文化と芸術: 2010年7月アーカイブ

このドキュメンタリー映画 「祝の島」は、瀬戸内海の西のはずれの島の住民が主役です。82年に島の沖合を埋め立てて原子力発電所を設立する計画が持ち上がります。島の住民は、賛成派と反対派に分かれ、地域に亀裂が入ります。反対派は、今日まで28年間、毎月曜の朝、小さな街中をほとんど老人ばかりのデモ隊が行進します。1050回も続いています。また、10億円以上の漁業補償の受取を拒否し続けています。

 

しかし、この映画は単なる反原発運動の記録ではありません。確かに縦糸はこの反対運動ではありますが、横糸には住民(といってもほとんど70歳以上の高齢者ですが)の脈々と続く「暮らし」があり、それらが一枚の布を織りあげているのです。

 

ある老人は、山に囲まれたこの島の棚田で稲作をしています。普通棚田とは、土の畔でせいぜい高さ1メートル程度の棚が造られているわけです 棚田.jpgが、ここの棚は石垣です。しかも一個の石の大きさがそれこそ1メートもあるような城の石垣のようです。この石の棚田は、老人の祖父が30年かけて一人でしかも人力だけで大きな石を堀り、転がし造りあげたものです。この老人は、田圃があれば子孫は生きていけるとの思いで造り続けたのです。その意志を継いだ老人は、何があってもこの棚田で米を作り続けるといいます。

 

映画では、季節ごとの稲作の風景とともに、大きな石にノミで何か言葉を刻んでいるこの老人の姿を数カ月も追います。老人は言います。「おじいさんは句をつくるのが好きだった。それで自分の造った石の棚に、句を書き残したかったそうだ。しかし、おじいさんは字が書けなかった。だから自分がおじいさんの代わりに句を刻んでいる。」

 

 

賛成派は漁業中心の生活の未来に不安を覚え、原発による支援で生きていこうと考えています。一方反対は、先祖から引き継いでいる海を、子孫に残していくことに大きな責任を感じています。ある老夫人が言います。「どちら側もみんな心は同じだ。ただ、意見が違うだけで。でも、それが住民を引き裂いている。それが悲しいし悔しい」どちらにも生活があり、島が好きなのです。

 

では、差は何のか。時間の捉えかたの違いだと思います。賛成派は、10年単位で島の生活を憂います。子孫のことも大事ですが、近い将来のことを考えなければなりません。現金は、時間が経てば価値は下がります。今が最も価値が高い。だから、賛成し補償を得ることを選ぶのです。

 

一方、反対派は百年単位で島や島民の暮らしを考えています。だから、すぐに価値が下がる現金には目もくれず、子孫の生活も支えてくれるであろう海を守るのです。両者それぞれには言い分があるのですが、最大の違いは時間のスケールなのだと思います。

 

どちらが正しいということはありませんが、私には長い時間で捉えている反対派の住民のほうが「高等」だと感じました。彼らには今の自分だけでなく、千年以上前の祖先から、千年後の子孫のまでの流れの中に、自分たちを位置付けることができます。それを「高等」だと感じます。

 

それを哲学や教養と言い換えることもできます。彼らは自然とともにある哲学者に見えます。都市では学問を積まなければ、なかなかこのような境地には達することはできないでしょう。でも、島民は自然と向き合う暮らしの中で、哲学を獲得し、子どもたちに伝えていけるのです。海や山といった自然が教師なのです。

 

映画の最後のシーンで、老人が石に刻み続けた文字が完成します。そこには、こう書かれています。

 

「今日もまた、深き雪をかきわけて、子孫のために掘るぞ、嬉しき」

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