文化と芸術: 2019年6月アーカイブ

ベストセラー本の品揃えを競っているような図書館に、存在意義はあるのかと近頃思っていました。ベストセラー本を図書館で借りて読むことが普通になったら、誰も本など買わなくなる。その結果、本の存在そのものが危うくなってしまう。その片棒を担ぐのが公共図書館だと思っていました。

 

にも関わらず、この映画が予想外にヒットしていると聞き、少し不思議でした。その理由を知りたいとの気持ちもあり、観てきました。噂通りの大入り。

 

 

映画としても斬新でした。バックミュージックやナレーション、テロップは(分館名だけ日本語文字表示あり)一切なし。ドキュメンタリーではありますが、ここまでそぎ落とした映画は初めて観たのでは。そのため、観客には分かりづらさがあることは否めません。まるで自分が透明人間になって、いきなりどこか知らない会社で数日過ごした感じに近いかもしれません。戸惑いますよね。

 

図書館のイベントで有名なパネラーや講演者が多数出演しているのですが、誰なのか詳しい人にしかわからないでしょう。ドーキンス博士、エルビス・コステロ、パティ・スミス、辛うじて私が知っていたのはこの三人ですが、他にも超有名人が登壇しています。

 

あえて、登壇者をテロップ等で紹介しないところに、ワイズマン監督の意思を感じます。この図書館では、有名人も一般の利用者も、同じ利用者の一人として扱っていることを予感させる。一般の住民対象のワークショプもいくつか出てきますが、そこでの発言者も堂々として、先の有名人と遜色なく見えます。ここがアメリカの厚みでしょうし、監督の認識なのでしょう。

 

このように、一見するとわかりにくい作りではありますが、その分観客の想像力を掻きたててくれます。日本のTV番組のテロップや字幕の多さに辟易としている私には、すがすがしささえ感じさせてくれました。

 

さて、映画で観察された「ニューヨーク公共図書館」そのものについて。いろいろなことを考えさせられました。

・デジタル化社会における図書館の意義とは?

・税金と寄付で成り立つ「公共図書館」の役割、存在以後とは?

・貴重な資金の配分をどう考えるべきか?

 -紙の本か電子書籍か?

 -ベストセラーか研究書か?など

・住民に開かれた図書館を標榜する立場から、入ってくるホームレスにどう対応すべきか?

・どのように資金調達を進めるべきか?

 

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図書館幹部による、こういった正解のない問題を議論する会議の場面が何度も描かれます。その真摯な議論をする様子を観察するだけでも興味深い。日本の組織の会議では、どうしても落としどころを意識した予定調和が根底に流れますが、それとはだいぶ異なります。

 

図書館というと本に代表される知識を収蔵し、利用者がそれを探し持ち帰る場所というイメージが強いと思います。このニューヨーク公共図書館は、それだけに留まりません。知識はネットでいくらでも家にいても獲得できる。この図書館では、ネット環境を持てない住民のため、ネット接続機器の貸し出しまでしています。ここは、知識を提供する場ではなく、人間同士が物理的に関わることで知識を交換し、さらには創造を促す場になっています。最初に述べたパネルディスカッションはその代表例ですが、他にもたくさんのセッションや講座が描かれています。

 

なぜここまでの役割を、公共図書館が果たしているのでしょうか?民主主義を支える装置として、図書館は存在するのだという基本思想を感じます。日本では、未だに知識は上から与えられるものという思い込みに縛られています。子どもの時は親や先生から、社会人になると会社の上司や、政治家など「エライ人」から。憲法とは国家を縛るのではなく、国民を縛るためにあるのだと勘違いする人が、いまだに多くいるのは当然かもしれません。

 

この映画を観る限りアメリカでは全然違いそうです。市民が自らの力で知識を獲得し、それらが切磋琢磨して「公」をつくりあげる。そういったボトムアップの志向が、当然のように市民にいきわたっている。その基盤として、図書館が存在する。

 

10分の休憩をはさんで約3時間半の長い映画で、しかも不親切なつくり。そんな映画が大入りになるのですから、日本もまだ捨てたもんじゃないのかもしれません。

映画「嵐電」を観て

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アート作品は、作家の意図はある意味どうでもよく、観る人がどう感じ思うかが全てといってもいいでしょう。

 

この「嵐電」も、観る人に様々な想像をさせる余地を残しており、観る人によって解釈は様々に違いありません。

 

そもそも「嵐電」という電車はどのような存在なのか。普段決まったダイアに従って走っていながら、どの電車に乗るかで、その後の行き先、つまり人生は無限に枝分かれする。その無限の選択肢の中で、人は偶然にある一つを選んでいる、あるいは選ばれているにしか過ぎない。そういうことの象徴が「嵐電」であるように感じました。狐の乗務員は言います。「この電車に乗ればどこにだって行けますよ」、と。

 

40代、20代、10代の3組のカップルの話が同時進行していきます。40代の鉄道関係のライターである井浦新は、一人で嵐電線路脇のアパートに住み始めます。鎌倉に残してきた妻からときどき携帯に電話は入ります。しかし、その電話は本当にかかってきたものなのかも疑わしい。井浦の想像ではないかと私には思えました。彼は、もう現世にはいない妻を、思い出のある嵐電の周辺に探しに来ているように見えるのです。彼は、妻に対して何らかの後悔をしている。鉄道ライターの仕事ゆえ、家に全然帰らなかったことなのかもしれないし、他の理由かもしれない。

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嵐電には都市伝説があり、「夕子さん」にラッピングされた電車をカップルでみると結ばれるというものと、狐と狸の乗務員の乗った電車に乗ると、カップルは別れるというもの。井浦はかつて妻と京都を訪れた時に、どうやら狐と狸が乗務員の嵐電に乗ったようです。そこから人生が何かずれていってしまったと、井浦は感じているのかもしれません。その電車がどんな行いを意味しているのか、全くわかりません。人は誰でもそういう自分なりの分岐点を持っているものなのでしょう。あの時、あの電車に乗ってしまったと。それが、観る者をざわつかせるのです。

 

最後の方に、嵐電線路沿いの家で、妻と仲良く暮らす井浦が描かれます。こういう「幸せ」な人生も有りえたのだという井浦の想像なのだと思います。諦念なのかもしれません。

 

20代のカップルも、及び腰の恋が成就しかけたところで狐と狸の嵐電に乗ってしまった。その結果、男は去り、女は打ちひしがれる。やはり、その乗った嵐電が何を意味するのかはわかりません。最後に、このカップルを映画撮影するシーンがでてきます。一度目のテイクは、現実に二人の間に起きたことの再現。その後、監督はもう一度同じシーンを撮ると告げます。しかし、テイク2はさっきのことは忘れて、別の気持ちで演技して、と指示。二人はそれに挑みます。先ほど書いた井浦の有りえたかもしれない想像と違って、このカップルはテイク2が可能だということの暗喩なのではないかと感じました。

 

10代のカップルは、不細工で不器用で猪突猛進。なんとも、微笑ましい。

 

三つの世代のカップルの成長過程、成熟過程を表現していると言えなくもない。でも、それより、乗る電車によって人はどうにでもなるという、他力思想を表現した映画なのだというように、私には感じられました。

 

でも、きっと、そう思う人はそう多くないだろうな、とも思います。それが芸術というものなんでしょう。とにかく、不思議で魅力的な映画です。

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