2009年7月アーカイブ

毎日楽しみにしている日経朝刊「私の履歴書」。今月は加山雄三さん執筆でしたが、本日で最終日となりました。そこに、

 

「多くの人々と共有した夢の世界が『若大将』で、僕の音楽はそこに誘う呪文のようなものかもしれない。」

 

という文章がありました。

 

映画は、ビジュアルで独自の世界を構築できます。そして、それを多くの人々と共有し、一種の共通体験を味わうことができます。普段は、その世界を忘れていても、付随する音楽に触れれば、いつでも夢の世界へ戻っていける。素晴らしいですね。

 

私で言えば「寅さん」がそうです。あの柴又の世界へ、山本直純作曲のテーマ曲を聴けば、すぐに飛んでいけます。

 

 

呪文は、音楽に限りません。デユフィの絵を見れば、温かく賑やかな南仏の街に飛んでいけますし、芭蕉の俳句を読めば自然と一体なった、江戸時代の村に飛んでいけそうな気がします。

 

共有できる夢のビジョンと、そこへ誘う(広い意味での)芸術。この最強タッグが、人間としての喜びの源泉の一つなのかもしれません。ただ、使い方を誤ると、第三帝国の夢とヒトラーの演説との関係のようになるリスクもありますが。

 

 

翻って、ビジネスの世界でも、ビジョンの重要性は近年さらに強調されていますが、どれだけ本当に共有できる夢があるのか、はなはだ心もとないところではあります。

 

ホンダの基本理念は、「買う喜び、売る喜び、創る喜び」です。ビジョンhonda.jpgとは違いますが、社員に共有されている一種の夢には違いないでしょう。そして、そこへ誘う呪文は、本田宗一郎さんの笑顔ではないでしょうか。少なくも私は、本田さんの笑顔の写真を見ると、「三つの喜び」を連想します。ホンダはつくづく幸せな会社ですね。

 

 

イメージの世界であっても共通体験できるビジョンと、そこへ誘う呪文。この強力タッグを見つけたいものです。

 

「日本人はチームワークが得意」

 

多くの日本人の中で信じられている、日本人の強みのひとつではないでしょうか。

 

ところが外国に行くと、どうもそうではないそうです。「日本人はチームワークが苦手」だと認識されているようなのです。

 

そもそもチームワークとは、

        異質な個人の集まりを

        リーダーによって、ひとつのチームに作りあげられ(チームビルディング)

        チームとして、目的に向かってワークする

ことです。

 

しかし、日本人の間ではちょっと違います。

        メンバーが指名されれば、基本的に同質なので、そのままチームとなる

        チームで働くことは当たり前なので、目的や求心力が弱くてもすむ

        従って、リーダーの存在も重要ではない

        なんとなく、カバーしあいながら目的に向かって進む

 

我々日本人にとっては、メンバーが何らかの理由で集まれば、そのままチームになり活動できるので、その意味ではチームワークは得意といえるかもしれません。

 

ところが、海外など異質な集団の中でチームワークするとなったら、からきしダメでしょう。容易に想像できます。つまり、チームワークが苦手なのです。

 

そして、このようなチームワーク下手の問題は、日本人同士の間でも、発生しつつあるように思います。

 

「もう会社が一生面倒みるわけではない。自分自身のキャリアは自分で考えろ」といったような、「会社」としての一体感を低減するようなメッセージを発し始めた日本企業において、同質化は薄れ、異質化に向かっていることは、否定しようのない事実だからです。

 

 

チームワークに限らず、自分自身のことを知ることは、そう簡単ではありません。知るためには、いったん自分を棚にあげ、他者(他国)の視点から見つめ直すことが必要です。

 

 

海外の現場で、長年にわたりグローバル人事コンサルティングに携わってきた篠塚正芳さんの近著「世界で成功するビジネスセンス」(日本経済新聞出版社刊)は、そのようなヒントに溢れています。

  

 

世界で成功するビジネスセンス
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十数年前、社会人向け教育にたずさわるようになって、盛んに耳にするにもかかわらず、いまいち理解できなかった言葉が「気づき」でした。

