2011年3月アーカイブ

今回の震災は、日本だけでなく世界中に「共感」という感覚を思い起こさせているような気がします。これまで、共感はそれほど重視されてこず、合理性が幅を利かせていたのではないでしょうか。代表的な言葉が、「自己責任」です。

 

日本で自己責任が謳われるようになったには、バブル崩壊以降でしょうか。小泉改革の頃かもしれません。政府の審議会委員を務めるある女性経営者が、「正社員になれず生活が安定しないのは、本人が必死で頑張らないからだ。自己責任だ」というような発言をして、話題になったことを覚えています。その方は、派遣会社を経営していましたが・・・。

 

こういう考え方は、資本主義体制を取るからにはやむを得ないと考えがちですが、必ずしもそうではありません。『国富論』を著したあのアダム・スミスは、『道徳感情論』をこういう文章で始めています。

 

人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに人間の本性の中には、何か他の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心を持ち、他人の幸福を -それを見る喜びの他には何も引き出さないにもかかわらず-自分にとって必要なものだと感じるのである。この種類に属するのは、哀れみまたは同情であり、それは、我々が他の人々の悲惨な様子を見たり、なまなましく心に描いたりしたときに感じる情動である。我々が、他の人々の悲しみを想像することによって自分も悲しくなることがしばしばあることは明白であり、証明するのに何も例をあげる必要はないであろう。

 

彼はこういう感情を「同感」と呼びました。人間は、他人の喜びや悲しみ、怒りなどの感情を自分の心の中に写しとり、想像力を使ってそれらと同じような感情を引き出そうとする力を持っているのです。(以下、同感を共感と同じとして扱います)

 

人間は利己的であり、かつ同感する能力を持っている。どちらかだけではないのです。ただ、時にそのバランスを崩すことで周囲に悪い影響を与えることがあります。(そこで、スミスは「胸中の公平な観察者」という概念提示します)

 

寅さんは同感が強すぎて、柴又には長く留まれず放浪を続けます。またドストエフスキー著『白痴』では、同感のかたまりのような善良で純真なムイシュキン公爵が周囲を結果的に不幸に陥れます。迷惑な利己主義者は、あえて例を挙げるまでもないでしょう。また、適度な利己主義が社会を進歩させることも事実です。結局、すべてはバランスであり、何かの出来事をきっかけに、振り子のように左右に触れるものでもあるようです。

 

2008年のリーマン・ショックと今回の震災は、世界を共感側に振らせる役割を果たすのかもしれません。そして、誰でも情報や映像を世界中に簡単に公開できる現在の技術環境は、振り子の触れを大きくする効果があります。

 

ところで、震災と連動して起きた福島原発事故は、世界中に恐怖心を一気に拡散させています。これは同感を引き起こす面もありますが、それ以上に事故に対応する日本政府や東電、場合によっては買いだめに走ったり公式見解に盲従する国民の反応を見て、日本という国を見限る、すなわち相対的な自国の優位性を確認するという利己的な感情を引き起こしかねないのではと心配です。

 

そうならないように、同感とは別に冷静に事態を観察し、合理的な問いを投げかけ独自に判断する冷静さが必要な局面が、少しずつ近づいているような気がします。

あの震災から18日が経ち、窓から眺める桜も開花を始めました。どんな災難を
引き起こそうとも、自然は淡々と季節を進めます。原発の不安はつきまとうもの
の、何となく平常モードに戻ろうかと思っていた矢先、知人から以下のブログを
紹介されました。


TVや新聞が伝える被災地の「公式」情報しか知らない、現実はあらゆる意味で
それらを超えているとことを思い知らされました。


わずかの募金協力と節電くらいしかできない無力さを痛感する日々ですが、
JKTSさんのブログを一人でも多くの方に読んでいただくことが何かの役に立つ
ような気がしてAdat.通信臨時号をお送りさせていただくことにしました。
(既に読まれた方はご容赦ください)


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【被災地へ医療スタッフとして行ってきたJKTSさんの手記】
被災地へ医療スタッフとして行ってきました。短い間でしたが貴重な体験と
なました。
http://blog.goo.ne.jp/flower-wing


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上記をAdat.通信(メルマガ)で配信しました。

あらためて、JKTSさんの手記がなぜこれほど心を打つのか考えてみました。

 

地震発生後、未曾有の映像(量も質も)に触れてきました。でも、そこには遺体も出てきませんし、なかなか体温を感じることができません。TVレポーターだか記者は、避難所を回っては「今一番欲しいものはなんですか?」と同じ質問を繰り返します。もちろん、不足物資をヒアリングすることは意味のあることではありますが、まるで物乞いに話を聞くような臭いをかいでしまいます。他にもっと伝えるべきことがあるのではないか?

