文化と芸術: 2011年3月アーカイブ

先日今年のアカデミー賞を受賞した「英国王のスピーチ」を観ました。受賞するだけの傑作です。決して派手な映画ではありませんが、俳優陣の抑えた演技が、日本ではとても考えられない王室の内幕話に説得力を与えています。さすが演劇に伝統ある英国の映画だと感じました。

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吃音に悩む王の次男(のちに王)とそれを直す言語聴覚士との話ですが、私はヘップバーンの「ローマの休日」を思い出しました。両者の共通点は、身分の差を超えた関係の話ですが、最後はそれぞれの身分を自覚して終わるという点です。

 

聴覚士のライオネル・ローグは、治療の条件として対等の関係を望みます。そうでないと、適切な治療ができないと判断したのでしょう。王の次男という立場が、吃音の原因と関係あると考えたのです。もちろん後のジョージ6世は最初、この植民地たるオーストラリアから来た怪しい聴覚士の申し出を拒否します。妃も同様です。しかし、次第にうち解けライオネルを受け入れます。しかし、呼称にはこだわります。ライオネルも負けてはいません。決して、殿下などとは呼ばず、家族だけの呼び方(バディーだったか?)で通します。

片やドクター・ローグと、片やバディーかジョージと呼び合うのです。

 

そしてクライマックスたる会戦のスピーチが成功します。ライオネルはジョージ6世に祝福の言葉をかけます。そこで、王は彼をローグと呼び、ライオネルはyour majesty(陛下)と呼びます。つまり、身分上の適切な呼称となったのです。これは治療の完了を意味します。落ち着くべきところに落ち着いたとも言えるでしょう。また、妃殿下はそこでは、ローグを初めてライオネルと呼びした。親愛の情を表しています。その後、彼らの友情は終世続いたそうです。

 

ストーリーの大部分は、王族と平民が対等な関係を結ぶという特殊な状況で進み、最後のハッピーエンドでは正常な関係に戻る。しかし、そこには特殊な関係の時のほろ苦い想い出が少しだけ顔を出し、もうそこには戻れないという哀しみもちょっとだけ漂う、そんな構造が「ローマの休日」と似ているのです。

 

日本の古い物語に、貴種流離譚という型があります。それは、「高貴な生まれの、弱く、力ない人間が、遠い地をさすらう苦悩を経験するという物語の形式です。伊勢物語や山椒大夫が典型ですが、それとの類似性も感じます。

 

いずれも最後はもとのあるべきところに納まる、そこに人々は安心するのかもしれません。そこまでの揺らぎを楽しむのです。映画を観て、そんなことも考えてしまいました。

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