 

気づきは、英語に訳すと何なんだろうと、ずっと疑問でした。Noticeではないでしょう。先日、ある方からDiscoveryではないかと教えていただきました。

 

「発見」のニュアンス、なるほどと思いました。この場合、発見する先は外ではなく内面です。内面に本来あった何かを、あるきっかけで自ら発見するわけです。大事なのは、他者から指摘されて気づく(notice)ことではなく、あくまで自分自身で発見することです。

 

子供に対して、気づきという言葉があまり使われないのは、子供はまだ内面に発見すべき何かを、あまり持っていないからかもしれません。

 

一方、経験を積んだ社会人は、内面に多くの知識や経験の引き出しを持っています。何かのきっかで、そのうちのいくつかと外部からもたらされた新たな知識がくっついて、「なるほど!」となるのでしょう。

 

 

「なるほど」も面白い言葉です。将棋で、歩が金に「成る」といいますが、昔から持っていたそれほど役に立たない知識が、外部刺激や新たな知識との結合によって、「歩」から「金」になるプロセスが「成程」なのかもしれません。

 

そう考えると、適切な「気づき」をたくさん得るには、

        できるだけ経験に基づく多くの知識を保有する(記憶していなくても)

        できるだけ多くの外部刺激に接する

        先入観にこだわらず、一見関係なさそうに見えるものともの(こととこと)に、関連性を見つけたがる

 

といったことが必要そうです。

 

つまり、思いこみを廃し、柔らかい感性で、好奇心を持ち続けるということでしょうか。

 

 

ビジネスパーソンを対象とする企業研修で目指すのは、気づきの機会を提供することです。知識の提供ではありません。受講者の「気づきのメカニズム」を起動させることが、良い研修と言えそうです。

 

ただ、気づきは、研修の場で得られることはまれで、何か変な「ひっかかり」のようなものを持ち帰ることが一般的かもしれません。

 

それが発言としては、「なんか考えさせられた・・・。」と表現されます。「ひっかかり」が「気づき」となり、「成程」になるのは、やはり現場においてでしょう。

 

それを前提に、研修の企画は考えられるべきだと思います。

最近、「集合知」という言葉をよく耳にします。多くの人々の持っている「知」を集合して、価値をうみだしていくことを表しているのだと思います。2005年頃のWeb2.0ブームあたりから、とみに露出が増えたようです。SNSなど人をつなぐシステムの普及が拍車をかけました。

 

ヒトをつなげば「知」がうまれると、ナイーブに考えるのは無理があるでしょう。

 

 

「賢い人」は、情報や知識、経験が豊富なことは間違いありませんが、それは必要条件にしかすぎません。「物識り」は世の中にたくさんいますが、その多くは、単なる物識りにとどまっています。

 

賢い人は、保有している豊富な情報群のなかから、適切なものをいくつか瞬時に引っ張りだし、それらを組み合わせてアウトプットします。組み合わせパターンや、アウトプットの表現も、その「場」に合わせることが巧みです。

 

これは、一人の脳の中で起きている作用で、それを複数の脳で行うことが「集合知」なのだと思います。その実現のためには、適切な「場」とともに、一人一人がそれに対応できる「フォーマット」を身につける必要があります。

 

 

異業種勉強会やパーティーなどに参加することは、集合知実現のきっかけになりえるでしょう。しかし、そこでうまく立ち回れる人とそうでない人がいますが、その差は何なんでしょうか。社交性といった、単純なことではなさそうです。

 

システム開発の世界に、「Self-describing Digital Object」という考え方があるそうです。

 

        Self-describing:この人は「ナニモノ」か、が一目瞭然。他者が関心を抱く何か、を持っていることが伝わりやすい。かつては、所属企業名の入った名刺が、そのためのツールだったが、現在ならブログや著作か?

