2011年5月アーカイブ

動物の行動を観察して人間についての洞察を得る研究には、京都大学をはじめとして長い歴史があります。しかし、アンドロイドを創ることによって人間を知るというアプローチもあったのです。それをやっているのが、大阪大学の石黒浩教授ともいえます。

 

まだまだ研究途上であり、多くの仮説が生まれてきている段階ですが、それらが面白い。例えば、見かけを自分と全く同じように創ったアンドロイドを前に、人は何を感じるのか。実は人間は自分の姿をそのように立体的に見ることはできません。見ることができるのは鏡を通してだけです。だから、アンドロイドを前にして違和感を持つ。これは自分の声をテープにとって聞くときの違和感と似ています。そう考えると、本当の自分とは?という疑問にぶち当たります。

 

本書にこうあります。

 

全ての自己を持つ生き物は、自分を正確に認識しないままに暮らしているのだ。しかし、この自己を正確に認識しないということが、実は社会的動物においては非常に重要な性質になっているように思う。我々人間は他人を通してしか、本当の自分を知ることができない。ゆえに、社会的である必要がある。人間やそして多くの動物が社会を形成するのは、この自己を正確に認識しようとするがゆえなのかもしれない。

 

自分自身を知りたいがゆえに他者と交わるというアイデアは面白い。コミュニケーションの原点は、他者を知ることではなく自分を知ること。だから他者に自分がどのように写っているのかが気になるのかもしれません。

 

 

それから、技術を駆使して徹底的にアンドロイドの表情の変化を人間に似せることに取組んだ末、ニュートラルな見かけに行き着いた点も興味深い。人間は、相手の顔の物理的な形態を読みとっているというよりも、言葉、匂い、雰囲気などあらゆる周辺情報を入手して、それらを自分の記憶データと照らし合わせて似たものを探すようです。さらに重要なのが、その時の感情です。

 

このような人の様々な想像を反映できるテレノイドのニュートラルな見かけこそがテレノイドのデザインの魅力なのだと思う。あえて似たものを探せば、たとえば、能面が近いかもしれない。

 

これはまさに私が普段感じていることです。能面にしろ文楽の人形にしろ、その時々に信じられないほどの表情を感じ取ります。表情を読み取るのではなく、表情をこちらが創っているのです。想像力のなせる技です。日本の多くの古典芸能は、観客を選びます。想像できない人は、どれだけ観ても楽しめないでしょう。私が3Gを駆使したようなハリウッドの大作映画を楽しめないのは、想像の余地があまりに小さいからなのかもしれません。

 

他にもたくさんの洞察に満ちた本ですが、著者である石黒教授のキャラクターもとても楽しめます。5年前に自分に似せて創ったアンドロイドに比べ太ってしまった自分自身をもとに戻すべく、ダイエットして三か月で10Kg体重を落としたり、オタクな研究者の思考パターンがよくわかります。ちょっと変わっているけれど、こういう人が世の中にないユニークな発見をするのでしょう。そういう意味でも面白い本でした。



どうすれば「人」を創れるか―アンドロイドになった私
石黒 浩
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他社がどんなことをやっているかは、とても気になるところでしょう。他社の施策や事例を集めることは至極当然ではありますが、そういう方のなかに活用法によってふたつのグループがあるように思います。

 

ひとつめのグループは、「横並び」グループ。他社ではこんなことをやっているのなら、わが社もそろそろ着手しなければかっこつかない、という思考を進め他社情報を集めて、えてしてそれらの平均的な施策、あるいはリーダー企業の施策をまねて導入を図ります。ここでの判断軸は、評価者(必ずしも上司ではない)に仕事をちゃんとしていると思われるかどうかです。評価者が何を望んでいるかは明確ではないことも多いので忖度することになります。したがって、「空気」を読むことが重要です。(乗り遅れるなという空気が多いかもしれません)

 

