2010年11月アーカイブ

「戦争論」で有名なクラウゼビッツは、圧倒的物量によって正面撃破する合理的戦略で有名ですが、実は軍隊を率いる将の精神力を第一に重視しています。精神力はスポーツの世界でも常に強調されますが、素人が思う以上にやはり大きな影響を及ぼすのでしょう。昨日のスポーツニュースを観てあらためて感じました。

 

大相撲では、白鵬関が平幕の豊ノ島関との優勝決定戦に勝って優勝しまし

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たが、やはり何といっても二日目の連勝ストップが最大の話題でした。九州場所前に、大分の双葉山の生家を訪れたことが大きく報道されました。尊敬する双葉山の故郷に近い今場所で、連勝記録を破ることを意識しての訪問だったのでしょう。しかし、どうもNHKに協力したという雰囲気を感じていました。連勝達成した直後の特別番組での絵柄としては申し分ないものでしょう。名古屋場所でNHK放送が中止されたのも影響したのかもしれません。ちょっと、いやな予感がしました。

 

しかし、連敗せず優勝したのは素晴らしい精神力です。優勝後のNHKニュース番組でこう語ったのが印象的でした。

「今年はいろいろあって、横綱として最後を締めてやるという気でした。しかし、一人横綱の重圧は予想以上だった。大関の時は横綱になっても大して変わらないと思っていたが大違い。また、朝青龍関がいるときは、一人横綱が大変とは全く思わなかった。しかし、朝関が引退して最初の場所の初日、全くそれまでとは違っていた」

 

横綱はスポーツ競技のチャンピオンとは違い、責任を伴うものとはよく言われます。だからこそ、ここまで重圧を感じるのでしょう。また、こうも言っていました。

 

「正直、この苦しみを分かちあえる新横綱の誕生を待ち望んでいます。でも、そういうものが出てきたら、絶対上げさせないように勝負にいきます」

 

一見矛盾したこの言葉に、横綱の苦しみとプライドを強く感じました。

今回も63連勝も、ライバル朝青龍関がいなくなったからできたとの見方もあるでしょう。しかし、真実はその反対だったと思います。「朝青龍関がいなくなったのにも関わらず」の連勝は讃えられてしかるべきです。優勝インタビューで、対戦した豊ノ島関をたたえていたのも印象的でした。重圧とそれを乗り越える精神力にこそ偉大な人間の力を感じさせ、観る人を感動させるのです。

 

いっぽう、もう一人のチャンピオン、浅田真央選手は昨日も大不調でした。練習で出来ることが試合でできない。技術よりも精神力なのでしょう

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が、ここまで影響が大きいとは・・・。いっそのこと試合に出なければとも思うのですが、試合で今の苦労を味わい克服しなければ、復活できないものだと考えられているのでしょう。トリノオリンピックの頃の安藤美姫選手も同じような状態でした。これを乗り越えてこそ、正真正銘のチャンピオンになれるのです。痛々しいですが、復活を心から祈りたいと思います。

現在、神保町シアターでは、映画監督小津安二郎の全劇映画36作品を連続上映する企画が開催されています。先日、早速観にいってきました。

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「出来ごころ」という昭和8年の作品を観たのですが、これはサイレントつまり音がなく映像だけの映画でした。台詞は、文字が適宜表示されますが、そう多くはありません。洋画の字幕とは違います。

 

今回の企画が素晴らしいのは、キーボード奏者が生演奏でずっと音楽を奏で続けてくれることです。映画のオープニングシーンは、講談のようなものを小屋で聴いている場面でした。当初、ピアノ風の演奏だったのが、最初のシーンが現れた時から、三味線風の演奏に変わったのです。電子オルガンなので、そんな芸当もできるのです。真っ暗な中、小さなピンライトだけでよく弾けるものです。

 

生演奏付きサイレントは初めての経験でしたが、すぐに慣れることができました。文楽の三味線と同じように、音楽ではなく状況を描写している音として聞けば違和感はありません。白黒の映像と生演奏の音楽が、全く違和感なく融合していました。贅沢なものです。

 