 

私が一番心を打たれた被災者の言葉は地震翌日だったと思います。

40代くらいの眼鏡をかけたしっかりした印象の女性が、マイクにこう語りました。

 

「地震が起きた時は、自宅から離れた職場にいたから津波から逃れられた。でも、家には主人と二人の子供がいた。でも、家は流され、どこにいるのかわからない・・・。いやだよおー、一人ぼっちになっちゃう・・・・」

 

彼女は、最初は冷静に見えたのですが、「どこにいるのかわからない」と言ったあたりから震え始め、「いやだよお」と言うときは、嗚咽していました。自分が生きていても、家族が亡くなってしまえば、それは死んでいるのと同じことだと言っているように感じました。人は一人では存在しえず、つながりの中でしか存在できない。それが突然断ち切れてしまう、その無念さというか恐怖に心を動かされました。インタビュアーは、何も言葉を発せられませんでした。

 

 

TVなどの取材映像では、真実はなかなか伝わりません。なぜなら、伝える側が当事者ではなく、まさしく「メディア」であり彼らのフィルターを通さずには伝えられないからです。

 

しかし、JKTSさんは正しく当事者です。今回に大震災では被災者が携帯電話などで移した映像もたくさん公開されています。生ではありませんが、たくさんの当事者が記録し、しかもすぐに世界へ公開したという歴史上初めての災害かもしれません。もちろん既存メディアも大挙して現場へ入り報道を続けています。あらゆる情報が入り乱れ、何が本当なのか、何を受け止めればいいのか、受信する側の情報処理能力が問われているような気がします。また、それは合理的判断だけなく、感情面特に共感力、さらに想像力が重要になっているようにも思えます。

 

JKTSさんの手記は、立場や役割などを考慮することなく丸裸の感情が素直に綴られ、それが読み手の共感力に強烈に訴えるのだと思います。「伝えること」の意味を考えさせられる思いです。


311日に発生した東日本大震災の余波はまだまだ続いており、なかなか落ち着くことはできません。海外の報道では、被災者の冷静な対応への感嘆の一方で、福島第一原発事故関連では過剰とも思えるほどの警戒感をもって受け止められているようです。日本に駐在する外国人の帰国ラッシュも続いています。ある企業の人事の方は、本人の意思による帰国に人事としてどう対処すべきか困っていると述べておられました。

 

このような危機的状況の下では、その国民性が如実に表れてきます。こんな時私自身、日本人のDNAを感じます。話をシンプルにするために日本人と欧米人の比較で考えてみましょう。

 

欧米は国境を挟んでの戦争の長い歴史を持ちます。地続きの隣国がほとんどですから、彼らは他国の侵略から守るために大きな城壁で囲まれた都市国家を形成しました。さらに、戦争にならないように外交戦略を駆使したり、また仮に戦争が起こっても生き残れるようにさまざまな準備をしました。武器の開発生産はもとより、効果的な防衛組織や持って逃げられる貴金属による財産保全、あるいは親族を他国に住まわせ情報網を整備するなど、あらゆる事前対応を駆使します。一言でいえば事前準備や予防に徹底的に知恵を使うのです。そこでのキーワードは、予測と戦略思考です。そう考えれば、日本駐在する外国人が避難帰国するのは当然です。

 