もうひとつのグループは、「概念化」グループです。多くの他社の情報を集めることは同じですが、単純に真似て導入することはしません。多くの他社事例から我社にとって有益な「概念」を抽出します。各社にはそれぞれ個別の事情があり、それに基づいて施策を決定しているはずですから、それをそのまま取り入れても自社でうまくいくはずがありません。しかし、多くの事例をみるうちに、すべてに共通する「何か」が見えてきます。(帰納法の思考ですね)その何かは、なんらかの我社に役立つ概念、あるいはルールです。それを引っ張りだすには、概念化のスキルが必須です。ものごとを抽象化する能力ともいえます。判断軸は、常に「何が今の我社に必要か」です。

 

こういった概念化スキルがあって、はじめて他社情報を集める意味があるのです。横並びグループで成功するのは、他社も自社も似たような文化、戦略、競争環境、社員の特性などの場合だけです。ほんの20年くらい前はそうだったのです。いい時代でした。

 

しかし、いうまでもなく時代は変わりました。そういった戦略などが同じだとしたら、そもそも複数の企業が併存する必然性がなくなったのです。市場から退場を迫られるか買収されるか、まじめにそんな時代なのです。

 

今のような不確実性が当たり前の世の中では、あらゆる情報を抽象化して捉えて、そこから意味のある概念を見つけ出し、それに対する適切な解をスピーディーの見つけ続ける、そんな思考法が多くの社員に備わっている企業が強いのだと思います。

知識(Knowledge)、知恵(Wisdom)、知能(Intelligence)これらは似て非なるものですが、なかなかそれらの関係性を整理した書物にあったことはありませんでした。今回、「知性誕生」(ジョン・ダンカン著)を読んで、少しすっきりしました。(タイトルは「知性」ですが「知能」のほうが適切です)

 

「あの人は頭がいい」というときの「頭がいい」に相当するのが知能です。記憶力がいいのでもなく、ずる賢いのでもなく、「知的」に優れていることです。そういう人は問題解決能力が高いといえます。IQで測れそうですが、実は測れないことが本書で示されます。

 

では、どういう人が問題を解決できるのでしょうか?ダンカンはこういいます。

 

行動を能動的に支配する。そして、問題を分解して、注意を必要とする部分に集中し、その部分を実現させることができる

 

問題はいくつかの固まり、すなわちステップに分解しなければ解決できません。その上で、それぞれの固まりに集中して考えるのです。ここまでは知能のはたらきです。

 

それぞれの固まりごとに、多くの解が考えられるでしょう。できるだけ多くの可能性ある解を思いつくことが必要です。そして、その中からもっとも適切な解を選択する。そこで役立つのが「知識」です。

 

知識とは、本質的に世界がどうなっていて、どのように機能しているかを表している。ある行動が構築されるとき、各段階の正しい行動を選択し、組み立てるためにこういった知識が用いられるに違いない。

 

問題解決の秘訣は、適切な知識を見つけること、つまり、問題をまさに適切な副問題に分割し、解決への適切な経路を進むことだ。

 

そして、有用な知識は抽象概念です。抽象概念とは、「多くの個々の事例すべてに当てはまるもの」です。問題解決のある部分でこれを使うのです。

 

問題を解くときに使える知識が増えることは好ましいことです。しかし、単なる事実や情報としての知識では使い物になりません。生きた知識でなければ。それは知能のはたらきの結果であり、「自分自身の思考の産物、つまり自分自身の世界との相互作用の産物」です。そういう構造化された知識を蓄積するには多くの「経験」が必要です。年輪と経験を重ねて蓄積された知識の集積が「知恵」なのです。

 

 

今までもやもやしていたことに、ひとつの観方をもらった快さを感じました。また他にもいろいろと刺さったことがありました。知的刺激とはこういうものなのでしょう。

知性誕生―石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源
ジョン・ダンカン John Duncan 田淵 健太
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今月の日経「私の履歴書」瀬戸雄三氏の話は面白いです。アサヒの再生事例は超有名なケースですが、内部から当事者の一人称で書かれた文章は、実はそれほど多くないのでは。

 

アサヒといえばスパードライの樋口さんが有名ですが、実はその前の村井社長の功績が大きいとの話はそこここで聞きましたが、読んでみてなるほどです。(明日21日から樋口さんは登場しそうです)

