2016年9月アーカイブ

昨日、身体知に関する勉強会(上智大学大橋教授主宰)に参加しました。とても刺激になりました。

 

身体知には、「身体を知ること」と「身体が知ること」の二面があります。私は仕舞の稽古をしながら、毎回「身体を知る」ことに楽しみを感じています。西洋の常識に捕らわれがちな現代人にとって、中世日本人の身体の使い方を知ることで、自分自身の身体を発見することがあります。例えば、いわゆる「ナンバ歩き」は、身体が本来持つ力を感じさせます。

 

昨日の勉強会のテーマは後者、「身体が知ること」の方でした。頭ではわからないが、なんとなく体がわかるってことありません?頭で迷った時は、体の声を聞いてそれに従うようにしています。勘といえば勘ですが、その成功率は高い気がします。

 

 

身体が知る「何か」、それを「原事態」と呼びます。問題は、それを言語で表現できないことです。日本人は、元来それを諦めていたようです。「背中で語る」とか「芸は盗め」など、言語を使わず理解することを当たり前としてきました。

 

一方、西洋はそこに科学を持ち込み、何らかの言語化をし、再現可能にしてきました。逆に言えば、言語で表現できないものの存在は認めない。

 

日本人も特に戦後は、科学万能主義のもとで、言語化を模索します。その典型がマニュアルです。しかし、マニュアルで表現できるのは原事態を100として、10以下でしょう。それでもゼロよりはましです。ただ、問題は10を理解して100を理解したと勘違いすることです。マニュアルやルール万能主義とはこのことです。

 

謡を最初に学んだとき、なぜ五線譜で表現してくれないのかと、不満でした。先生に尋ねると、謡では西洋音楽のような絶対的な音の高さは決まっておらず人それぞれだ、またたった五線では表現できない、との回答。あくまで便宜的に西洋で開発された表記法を、当たり前のように使おうとする自分の愚かさに気づきました。


西洋では割り切って五線譜ででも表現するのに対して、日本では言語化できないものは言語では表現しないのです。そこには大きな違いがあります。では、日本人はどうやって原事態を伝えてきたのか。基本は先生による口伝えです。もっと本格的には、長い時間を一緒に過ごす(でも教えない)という内弟子というシステムです。理屈はいいから、とにかく真似せよ。どんな芸能も技術もそうでした。

 

禅にも「不立文字」という言葉があります。言葉では伝えらないので、師匠が弟子に口伝えで教えるということです。言語化を諦めているのです。

 

では、原事態を全く「形」にしないで伝えるのか?私は、言語ではないが形にする方法もとっていると考えます。

 

例えば公案。禅には公案があります。師匠が弟子に対して与える課題です。例えば「隻手の声」。(両手で打ちあわせば大きな音がなるが、片手ではどんな音がするか?)言語ではなく、公案という形の課題を与え、考えさせることで伝えるというアプローチです。

 

もう一つは「型」です。仕舞とは多くの型の組合せでできています。型とは非常にシンプルなもので、それを覚えることはそれほど難しいことではありません。だから、型さえ覚えれば、私のような素人でもひととおり舞うことはできます。しかし、当り前ですが、先生が舞う仕舞とは全く別物です。型は正しくても所詮先生の100に対して10以下なのです。それを埋めるのは、やはり稽古です。

 

思うに、型とは先生の仕舞(原事態)を圧縮したものにしか過ぎず、学ぶ私は圧縮された型の複製を、解凍しなければならないのです。その解凍するプロセスが稽古なのです。解凍するということは、シンプルな型からどれだけ原事態を想像し再現できるかということでもあります。しかもその想像とは、頭によるものでなく身体によるもの。言葉にできないものを、頭では理解できないからです。

 

言葉にできないものを、わずか10という言語で理解したつもりになってはいけません。わずか10なのだと謙虚に認識した上で、100に近づけるよう想像力を身体にはたらかせるのです。

 

中川一政の言葉

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どんな分野であっても、極めた方の言葉には心を動かされるものがあります。なので、そういった方のエッセーなどを読むのが好きです。私にとって、それに気づかせてくれたのは画家の中川一政だったのかもしれません。

 

ご存知の方も多いかとおもいますが、中川は1991年に97歳で亡くなりました。美術学校などの専門教育を一切受けておらず、独学で独自の絵画を極めました。中川が面白いのは、明治の有名な芸術家たちとの深い親交です。岸田劉生などの画家のみならず、武者小路実篤ら白樺派の人々、それから絵を描く前には詩や歌で生計をたてたこともあり、北村透谷、斎藤茂吉、与謝野晶子といった詩人や歌人とも交流していました。