一方、日本は戦国時代などの一時期を除いて戦争の歴史は長くはありません。それよりも、戦うべき相手は人間より自然でした。(だからこそ普段は自然との共存を目指すともいえます)日本は古代から地震などの天災被害を運命づけられています。天災からは誰も逃れることはできません。もちろん、堅牢な家を造るとか避難訓練を怠らないとかの準備はできます。しかし、今回の地震と津波のように、人間の予測など軽く超えてしまう天災が訪れるのです。そうなると、起きることは仕方ない。起きた後にどういち早く立ち直るかが肝心です。キーワードは、無常観と一致団結した復興です。無常観は、徒然草や方丈記を引き合いに出すまでもなく日本文化の底流に確実にあります。一致団結した復興も、敗戦後は言うに及ばす95年の阪神大震災後でも本領を発揮しました。明治維新も復興だと言えるかもしれませんし、関東大震災後も帝都復興の旗印のもと東京は新しく生まれ変わりました。こういった無常観と復興の活力が我々日本人のDNAに組み込まれているのではないでしょうか。

 

したがって、欧米人から見るとなんて日本人は冷静かつ復興のバイタリティーにあふれているんだ、となります。その反面で、東電や政府に見えるいい加減な予防策や計画性の欠如、場当たり的対応、システマチックで統合された行動の欠如、などの欠陥が目につくはずです。このような日本人の特性は鏡の裏表の関係だと思われ、どちらも好ましくすることは究極的には不可能なのかもしれません。

 

 

話は少し変わりますが、この特性は企業行動やガバナンスにも見られます。欧米企業は株価を最重視します。株価とは将来の予測に基づいている指標です。それが下がるということは、将来を暗くすることであり、それを事前に防ぐために経営者をすげ替えるという外からの圧力が加わります。また一般に戦略性の高さは日本の比ではありません。

 

翻って日本企業では、株価は経営者をすげ替えるほどの圧力にはなりません。代わりに重視するのは(会計上の)利益です。赤字が続くようですと、経営者へ(空気のような)圧力が加わります。ここで間違ってはいけないのは、利益とは過去の経営成績であり未来を予測した指標ではないことです。連続した赤字は天災のようなもので、心機一転新しい経営陣の下で一致団結して復興を図り、利益を増加させていこうという、暗黙の合意があるではないでしょうか。(米国企業は四半期決算とそれによる株価変動に右往左往する短期志向であり、一方日本企業は腰を据えて長期的投資を重視するとの見方もありますが、ここではそれには触れません)

 

欧米型の株価重視と日本型の利益重視、そのどちらがいいかはよくわかりませんが、ただ言えることは、それらは単なる経営者や投資家のスタンスの違いではなく、もっと人間深くに根ざしているということです。

 

 

今回の天災は被災者のみならず、日本人全員に対して大きなダメージを与えるものです。それは間違いありません。ただ、我々が得意とする復興によって新しい日本を創りだす好機であると考えることもできるのではないでしょうか。被災者や遺族の方々の現在のご苦労を考えれば不謹慎かもしれませんが、それが亡くなった方々へのはなむけではないでしょうか。3.11後は、そういう覚悟をもって生活していきたいと思います。

その日は朝から気持ちのいい快晴で、天気予報も一日じゅう晴れとのことだった。朝からオフィスで一人仕事していたが、13時半頃昼食を取っていないことに気づき、近所に最近できたセルフの讃岐うどん屋へいった。帰り道、さっきまであんなにいい天気だったのに、今はどんよりした雲が広がり暗くなってきたことに不自然さを感じた。夏の夕立前ならともかく、冬に突然大きな雲が発生し空を覆うことは珍しい。オフィスに戻り、早速天気予報サイトを確かめてみたが、やはり一日快晴を示していた。何か変だ。

 

1445頃、少し揺れを感じた。最近地震は珍しくもないので、あまり気にもせず仕事を続けた。しかし、何か違う。普段なら数秒で揺れはおさまるのに、その時は次第に横揺れが大きくなってきた。ぎしぎしとビルがしなるような音もしはじめた。とっさに、デスクの上の携帯電話を手にとり、クローゼットから上着(ジャケット)だけを持ち、外階段を駆け降りた。(11階中の)3階なのですぐに降りられたが、途中でキーキーと不気味に啼きながら飛び立つ鳥の群れが目に入った。

 