さて、映画はいわゆる父子ものでしたが、彼らを取り巻く下町の庶民が、すごくいいのです。貧しくても、時にはめを外したりおめかししたりして、メリ貼りを持って暮らしています。また落語にあるような長屋暮らしは、近所はみんな家族のような関係です。そんな暮らしですから、他人の目を気にしますし、人様に迷惑をかけることを恐れます。面倒くさそうではあるのですが、「恥」の意識が強く自分に対して厳しく生きているのです。

 

主人公(ビール工場工員の喜八)の子供が病気になり医者代が工面できず困っていました。工員仲間で長屋の隣人の次郎、飲み屋の女将、そこで働く喜八が密かにではなく、大っぴらに思いを寄せる若い娘春江、床屋の親父など、みんながなんとかしようとします。結局床屋が金を貸してくれて、子供は助かります。しかし、返済のあてはありません。床屋は返してくれなくてもいいと言うのですが、喜八はそれじゃあ気が済まないと、子供を置いて北海道の漁場に旅立っていきます。(銚子にもつく前に、船から飛び降りて戻ってしまいますが)

 

そこに流れているのは、損得や打算とは正反対の、「恥」「プライド」「沽券」「矜持」といった、今ではあまり聞かれることがなくなった自意識です。喜八だけでなく皆の意識にそれがあるのです。そんな人間関係が、昭和の初めには当たり前だったのでしょう。今の時代なら、ちょっとくさく感じるでしょう。昔の映画を観ることで、昔の空気を感じることができます。そして、そこから現在を振り返ることもできます。だから、映画は面白いのです。

 

派遣社員が当たり前のように活用されるようになり、また業務委託やアウトソースを使わない企業を探すのが困難なほどの時代になりました。こうなると、何を企業内で遂行し、何を外部に委託するかの線引きが重要になってきます。いわゆる組織の境界論です。そして、もう一つの重要になるのが、外部に委託する業務について、いかにその相手の能力を引き出し、自社のメリットを最大化するかという点です。

 

三菱重工業相談役西岡喬氏の「私の履歴書」(日経朝刊10/11/19)に、こんな記述がありました。ある事業所(名航)の所長に就任した西岡氏

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は、バブル崩壊のあおりで、大幅なコスト削減に取り組むことになり、社内はもちろん社外の外注先にもコスト削減のお願いに廻った時のこと。

 

主だった外注先には私が直接出向いた。20社ほど回ったと思う。行ってみて実態がよくわかった。「われわれは改善したいと思っていることがいっぱいある。だけど、三菱重工の方がひとつも聞いてくれない」各社の社長からは、こんな声が一番多かった。「こうすれば、もっと安くできるのに」と、名航に提案しても、なかなか対応してくれないという。

 

組織の壁とは、企業内の組織間のコミュニケ-ション不足のことを指すのが普通でしょう。しかし、現在のように重要な業務の一部を社外に依存するようになると、自社と取引先の壁の高さにも、もっと関心が払われてしかるべきだと思います。

 

私も、外部の方に委託することも、委託されることも非常に多いですが、そういった時の仕事のしやすさとは、他社(者)の能力を最大限に引き出す力があるかどうかで決まってくるように感じます。コストを安くするということとは全く違います。コスト以前に、誰もが仕事をするからには、いい仕事をしたいと思っています。その相手の気持ちを汲んで、一緒にいいものを創り上げたいという姿勢があれば、気持ちよく仕事ができ、その結果必ずいい成果を生み出すことができるのです。

 

しかし、未だに「使う、使われる」という前世紀のパラダイムで、外部と仕事をする人もいなくはありません。ドラッカーの言う「知識社会」になればなるほど生産物は汎用品ではなく、ソフトなサービスになっていきます。そこでのアウトプットは、目に見えにくく評価は困難です。だからこそ、上記のような「能力を引き出す力」が問われてくるのです。西岡氏の文章を読んで、自分への戒めをこめて、あらためて再認識しました。

先ほどNHKでワタミの渡邉美樹会長が中学生と対話する番組 「シリーズ 未来をつくる君たちへ」をやっていました。

21世紀の君たちへ」という司馬遼太郎の著書をモチーフにしたものです。

司馬の「竜馬がいく」の愛読者である渡邉会長が、龍馬の実家の近くにある高知市立城西中学校の生徒15人くらいと、龍馬ゆかりの場所を訪ねて対話していきます。

 