        Digital:他者とのインターフェースを持っている。コミュニケーションスキルや合理的思考、マナー、礼儀、場の空気を読むこと、豊富な話題など、ひとことで言えば共通言語、共通思考ツールを持っている。また、多少使用言語が異なっても、それを的確に変換(翻訳)できる

        Object:アウトプット志向で、常にいくつかの目的をもって人々と接する

 

こういう基本フォーマットを備えた多様な個が、適切な「場」に集合すると、集合知が生まれやすいのだと考えます。

 

 

言うは易しで、なかなかそうはできませんが。

「水を与えるより、井戸の掘り方を教える」という言葉があります。

一般にコンサルタントは、ある特定分野における水を授けることを生業とします。いわば情報格差の価値です。

 

でも、永遠に水をもらい続けなければなりません。だから、与えるほうのうまみは絶大です。

 

私がかつていた戦略コンサルの世界も同じです。情報と加工ノウハウで、アウトプット(コンテンツ)を創り授けるのです。決して、情報収集と加工のノウハウは伝授しません。

 

コンテンツを重視する時代は、それで十分でした。多少、高いお金を払ってもコンテンツそのものに価値があったのです。

 

 

時代は変わり、今はコンテンツそのものより、コンテンツを創りだす能力が競争力の源泉になりつつあります。コンテンツは、陳腐化しますが、能力はうまく使えば陳腐化どころか向上します。つまり、井戸の掘り方の価値に気付いたのです。

 

私も約15年前、戦略コンサルタントから、社員が戦略を策定する能力を高めることを支援する役割に変えました。その後世間でも、戦略策定(思考)ノウハウをコンサルタント自身が伝授する書籍が、たくさん書かれ、読まれるようになりました。ネタばらしと言えなくもありません。

 

 

先ほどお会いしたグローバル人事のコンサルタントに伺ったのですが、人事制度構築も同じ世界に突入しつつあるようです。人事制度はまさに目に見えるコンテンツです。それを構築する能力を高め、社員自らが構築することを支援するようなサービスが現れているそうです。コンサルタントに構築してもらうより、はるかに安価ですし、かつ社員に構築能力を移転できます。

 

企業のコアスキルに付随する付加価値の高い外部サービスの多くは、このように内製化に向かうはずです。(一方で、非コアスキルのアウトソースはさらに進むでしょう。)

 

 

ある井戸の掘り方自体は、専門スキルかもしれませんが、掘り方を学ぶ能力は汎用スキルです。つまり、汎用スキルとしての学習能力の重要性が飛躍的に高まっているわけです。

 

逆に言えば、「学習を促進させるスキルや仕掛けを組織に埋め込むこと」が裏側の競争力の源泉なのです。私は、それをラーニング・エンジニアリングと呼んでいます。

 

組織のコアスキルは事業環境によって変化します。何が現在の組織のコアスキルであり、それをどう学習し高めるか、そこに着目することが必要なのではないでしょうか。

 

先日、「リーダーシップなんてない。ただリーダーがいるだけ」</a>と書きました。

 

では、リーダーの要件とは何なのか?ずっと考えていましたが、昨日一つのヒントをもらいました。アカデミーヒルズでの、アダットシリーズ 藤井清孝氏が直伝する『グローバル・マインド』実践講座シリーズ」での藤井さんの言葉です。

 

「りーダーとはリスペクトされなければならない」

 

人心掌握することで組織をまとめあげ、ある方向にリードするのがリーダーです。では、どうすれば人心掌握できるのか。

 

フォロワーは、リスペクトできない人にはついていきません。では、どういう人がリスペクトされるのか。

 

リスペクトの要因は、組織によって全く異なります。例えば、外資系証券会社の営業チームであれば、とにかく最も稼がなければリスペクトされません。ところが、日本企業の営業チームでは、最も稼ぐ人がリスペクトされるとは限りません。自分より他のメンバーが稼ぐことを支援することに長けた人が、リスペクトされるかもしれません。

 

かつての日本企業では、社歴が長い人がリスペクトされていたのかもしれません。

すなわちトップは長老。

 

このように、リスペクトの要因は、組織によって異なるのです。従って、リーダーが組織を創るのではなく、組織がリーダーを創るといってもいいかもしれません。

 

どのような人をリスペクトするのか?それを聞いてみれば、その会社のあるべきリーダー像も組織文化も見えてきます。

 