前の道路に出ると、すでに何人かの人々が恐ろしそうに、揺れるビルを見ながら口ぐちに何か声をあげていた。私は、100mほど先にある新宿御苑の大木戸口に向かった。地盤の緩い沼地にある泥の地面のように、足元の地面がゆさゆさと揺れた。わずかな距離だったが、目の前にある複数のビルがこちらに倒れてくるのではないかと不安で、とても長い時間のように感じた。途中にある大きなイタリアンレストランから、大勢のお客さんと店員が一斉に道に出てきて、入っているビルを見上げていた。不謹慎ながら(怪獣が襲ってくる)映画のシーンのようだと思った。この後、食事に戻れるのだろうか。

 

大木戸口の前には広いスペースがある。そこには、既に近隣のビルから避難してきた人々が2,30人はいたが、続々とその数は増えた。しばらくして揺れは収まってきたように感じた。その時点では、そこには100人近く集まっていた。1453、日本橋の会社にいるはずの妻に携帯で電話したがつながらなかった。電波は混雑しているのだろう。1459、携帯メールを送信した。

 

そろそろ、オフィスに戻ろうかと道路に向かい始めた時、再び大きな揺れが襲ってきた。(1515発生の茨木県沖を震源とするM7.4の地震と思われる)向こうに見えるいくつかのビルが大きく揺れている。そのまま倒れてくるのではないかと思ったほどだ。しばらくそこに留まることにした。

 

 その後、新宿御苑が解放されたので、周囲の群れとともに園中へ移動した。その頃にはまた快晴に戻っており、不自然に明るく大きな空と午後の温かい日差しで、ジャケットだけでも寒さは感じなかった。これだけ多くのビジネスマンで満たされた御苑は、当然のことだが初めてだった。職場単位で避難してきた人々も多く、中には点呼をしている集団もいたのが、なぜかほほ笑ましかった。しかし、その間も大きな余震はひっきりなしに続いた。

 

その頃だろうか、妻から「地震大丈夫?」とのメールが届いた。送信時間は1511だったが、届いた時間はたぶん16時は過ぎていただろう。でも、とにかく安心した。芝生に座っていた若い営業マン風の男性が、同僚とだろうか携帯で話している声が耳に入った。「3時のアポだったのだが、地震のせいで遅れて客先に着いた。でも、それどころじゃない、早く帰れ!といわれてしまった。さすがに、これからのアポはキャンセルしても問題ないよね」なんとも律義な営業マンである。

 

しばらくして、だいぶ揺れも収まってきたので、オフィスに戻ることにした。御苑からオフィスに向かう道で、知り合いらしき人を見かけたが、声はかけなかった。なんとなく、余裕がなかったのだろう。オフィスに戻ると、本棚から大量の本が落ちていた。また、本棚の上に置いていた置時計も床に落ち止まっていた。時間は。353を指していた。幸い、他には大した被害はなかった。

 

いつまた大きな揺れが襲ってくるかわからない。つけっぱなしだったエアコンを止め、PCを入れたバッグとコートを手に慌てて再びオフィスを離れ新宿御苑に向かった。なぜかその頃には再びどんよりした天気となっていたので、置いていた傘も持っていった。その頃には、大木戸口から出てくる人の大きな流れができており、流れに逆らって御苑の中に入った。その時、ぽつぽつとわずかに雨が落ちてきた。

 

園内放送では、地震の概要と都内の交通機関が全面ストップしていることを繰り返し告げていた。さらに、「大きな木や建物には近づかないように」と注意を促していた。子供の頃、地震が起きたら根のはった大きな木の下に逃げろと教わっていたことを思い出し、御苑には大木がたくさんあるが、どれも根は深く広く張っていないのだろうか、それとも時代によって避難方法は変わるものなのかと、変に考えてしまった。ノートPCをネット接続して、交通機関の運行状況を調べたりしたが、やはりどこも運休。これは、以前から警告されていた「帰宅難民」が発生するのか・・・。

 

日も暮れかかって、寒くなってきた。幸い先ほどの雨雲は消え、再び晴天になっていた。本当におかしな天気である。御苑の避難者はだいぶ減っていた。通常、御苑の閉園時間は16時半。すでに閉園時間はとうに過ぎていたが、さすがに締め出しはしない。でも、そのままいても仕方ないので、再度オフィスに戻ることにした。