まず、1年から3年まで混じった15人というのがいいです。この手の番組では、得てしてあるクラスを対象にすることが多い中で、この編成は密な対話を促すには最適に感じました。渡邉氏がどの生徒とも君付けで呼び合える関係ができていました。

 

さて、まず渡邉氏は、こう持論を述べます。

「龍馬は他人のために頑張ってきたのではなく、自分がやりたいことをやり続けたに過ぎない。最近そう感じるようになってきた」

暗に、自分もそうだった。生徒たちも、自分が好きなことを見つけてそれに打ち込むべきだとの、メッセージが予感されます。

 

それに対して、すかさずある女生徒が反論しました。

「父は、自分のためでなく他人のために生きなさいといつも言っています。そういう助け合う社会ではないでんでしょうか?」

 

渡邉氏は他の生徒に振ります。すると、その男子生徒もいいます。

「僕も、人のために生きるべきだと思います。そのほうがいい社会だと思います」

 

渡邉氏は一瞬、本気になったように見えました。

「僕が中学校の時には、いっさいそんなことは考えなかった。そうか?みんな自分のことが一番じゃないのか?」

 

主客逆転といったところです。しかし、その後の渡邉氏はさすがでした。

スタッフにグラスと水を持ってこさせ、グラスに水をいっぱいまで注ぎ、言います。

「グラスは一人ひとりだ。水はお金とか地位とか名誉、なんでもいい、欲しいものだ。グラスがいっぱいになっても、グラスを大きくすればまだ水は入れられる。大きくしなければ、こぼれ落ちる。こぼれ落ちた水をまた別のグラスに集めればみんなに水がいきわたる。会社も社長が独り占めしたら社員は辞めていき、結局社長も何も得られなくなる。みんなのためにするということは、まず自分のグラスを満たして、それを独り占めせず他の人にも水が回るようにすることだ」

 

ここに渡邉氏の哲学を見たような気がしました。中国の「まず豊かになれるものから先に豊かになれ」という近代化論を思い起こさせました。

 

「人間は平等ではない。走るのが速い子も遅い子もいる。でも、悲観することはない。夢を達成するのが幸福ではない。夢を追い求めることが幸福なんだ」

とも言いました。

 

生徒たちがこのような言葉に納得したかどうかはわかりません。でも、自らの体験に基づいて熱く語る渡邉氏の言葉に、何かを記憶に残すことには成功したのではないでしょうか。

 

渡邉氏は終始対話を通じて、龍馬が遠くの海を見て夢を抱いたように自分が本当に好きなことを見つけて、それに向けて頑張り続ければいいことを強調しました。

 

最後に、スタッフが最初に質問した女生徒に、対話を通じて何を学んだか尋ねたところ、こう応えました。

「自分の夢を追い求めれば、それが他の人のためにもなるということがわかりました」

 

さすがに渡邉氏は大した先生だと感心しました。

先週の水曜の夜、六本木アカデミーヒルズでの 「アダットシリーズ ケースで学ぶグローバル戦略」が無事開催できました。今回は、定員30名のところ満席でした。講師の青野仲達さんのリードも的確で、満足度も高かったと思います。

 

使用したケースは「イングヴァル・カムプラッドとイケア」という、HBS開発のケースです。イケアは、日本市場にも数年前に参入し着実に店舗を増やしています。ほとんどの受講者がイケアの店舗に行ったことがあるとのことで、身近なケースでもあったようです。

 

このケースは、イングヴァル・カムプラッドが1943年に17歳でスウェーデンの田舎で小売を始めたところから始まります。そして戦後すぐ家具販売に眼をつけ、成長を続けるストーリーです。このケースは、いくつかのテーマで議論ができます。

     (戦後の)環境変化からいかに機会を見つけるか

     既得権益集団の妨害にどう対処するか

     いかにブルーオーシャンを見つけ、成功させるか

     創業者の理念や価値観を拡大する組織にいかに浸透させるか

     拡大する組織をいかに運営するか

     文化の異なる海外事業に、企業文化を持ち込んでいいものか

     創業者がいなくなった後、どうすべきか

 