こういった議論なしに、「これからのりーダシップとは●●である」といった、不毛な議論は止めにしましょう。

 

多くの企業には、決して触れてはいけない聖域があるのではないでしょうか。

 

例えば、オーナー企業であれば、世間を知らない新参者が尋ねても、「それは言っても無駄だよ。うちは●●さんの会社なんだから」でお仕舞い。二度とその話題はでなない。

 

あるいは、ある領域に立ち入ったら感情的な反撃がなされたことがあり、それ以来誰も、その話題には触れなくなってしまう。

 

こういう会社に限って、社外に対しては「うちの会社はオープンなんだ」なんて言ったりすることもあります。

 

ひとつの組織の中に長くいると、自組織を相対化することができなくなってしまいます。そして聖域が空気のような存在になって、違和感を覚えなくなってしまうのです。

 

企業変革をしなければならない、と叫ぶ企業はたくさんあります。でも、本気でそれを実行するところは、それほど多くはありません。本気かどうかのバロメーターは、経営陣や社員が、聖域に立ち向かうかどうかではないでしょうか。

 

 

あなたの会社の聖域とは、何ですか?

それまで優良だった企業が没落するのは、どのような理由によるのでしょうか。

 

 

今年初めに倒産した、歴史ある大会社の元COOから直接聞いた話です。

 

仮にT社としておきましょう。T社は、三代続けての社員もいる技術に優れた伝統あるシステム関連企業でした。家族的でおっとりした社風だったといいます。

 

2000年頃、ITバブルで株価が高騰したころ変化が起こります。技術面でも支援していた親会社が、T社の株を高値で売ることにしました。そろそろ独り立ちしなさい、というわけです。

 

経営者は、一般の株主を意識せざるを得なくなり、成長に舵を切りました。そして、次々とベンチャー系企業の買収を進めました。

 

しかし、おっとりしたT社と買収した企業の融合は難しく、被買収企業の経営陣は次々と会社を離れてしまいました。そして、結局それらの会社も安く手放すことになってしまいます。

 

ただ、経営陣にひとつの遺産を置いていきました。それは、もっと貪欲に成長し続けなければいけないという意識です。確かに、周囲の競合企業を見れば、以前と違って生産はアウトソーサーに委託したりなど、最新の経営システムを導入しています。それにならって、T社も当時グローバルスタンダードと言われた様々な経営手法を、次々と導入していったのです。

 

借り物の経営手法が、古い企業体質を残すT社で、活かされるはずもなく、社内は混乱します。その結果、打つ手打つ手が次々に裏目に出て、とうとう今年初めに倒産となってしまったのです。

 

 

今、元COOは、振りかえります。今でも、技術ではどんな会社にも負けない。なんで、こんなことになってしまったのかと。

麻生総理は昨日、与党内の総選挙時期をできるだけ先延ばししたい勢力と折り合いをつけて、総選挙を8/20に実施することを決定した、と新聞にあります。

麻生首相.jpg 

ここでの「折り合いをつける」の意味は、妥協するというほどの意味でしょう。

 

私は、近頃「折り合い」をつけるという言葉が気になっていましたので、その記事を読んだ瞬間、そんな使い方はよしてほしいと思ったのです。

 

 

大切な人を亡くしたとき、あるいは大切な何かを失くしたとき、人は茫然とし混乱し、平衡を保てなくなります。二度と太陽は登らないと思うかもしれません。

 

ましてや、自分をそんな状況に追い込んだ者が存在する場合、その「犯人」を憎まざるをえません。しかし、憎悪の先にあるものは憎悪でしかなく、平安ではありません。それが頭ではわかっていても、そうしてしまう。

 

そういった状況で、その犯人を「許す」ことは、簡単なことではありません。でも、許すことは、相手のためでなく、自分のためです。実は、なんとか許したいのです。

 

責める対象、言いかえれば許す対象がいる場合は、まだいいかもしれません。それがない場合の悲しみや落胆は、どう整理すればいいのか。でも、人間は強い。なんとかします。

 