 

大通りの様子を確認しようと、新宿通りに回ってみた。すでに、歩いて家路に急ぐビジネスパーソンらしき姿もちらほらとみえた。建物などに、特に異常はない。割れた窓ガラスなどもなさそうだった。

 

オフィスに戻ったものの、余震はひっきりなしにくる。外にすぐ避難できるよう玄関扉を少し開けておき、そのすぐそばにバッグを置いた。2,3回は実際に一階に駆け下り建物の外にでた。玄関に走ったのはその倍以上だったろう。この建物は昭和50年代築なので、大した耐震構造とは思えず不安だったのだ。とはいえ、公共交通機関はすべて動いていない。ただ、歩いて帰ろうとは考えなかった。それなら、一晩ぐらいオフィスに泊まろうと思ったのだ。ただ、こういう時に限って携帯のバッテリーが切れそうになる。これから何が起こるか分からないので、バッテリー切れはとても不安だった。

 

2036、実家の母から携帯に電話が入った。バッテリーが心配だったので、すぐに固定電話からかけ直す。やっと電話が通じたという。東京への電話が集中していたのだろう。無事であることを告げた。相変わらず、妻との連絡をタイムリーに取ることはできなかった。


すぐ外の狭い道路は、普段交通量は少ない。その地下を甲州街道がトンネルで走っているからだ。しかし、窓から見下ろすと大渋滞だ。消防車もいたが、ほとんど進まない。道路わきに地下トンネルに排気口が側溝のようにある。毎日暗くなると、どこからかホームレスのおじさんが現れ、排気口の上に器用にブルーシートで覆われた段ボールハウスを組み立ててねぐらにしている。きっと下から上がってくる排気は温かく床暖房のようなものなんだろう。そして、今日もいつものように組み立てて入った。そのすぐ横には、大渋滞の車の列。人々は何とか家にたどり着きたいと、大渋滞覚悟で車に乗る。そのすぐ横に、ホームレスの我が家。これも不思議な光景だ。その時ふと、段ボールハウスづくりの技術は、震災などの避難所できっと役に立つだろうとひらめいた。じっさいここ数日、TVで見る体育館などの避難所に、段ボールハウスっぽい間仕切りが急に目につくようになった。

 

ネットでニュースを何度も確認していたが、USTREAMNHKを同時中継していることを知り、ずっと観続けた。これは便利だ。でも、NHK受信料はどうなるんだろうかと、一瞬頭をよぎる。家々をなぎ倒して淡々と進軍する津波や気仙沼の街を覆い尽くす大火災の映像で、初めてことの重大性を認識したように思う。


昼からの天気の不自然な変化が気になり、ネットで調べてみると地震雲という現象を発見。地震前には電磁波が高まり、それが雲を生成させるという説があるそうだ。妙に納得。

 

21時過ぎに、食糧を調達しようと思い立ち、近くにコンビニに向かった。その頃は、徒歩で帰宅する人々で新宿通りはいっぱいだった。コンビニのトイレにも長い列が出来ていた。当然のように店にはほとんどすぐお腹を満たすような食品はなくなっていた。パンやおにぎりはともかく、カップ麺もなくなっていた。仕方ないので、ポテトチップス、柿の種、カップスープとビールを買った。さらに、エアコンが使えなくなり寒くなるといやだなと思い、サントリー角瓶(小)も買うことにした。これじゃあ、ちょっとした遠足気分だ。

 

引き続きUSTREAMNHKニュースを観ながら、ポテチでビール。適宜、交通情報を確認していたが、21時過ぎだろうか、JR東日本は早々に本日の全面運休を宣言。おいおい、ちょっと早いんじゃないと残念に思う。それ以外の鉄道会社はきっと少しでも早い運行のために必死で作業しているだろうに。企業の姿勢はこういう時に垣間見える。23時ごろ地下鉄丸ノ内線が運転とあった。すぐは混雑するだろうと思い少し待ち、24時ごろ新宿御苑駅に向かった。しかし、運行は始めたものの本数は少なく大変混雑しており、ここから乗り込むことは難しいと、駅員は言った。しばらくして電車は到着したものの、確かに大混雑。めげてオフィスに戻った。今晩はやはり泊まろうと決めた。

