)が受賞しました。これも、嬉しいことではありますが、日本人以外の受賞者の報道は非常に限定的です。(ボブ・ディランを除けば。)でも、当り前ですが受賞対象となった大隅教授の実績は過去のもので、これまで高く評価されてきたものです。ノーベル賞を受賞しようがしまいが、その優れた実績に変わりはありません。単に、また新たなラベルが加わっただけです。そこまで熱狂するほどのことなのでしょうか?ノーベル賞事務局からの連絡に応じないボブ・ディランの姿の方が、自然に見えなくもない。

 

先日、プロ野球パ・リーグのクライマックス・シリーズ最終戦で、大谷投手が日本人選手最速の165kmを記録と、アナウンサーが叫んでいました。素晴らしいことだとは思いますが、100m走で10秒を切ったという記録とはわけが違います。陸上選手は、スピードそのもので勝負していますが、ピッチャーはスピードだけで勝負しているわけではありません。でも、目につく165kmという数字に注目します。

 

これらはとても日本的だと思います。より小集団への執着、定量化された数値でしか価値を認められない、自分自身で判断するのではなく「権威」に判断を委ねる、この三つの傾向です。

 

小集団への執着は、中根千枝「タテ社会の力学」で日本人の特性だと分析されています。ちょっと長いですが引用します。

 

小集団の個人は、そのより大きい集団の成員でもあるわけであるが、重要なことは、日本では、この大集団参加は常に小集団単位の参加であって個人参加ではないうということである。言い換えれば、小集団の凝集性が高いというか枠が強く、大集団に合流しても決してその枠がなくならないということである。

タテ社会の力学 (講談社学術文庫)
中根 千枝
4062919567

 

かつては出身大学で差を感じていたのが、最近は出身高校の差に着目する風潮があります。これらもより小集団執着化の現れでしょうか。進歩とは普遍化に向かう現象だと思いますが、今は逆に個別化に向かっている。


でも、よく考えてみると、これは日本だけの現象ではなく、もしかしたら世界全体で同時に起きていることなのではとの予感がします。例えば、英国のEU離脱、アメリカの大統領選挙の醜態、ロシアや中国の拡張政策、フィリピンのドゥテルテ大統領の言動などなど。

 

ランキングという序列にこだわるのも、権威にこだわるのも、自分自身の絶対的判断基準が曖昧になっているからかもしれません。特に、小集団が強く個が弱い日本人はその傾向がありました。世界全体を見渡しても、誰もが認める価値観や既存権威が揺らいでおり、個人の軸をどこに置いたらいいのかわからない人々が、逆説的ではありますが、見えやすく合意が得やすい既存の権威や数字にすり寄らざるを得なくなっているのかもしれません。世界で格差が広がってきていることも、それを助長しているようです。イスラム絶対のISや安倍政権の高い支持率などもその結果かもしれません。

 

日本でますます進む「日本化」が、世界にも広がりつつある。これは決して嬉しいことではありません。

 

騙されることの責任

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2週間前の英国EU離脱決定は、様々な波紋を呼んでいます。中でも、勝ったはずの離脱派リーダーの表舞台からの離脱、そして彼らの公約撤回に伴う離脱派市民からの「騙された!」との怒りの声。民主主義のお手本であるはずの英国が、どうなっちゃったの?


 しかし、腐っても英国。やっぱり、違います。イラク戦争独立調査委員会(通称チルコット委員会)が昨日発表した最終報告書。長期機密扱いの慣例も破って公開された資料も含まれています。また分量にして、ハリーポッターシリーズ全7冊の2.4倍。2009年から7年かけて調査したもので、その内容は詳細を究め、独立の名に恥じず、中立の立場で当時の首相をはじめとした政府を批判しています。これぞ民主主義の基本。政府に対し、主権者への責任を果たさせるために必要不可欠な検証作業が、公正に実行されたのです。ちなみに、英国同様アメリカに追随した日本は、外務省によって4ページの報告書が作成されたそう。

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こういった検証作業は、日本では馴染まないのでしょうか?ちょっと前に大騒ぎした舛添問題。知事を辞職したら、金銭問題追求の話は消えてしまった。小泉氏もとっくに退任しているので、イラク戦争参加責任検証の声は上がらない。

 

検証作業とは、間違いを繰り返さないためにするのであって、「首をとる」ためにするのではありません。今回の英国チルコット委員会がまさにそうです。しかし、日本では首をとるのが目的で、首がなくなったら検証の必要性はなくなってしまうようです。こういう日本人の特性をよく理解する他国の人々は、「日本は大丈夫か?」と不安を抱えるのではないでしょうか。

 

先の大戦では、日本人のほとんどが軍部などに騙されたと戦後感じたことでしょう。騙された人々には責任はないのでしょうか?