このような自己の内面のはたらきが、「折り合いをつける」ということではないでしょうか。決して、「諦め」とは違います。より前向きで成熟した心の働きだと思います。

 

 

時間はそれに大きな役割を果たすことは間違いありませんが、それだけではありません。

 

 

以前、何かの本で読んだことがあります。

 

ある若者が問います。「大人になるってどういうことだろう?」

大人が答えます。「大人になるってことは、いろいろなことに折り合いをつけられるようになることだ」

 

大人になることは、簡単ではありません。

昨日たまたま聞いていたFM番組で、松尾貴史さんがこう言っていました。

 

「よく、『頑張ってね』と言われるが、もっと頑張んなきゃいけないのか、と思って疲れてしまう。」

 

この率直な言葉に、私はひっかかりました。もちろん、言う方は単に励ますだけの意味で言っていることくらい誰でもわかります。でも、ひっかかるのです。

 

「頑張れ」の言葉の背景には、「今より一歩でも上を目指せ。そうすれば、きっといいことが待っているよ」という楽観論があるように思えます。頑張れば、今日より明日は必ず良くなる。

 

こういう、ある意味、競争に基づく成長を促進するようなパラダイムに、松尾さんを初め多くの方が疑問を持ち始めているのではないでしょうか。

 

 

派遣切りやフリーター問題は、他人ごとがと思っている人も多いかもしれませんが、今朝の日経朝刊の記事にあった、日経平均株価への投資の記事を読むと、そうも言っていられないという気になります。

 

ドルコスト平均法(定期的に一定金額を投資する手法)で、日経平均指数を大学卒業後買い続けたとして、今どれだけ儲かっているかを、年齢ごとに計算したものです。それによると、現在60歳の人でやっとわずかなプラス。それより若い人は全員含み損を抱えています。最悪なのは、45歳。たしか37%くらいのマイナスでした。

 

これが意味するのは、こと株式市場に限定すれば、今日より明日が必ず幸せという神話が崩壊しているという事実です。

 

頑張っても、良くはならない。そう思っている人が、年金や社会保険に粛々とお金を支払続けるでしょうか。安心がなければ、どれだけ金融資産をたくさん持っていたとしても、決して豊かとは感じないでしょう。そこに政府の役割があるはずです。

 

頑張らなくても、安心して豊かさを感じられる国、日本がそうなるといいですね。

これは最近自分の中で気にいっている言葉です。

 

研修の初めに、講師は受講者の自己紹介してもらうことが多いです。自己紹介の言葉の最後に、「今日は多くのことを持ち帰りたいと思います」と締めくくる方がとても多い。この場合の「こと」とは、知識であり情報のことを指しています。

 

意識的なのか無意識なのか、役立つ情報を獲得することを目的しているようです。でも、情報獲得が目的であれば本やウェブを熟読したほうが、はるかに効率的です。

 

せっかく、わざわざ多くの時間をさき、交通費もかけて会場まで足を運んでいるのですから、本では得られないものを目的とすべきでしょう。それは何でしょうか?

 

一つは、エネルギーだと思います。講師や他の受講者たちからもらう、また場そのものからもらうエネルギーです。

 

二つ目は、思考を促す刺激です。講師含め他の方からダイレクトに、「それはどういうこと?」と質問されれば、思考せざるをえません。また、他者の発言を聞くだけでも、「本当にそうか?」と思考が刺激されます。

 

良い本は、文字によって思考を刺激しますが、それには著者の非常に高い力量が求められます。「場」を共有していれば、比較的容易に思考を刺激されます。

 

三つ目は、他者とのネットワーク構築です。同じ目的意識を持ち、時間と空間を共有し、真剣に対話した他者とは、強い絆を結びやすくなります。

 

 

大切なのは、「情報の量より思考の量」です。思考の量を増やせば、場のエネルギーは高まります。また、思考を繰り返し、それをぶつけあうことが絆を強くします。

 

思考の量を増やす方向で、いろいろな場面を見つめ直してみましょう。

 

何度経験しても講演や講師を務める前は緊張します。直前の緊張感は、あまり気持ちの良いものではありません。

 

