2010年9月アーカイブ

昨日、東大でのラーニング・バーに参加してきました。今回は、㈱サイバーエージェントの曽山哲人取締役人事本部長の講演「成長する仕掛けを創る -『挑戦』と『安心』のあいだで-」がメインでした。

 

ITベンチャーとして98年に創業して2000年には上場。しかしその直後にITバブルは崩壊し、3年連続で3割が退職するなど会社ががたがたになる。そこから、どう組織を立て直したか、リアルで示唆に富むお話でした。ベンチャーの創業から急成長まで経験した私にとっても、いろいろ考えさせられる講演でした。

 

私が理解した当社の組織再生のポイントは、企業内における「ソーシャル・キャピタル」構築と、それを実現した人事部の力です。ソーシャル・キャピタルは、ウィキでは以下のように説明しています。

(人々の協調行動が活発化することにより社会効率性を高めることができるという考え方のもとで、社会の信頼関係規範ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念である。人間関係資本社交資本市民社会資本とも訳される。

 

2003年にビジョンの明文化と人事を強化することを役員合宿で決めたそうです。

ビジョンは、「21世紀を代表する会社を創る」です。採用面接で学生から、「あまりすぐれてビジョンではないですね」と言われたそうです。確かにそうです。これはビジョンというより、ビジョンと戦略の間にある「アンビション」ですね。ゆるいアンビションを提示することで、社内で議論を巻き起こしたことが、良かったのでしょう。曽山さんはそれを、「経営と現場のあいだで、ヒントを探す」と表現していました。

 

そして、「人事の強化」も卓見だと思います。当時、売上自体は伸びていました。しかし、社内の雰囲気や組織が崩れると、いずれそれが業績に反映されることを理解していたのでしょう。業績変動の最大要因は、そこにあったのです。そして05年に人事本部を設立し、人事の役割を「経営陣と現場のコミュニケーション・エンジン」としました。一般に人事は「守り」を担うと認識されているようです。しかし、本来はそうではありません。経営戦略を遂行してくためのエンジンのはずです。つまり、「攻め」の急先鋒になるべきなのです。曽山さんがそれを実行できたのは、いわゆる「人事」の経験がなったからでしょう。「人事屋」と言われるのが一番イヤだそうです。

 

その後、人事は様々な施策を試行錯誤しながらしつこく実行していきます。「守り」では失敗は許されませんが、「攻め」ではある程度の試行錯誤は許されます。大事なのは、修正しながら攻撃精度を高めることです。

 

それらの施策を一言で表せば、経営の意図にそったソーシャル・キャピタル形成です。曽山さんはそれを「共通項の多さが安心を増す」と表現しました。ソーシャル・キャピタルが盤石だからこそ、社員も経営陣も「挑戦」や「競争」が出来るのです。

 

単なるベンチャーと成長を持続できるベンチャーとの違いは、そこにあるのだと思います。

最近、本を読むときに集中力が落ちているように、なんとなく感じていました。それはどうやら、私だけではないようです。ニコラス・G・カー著「ネットバカ」(ひどいタイトルですね)を読んで、納得しました。

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていることネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること
ニコラス・G・カー 篠儀直子

by G-Tools
 

ウェブページなどを液晶モニターで読む時間が増えるに従って、流し読み(ブラウジング)や探し読み(スキャニング)に慣れ、じっくり文字を読み込んでいくことが難しくなっているようです。これまでも、新聞や雑誌を読むときはそう言う傾向がありました。しかし、そんな時間は限られていました。ところが今は、デスクに座ってPCを使っている時はもちろんのこと、外出先でも携帯メールを読むことも多くなっています。つまり、四六時中そんな読み方をしています。そのため、流し読みが習慣化してしまったようです。

 

さらにいえば、ウェブではリンクが数多く貼られ、すぐリンク先に飛んでしまうため、ますます落ち着いて読めません。「読む」という行為だけでなく、「探す、選択する、クリックする、読む、戻る・・・」といったマルチタスクをこなしているわけです。そして、恐ろしいことに、そういう行為に適した脳に変化してしまうそうなのです。

 

 

電子書籍の可能性が議論されていますが、「じっくり読む」という行為においては、モニターを通してデジタルデータを読むことと、本のような紙の上を読むことは、大きく異なる体験だという気がします。それを実感するのは、原稿の校正をしたり、念入りに推敲するために「読む」ときです。非常に注意深く読む必要があるときは、わざわざプリントアウトして、ハードコピーで読みます。そうでないと、なぜか集中できないのです。それは、私に限らないようです。ハイパーリンクの問題とは別に、紙でなければならない理由があるようです。

 

一方で、「書く」行為においては、そういう意味の違和感はありません。いずれ、それと同じように読む行為においても違和感がなくなっていくのでしょうか?