 

うとうととしていたところ、携帯のメールが鳴った。妻からで、「都営新宿線と京王線は各停のみだが動き出したらしい。もう少ししたら、富士見ヶ丘経由で帰ろうと思う。そっちの状況は?」発信時間は2302だったが、届いたのは2時前くらいだった。夜の母からの電話で、妻は会社近くのホテルだか宿舎?に泊まると聞いていたので、ちょっと意外だった。(母は、妻の実家からそう聞いたとのことだが定かでない)156に返信したが、反応はない。妻が帰宅したのなら自分も帰ろうと思いなおし、再び新宿御苑駅に向かった。途中歩きながら電話しようと思ったらついにバッテリーが切れた。

 

新宿御苑駅駅員の反応は前回と同様で、難しそう。諦めて新宿三丁目駅まで歩き、そこから妻と同じように都営線、京王線経由で帰ろうと考えた。駅の公衆電話から自宅に電話してみたところ、やはり妻は帰宅していた。この前に公衆電話を使ったのはいつだっただろうかと思った。

 

新宿三丁目の都営線駅で電車を30分くらい待ったものの、来ない。駅員に尋ねると後20分くらいは来ないとのこと。最初着いた時に尋ねたら、15分くらいで来ると言っていたのに。でも、腹も立たなかった。駅員はこんな先が読めない状況でも一所懸命に対応してくれていることが分かったからだろう。そのまま地下道でつながっている丸の内線の新宿三丁目駅に向かった。駅員に尋ねると、次の電車は今霞が関駅に到着しているとのこと。ならば15分後くらいには来るだろう。混雑状態を尋ねると、それほどでもないとのこと。なんだ、ならば新宿御苑駅から乗れば良かったと思ったが、やはりそれほど腹も立たず。予定通り電車は到着。やはりそれほど混んでいない。しかも隣の新宿駅で座れ、順調に荻窪駅到着。着いた頃にはお腹が空いていると感じ、駅前で牛丼を食べた。3時近いのに、なぜか女性客が多いのが意外。予想に反してタクシー待ちの列もなく、そこからすぐタクシーで帰宅。こうして、長い一日は終わった。

2011年311日は、1945年815日やアメリカにおける20019月11日と同じように、その前後で世の中が変わったと後世に伝えられる日になったと思います。危機的状況のもとでは、人間の本性が顕れてくることが実感としてわかりつつあるような気がします。

 

被災者の方々の姿を報道で目にするたびに、自制心、助け合いや心遣い、共感といった徳性や勇気が人間の本能なのだなあとしみじみ嬉しくなります。普段は「楽」に覆われて見えなくなっているだけなのですね。(我欲に溺れた日本人への天罰だとの石原都知事の発言はきっと、自らのことを語ったのでしょう)一方、都内のスーパーなどで、生鮮食料品の棚がガラガラとなり、人々が大きなレジ袋を抱えてそそくさと家に急ぐ姿を見ると、少し残念な思いがします。自宅近くのガソリンスタンドですら、朝から車が長い列を作り、昼過ぎには品切れなのでしょう、店じまいしています。どこからそんなに自動車があらわれてくるのか、不思議でなりません。(思いやりVS保身)

 

また政府の会見やTV報道での学者らの解説を注意深く観ていると、情報公開に関する不自然さや、まるで子供のサッカー試合のような、皆がわーっと同じポイントに集まってわいわいがやがや発言し、しばらくするとまた別の新しいポイントに一斉に移動して同じようにわいがやする、その全体感のなさに、がっかりすると同時に空恐ろしくなります。(寄らしむVS知らしむ)(ミクロVSマクロ)

 