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さて、今日の内容はいかに負け癖のついた社員を変えていったのか。多くの示唆が得られます。

 

アサヒはなぜ約30年も回復のきっかけをつかめずにいたのか。営業も製造も怠けていたわけではない。社内の歯車が噛み合っていなかったのだ。

 

そうです。現場は皆必死でやっているのです。社員ひとりひとりは優秀で頑張っているのに、なぜか成果の出ない組織があります。それは明らかにマネジメントの問題、トップの責任です。

 

昨日の回で、また社長が銀行から来ることに抵抗を示す瀬古さんに村井さんがこう言ったとありました。「社長なんてどこから来たっていいんだよ。業績を上げて、社員を幸福にできるのであれば」と。自分の親分をトップに持ちたいばかりに、派閥闘争に明け暮れ顧客を忘れる組織がいかに多いことか。

 

そして村井社長は行動します。

 

村井社長は着任早々、こういう空気を察したようだ。「ミドルを強化する」と宣言し、読書会と称した飲み会で部門を超えた議論の場を設ける。経営理念・行動規範作りにも尽力し、CI導入にも着手した。

 

組織の壁を壊すためにコミュニケーションを強調する経営者は多いでしょう。それは正しく誰も否定しません。でも漠然としたスローガンだけでは何も動きません。村井さんは、ミドルにターゲットを絞り、部門を超えた議論の場を仕掛けたのです。単なる懇親会ではなく、議論の場です。その延長線上に理念・行動規範作り、CIといった部門横断プロジェクトを走らせたのでしょう。

 

 

さて、瀬戸さんは大阪支店長となり、村井さんの意思を大阪で実行する立場となります。

 

十数人のグループに分けて本音の対話をして問題意識を探る。支店のスローガンを「Quick action, Quick response」「Yes,NOを明確に」とする。業績不振が続いて現場の動きが鈍く、お得意先への返事もあいまいだった。

 

具体的指示は、「アサヒを扱ってくださっている飲食店は一軒たりとも取られるな」だ。専守防衛に徹するが、営業に活気がない原因は「営業に使えるお金がない」と。

 

村井さんと同様対話を重視し、そこから支店経営の方向性を定めます。専守防衛のため、とにかく「すぐに、はっきり」対応すこと。負け癖とは、誰かのせいにして諦め、甘え、あいまいで優柔不断な態度を促し、さらに顧客に見放せれていくバッドサイクルです。どこかでそのサイクルを断ち切らなければなりません。ただ、貧すれば鈍するは、この世の習い・・。

 

そこで翌年春、4-6月まで"営業経費青天井"を宣言した。最盛期に向けて地盤固めの一番大切な時期だからだ。

 

これは非常に大きな意思決定です。弱い組織にいくらでも金を使えとは、普通言えません。一か八かの大勝負だったのでしょう。結果は吉と出ます。萎縮していた社員は発奮しました。

 

結果、経費予算はほんの少し上回っただけ。今までの「お金がない」はい言い訳で、本当の営業活動がおろそかになっていたのだ。

 

さらに大阪支店社員の結束を強めたのは、本社への反抗でした。

 

本社への戦う姿勢を示す。中身が同じなのにデザインを変えた缶ビールを本社が企画したが大阪は販売を拒否。

 

正論ですが、なかなかできません。それをあえてやったことで、支社社員はこう思ったはずです。「瀬戸さんは本社を見ながら仕事をしているのではなく、我々社員やお客さんを見て仕事しているのだ」と。

 

そして再び本社に抵抗します。CI変更によって、アサヒのマークから旭日が消えることになりました。旭日は社員にとっても古くからの顧客にとっても「ハート」だ、変えてはならないとの反対意見が噴出。現場の意を汲んで、瀬戸さんは村井社長に直談判。しかし、聞き入れられませんでした。

 

これは、社長と支店長の時間軸の違いが如実に表れた事例だと思います。支社長はせいぜい2,3年先の業績を想定します。そのためにはこれまでの歴史を大切にしなければなりません。2,3年先は過去の歴史に大いに影響を受けるからです。瀬古支店長が、短期的に売れ行きが落ちることが目に見えている旭日はずしに抵抗するのは当然です。しかし社長のスコープは10年、20年先を見なければなりません。おのずと見える世界が異なるのです。村井さんは、旭日という過去を背負っていては、変革は不可能だと判断したのです。