それとも、書く行為と読む行為の間には、人間にとって大きな相違点があるのでしょうか?わたしは、後者の気がします。このような問題は、学習という行為にとっても、非常に影響の大きいことです。

 

ついでに、電子書籍に関する私の仮説を述べます。新聞や雑誌、軽い読み物などのブラウジングに適したコンテンツであれば、紙媒体から電子書籍にシフトしていく気がします。しかし、著者の思考プロセスをじっくりなぞりながら、自分の思考を深めていくような類の書籍は、紙で読み続けられるように思います。ただ問題は、そういう本を読む人、ひいては書く人がどれだけいるかですね。そうなると、結局ビジネスとして成り立たなくなってしまうのかもしれません。そうして、行き着くところは、はやり「ネットバカ」の世界なのでしょうか。それはちょっと悲しいですね。

新卒社員は真白の状態で入社してもらって、後は会社が染め上げていく、というのが、永く続いている日本企業の新卒社員育成の大方針だと思います。私自身新卒で銀行に入った時にそれを痛感しました。しかし、これからもそれでいいのでしょうか?

 

 

一昨日、友人が(二代目)社長を務める中小企業の内定者研修を手伝ってきました。規模としては小さな会社ですが、友人は数年前に父親から社長を継ぎ、会社を成長させていくために、様々な取り組みをしています。新卒採用も2009年に始め(二名)、2011年にも二人の採用を決めました。

 

その内定者に研修をしてほしいと頼まれたのです。せっかくなので、09年に採用した若手社員二人も入れ、合わせて4人が受講者です。これまで、内定者を対象とした研修など関わったことがないので、友人と一緒にどうやろうか悩みました。まずは9月に土曜一日実施し、12月にまた土曜一日としました。初回は、午前中はその会社(N社)のオリジナルケース、午後はビジネスシーンでの定量分析の基礎、といった内容にしました。

 

N社オリジナルケースは、社長である友人に書き下ろしてもらいました。驚いたことに彼は、週末一回で完成させ送ってくれました。小さな会社が生き残っていくための姿が、率直に描かれています。彼曰く、ケースを書くことによって、自社の在り方が整理できたとのことです。

 

さて、私が用意した設問は、以下の3点です。

1N社はなぜ、環境が大きく変化する中で成長を続けることができたか?

2)現在、弱みがあるとすれば何か?

3)今後、さらに成長するには、何が必要か?

 

これを、内定者チームと先輩チームに分かれて、議論した上で発表してもらいました。その後、私のリードで全体ディスカッションです。後ろでは、社長と取締役の2名がオブザーブしています。まだ学生である内定者と2年目社員だけでどの程度の議論が出来るか、正直不安でしたが、蓋を開けてみると、結構できるものです。

 

まだ学生である内定者は、とても客観的に会社のことを見ています。もちろん会社の内情を知るはずもありませんが、それゆえ本質を直観的に見抜く傾向がありました。この姿勢や力を、入社してからも維持して活用すべきでしょう。それが会社の資産になるはずです。変に染めないほうが会社にとってもプラスだと思いました。一方の先輩社員は、二年目とは言え「社員」です。いろいろなことを「配慮」するようになります。それはそれで、社会人としては正しいのですが・・・。適合とは、そういうことなのでしょう。トップ二人が、オブザーブしているのですから、ちょっと不利ではありましたね。適合することと客観性をバランスさせることの意味を考えさせられました。

 

私自身初めての経験でしたが、楽しい時間を過ごすことができました。これも、社内の歴史や事情を内定者にもさらし、自由に発言させる社長の率直さと寛容さがあればこそです。内定者にも、きっと社長の思いは届いたことと思います。最後に先輩の一人が、「僕達にもこういう研修があればよかった・・」と呟いたのが印象的でした。

 