など、どれも身につまされるような経営課題が、豊富にケースから読み取れます。従って、受講者の発言も活発で、たった一回のケース・ディスカッションでも、ここまで中味の濃い討議が出来ることを証明してくれました。最後の質疑で、「ハーバードでの議論と比べて、今日の議論のレベルはどうでしたか?」との質問に、青野講師はほとんど遜色ないと答えました。そうだと私も思います。

 

これまでケース・メソッドは、「何十ケースとやって初めて効果が出る」「日本人は、自発的に発言しないので難しい」「見ず知らずの人とすぐには突っ込んだ議論はできない」など、日本での普及は難しいとの前提があったように思います。もちろん、アメリカと比べればそういう面も確かにあると思いますが、日本人の気質も変わってきていますし、また苦手だからこそやるべきとの考え方もあってしかるべきだと思います。

 

サンデル教授の『白熱教室』の人気により、ディスカッション型のクラスへの関心が日本でも高まっています。ケースという膨大な教材をもっともっと活用して、主体的に知的レベルを上げる能力開発を盛んにしていきたいと、あらためて思いました。

7月に90歳で亡くなった梅棹忠夫さんの実質的最後の著書「梅棹忠夫 語る」(日経プレミアシリーズ)を、感慨を持って読みました。

梅棹忠夫 語る (日経プレミアシリーズ)
小山 修三
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そこでいいリーダーの条件を問われ、

「フォロワーシップを経験し理解することやろな」と答えています。

彼がそう思うに至ったのは、山岳部での経験によるものです。

 

「計画を立てた人がリーダー、それに合意してフォロワーとなる。フォロワーシップとは盲従ではない。自分の意志や判断は持つけれども、隊長には従う。山には危険がいっぱい、時には命にかかわることもあるからな」

 

旧制三高山岳部で今西錦司さんをリーダーに招きます。そして、今西さんに多くを学んだそうです。しかし、こう言います。

 

「今西さんに育成されたのではなく、推戴したのや。弟子ではなく契約、ゲマインシャフトではなく、ゲゼルシャフト集団です」

 

旧制三高では、新入生からいきなり、先輩にいっさい敬語を使ってはいけない、「さん」づけもダメ。全部呼び捨てにしていたそうです。敬語が暗に示す上下関係はゲマインシャフトの象徴であり、それでは山での冒険を生き延びることができないとの判断なのでしょうか。強烈な目的志向です。

 

翻って企業でも、危機が突然おとずれる可能性が著しく高まっています。村落共同体的組織では、生存が危うくなりつつあります。そういう状況のもとでは、リーダーの力量が重要になってきており、優れたリーダーを輩出するにはどうしたらいいかが、最重要の経営課題になっています。

 

リーダーシップ教育があちらこちらで叫ばれていますが、その前にフォロワーシップ教育が必要なのではないでしょうか。梅棹さんが言うように、フォロワーシップの理解や経験がないまま優れたリーダーになれるとは思いえません。リーダーも常にフォロワーでもあるわけですし。盲従ではない、ゲゼルシャフト集団におけるフォロワー教育こそが現在求められているのではないでしょうか。

すでにどちらも少々旧聞に付すようになってしまいましたが、チリ・サンホセ鉱山からの救出劇と、メキシコ湾沖原油流出事故ほど、対象的なリーダーの能力を見せ付けられたことは近年ありません。

 

救出された現場監督ルイス・ウルアス氏は、極限状態の中で的確な判断を

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続け好例でしょう。危機の中で新たな管理体制を築き、鉱夫を3チームに分けそれぞれにルーティーン業務を割り当てました。食糧の配給も、見通しに合わせてその量をコントロールしていました。地底での意思決定は一人一票として、団結を最優先しました。絶望の中で、秩序と規律と団結を生み出したのです。そして、何により力になったのは、彼が最後まで救出用カプセルの乗らなかったことに象徴されるように、メンバーに奉仕する姿勢です。

 