何度も話したり講師をした内容であっても、です。当たり前ですが、相手(聴衆や受講者)は毎回変わります。また、私自身も毎回、体調や考えなども変わります。まさに、毎回一度切りの真剣勝負です。

 

 

そういえば、高校生の時、ある地理のベテラン先生が、

「お前たちは、教師は同じ授業ノートを使って、同じ内容をレコードのように話すだけで楽だと思っているだろ。そうじゃない。毎年度末、授業ノートは捨てる。そして、新年度はまた新たな授業ノートを作っているんだ。」

と、何かの拍子で授業中に話したことを思い出しました。

 

その時は、へー、無駄なことやっているんだなと思う反面、その先生の矜持のようなものを何となく感じたものです。

 

 

かつて、同じ内容だと、多少安心しリラックスして臨むこともありました。内容はほとんど頭に入っているので、あまり準備もする必要がありません。でも、たいていそういうときは、満足いく講演やクラスにはなりませんでした。

 

「ここまで準備したんだからもうじたばたしても仕方ない」という場合のリラックスと、「これまで何度もうまくいってきたらから心配ない」というリラックスでは、全く質が異なるようです。前者は、緊張感のあるリラックスで、後者は緊張感のないリラックス。

 

 

緊張感のある研ぎ澄まされたリラックス状態をつくる方法は、今のところ毎回ぎりぎりまで真剣に準備することくらいしか思いつきません。稽古、稽古、とにかく稽古だ、という選手や演者の言葉をよく聞きますが、(恐れながら)同じ心境なのでしょうか。

 

 

今思いついたのですが、緊張感のあるリラックスは、座禅をしている時の心理に近いような気がします。

 

 

 

新聞やニュースでご存知の方も多いと思いますが、深夜若者達(10代後半から20代前半)が騒ぐのを止めさせるために、足立区モスキート音.jpgの某公園に、深夜11時を過ぎるとモスキート音を発生させる装置が区によって設置されました。

 

このモスキート音は若者にしか聴こえないのがみそ。聴こえる人には、頭が割れそうになるくらいの代物だそうです。ここまでしなければならないほど、付近住民は困っていたのでしょう。

 

設置から一ヵ月半が経ち、狙い通り深夜の若者は消えたようです。

 

設置開始の5/21に、たまたま夜のニュースでこのことを知りました。そのとき、なんとなくイヤに気持ちになりました。

 

    集蛾灯に集まってちりちり音を立てながら殺される虫を想像しました。設置は集めるためではなく、近づかないようにするためですが、なんだか同じだと思うのです。人間を虫と同じに扱っている

    若者にしか聴こえない音があることに驚きました。それによって、あるセグメントの人間をコントロールできる

    その場しのぎの対策の最たるものだと思いました。もし、他の公園に集まったらそこにも設置するのか。全く根本的解決にはなっていません。逆に、このような仕打ちを受けた若者の不満は、別の形で爆発するのでは

 

あるNPOの代表がインタビューにこう答えていました。(うろ覚えですが)

「問題は、公園に集まることではなく、彼らに帰る場所がないことだ。地域住民や役所が、粘り強くその問題に取り組まない限り、彼らはますますエスカレートするだろう」

全く同感です。

 

 

システム・シンキングの分野に、「応急措置の失敗」というシステム原型があります。応急措置によっていったん沈静化した問題が、やがて遅れをともなって意図しなかった結果が生まれ、さらに問題を拡大するというシステムの構造を意味します。

 

今回のばら撒き予算といい、あらゆるところに「応急措置の失敗」がはびこっているように思えてなりません。

 

 

 

脱サラならぬ脱刑事作家がいることを、今朝の朝日新聞で初めて知りました。飯田裕久さんは、25年の刑事勤めを07年に辞め、現在刑事もの小説を書いているそうです。

 

警視庁捜査一課刑事
飯田 裕久
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飯田さんによると刑事や警察官の質も、バブル前後で大きく変わったそうです。

 

 