個人の卓越した能力とチームワーク、そして短期間での後進の育成、それらをリスクを最小化しながら同時に実現していく組織、それが航空自衛隊第11飛行隊、通称「ブルーインパルス」です。そのドキュメンタリ番組を観ました。ハイビジョン特集「天空のアクロバット~ブルーインパルスの男たち~」

 

ブルーインパルスには、隊長の第1号機~6号機までの6機で編成され、それぞれの機に2名が配属されます。2名とは、師匠と弟子の二人です。驚くこ ブルーインパルス.jpgとに隊員の任期は3年程度のようです。その間に、弟子が技術を修得し、師匠になり、また次の弟子を育てるのです。全員が優秀な戦闘機パイロットとは言え、戦闘機とアクロバット飛行をするブルーインパルスでは、異なる技術が求められるのです。以前、友人の元米空軍パイロットが、エアラインのパイロットはバスの運転手だが、戦闘機パイロットはレーサーだと言っていました。それで言えば、ブルーインパルスはF1レーサーなのかもしれません。

 

 

自分の弟子がなかなか技術を修得できない師匠が言います。「ここには優秀な隊員しか来ません。自分の教え方が悪いのだと責任を感じます。(中略)感覚の世界が大事です。言葉では伝えられないのです。『ここでビューンだ』と言ってもわかりませんよね」そこで、その師匠なりの手作りのマニュアルを作って、少しでも伝わるように試行錯誤しています。。創立から50年間の詳細なマニュアルが蓄積されていますが、それでは足りず、個人の暗黙知を独自の形式知に落とし、さらに一年間行動をともにすることで伝えるのです。

 

隊長の責任は、並大抵ではないようです。任期を終える隊長に、何が一番楽しかったか問います。すると、

「楽しいことはひとつもありませんでした。常に真剣ですから。楽しくなろうと努めたことはありますが

任務を解かれて寂しくないですか?との問いに、

「全く寂しくありません。すべてやりきりましたから」と、すがすがしいか顔で応えました。任務とともに、隊員の命を預かる隊長の重圧は、次元を超えているようです。

 

ラストフライトを終えた隊長に、隊員が祝福の水掛けをします。隊長の反撃し、たくさん用意されたバケツから、隊員に水を浴びせます。これが、航空自衛隊の恒例です。その後、びしょびしょになった隊長はインタビューに応えます。

「水を掛け合うことで、隊から私の色を洗い落とすような気がします。私は隊長として任務を遂行し、そのために隊を私の色に染めました。次の隊長が、今度はそれをするのです」

潔い言葉です。

 

 

ブルーインパルスは、極端に特殊な組織かもしれません。しかし、そこから私たちが学べることはたくさんあるように感じました。

今、戦略理論に関する本をせっせと書いています。戦略と一言でいっても、その解釈は千差万別です。単語の後ろに「力」や「思考」をつければ、何でも本のタイトルになるように、最後に「戦略」をつければ、何でもそれらしくなって、30%くらい?高級になったと世の人は思うようです。だから結構大変です。

 

ところで、戦略論をいろいろ検討する中で、一つ腑に落ちないのが、「戦略(的)思考」を正面から論じた文献が見つからないことです。戦略を策定する上で、当然それに必要な思考法、あるいは思考パターンがあるはずです。でも、あまりないのです。あっても、読んでみると、たとえば外交交渉とかゲーム理論といった、戦略思考の一要素や使用場面を取り上げているにすぎません。

 

唯一見つけたのは、敬愛するミンツバーグの「戦略思考とは統合である」との論だけでした。これには深く納得しました。いわゆる戦略計画には分析つまり、「分解」が必要だが、戦略を創造するには「統合」が必要であり、統合する思考法が戦略思考というのです。多くの人は、論理的思考に長けた分析のプロが、戦略を策定できると考えているようですが、全くそうではありません。戦略コンサルタントという職種がありますが、彼らの80%以上は戦略策定なんてしていません。やっているのは、それに必要な分析をすることだけです。

 

では、戦略思考すなわち「統合」を分解するとどうなるのでしょうか?(言語矛盾しているみたいですが)それが分からないと、戦略思考を習得するヒントが得られませんね。

 

ジグゾーパズルをアナロジーにして考えてみましょう。ばらばらになったピースを、どうやって組み立てるのでしょうか?現実の世界では、使用するピースだけまとまって用意されてはいません。まずピースを創ることから始める必要があります。「創造」です。これが最も難しい。次に、創った多くのピースの中から、使用するピースを「選択」します。これもまた難しい。何を基準にしてピースを拾い上げるのか、理屈などありません。

 

そして、選んだピースを連結させて、組立てていきます。それには、どう「組立」るかの「構想」が必要です。では、どうやって構想するのか?