また、初めて地上と交信が取れたとき、こう発しました。「我々は大丈夫だ。助けを待っている。」大丈夫なはずはありません。泣き叫んで助けを求めても不思議ありません。しかし、他のメンバーを平静に保たせるように、自制した発言をあえてしたのでしょう。

 

一方、原油流出を起こしたBP社のトニー・ヘイワードCEO。彼は事件発生後こう発言しています。

 

「メキシコ湾はとても大きい海だ。流出した原油と分散剤の量は、海水全体の量と比べれば微々たるものだ」

「私はこの災害の環境への影響は恐らく非常に小さいと思う」

「誰よりもこの問題の終結を望んでいる。私は自分の生活を取り戻したい」

 

最後の発言は、数年前不祥事を起こした食品会社社長が、「私は寝ていないんだ!」と叫んだシーンを思いおこさせます。また、福田元首相がしつこく質問を繰り返す記者に、「私はあなたとは違うんです」と発言したことを思い出しました。平静の時であれば、彼らもこんな発言をすべきでないことを認識しているはずです。しかし、極度のプレッシャーは、リーダーの判断力を奪うのです。

 

ウルアス氏とヘイワード氏の差は何だったのでしょうか?胆力、ストレス耐性、経験などいろいろ考えられますが、つきつめれば、「人としての品格」なのではないでしょうか。もう少し言い方を変えると「美意識」といえるかもしれません。真かどうか、善かどうかの基準ではもはや判断できない状況はあると思います。最後の最後は、美でしか測れないような気がします。

今政府では、追突映像をYouTubeに流した犯人探しに躍起になっています。政府としては、面子の問題もありそうせざるを得ないでしょう。問題は、多くのマスコミもそれに追随していることです。政府をたたく材料としては、視聴率を稼げるのでしょう。一方、多くの国民は公開した「犯人」に喝采を送っています。「なんでこれだけの映像を政府は公開しなかったのか」「海上保安庁の現場は頑張っていたことがわかった」との思いを抱いているのではないでしょうか。私もYouTubeですぐに観ましたが、そう感じました。

 

しかし、本当の問題は、実質的な公開された映像の内容に対して、政府としてどう対外的なスタンスをとるかです。それに対しては何も発言していないように思います。せっかく船長の拘留を解いて火消しをはかったのに、矛盾を生じさせてしまうとの懸念や、中国への配慮があるのでしょうが、すでに世界中の人の目に触れた映像に対して、頬かむりしているような印象を世界に与えるでしょう。そうなってしまう原因は、外交の軸がないからにつきます。そのしっぺかえしは、これからあらゆる場面で出てきて、日本政府の交渉力を削ぐことになるでしょう。

 

今回の映像流出劇で、最も恩恵を受けたのは中国だと思います。映像が暴露されたことにより、日本国民の中国への反感が高まる恐れは当然あるはずですが、結果として国民のほこ先は日本政府に向かっています。もし、そこまで見切って中国政府が映像を確保しYouTubeに流したとしたら、ものすごく戦略的です。(さすがにそれはないでしょうが)

 

映像流出は、国会議員の一部だけに公開された直後でした。そのままいけば、やがて証拠映像の国民への公開となり、その結果国民から中国批判が噴出したかもしれません。そこを、先に流出公開してしまえば、国民の怒りの矛先は中国ではなく日本政府に向かう。

 

映像流出直前の警察情報漏えいの発覚も、日本政府への批判に強力な材料を与えてくれます。政府の情報管理の稚拙さでは、追突映像も警察情報流出も同じですから。そこにつながりがあるかどうかはわかりません。

 

なんだかスパイ映画のようになってきましたが、インテリジェンスの世界では何が起こってもおかしくないのでしょう。それに対する免疫がどれだけあるのか、不安です。

日経朝刊の「私の履歴書」は、社会人になってからほとんどずっと読み続けています。創業経営者、●代目経営者、サラリーマン経営者、芸術家など執筆者はさまざまですが、どの分野であろうとも、一流となった人からは学ぶべきことがそれこそ無尽蔵にあるからです。

 