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最初は中川のエッセーを読み、それから彼の絵にも興味を持つようになりました。たまたま、最晩年に北国新聞に連載していたエッセーをまとめた本「中川一政画文集 独り行く道」を先日読み、あらためて多くの学びを得た気がします。

 

中川は、書や陶芸、日本画、詩や短歌など多くの分野で作家活動をしました。

 

「書や陶芸が余儀で画が本職というんじゃ決してないよ。文章を書いたり、詩や短歌も作っているけど、それも余儀じゃない。一つの道だよ。一人の人から出たものだよ。」

 

本職と余儀という区別は意味がないと言っています。「中川一政」という一人の人間の創造の発露という意味では、どれも同じなのです。つまり、作品というモノを作っているのではなく、自分を表現したものがそれぞれの作品になったということであり、あくまで自分が主なのです。そうでない者は、作家ではなく職人だと言っています。

 

中川はただ、いろんなものに手を出して楽しんでいるだけではなく、ジャンルを超えたものから普遍的なものを見つけ学んでいます。例えば相撲。若い頃、岸田や画の仲間たちとよく相撲をとっていたそうです。

 

「あまり強くはなかったんだけど、土俵際で相手の押してくる力を利用して技をかけるのが得意だった。で、相撲を取っていると、ムーブマンとかバランスの問題とか、そういうことを自然に体が覚えてしまうんだ。画を描くのに大切なことをね。それも決して頭で覚えるんじゃない。画描に相撲とることなど無用のものに思えるけどそうじゃないんだ。」

 

このようにして中川は、あらゆるものからどん欲に学んでいきました。ただ、やみくもに師匠を真似て学ぶことには否定的です。実際、中川は師匠といえる人は持ちませんでした。

 

「分かるかい。人間にはそういう知恵が天性、備わっているということ。他人に教わらなくとも、聴こうとしないでも、聞こえてくるものがあるということだよ。このやり方が画かきにもあるんだ。画かきになろうと一生懸命勉強するのと、そうじゃないのと二つの面が、一人の画かきにあるんだね。だけど、勉強するということは、とても大事なことだ。梅原も行き詰まったし、岸田劉生も武者修行に出た。それで、純粋なものが鍛えられて堅固になるんだから。」

 

自分が天性持っているものを大事にしながら、他者から貪欲に学ぶ。天性のもの磨き、固めるために学ぶのです。それを間違ってはいけない。

 

中川は、私淑していた岸田と袂を分かちます。喧嘩したわけではなく、もっと純粋にもっと広い世界がみたくなったのです。あらゆるものから自由でいたかったのでしょう。尊敬する武者小路実篤を評すことばの中に、中川の考えが現れます。

 

「武者さんというのは、職人じゃないということだ。職人というのは、一つのことを一生懸命にする。だけど、それは人間を縛ることになるんだ。武者さんはそうじゃない。縛られない。それがあの人の特徴なんじゃないか。どこからでも、栄養を取る。自由自在に。(中略)職人が悪いわけじゃないけど、そういう縛られない生き方というのは、自由にものを見ることができる。ひとつのことに執着しない、ということだ。」

 

私たちは、何かに縛られていないだろうか?自由にものを見られているか?

中川の言葉、そして精神としての発露たる作品に触れることで、常に刃を突きつけられているような気がします。

 

独り行く道―中川一政画文集
中川 一政
4763011154

ミシマ社(http://mishimasha.com/)という出版社をご存じでしょうか?「原点回帰の出版社」を旗印の、設立10年、社員10人ちょっとの規模でいえば小さな出版社です。しかし、出版業界では知らない人はいない、注目の出版社です。その三島社長の話を聞く機会が、昨日ありました。とにかく面白かったです。

 

1975年生まれの三島さんは、過去に大手出版社二社で勤務経験があります。学生時代、海外放浪にはまっていた三島さんは、最初の出版社では仕事の面白さに、目覚めますが、あるときふと「そういえば旅行に行っていないな」と気づき、辞表を出して再び海外放浪に出ます。辞表に書いた理由は、「世界制覇のため」。地図持たず計画も立てない海外放浪では、野生の勘のようなものが磨かれるそうで、その感覚を失いかけて危機感を抱いての退職だったようです。

 

帰国後別の大手出版社に就職しますが、そこは固い会社だったらしく、息苦しさに耐えられず、そこにも辞表を。起業は全く考えていなかったそうです。実家が京都で帯の問屋をやっていたそうで、中小企業の悲哀を子供心に感じ、自分が会社を立ち上げるのだけはいやだったそうです。しかし、ある晩ふと「そうだ、出版社を始めよう」と思いたち、その時にほぼ今の会社のアイデアは思いついたとのこと。前の出版社時代のお世話になっていた内田樹さんに、半分止めてもらおうと思って相談にいったところ、即座に「それがいい」と言われ拍子抜けしたそうです。他にも多くの方に相談したのですが、誰からも否定されなかったそう。きっと、出版業界に近い人は誰もが今の業界の状況に閉塞感を抱き、誰かがなんとかすべきだと考えていたのではないでしょうか。