 

もし、戦略が合理的に策定できるとすれば、ここで「分析」が使えます。与えられたピースをグルーピングして、はまる部分を少しずつ広げていけばいいのです。しかし、現実の世界では各ピースの境界はいかようも変化するので、その思考ではだめなのです。ジグゾーパズルよりは、抽象絵画を描くのに近いかもしれません。確かに、出来あがってみれば部分はあるのですが、書いている時には部分は存在せず、全体しかイメージでいていません。

 

 

戦略思考とは、こんなことを頭の中で考え続けることなのでしょう。どうすれば、それができるようになるか。うーん、難しい。

神戸大学にいらした吉原英樹教授(現南山大学教授)は、戦略の本質を『ばかな』と『なるほど』」と表現されています。

 

その時点で見れば馬鹿げた施策であっても、振り返ってみれば納得できる、というわけです。・・・「なるほど」ですね。

 

 

個人的経験に照らして言えば、90年代前半、企業における中堅層以上への教育は、その企業特有の仕組みや制度の伝授が大部分でした。もちろん専門分野(経理や技術)の教育もありましたが、対象者は限られていました。また、管理職研修という特殊な分野はありましたが、これも管理職に昇格した時点で、管理者としての心得を伝える一種の儀式の要素が強かったように思います。講師も、社内のベテランか、社外でも大学教授か功成り名を遂げた偉いシニアだったと思います。これが当時の常識でした。

 

そこに、「経営には汎用的知識やフレームワークがあり、それを研修で学ぶことができる。そして、それを教えるのは、それを使いこなしている現役のビジネスパーソンが最も適している。」という非常識で、市場を開拓していきました。多くの企業は、「本当か?教育の素人だろ」という反応でしたが、一部の企業では「もしかしたら、そうかもしれない。試してみようか」と、好意的に受け入れてくださいました。バブル崩壊によって、多くのビジネスパーソンが迷っており、新しいものを求めていた、との背景もきっとあったのでしょう。

 

しかし、今や、その考え方が主流になっています。「なるほど」を通り越して「当たり前」になっているのです。(やや行き過ぎのきらいもないではありませんが・・)

 

では、当時、私たちがそんな変化を洞察していたかというと、半分そうですが、半分はそうでもなかったように思います。ビジネススクールで学んだことが「役立つ」と感じていたので、その意味では確信がありました。ただ、役立つと感じてくれる人は、選抜者などの一部エリートかもしれないと思っていました。日本企業は、まだまだ選抜教育に抵抗があったので、市場性は正直それほど大きくないとも思っていました。

 

講師についても、年功序列がまだまだ残る日本の大企業で、若くしかも教育の素人が、(若手社員ならともかく)企業の中核を担うようなビジネスパーソンを教えても大丈夫なのか?との不安はとても大きかったことを覚えています。でも、そういうアルバイトで協力してくれるような若い講師しか集められなかったので、仕方がなかったのです。振り返ってみれば、顧客はそれを受け入れてくれ、またビジネスとしては講師に支払う費用を変動費化できたわけですから、うまくいきました。成長が軌道にのってからは、「なるほど、うまくやったな。」と言われたものです。

 

今も、見えないところで社会は少しずつ変化しているはずです。今認識している常識も、もしかしたら現実とはずれているかもしれません。それをいち早く見つけて、先手を打つことこそ、経営の醍醐味だと思います。

優れた演劇は、二時間程度の間に、人間及び社会の本質を強いインパクトをもって気づかせてくれます。小説では時間が必要ですし、映画では生身の人間でないだけに、どうしても間接的な印象になってしまいます。芝居は、生きた人間が、すぐそこで躍動しているわけで、そこからのインパクトは強烈です。

 

恒例の加藤健一事務所の「木の皿」も、そうした優れた作品でした。身近な人々の中に悪人はいません。みな、自分と社会の中でなんとか折り合いをつけようと奮闘しています。でも、集団の中では矛盾が生じて、悪気はなくても、誰かに犠牲を強いたり、傷つけることになってしまいます。残念ですが、そういうことが生きていくためには起こりうるのです。この芝居では、加藤健一演ずるロンという老人が、その対象になってしまいます。そうなったとき、どう振舞うべきか?