まず、バブル期までは人材獲得難の時代で、高校の後輩を説得して採用されたら表彰までされたそうです。バブル期には、それまで8人部屋だった警察学校の寮が、採用を増やすため個室にしたそうです。

 

飯田さんと私は同じ年です。私も銀行の独身寮にいましたが、相部屋個室というドアが一つで、開けると正面に壁があり、その左右に小部屋があるという環境にいました。そして、バブル華やかな頃、個室に変わりました。

 

飯田さんも書いていますが、プライバシーゼロの世界では、人にもまれる中で、否応なく人の気持ちを察するようになります。思い返してみても、相部屋でよかったと思います。

 

 

バブル崩壊とともに一転、警察官は人気職種となります。いうまでもなく、安定志向です。バブル崩壊後の警察官は、点数稼ぎの傾向が強く、自転車への職務質問が急に増えた。自転車泥棒を見つければ、「職務質問による検挙」という点数が簡単に稼げるから。本来自転車への職質は、自転車泥棒を捕まえるためではなく、質問への受け答えや挙動の不自然さから、より大きな犯罪の糸口をつかむことが目的です。人間を見る眼が要求されます。それが、人間は見ないで、自転車を見るようになってしまった。

 

 

飯田さんの時代は、先輩に毎晩のように飲みに連れられ、説教や怒られながら多くのことを学んだそうです。ところが、バブル崩壊後「先輩が後輩を酒席に誘うこと禁止」のお達しが出た。それからは、後輩を酒に誘っても平気で断られるようになったとのこと。

 

一方で、OBを呼んでわざわざ経験談を若手に聞かせることも内部で実施しているそうです。でも若手は、「年寄りが昔の手柄話をしている」としか聞かない。

 

そんな若手の得意技は、ITを駆使すること。昔は、ベテラン刑事が何日もかけて集めた情報が、一瞬で取りだせる。過去の犯罪情報がデータベース化されているのです。

 

昔の刑事ドラマや映画で、ベテラン刑事が所轄を超えた警察署に出向き、嫌がらせを受けながらも人間関係を深め、なんとか情報を分けてもらうという場面がよくありました。

 

今は、そんな必要はないのです。データベースの情報と、ベテラン刑事が、担当刑事から聞きだした情報と比べて、どちらが情報として有益か、いわずもがなでしょう。コンテンツは伝わっても、コンテクストは伝わらない。

 

 

結局、一番身近な先輩が、現場で手取り足取り教えていくしかないというのが、飯田さんの結論です。バブル前を知る今の40代が、鍵を握っているというのは、警察の世界も企業の世界も(もしかして任侠の世界も)同じなんですね。

 

それほど、バブルとその崩壊は、日本社会に大きな影響を及ぼしているのです。そして、再び・・・。

以前、社外取締役制度への疑問をちらっとだけ書きました。

http://www.adat-inc.com/fukublog/2009/06/post-74.html

 

たまたま昨日の日経夕刊の十字路で、外資系弁護士事務所の方が「取締役会の役割と独立性の確保」とのコラムを書かれていたので、あらためて意見を述べておきたいと思います。

 

そのコラムでは、内輪の取締役ばかりでは職務上の上下関係が維持されるため、チェック機能は不十分であると述べた上で、

 

「例えば、不正行為に経営トップが関与しているような場合、内部者で固められた取締役会が、適切な是正措置を早期に自発的に講じていくことは実際に可能であろうか。」

 

と疑問を呈しています。一見正論のようですが、そもそも経営トップが関与しているような不正行為を、社外取締役が認識できるのでしょうか。トップが、本気で外部に対して隠ぺいしようと思えば、かなりの確率で成功するのでは。察知できなければ、是正もさせられません。

 

次に、

「他方、経営トップが大胆な経営改革を計画していても、例えば撤退予定部門の担当取締役らが部門の立場から取締役会で反対するなどして、必要な改革が適時にできず、遅延が多大な損失を生むことはないだろうか。」

 

と書いています。自らの不正を隠ぺい出来るくらい力のあるトップであれば、担当取締役の反対など、もろともしないでしょう。つまり、社外取締役がいなくても、トップさえ決断できれば実行できるのではないでしょうか。