 

「原点回帰」とは何か?出版業とは、著者の熱い思いを増幅させながら読者に届けることがその役割です。しかし、返品率4割を超える現在、たくさんの本は出すものの、「売れそうな本」しか出さなくなっています。「売れそうな本」とは、有名な著者、売れているジャンルといった、過去の実績やデータで決まります。編集者は、多くの読者が買ってくれそうな本を、「マーケティング」的観点で予測し、既存の著者にそれを書いてもらう。一見、マーケティング重視で良さげですが、こと「本」に限ってはそれでは先細ることは目に見えています。「熱」がどこにもないからです。三島さんは前職時代、出版会議などでどんどん熱を下げていく会社の手続きを痛感したそう。だから、自分たちは熱を持つ著者を見つけ、それを出版のプロセスでいろいろな人間が関わることでさらに熱量を高めて、それを読者に届けるという方針を決めました。それが「原点回帰」。考えてみれば当たり前の話です。ただ、いい本を作ってもそれが書店に並ばなければだめ。でも、今の取次経由の流通に乗せても、思うように流してもらえません。そもそも、新しい出版社が取次からもらえるマージンは微々たるもの。そこは、歴然とした実績、つまり社歴がものいう既得権益の世界なのですから。そこで、必然的に取次を通さず、自社営業で書店に本を届けるスタイルになったのです。

 

ミシマ社は10人強の社員ながら、東京自由が丘と京都というふたつのオフィスを持っています。2011年の震災直後、思い付きで京都の古民家を借りて移ったそうです。放射能による漠然とした不安があったそうですが、もともと地方発で出版することは考えていたそうです。もっと、地方から情報発信がなされるべきだと。三島さん自身は京都に移り、あらためて東京で出版することのメリットを痛感したそうです。だから、東京に比べて不毛ともいえる京都で、出版をしていくためには、本質を考え抜き決死の覚悟で仕事せざるを得ない。そこから様々なアイデアが生まれたそうです。水のない砂漠のようなところに生えるトマトは、生命力が強く甘いそうですが、人間もきっと同じなのでしょう。あえて、砂漠に出て勝負したミシマ社は、そこでさらに強くなったのです。

 

京都にいることで、東京を中心に動く既存の巨大なシステムに乗らない意思を維持することができる。その既存システムは、既に崩壊しつつあるのですが、そこから外れることは、既存プレイヤーにはなかなかできないのです。

 

その後、出版業界の常識を次々に壊す実験を続けています。例えば、毎日更新するウェブマガジンを支援する年2万円の有料サポーターを募っています。サポータには、毎月それにのった記事を紙版にして届ける。紙の完成版は毎月、紙も変えたりして、紙の本に関する様々な実験を行っています。紙の本をどうすれば残していけるかの、試行錯誤の場にもなっているのです。それができるのは、有料サポーターがいるからです。その成果のひとつとして、割付も特集もない年に一冊しか出さない雑誌(注)や、ウェブでしか文章を読まない(本になじみのない)人にも読了感を味わってもらうための100ページ以内の「コーヒーと一冊」シリーズも始めました。出版業界では、200ページにも満たない本は出さないという常識があるのだそうで、それを打破したのです。

 

他にもミシマ社ならではの様々な取り組みがありますが、会社としての課題は三島社長の想いや考えを、いかに新しい社員に移植するかだそう。なにぶん、「考えるな、感じろ!」が社員に対する育成方針(?)だそうで。

 

衰退する巨大システムを変革するのは、きっとこんな小さくてユニークな新参者なのではないかと思います。きっと、これは出版業界だけの話ではなく、もっと大きな日本社会のシステムにも重なるのかもしれません。そう考えると、ますますミシマ社から目が離せません。


(注)一般に雑誌では、特集記事や連載記事をどう構成し順番を決め割り付けていくか、つまり目次を作っていくかが編集の腕の見せ所。「ミシマ社の雑誌ちゃぶ台」では、記事の入稿順に雑誌に並べていく。そして最後に結果としての目次が裏表紙に掲載される。一見無茶苦茶だが、編集者である三島社長は、前に入稿された記事に影響を受けながら次の記事の編集作業や取材を行うため、三島社長の頭の中での時間の流れにそった順番、構成で雑誌ができることになる。読者は三島社長の思考を追体験しながら、雑誌を最初から最後まで全部読んでしまうことに驚くという。

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