 

 

同居する嫁は、ロンの世話に耐え切れなくなり、夫(ロンの二男)にロンを老人ホーム(1953年のアメリカのそれはひどい場所だったようです)に送ることを迫ります。娘(ロンの孫)は、ロンが大好きで、それに大反対です。そして、最後には家を出てロンとホテルで暮らすと言いだします。そこまで言う孫娘に感謝するものの、ロンは一人老人ホームへ行きます。

 

その直後に、キラー台詞が孫娘から発せられ、幕が閉じます。ロンが去った家で、嫁が片付けをしていると、木の皿が出てきます。ロンは、陶器の皿はすぐ割ってしまうので、嫁は割れない木の皿をロンに使ってもらっていました。その皿を持たすことを忘れたというのです。すると孫娘が、それ私に頂戴といいます。そんなものどうするの?と尋ねる嫁(母)に彼女はこう言い放ちます。

「ママも年をとるのよ」

 

家族のみならず観客も、現時点でのロン一家の問題に捉われていました。でも、時間軸を伸ばしてみてみれば、全員がロンになる可能性があることに、この瞬間に気付かされたのです。その瞬間、観客席も凍ったような気がしました。これぞ演劇の力です。

 

 

この週末、こちらも恒例の文楽公演に行ってきました。江戸時代には、文楽にもそういう力があったのでしょう。でも、残念ながら現代ではそうもいきません。とはいいながらも、普遍的な部分もあります。少しの普遍性と、多くの様式美に堪能されるのです。

先日、スマートHRD講座の受講者の同窓会(飲み会)がありました。皆さん、企業の人材開発担当者なので、自ずと仕事の話になります。異口同音におっしゃるのが、「忙しくて、本当やりたいことがなかなかできない」ということです。

 

課員は減少しているにも関わらず、コンプラや労務問題、メンタル問題など昔に比べて仕事量は増えています。社員の多様化(バックグランドも意識も)が進み、かつてのようにひとくくりでは対応できないのです。そうすると、目先の火消しに追われ、それで時間がどんどん過ぎていく。

 

ある方が嘆いていました。

「人事の醍醐味は、社員のために仕事をした結果、社員が成長しやる気を出して成果を出し、会社も良くなっていく、そこにあるはずなんだ。でも、今はそんな長期的なことを考えている余裕がない。思い切って戦略的な研修を起案したら、上司からそのROI(投資収益率)はどのくらいだと問われた。そんなこと分かるはずないのに。わからないとできないのなら、何にもできない。」

 

どこの会社も似たような状態なのではないでしょうか。多くの日本企業では、給与関連(ペイロール)や労務・メンタル対策、新人研修や採用(本来は長期ですが実態は短期)といった超短期の業務と長期的視野に立つべき戦略的人材開発業務を、同じセクションで担当しています。マンパワーの少ない現状では、目先の火消しに追われるのもやむをえないでしょう。

 

こうなると、組織構造や戦略をどう考えるかという、もう一段階も二段階も上の問題になります。「我社の資産は人」という言葉は、神棚の上に祀られているようです。

 

経営トップも、長期的視野に立つCEOと、現状の執行に責任を持つCOOに分離する会社も増えてきました。最重要資産である、「ヒト」についても、長期的視野に立つ役割と、短期的対応を担う役割に分離すべきだと思います。どちらもヒトに関わるので人事部で、という発想では、将来に禍根を残すことになってしまうかもしれません。

 

こんなことを考えながら、大いに盛り上がった夜でした。

組織には求心力が必要です。では、何が求心力になるでしょうか?ひとつは、「リーダーの徳」でしょう。古来の中国や日本のリーダーには、徳が最重視されました。劉備しかり、西郷隆盛しかりですね。しかし、何事も属人化してしまうと、永続性がありません。

 