企業経営者の執筆が大半ではありますが、読んでいるといろんなパターンが見えてきます。最も大きいと思えるのは、戦争の経験です。最近は太平洋戦争を子供時代に経験した方の登場が多いですが、数年前までは従軍した方が大部分でした。何歳で戦争を、どのような立場で経験したかは、その後のその人の生き方に大きな影響を与えていように感じます。

 

もうひとつ気になるのは、自分以外にどのような人が実名で出てくるかです。学生時代の恩師が出てくる場合は、その人の人間性の原型が見えてくるような気がします。社会人になって以降は、大きく三つに分かれます。自分より有名、あるいは大物にかわいがってもらい知己を得て、成長できたというパターン。もう一つは、会社の上司や先輩、同僚、あるいは取引先に助けてもらいながら、一歩一歩成長してきたというパターン。最後は、関係者には触れながら(多くは実名出さず)、自分が苦労して成功したというトーンがありありと読み取れるパターン。

 

個人的には、二番目のパターンが読んでいてもっとも共感できおもしろく感じます。同じ事象でも、見る人によって異なるように見えるのは当然です。若いころは、すべての実績は自分のおかげと見えるのは、ある意味し方ないことなのかもしれません。それが、エネルギーを生み出すことにもなりますから。ただ、「私の履歴書」を書くような功成り名を遂げた人がそうだと、興醒めしてしまいます。もっと自分を客観視してもいいのではないかと感じてしまうのです。

 

スティーブ・ジョブズが将来自叙伝を執筆したとき、どんなトーンで書くのか、今から楽しみです。

 

一方通行の講演とインタラクティブに進める研修、どちらが講師として難しいでしょうか?私は、演者としても企画者としても講演の方が難しいと感じています。研修であれば、受講者の発言や反応で、進め方や内容の修正は十分できますが、講演の場合は、いったん始めれば修正ができません。

 

従って、講演の勝負は事前情報の把握で大方ついてしまいます。受講者の期待は何か、どの程度の成熟度なのかを見極めておくことが重要です。それがずれてしまうと、「自分達と時代も業界も違い過ぎるので役に立たない」と言われたり、あるいは「机上の空論だ。現実はそう簡単ではない」といった反応をもらうことになります。

 

受講者の成熟度とは、講師の話に関連する体験を持つかどうか、講師の体験談や自分の経験を概念化できるかどうか、講師の話を自分の問題に結びつける感受性をもつかどうか、といった点で評価できるでしょう。

 

さて、講演で講師が話すパターンは、以下3つのうちのどれかです。

①自分の体験談をなまなましく語る

②自分の体験に基づいて概念化した持論を解説する

③一般理論を(多少の解釈を加え)解説する

 

①体験談にフィットするのは、その講演テーマに対して必ずしも明確な問題意識を持っているわけではないが、成熟度が非常に高い受講者です。自らの体験と照らし合わせて、自分自身で概念化できます。聞き手に概念化を委ねることで、最も大きな学びを促すことができます。学びの材料をできるだけたくさん提供することが喜ばれ、そしてなまなましい体験談の情報量は非常に多いのです。

 

②体験に基づく持論にフィットするのは、問題意識を持って聴き、成熟度もある程度高い受講者です。講師の持論の範囲内ではありますが、自分の経験と重ねることで共感を得て腑に落ちるので、情と理の両面から納得感が高くなります。

 

③一般理論にフィットするのは、問題意識は持っているもののあまり成熟度が高くない受講者です。わかりやすく解説してくれて、理論を理解し使えるようであれば使いたいと思っています。講師の体験の多寡はあまり関係ありません。ビジネスHow-to書を求めるのと同じ感覚かもしれません。一方、問題意識が明確で成熟度も高い受講者が、「一般理論」にフィットすることも多いです。大学教授の講演を聴いて「目が啓かれた」と自叙伝に書いている著名な経営者は大勢います。自分と結びつける能力が高いので講師の体験は問いませんが、講師の理論理解に「深さ」を求めます。

 

 

講演も研修も、講師から受講者へ何らかの情報を提供することで、受講者の内面に心理作用を起こし、その結果として意識や行動に「変化」を促すことと言えると思います。内面での心理作用の起き方は、その集団の特性に応じて異なるので、それを踏まえての設計や対処が、プロの講師と企画担当者には求められます。「講演は、全員を満足させようと思う必要はない。わかってもらいたい人に伝わればいい」という人もいますが、一人でも多くの人を満足させることを目指す努力はすべきだと思います。