 

新マークには旭日はなかった。だが、少し斜めから見ると旭日が浮き上がる。「透かし」だ。やられた。

 

ここに村井さんの経営者としての卓越さが表れていると思いました。「理」では旭日ははずす、しかし「情」では残したい。変革には「情」を完全否定してはなしえないのです。そのバランス感覚こそ、村井さんの真骨頂なのかもしれません。

 

明日以降も楽しみです。

企業研修にもいろいろありますが、実務で使える技術やスキルの習得を狙うプログラムが最も多いと考えられます。その企業固有のスキルであれば、上司によるOJTが最も効果的でしょうが、普遍スキル(どんな企業でも職種でも必要な共通スキル)の場合は、やはりOffJTつまり研修の出番となります。論理思考、プレゼンスキル、ロジカル・ライティング、ファシリテーションなど、たくさんありますね。

 

本での自己啓発よりは、集団でリアルの場で学んだほうが明らかに効果的です。本はわかった気にさせてくれますが、実は自分のモノになっていないのが普通です。その点、集合研修では分かっていないことに気づかせてくれます。その差は非常に大きい。

 

でも問題は、研修を受講した後です。例えば、ロジカル・ライティングの書き方を理解し、その難しさを体感したとしても、それを実務で使い続けなければ決して力にはりません。つまり、研修で何となく体験した普遍スキルやツールを、自らの業務に織り込みかつフィードバックをもらうことが必要なのです。

 

もちろん、上司が毎回添削でもしてくれれば、必ず上達し使えるようになりますが、上司が添削する時間はともかく、能力がない場合はどうするのか。ここに組織の中にスキルギャップがうまれている難しさがあります。業務で必要とされるスキルが、組織固有スキルから普遍スキルへシフトしている、また普遍スキルの中でも新しいスキルの重要性が高まる。そんな状況で、上司に指導させることには無理があります。育った時代が違うのですから。

 

 

解決策はふたつです。

ひとつは、上司も含めた組織ぐるみで研修を受け、その組織の業務プロセスにそのスキルのフィードバックメカニズムを組み込むことです。必ずしも上司が指導するのではなく、相互指導によって全体のレベルアップを図るのです。その場合、上司も部下に教えを仰ぐ謙虚さが必要ですが、もしそれができれば組織能力を継続的に向上できる素地ができるかもしれません。すなわち「学習する組織」化です。

 

もう一つは、あくまで個人のスキルアップに絞り、外部の専門家に定期的に業務での活用能力をチェックしてもらうフィードバックを仰ぐやりかたです。すべてのスキルでできるわけではありませんが、例えばロジカル・ライティングのようなスキルであれば、バーチャルでも十分フィードバック可能です。

 

ロングセラー「考える技術・書く技術」の訳者で、先月その入門編も執筆された山崎康志さんは、実際に研修受講者から実務で書いたレポートをメールで送ってもらい、フィードバックをされているそうです。入門 考える技術・書く技術
山崎 康司
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普遍スキルの能力向上について、いかに業務に織り込み継続的に学習できるようにするか、そういう視点がますます重要になってきます。

これからのビジネスは、製品といったモノを提供するのではなく、コト(出来事のコトに由来するのでしょうか)すなわち「経験」を提供すべきだとさかんにいわれます。有名なところでは、任天堂はWiiという新しいゲーム機を提供したのではなく、家族みんなでゲームを楽しむ、そういうコミュニケーション経験を提供したといわれています。また、ヤマト運輸は、単に小口荷物の個別宅配サービスを開発提供したのではなく、その後の進化も加え「新しい生活形態」まで提供しているといえそうです。

 

このように、顧客が評価するのはモノ(知識も含みます)やサービスではなく、自分の生活や経験が「変わる」ことです。

 

これは、顧客を受講者とすれば企業研修の世界にも当てはめることができます。知識というモノを提供するのではなく、これまでイメージしていなかった新たな「未来の経験」を提供すること。