そこで、教科書的に言えば「理念」や「ビジョン」となります。でも、理念やビジョンで結びついた組織って、どのくらいあるいでしょうか?特に大企業で。思い当たる企業名をあげられますか?J&Jのクレドなど有名です。行動規範や意思決定の基準としては、機能していると思いますが、それが求心力となっているかは、また別でしょう。

 

個人的には、理念やビジョンのような崇高なものには、なかなか多くの人々を動かす力は生まれないのではと感じています。宗教なら別ですが、ビジネスにはありがたすぎて、エネルギーにならないのです。

 

では何があるか。社員がつい口に出してしまうような、キャッチフレーズではないでしょうか。それは、理性より感性に訴えかけるものです。

 

思いつくものを挙げれば、以下のようなパターンがありそうです。

・仮想敵を作る:「打倒キャタピラー」(コマツ)、「シェアNo.1奪回」(キリン)

・同業他社との質的違いを宣言:「ファッションの伊勢丹」、「わけあって、安い」(良品計画)

・独自の生き方を訴える:「海軍に入るより、海賊であれ」(アップル)

 

 

結果的に、上記のようなフレーズは社員を奮い立たせ、そんな雰囲気(文化)に魅かれて顧客が付いてくるのかもしれません。ただ、重要なのは、それらが気に入らない(潜在的)社員や顧客もいるということです。八方美人のためのフレーズではないのです。

 

日本人は、このようなベタなスローガンが大好きです。かっこいい理念や精緻な経営戦略よりはるかに求心力や羅針盤となり、エネルギーを生み出すと思います。

 

 

恩師でもある嶋口充輝慶応義塾大学名誉教授は、それらを「アンビション」と定義しています。まさに、大志です。また。ミンツバーグは、戦略創造の観点から、「アンブレラ戦略」と言っています。わかりやすいスローガンの傘のもとに、現場から新しい戦略が生み出されてくるのです。

 

こういう、あいまいですが、人の感情に訴えかける言葉の力を、再認識すべき時に来ているように思います。

毎年楽しみにしているサイトウ・キネン・フェスティバルに、今年も昨日いってきました。(昨年の感想はこちら)今年は、小澤征爾さんの癌手術後の復帰後初公演という、特別な年です。昨日がその初公演の予定だったのですが、癌は完治したものの、長期安静による腰痛のため、ドクターストップがかかってしまいました。観客全員に、お詫びの手紙と主治医からのコメントまで配られました。

 

本プログラム(武満徹:ノヴェンバー・ステップス&ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14)は下野竜也さんが代わりに指揮しましたが、その前に小澤さんがチャイコフスキー「弦楽セレナード ハ長調作品48」第一楽章だけを指揮しました。現在耐えうる時間(10分以内)で責任を果たそうとされたのです。

 

開演前に、小澤さんが一言お詫びをしたいと舞台の袖に立ちました。時限爆弾のような腰を抱えて、あえて立って挨拶されたのです。その際の拍手の大きさは、すごいものでした。

 

その後、短時間ではありましたが、小澤さんの指揮とオーケストラの演奏が見事でした。エネルギーをこの一瞬に全部出そうとする小澤さんと、それに応えようとするメンバーの気持ちが大きな音の塊となり、観客に迫ってくるようでした。変な表現ですが、音が生き物のように感じました。昨年の小澤さんの指揮は少し元気がなかっただけに、復活を印象付けられると同時に、オーケストラと観客が、小澤さんを中心に一つになった幸福な瞬間を味わうことができたのです。

 

 

本プログラムも素晴らしいものでした。代わりに指揮した(どらえもん似の)下野竜也さんの重圧はものすごいものだったでしょう。急遽の登板、しかも小澤さんの代 下野.jpgわり。ほとんどの観客は小澤さん目当てで、チケットを購入しています。そこで、中途半端な指揮をすれば、非難ごうごうでしょう。これ以上ないプレッシャーがかかる場面です。しかし、下野さんは全身、全精力をつかって挑みました。曲が終わった瞬間にそこここから湧き上がった「ブラボー」の声は、お世辞やお愛想ではなく、本心から湧き上がった声だと思います。それほど素晴らしい指揮と演奏でした。終わった直後の下野さんは、ふらふらに見えましたが、達成感でいっぱいの表情でした。それは、メンバーも同様でしたが、なんとなく下野さんを祝福しているようにも感じました。

 

 