 

昨日、太田啓子弁護士から以下の文章を教わりました。書いたのは映画監督伊丹万作氏(伊丹十三の父)です。長いですが引用します。

 

「多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 

「すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 

「私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。


 「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。」

 

だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 

「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 

「「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

 

(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月:「戦争責任者の問題」より)

分断の時代

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24日のイギリス国民投票でのEU離脱決定は、予想外の結果でした。あの実利的なイギリス人が、経済合理性に抗って精神的、感情的理由から独立を決めたのですから。二年前のスコットランド独立の国民投票も、最終的には英国に残る経済的メリットが、「独立」という精神的、感情的メリットに打ち勝ったのですから、尚更驚きです。

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スコットランドや北アイルランドでは、残留派が大勢でした。イングランドでは、ロンドンのみが残留を支持、他の地域は分離派の勝利。また、若年層ほど、高学歴ほど残留を支持しています。地域においても世代においても、驚くほど分断が進んでいるのです。

 

他のEU諸国でも、分離派が力を増しているようです。総選挙中のスペイン、オランダ、フランス、そしてドイツにまでその力は広がっています。アメリカのトランプ現象も同様です。

 

自国第一主義という面で、日本も似たようなことが起きていると思います。アベノミクスとは近隣窮乏策ともいえます。国債の実質的日銀引き受けという劇薬を使ってまで輸出企業支援のため円安に誘導しました。さらに年金資金を株式投資にまでまわし、株価を引き上げてきました。非常にざっくりいうと、他国と未来の日本国民からの富の収奪です。

 

しかし、これらはグローバリズムの必然的な結果だと言えそうです。資金と人と企業が自由に国境を超えるのがグローバリズム。世界規模で、儲かるところに資源は集中する。当然、儲からないとこにはまわらず、ますます貧しくなっていく。貧富の差の拡大は必然。それを、「同じ国民なんだから助け合おう」として妨げてきたのが「国民国家」だったわけです。EUは、国民国家を超えた疑似国家です。

 

今、起きているのは、世界中で国民国家としての統合力が低下していること。「分配」による統合が難しくなると何で補うか、そう「ナショナリズム」による統合です。「国家」による分配機能低下によって貧しくなった人々が、「国家」を絶対視していくこの矛盾。

 

ナショナリズムによる、国家間の分断が始まっています。日本でも、ヘイトスピーチや嫌中、嫌韓言論がその典型でしょう。さらに、世代による分断、そして貧富の格差による分断も同時進行しています。それが、今回のイギリス国民投票でも明らかになりました。さらには宗教による分断もあります。こういった複数の分断が絡み合っているのが、現在の世界なのです。

 

思想の観点では、世界は統合の時代と分断の時代が交互に現れると解釈されるそうです。ナポレオン戦争後にウィーン会議が開催され、19世紀初めヨーロッパは統合の時代となります。しかし、19世紀末には民族主義、帝国主義のもと国民国家による国家紛争、つまり分断の時代に突入し、やがて血みどろの第一次世界大戦となります。終戦後、再び統合を標ぼうし国際連盟設立。しかし、世界恐慌に端を発したナショナリズムの高まりから、第二次世界大戦へ。暗く重い、分断の時代。1945年、日本の降伏により終結。国際連合を設立し、再び統合の時代へ。1990年にはソ連崩壊によって東西分断もなくなり、やがてドイツ統一。1993年、総仕上げとしてのEU統合により、統合の思想は今後もずっと広く世界中に広まっていくだろうと、多くの人は思ったことでしょう。

 

統合の力が強くなればなるほど、分断のエネルギーが溜まっていくのかもしれません。過去の歴史を振り返れば、戦争→統合→分断→戦争→統合、この繰り返しなのです。なんと人類は進歩しないものなんでしょうか。

 

残念ながら、今の時代の空気は分断とその結果としての自陣営の利益追求です。その自陣営も、さらに細かく分解していく。EUから分離するイギリスからスコットランドが分離していくように。西洋がその精神の基盤としてきた理性主義は、もはやその力を持たないのか。本当は、こんな時代だからこそ、日本が世界に対して東洋の中庸の思想を広め、この分断の時代に終止符を打たせるべきなのでしょうが、残念ながら似非西洋化してしまった日本には、その力は望むべくもありません。