 

別途記載した大手化学品メーカーの新入社員研修の例でいえば)漠然と仕事で英語を使うことになるかもという「未来の経験」のイメージを、英語を駆使して世界と渡り合っている自分の「未来の経験」のイメージに変えることです。

 

また、例えばマネジャー研修で期待されるのは、部下を管理するという新しいスキルを身につけさせることではなく、率いるチームを自分のやり方で活性化させ、業績面の成果とメンバーの成長を実現するという、できるだけ具体的な自分自身の「未来の経験」をイメージさせ、そこへ近づこうとするエネルギーを引き出すことです。それができれば、当然そのために新しいモノすなわち知識やスキルを望むようになります。最初からモノを提供するのではなく、コトの中にモノを織り込むのです、

 

ヒトは学び、成長することで「未来の経験」を大きく変えていくことができます。当たり前といえば当たり前のことですが、それがイメージできないと希望が持てなくなります。20年この会社で頑張っても、せいぜい●●課長(あるいは取締役)みたいになるのが関の山か、と思わせてしまえば希望は失われます。

 

もちろん希望は研修で生まれるものではなく、日々の仕事の中で生まれてくるものです。しかし、日常の中で希望が生まれにくい状況があるとすれば、せめて研修の場で希望の光を垣間見せることは、とても意味深いことではないでしょうか。少なくとも、社内でそういうことを真剣に考えている優秀なスタッフがいることを示すだけでも、「未来の経験」に影響を与えることができるに違いありません。

一月から始まった本講座、昨日で全6回が終了しました。5回目のセッションは3/10でした。最終回は翌週の予定でしたが震災のため延期し、約二カ月後の昨日になった次第です。

 

最終回は、受講者自身のリアルな課題を題材にして行いました。事前レポートとして、

1)自社の戦略に基づく経営課題

2)それを実現するための人材(組織)開発上の問題設定

3)(それがうまくいっていないとしたら)その原因の仮説

 

を3月に提出してもらっています。

 

当日の進め方は以下です。

 

全員のレポート中から議論が深まりそうな2名を選定しました。そして、それぞれまずレポート内容について語っていただきます。レポートは書いたとはいえ、なかなか皆の前で語るのは難しいものです。

 

次に、他の受講者から「問い」を発してもらいます。指摘やアドバイスではなく、「問い」です。その目的は、事前レポートで書いた上記3点について、あらためて考え直してもらうことです。一人で課題や原因を考えると、どうしても「思い込み」や「会社の常識」に囚われたものになってしまいます。そこで、会社のことも事業のことも知らない他受講者に、素朴な疑問を発してもらうのです。

 

それに発表者は答え、またそれへの問いが繰り返されるのですが、発表者の思考が目に見えて深まっていきます。真実がどんどんあぶり出されるイメージです。対話を繰り返しながら自組織の現在と未来を「物語る」ことで、癒されると同時に新しい思考と意思が芽生えるのです。(今回は「ナラティブ・アプローチ」を少し試してみました)

 

ある程度、問いが出尽くしたところで、あらためて発表者にHRD問題設定と原因仮説を言い直してもらいます。そうすると、事前レポートで書いたものと変わってきます。

 

こうして生まれた修正された問題設定と原因仮説に基づいて、全員で解決策を考えていきます。ここまできたら、他受講者もその組織についての雰囲気もだいぶ掴んできています。適切な問題設定と原因仮説があれば、ここは経験を積んでいる人材開発担当者ばかり、具体的なアイデアがどんどん生まれてきます。

 

ただし、これからが大変です。アイデアはたくさん出ても、どこからどう手をつけるべきかの方程式を解く必要があるからです。そのためには、その組織で起きていることを構造化してとらえ、相互作用やインパクトまで考慮し、優先順位づけせねばなりません。よくある失敗は、ある施策だけを「決め打ち」し、他に悪い影響を与えてしまうことです。ここまでくると、他受講者ではなかなか対応できません。しかし、その難しさを分かってもらえれば、講座としての目的は達成されます。

 