昨日、プロ野の開幕についてパリーグは412日に延期、セリーグは予定通り今月25日開始と発表されました。選手会は延期を希望しているにも関わらず。ある選手は、この時期に試合で国民を励まそうというのは思い上がりだと、発言していました。セリーグ球団代表らは、野球選手は試合で国民に勇気を与えることが仕事だといいますが、被災者の心情だけでなく、停電におびえる関東、東北の人々に、3500世帯分以上の電力を使ってナイターを実施し与えられるという勇気とはいったいどれほどのものなのでしょうか。私は、選手会の意見のほうが遥かに常識的だと考えます。(励ますVS寄り添う)

 

このように危機では、難しいトレードオフの問題に直面せざるを得ません。福島第一原発では、現在も現場のスタッフが放射線被爆の恐怖と事態収拾の狭間でぎりぎりの判断と行動をしています。(安全VS効果)これまでは、「楽」のぬるま湯にみんなが浸かり、真剣にトレードオフに向き合ってこなかったのかもしれません。政治も企業経営も社会生活も。(年金問題はその代表でしょう。政治の役割とは、重要な国家的トレードオフに対して意思決定し、説得することです)しかし、今回起きつつある大災害で、これまでぬるま湯でいられたのはある特殊な時期だったからだとの事実に我々は気づくことでしょう。そして、それ、夢のように過ぎ去ってしまったと。

 

これは、「目覚め」のきっかけなのかもしれません。黒船が下田に現れたときや、太平洋戦争で敗北したときのように。そういう意味では、これから日本が大きな上昇サイクルに乗る可能性を秘めているといえるでしょう。ただ、それは一万人を超えるといわれる犠牲者の上に築かれることを決して忘れてはなりません。のど元過ぎれば・・・というのも日本人の特性ではありますが、しかし今回こそは我々のメンタルモデルを大胆に変えるラストチャンスだと覚悟すべきだと考えます。

昨晩、私が講師を務めるスマートHRD養成講座(第三期)の第5回目セッションがありました。今回はライブケースと称して、伊藤忠テクノソリューションズ株式会社(CTC)人事部人材開発課岡田俊樹課長にお越しいただき、人材育成施策に関して講演いただきました。その後、2つの課題を提示、グループディスカッション後、全体ディスカッションを行いました。CTCは、環境変化スピードが非常に速い中、積極的かつ計画的に人材開発施策を設計し実施してきた優れた企業です。しかし、作りこんできたがゆえに生まれてくる課題もあります。とても興味深い講演とその後の議論でした。

 

ところで、議論の中で研修の内製化比率がテーマにあがりました。受講各社の内製化比率を問うたところ、5%から95%まで思った以上にばらつきが大きく驚きました。業界や規模、成熟度、そして研修の量も様々なのでばらつくのは当然ですが、ここまで大きいとは意外でした。費用対効果を考えれば一定比率で外部リソースを使うことはいいが、できるだけ内製化比率を高めることが望ましいとの意見が多かったです。その理由としては、現場の社員が教えることで自らも成長できるし、現場のニーズを反映できるからという意見や、社内に埋もれている暗黙知化されたナレッジを形式知化して、伝播あるいは継承することは内部でしかできないとの意見などが上がりました。

 

しかし、名選手必ずしも名監督ならずで、ナレッジを伝達できるようにパッケージ化しコミュニケーションするというプロセスは、ハイパフォーマーとはいえ容易ではありません。彼らが保有する素晴らしいナレッジを、受講者が受けとめやすいように翻訳、編集する専門家が必要です。その役割を担うのが、HRD担当者なのです。そうして初めて、内製を進めることができるのです。

 

ただ、そういう自覚を持っているHRD担当者は、まだそれほど多くはないようです。環境変化スピードが速まれば速まるほど、その機能が重要になってきます。HRD担当者に求められる役割や能力は、これからもどんどん変化していくのでしょう。

先日今年のアカデミー賞を受賞した「英国王のスピーチ」を観ました。受賞するだけの傑作です。決して派手な映画ではありませんが、俳優陣の抑えた演技が、日本ではとても考えられない王室の内幕話に説得力を与えています。さすが演劇に伝統ある英国の映画だと感じました。

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吃音に悩む王の次男(のちに王)とそれを直す言語聴覚士との話ですが、私はヘップバーンの「ローマの休日」を思い出しました。両者の共通点は、身分の差を超えた関係の話ですが、最後はそれぞれの身分を自覚して終わるという点です。