サイトウ・キネン・フェスティバルは、小澤さんの呼びかけで集まった、名実ともに小澤さん主体のイベントです。あらゆる意味で、小澤さんの魅力が推進力です。ここまでひとりの力が、大きな組織や地域、人々を動かしている例を他に知りません。そこから、小澤さんに続く新たなスターが生まれることが、小澤さんの最大の願いだと思います。今回の下野さんの好演が、その第一歩になるとすれば、歴史的瞬間に立ち会ったことになります。そんな夢をもいてしまうような、素晴らしい夕べでした。

日本企業の強さはミドルにあると言われていました。ミドルとは、単に上の意向を下したり、下の意見を上に上げるだけの、中間通過点ではありません。そこには、必ず意志を持った解釈が介在します。人間は機械ではないので、個人のスクリーニングを通った時点で、その人の意図が必ず入るのです。これも、意図的に行う場合と、そうでない場合がありますが。

 

経営陣も、ミドルからの情報に頼らざるを得ない以上、ミドルの意図が経営に間接的にしろ、反映されるのです。

 

では、過去の日本企業は、なぜミドルが強かったのでしょうか。欧米企業に比べて、短期的成果にこだわらず、長期的視野で行動できたからだと思います。それには、終身雇用の存在が大きいでしょう。また、経営陣もそういうミドルを自由に泳がせる余裕というか度量があったのでしょう。これも企業の株主構成が、現在よりも固定的だったことが大きいと思います。

 

 

これまで数百人の人材開発担当のミドルの方と接点を持たせていただきましが、彼らを大きく3種類に分類できます。①自分が会社を変えていく(良くしていく)という気概を持って、多少のリスク覚悟で取り組む方、②気持はあるのだが、リスクまでは取れないと考える方、③与えられた業務を適切に処理する方、です。

 

①のタイプが人材開発部門に多い会社ほど、長期的に業績が良い傾向がありました。また、その後一緒にお仕事させていただく機会も多くなります。かつての同僚がファンドマネジャーに転職した後、今どこの会社の研修をしているかと、尋ねてきたほどです。

 

①のミドルが人材開発にいるから、その働きによって業績が良くなるというよりも、①のタイプのミドルを人材開発部門に配属するような企業だから業績が良くなる、という因果関係ではないかと、私は見ています。それだけ、「人」を重視しているからです。

 

 

ミドルの力は大切ですが、そういう人材を生み出し、良い仕事をさせる「場」を創ることができる会社の「力」こそが、競争力の源泉だったと思います。

 

終身雇用は実質なくなり、浮動株主におびえる現在の日本企業において、どうすれば再び強いミドルを生み出すことができるのでしょうか?

日本では、どこの地域にも祭りがあります。もともとは、稲作の収穫を神様に感謝するために始まったのでしょうが、それが人々の生活にメリハリを与え、円満な社会を築くのに役立っていたのでしょう。

 

普通に、都会で会社勤めなどしていると、季節感はもとより生活にアクセントをつけることも難しいと思います。しかし、人間にはメリハリやアクセントが必須です。最近は、都会でも祭礼が盛んになっていますが、これは社会の絆が弱まっていることの反動だという気もします。

 

 

私は謡を習っていますが、年に一回、弟子の発表会(浴衣会)があります。それが先週の土曜、師匠の別荘の八ヶ岳能舞台で開催されました。私のような、いい加減な弟子は、この年に一回だけの発表会にでも参加しないと、続かないような気がします。逆に言えば、適度な頻度で自分を追い込んだ(というほどでもないですが)ほうが、継続できるということなのです。浴衣に袴をはき舞台に上がる前までは、不安と緊張に襲われますが、(下手だったとしても)終わったあとの開放感は、なんとも言えない心地よさがあります。私たち(三人で連吟しました)は、二番目の出演だったので、その後は他の方の演技をゆっくり楽しむことができました。

 

仕事でももちろん緊張することは多々ありますが、その緊張感とは少し違うものを、この舞台では感じます。その差は何なのか、うまく説明できません。でも、そういう異なる種類の緊張感を、適度に味わうことは、人間にとってとても必要なことのように思います。

 

それを、一言でいうとメリハリというのでしょうか。メリハリのコントロールも、忙しいビジネスパーソンにとって必須のスキルかもしれませんね。

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