以上を、2社について行ったわけです。最後に発表者に感想を述べていただきましたが、自分の会社の組織を客観視することができ、二人とも有益なヒントをつかんだようです。自分のことや自組織のことを冷静に認識することは、情報がありすぎてかえって難しいものです。同じように人材開発に携わる、異業種の受講者同士での対話の場を設定することの意味を、あらためて認識しました。

 

 

私自身が、もっとも勉強になった全6回だったのかもしれません。積極的参加くださった受講者の皆さんと、日本CHO協会の須東さんに感謝いたします。

 

今回の震災で、これまでなかなか見えてこなかった現実が、突然見えてくることがいくつかあります。そのうちのひとつは日本の東北や北関東に位置する部品メーカーの重要性です。そこでの操業停止が、日本どころか世界中の生産をストップさせているものもあります。その代表はマイコンのルネサス・エレクトロニクスでしょう。

 

5/4の日経朝刊で、「欠かせぬルネサス、なぜ赤字 『下請け』体質、利幅薄く」という興味深い記事がありました。操業停止で大変な影響を及ぼすほど競争力の高い製品を作っているにもかかわらず、なぜ赤字続きなのか。インテルとどこが違うのか。それは、下請けに甘んじていて技術面・事業面でリーダーシップは発揮できないからと指摘しています。つまり、仕様や価格などは販売先である製造メーカー(自動車会社など)が決定するので、どんなに他社が製造できない部品であっても十分な利益を出せない構造なのです。必ずしも販売先と資本関係などなく、系列でもないルネサスですらこうなのです。よく下請けへの対応は、生かさず殺さずといいますが、まさに未だにそのようです。

 

かつて部品製造まで垂直統合する米自動車会社に対して、部品の大部分は系列の部品メーカーから調達する日本の自動車会社は、その柔軟性により優位に立っているとの議論がありました。日本では擬似家族を形成し、家長たる自動車会社が何があっても下請けを守る、その代わり中小部品メーカーは言うことを聞く、というシステムです。日本の文化に合った優れた仕組みだと思いますが、「公平性」の線引きは非常に難しい。一歩間違えると、搾取の構造です。

 

今回のルネサスのような状況を知ってしまうと、やはりフェアな取引になっていないのではと感じてしまいます。もちろん部品メーカーの側にも責任はあるでしょう。製品に関するリーダーシップを取れないのは事実ですから。(自発性を伸ばさないように、うまく下請けを管理しているともいえます)

 

 

この記事の二日前の日経夕刊「人間発見」岡野工業代表社員の岡野氏の言葉が印象的です。ちょっと長いですが引用します。

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職人の代表のように言われることもあるが、職人は腕さえよければ良いというものではない。(中略)おやじもそうだったが、典型的な職人はあまり人付き合いをしないで、腕を磨くことに生きがいを感じている人が多い。でも仕事というものは、人と人のつながりでできるもの。すごい技術を持っていても、相手が「この人と仲間になりたい。一緒に仕事をしたい」と思ってくれるようでないと、仕事はなかなかできません。

 

町工場が生き延びていくには、人が持たないような優れた技術を持つことはもちろんです。加えて斬新な発想や人の心をつかむ力、自分たちのものづくりをアピールしていく力も必要なのです。俺は「世渡り力」といっているが、(中略)世渡り上手の人間には多くの人が寄ってきて、情報も集まるものです。

 

 

日本には優れたものづくり企業がたくさんあります。しかし、多くは(ルネサスも)古い職人の集まりのような会社かもしれません。岡野氏がいうような新しい職人、世渡り上手な職人の集合体である企業が、これから求められていくように思います。日本も、そういった自律した数多くのものづくり企業をベースにした産業社会に切り替わっていくのではないでしょうか。

 

震災がその転換のきっかけになるような気がします。さらに岡野氏の言葉を続けます。

 

 

世間で注目された製品をつくっても、会社を大きくする考えはありませんでした。会社を大きくすれば、投資額が増えるし、苦労も増えるからです。

 