 

もちろん、そもそもトップが決断できないのであれば、資本の論理で社外の株主、ないしはそこから送りこまれた社外取締役の力が発揮されます。(日産のケース)

 

もし問題があるとすれば、取締役に担当部門を持たせることではないでしょうか。

 

そもそもの疑問は、完全な中立な社外取締役なんて、確保できるのかという点です。株主代表訴訟を恐れ、結局なり手といえば、仲のいいトップから頼まれ断れなかったお友達だけ、なんてことになりかねません。そういう方々が、果たして独立した高度な経営判断ができるのでしょうか。

 

 

その点については、

「上場企業の取締役OBの数を考えれば、社外にも適格な人材は多数いるはずだ。」

 

と断言しています。ご指摘のように、トップの不正も正せないような取締役経験者が、たとえ指示命令系統がなくなったとしても、より困難な社外取締役の任が務まるとは思えません。

 

 

本来、やるべきなのは、システムの変更ではなく、取締役の責任と義務、そしてリスクを正しく認識することではないでしょうか。そして、トップは、その任を果たせないと判断した取締役がいたら、即退任させるくらいの覚悟で経営にあたるべきだと思います、

 

 

社外取締役制度のように、システムを変更すればうまくいくと考えるのは、それによってビジネスが増えるコンサルタントなどのプロフェッショナルサービスと、とにかく解決策を実行したとのアリバイをつくりたい一部のトップだけと言ったら言い過ぎでしょうか。

 

システム変更によって、本質的問題から目を背けることになりはしないか、冷静に見極めていきたいものです。裁判員制度が、そうでなければいいのですが。

近年、日本人の知的レベルの低下が著しいということは、多くのメディアで取り上げられています。私自身は、あまりそう感じたことはなかったのですが。

 

 

先日、企業研修用ビデオ(DVD)を制作・販売する会社の方と話す機会がありました。この業界に長くいると、顧客企業が望む教材のレベルから、ビジネスパーソンのレベルの低下がよくわかるそうです。

 

そういう教材を購入する企業の裾野が広がり、その結果、レベルを下げてほしいとの要望が増えることも考えられますが、どうもそうでもないようです。

 

まず、家庭で躾けるべき内容を、企業内教育で学ばせたい、躾けたいとの要望が増えたそうです。これは、教育全般のレベルの問題です。

 

また、例えば英語教育でも、これまでであればTOEIC600700点以上を目指すような教材が売れていたが、最近は350点くらいを対象としたニーズが増えているそうです。これも裾野が広がったからではなさそうで、受講者の出身大学などは、あまり変わっていないとのこと。

 

ビデオ教材は、ドラマ仕立ての映像を観させた上で、人事部員などが講師となって、受講者に考えさせ議論させ、その後解説の映像を観せるといった使い方を想定していそうです。ところが、最近は企業から、最初から解説も観させるようなつくりにしてほしいと要望されることが増えたそうです。講師役が、どうその場を仕切っていいかわからないので、単に見せるだけにしたいのではないか、と推測していました。一般社員のみならず、人事部員のレベルも落ちているのでしょうか。あるいは、そこまで手間をかけたくないのでしょうか。

 

 

書店で売れている本といえば、すぐ使えそうなビジネス知識を噛み砕いて丁寧に教えるような本か勉強法、収入を○○○倍増やす法!みたいな本ばかり。

 

ある程度普遍的な知識から、自分の仕事や生き方に役立ちそうな部分を見つけ出し、そんないくつかを組み合わせて内面化していく力が、総じて落ちているのかもしれません。だから、すぐ使える知識やノウハウをひたすら探し続ける。

 

でも、そんな自分にぴったり合った本などあるはずがありません。(だから出版業界は、そこの品揃えを増やそうとするのでしょう)情報が増えれば増えるほど、本当に自分に必要な情報が入手しづらくなる。だから、さらに情報を追い求める。悪循環です。

 

 

ビジネスパーソンの知的レベル低下と氾濫するビジネス書。双方強化しあいながら、我々日本人はどこに向かっているのでしょうか。

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