初めて訪れた街で、何の目的もなしにうろつくことは、特別な楽しみがあるように思います。何が現れるかという好奇心と少しだけの不安、すれ違う人は誰も自分を知らないというわずかばかりの安心感、それが入り混じった不思議な「楽しみ」(「楽しさ」ではなく)を感じるのです。

 

それを映画で体験できるとは思えませんでした。この 「シルビアのいる街で」は、ストーリーはほとんどありません。それどころか、セリフも数えるほどしかないのです。主役は、ドイツに近いフランスの古都ストラスブーグの街、人々、いや音で

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す。私には街の雑踏で耳に入っている意味のない普通の音が最も気になりました。石畳を早足で歩く「カツ、カツ」という音、瓶が転がる音、ラジオをかき鳴らした自動車が近づき通り過ぎる音、カフェでの人々の会話、流しのバイオリンなど、音を拾うために映像も撮ったと言わんばかりです。

 

最初は、シルビアと街でいろいろな出来事が起こるラブロマンスなのかと勝手に想像していましたが、全く違います。大事なのは「シルビア」ではなく、「街」しかもそこでの「音」だったのです。

 

街にいる普通の人々も不思議と魅力的に見えます。映像に現れてくるすべての人々にも、小さな(決して大事件などではない)物語がきっとある、なんとなくそう思わせます。しかし、映画は何も語りませんし起こりません。一見主役である青年とシルビアと間違われる女性についても、ほとんど何も語られないのですから。

 

でも、なんとなく心地よいのです。どこかで味わった感覚だとひっかかっていましたが、気づきました。小津安二郎です。小津の映画も、なんてことない家族の話で、娘がやっと結婚しましたというストーリーだけなのですが、でも何か味わい深い、その感覚に似ているのです。


ドラマのないドラマが力を持つ、小さな宝石のような作品です。

大学2年の夏休み、一か月ほどオーストラリアを貧乏旅行してきました。初めての海外旅行で何もかもが新鮮に見えた気がしました。オーストラリア大陸の大

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部分は砂漠ですが、中央部にエアーズロックという巨大な岩があります。そこに至るには、アボリジニという先住民族が居住する地域を通っていかねばなりません。長距離バスで移動していた私も、バスでそこを通りました。道端には、昼間から酒を飲み酔っ払っているアボリジニが大勢、ふらついています。中には、木などに動物などを描いた作品(現在はアボリジニ・アートとして人気)

を販売している人もいますが、多くは単なる怠け者にしか見えませんでした。

 

知り合ったオーストラリア人に聞いてみると、政府が先住民の土地を利用してうる代償に、保護区を定め、そこのアボリジニには金銭保障もしているとのこと。だから、昼間から酔っ払っていられるのです。でも、保護することで彼らをスポイルし、近い将来アボリジニはいなくなってしまうのではないかと、その時強く感じました。保護することで絶滅させる。意図的にそれを狙っているのか、善意でやっているのかは分かりませんが、一瞬背筋が寒くなったことを覚えています。

 

なんでこんなことを思い出したかというと、先日(10/3)NHKのETV特集 「なぜ希望は消えた? -あるコメ農家と霞が関の半世紀」という番組をみたことと、突然現れたTPP騒動のためです。

 

当人は良かれと思い行ったことが、巡り巡って悲惨な結果を招く。システム・シンキングでは「応急処置の失敗」と呼ぶシステム原型です。それを日本という国家が半世紀にわたってきたのが農政なのです。もちろん、そんな単純な問題ではなく政治や経済状況など、様々な問題が絡み合っていることは事実です。しかし、本質は「応急処置の失敗」に違いないでしょう。

 

政治とは、「応急処置の失敗」にならないように、そうなりがちな大衆を説得して、長期的繁栄の仕組みを作り、実行させることだと思います。それが、ますます近視眼的になっているような恐怖すら感じます。ステーツマンはどこにいるのでしょうか?

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