俺は同じものをつくり続けたくないし、いつももっとすごいものをと思っている。だから、先端的な製品を作っても、その多くは量産化のめどがつけば、機械ごと他社に売り渡すことにしている。そして、得た資金を次の開発につぎこむ。うちで手掛けるのは、特殊な技術が必要で付加価値の高いものだけと決めているのです。

 

 

下請けに甘んじるのは、規模が得やすいからということが一番ではないでしょうか。それと安定。規模を追求することで失うことが必ずあります。戦後からこれまでの日本経済は、規模追求を暗黙の前提としてきました。そのパラダイムも大きく変わるはずです。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
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長らく積ん読だった「日本語が亡びるとき -英語の世紀の中で」(水村美菜苗著)をやっと読みました。評判どおり、今の時代に必要な洞察に満ちた素晴らしい本でした。

 

今の時代は、楽天やファーストリテイリングの英語社内公用語化に代表されるように、「英語ができなければ(まとな)人でなし」と思われる時代です。かつて何度もそれはあったことでしょうが、ネットの普及と経済のグローバル化、そして日本経済の縮小が、今度こそと迫っているようです。

 

言語には三つの意味があると考えます。一つはコミュニケーションツールとしての役割、二つ目は思考ツールとしての役割、そして最後は文化の源としての役割です。

 

塩野七生は、「最近笑えた話」というエッセーの中で先の2社の例をあげ、日本人の思考によるアイデアが消え去る日が来るであろうことを指摘しています。極端な指摘だと思いますが、日本語の思考ツールと文化の源の役割に着目しているのだと思います。

 

水村の本著では、普遍言語としての英語は既に決定的地位を占めており、コミュニケーションツールとしての英語の役割はますます高まるとしています。だからこそ、思考や文化の源としての日本語を守れ!と強調しているのです。

 

そもそも学校の国語では、何を教えているのでしょうか?漢字の習得以外にほとんど記憶にありません。学校で教える国語とは、文字通り「読み書き」ではないでしょうか。それは大人になるために不可欠なことです。では、古文や漢文は?少なくとも私は、国語の授業を受けて、読み書き以外の価値を感じていなかったように思います(先生、すみません)。

 

それは、言語のコミュニケーションツールとしての意味しか見えていなかったからではないでしょうか。水村が指摘しているように、日本語は非常にユニークな言語です。しかも、江戸や明治の先人の苦労のおかげで、高いレベルの思考に適用できるまでに成熟しています。しかも、韓国やベトナムなどが放棄した漢字と、ひらがなやカタカナという独自の文字を使いわけることまでした。(戦後文部省は、漢字を廃止しひらがなやローマ字のみで表記させることを真剣に検討していたそうです!?)

 

水村は、「表記法を使い分けるのが意味の生産にかかわる」と言い、その例として萩原朔太郎の詩をあげています。

 

ふらんすに行きたしと思へども

ふらんすはあまりに遠し

せめては新しき背広をきて

きままなる旅にいでてみん。

 

「ふらんす」を「仏蘭西」と変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよとした頼りなげな詩情が消えてしまい、また「フランス」に変えると当たり前の心情を当たり前に訴えているだけになってしまうと言います。また、もしこの詩を口語体に変えるとJRの広告以下だと断定します。全く賛成です。これほど日本語は豊潤な言葉であり、ここに文化の源の意味が垣間見えてきます。しかしこのままでは、この使い分けの効果の違いを認識できない日本人が、これから増えてくるかもしれないのです。

 

 

私はコミュニケーションツールとしての英語の役割に加え、思考ツールとしての英語(例えば、英語で考えることにより確実に論理性は高まります)も、ことビジネスの世界では必須になりつつあると考えます。一方、グローバル化が進めば進むほど、思考ツールや文化の源としての日本語の重要性が高まってくるでしょう。(塩野はそれを指摘したかったのでしょう)そういう意味で、二重言語者にならなければならないのです。

 

最近の風潮はコミュニケーションツールとしての英語にだけ注目が浴びており、なにか割り切れなさを感じていました。もっと、日本語を大事にすること、それは絶滅危惧種だからではなく競争力の源泉なのだから、と認識したいものです。まずは夏目漱石を読むことからはじめよう。

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