言葉の力

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昨日までの土日は、参議院選挙公示前最後の週末であったためか、いろんな所で選挙演説が行われていました。たまたま、土曜には新宿駅前で、日曜には吉祥寺駅前でそれに出くわしました。新宿は野党側、日曜は与党自民党でした。

 

野党側といっても政党主催ではなく、SEALDsなどの市民団体主催で、野党四党からの国会議員や文化人を招いたものでした。多くの方の街宣車上からのスピーチがあったのですが、政治家のスピーチが最も下手で心に響きません。ある女性議員は、原稿の棒読み。風で原稿が吹き飛ばされたらどうするのだろうと心配になったほど。

 

それに対して、Sealdsメンバーなど若い市民は、自分の言葉を一人称で熱く語り、聴衆も明らかに引き込まれていました。政治家の多くは、「我々は・・・・、正に・・・・、・・・・・しようじゃありませんか!」と、紋きり型です。やはり、人の心を動かすのは、スピーチ技術ではなく、どれだけ本気で自分自身の言葉で語れるかです。沖縄の女性のスピーチが代読されました。読んだのは、司会をしていた大学生の女子でしたが、強く心に刺さるものがありました。生声でなくても、本気の言葉は伝わるものなんです。結局「心」なんですね。途中でラップ音楽タイムのような時間もあって、結構楽しめました。

 

一方の日曜の自民党による選挙演説は、首相を筆頭に「有名人」が演説するので前日の新宿より、はるかに大勢の聴衆が集まっていました。しかし、土曜以上に政治家による紋きり型演説のオンパレード。しかも、登壇者も自民党のヒエラルキーにそった方々が順番にいろいろ出てくるので、正直退屈。「皆さん!・・・・じゃないですか?そうでしょう!!」といったパターンの連続で疲れます。どうして、こうも政治家の演説は、上っ面でしゃべっているのが見え見えなのでしょうか?心がこもっていないので、共感しようがない。

 

二日間を通して、政治家は全員「我々は、・・・」と一人称複数形で語るのに対して、市民は「私は、・・」と一人称単数計で語るのが特徴的でした。国民の代表たる代議士なので、「私」ではなく「(皆さんの想いも含めた)我々」というのでしょうが、それが白々しいのです。こちら側としては、「勝手にあなたの一人称に私も含めないでよ」と、突っ込みもいれたくなります。「私」を持つと政治家になれないのかもしれません。

 

話は変わりますが、エドワード・スノーデンを覚えていますか?2013年頃、アメリカ政府機関によるプライバシー侵害を告発した、元CIA職員です。彼に関する映画を先日観ました。昨年、アカデミー短編ドキュメンタリー賞を受賞した「シチズンフォー」です。

スノーデン.jpg

 

独占インタビューを公表したガーディアン紙記者とスノーデンが初めて会った時からの様子を、カメラが撮り続けています。スノーデンの暴露について、日本ではあまり多くは報道されなかったと思いますが、初めてその実相が理解できました。

 

彼は命を賭けて、市民の立場からアメリカ政府の間違いを正そうとしたのです。売名でも何でもなく、正義感からです。だから、彼の言葉は淡々としていますが、ものすごく説得力があります。記者も天下の大スクープを取りたい気持ちはやまやまですが、それ以上にスノーデンの命や意思を最大限尊重する姿が印象的でした。これぞプロの仕事。

 

あらゆる事態を予測した上で暴露したスノーデンですが、やはり家族の身に触手が伸びると、混乱した姿を見せます。しかし、正義感によって意思を貫く。彼は、決して自己犠牲ではないと語ります。このまま何もしないで隠し続ける自分が許せない。だから、自分のために公表するのだと。

 

私の中で、政治家の演説とスノーデンの言葉がシンクロしてしまいました。正反対に。しかし若い市民の言葉には、スノーデンと共通する個人としての決意のようなものも垣間見えました。自分のために自分自身の言葉で語る「個人」、それが社会をいい方向に動かす原動力なのでしょう。

 

 

ところで、映画の中で、「プライバシーが守られなければ、自由もない」という言葉が紹介されます。考えてみれば、今の生活から自由を取り上げるのはどんどん容易になっているのですね。怖い話です。

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