 

聴覚士のライオネル・ローグは、治療の条件として対等の関係を望みます。そうでないと、適切な治療ができないと判断したのでしょう。王の次男という立場が、吃音の原因と関係あると考えたのです。もちろん後のジョージ6世は最初、この植民地たるオーストラリアから来た怪しい聴覚士の申し出を拒否します。妃も同様です。しかし、次第にうち解けライオネルを受け入れます。しかし、呼称にはこだわります。ライオネルも負けてはいません。決して、殿下などとは呼ばず、家族だけの呼び方(バディーだったか?)で通します。

片やドクター・ローグと、片やバディーかジョージと呼び合うのです。

 

そしてクライマックスたる会戦のスピーチが成功します。ライオネルはジョージ6世に祝福の言葉をかけます。そこで、王は彼をローグと呼び、ライオネルはyour majesty(陛下)と呼びます。つまり、身分上の適切な呼称となったのです。これは治療の完了を意味します。落ち着くべきところに落ち着いたとも言えるでしょう。また、妃殿下はそこでは、ローグを初めてライオネルと呼びした。親愛の情を表しています。その後、彼らの友情は終世続いたそうです。

 

ストーリーの大部分は、王族と平民が対等な関係を結ぶという特殊な状況で進み、最後のハッピーエンドでは正常な関係に戻る。しかし、そこには特殊な関係の時のほろ苦い想い出が少しだけ顔を出し、もうそこには戻れないという哀しみもちょっとだけ漂う、そんな構造が「ローマの休日」と似ているのです。

 

日本の古い物語に、貴種流離譚という型があります。それは、「高貴な生まれの、弱く、力ない人間が、遠い地をさすらう苦悩を経験するという物語の形式です。伊勢物語や山椒大夫が典型ですが、それとの類似性も感じます。

 

いずれも最後はもとのあるべきところに納まる、そこに人々は安心するのかもしれません。そこまでの揺らぎを楽しむのです。映画を観て、そんなことも考えてしまいました。

研修では育成は無理だ。結局現場で苦労させて修羅場体験をさせなければ、人は育たない。常に聞く言葉です。全く同感です。人が育つのは現場においてであり、研修はその後方支援にしかすぎません。

 

では、現場で苦労させればそれでいいのでしょうか。当たり前ですが、苦労の質によります。ビジネスパーソンで、現場で苦労していない人などいません。では、どんな苦労が人を成長させるのでしょうか。

 

今日から日経朝刊「私の履歴書」は、安藤忠雄さんです。とても楽しみです。今日の回でも、いろいろ面白いことが書かれていました。建築家とは

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一見かっこよさげに見えるかもしれないが、一に調整、二に調整だとありました。考えてみれば、施主と工務店などとの間に入る仕事です。夢を語る施主ほどおカネを持っていない、とも書かれています。自分の経験を思い出し、思わず納得。だからこそ、そこに価値が生まれるのです。もし、最初から調整も不要、費用と期待が合致していたら、大した価値も付けられず、やりがいもプライドも持てないでしょう。それ自体、他のどんな職業でもいえることです。

 

さて、学歴も経験も実績もコネもない安藤さんがここまで来られたのは、ただこいつは面白そうだということだけで仕事をさせてくれた、大阪の施主さんたちのおかげだと書かれています。看板がない状況で仕事をするということは、ものすごく大変なことです。最終的には頼るものは自分自身しかありません。そのためには、あらゆる努力が必要です。これこそが、人を成長させる「苦労」なのではないでしょうか。

 

私の周囲にも、大きな看板を持たずに独力で活躍している方は大勢います。一方で、大きな会社の看板を背にして、とても大きな仕事をしている人も大勢います。どちらも素晴らしいことです。後者の人は、看板を利用しているものの、看板に依存してはいません。しかし、大きな看板だけを頼ってぬくぬくしている人もいなくはありません。それで成長するのは無理というものでしょう。

 

本当に成長させようと思うなら、一度看板が効かない世界、あるいはこれまでの強みが活きない世界に放り出すことです。それがある程度計画的にできることが、日本の大企業の最大の強みだと考えます。

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