2015年6月アーカイブ

普段、失敗経験を振り返り、そこから学ぶことが大切だと発言しているのですが、自分のこととなるとなかなか、うまく実行できません。今日は、一昨日の自分自身の失敗について振返ってみたいと思います。

 

一昨日、私が仕舞と謡を習っている観世九皇会の素人弟子の発表会が、京都の観世会館でありました。京都ですから、関西在住のお弟子さんが対象ですが、東京からも多数参加しました。私は昨秋、ホームの矢来能楽堂での発表会で初めて仕舞の舞台に立ちましたが、思うようにできず、なるべく早く次の舞台に立って、悔しさを晴らしたいとの思いがありました。そこで、今回京都の会に参加したわけです。(発表会後の宴会が楽しみだったこともありますが・・)

kamae.JPG

 

昨秋の初仕舞の出番直前、自分ではそれほど緊張しているとは思っていなかったのですが、そうではありませんでした。切り戸口裏ですぐ前の順番の方が終わるのを待っているとき、ふと最初の詞章を思い浮かべようとしたら、なんと出てこなくなってしまったのです。

 

簡単に段取りを説明すると、私の演目は「紅葉狩」だったのですが、演者(私)が舞台に出て、地謡の前に座り構えたのち、「されば仏の戒めを」と一節謡います。そして、後を受け地謡が謡い始めたところで私が立ち上がり舞を始めます。だから、この一節を私が謡えなければ始められません。その最初のたかだか一節が、頭の中から消えてしまったのです。一瞬焦った私は、周りを見回しました。たまたま、そこを内弟子の河合さん(女性です)が通りかかったので、急いで教えてもらったのです。幸いそれですぐ舞台に上がることができ、難を逃れましたが、自分にそんなことが起きるとは思いもしなかったため、動揺が残っていたのでしょう。普段の稽古で一度も間違えたことがないところで、間違えてしまったのです。ものすごく悔しかったです。緊張している自覚があまりないのに、実は緊張しており、簡単なところで失敗してしまったのですから。

 

さて、そして二回目の仕舞の舞台。今回は「班女 クセ」で舞台に立ちました。私が謡うところは、最初と中間の二か所あるのですが、絶対忘れないように周到に準備しました。同じミスは犯したくないですから。切り戸口裏で出番を待つ間も、何度も口の中で繰り返していました。そのためか、今回の方が緊張していないように感じ、「今回はうまくいくかも」と少し安心していたのかもしれません。

 

そして、いよいよ出番。切り戸口の開閉は、最初に仕舞を習った中所先生でした。先生に促され舞台に出ました。普段稽古している矢来能楽堂では、最初に座る位置の床板が、長年の使用のため擦れて色が変わっており、それが目印になっています。しかし、ここではそんな目印はありません。4人並んだ地謡の、中間の位置を目指して片膝をつきました。そして、「さるにても我がつまの」と大きく謡いました。あとは、地謡に合わせて体を動かせばいいのです。

 

何度も稽古しているので、型を忘れる不安はあまり感じていませんでした。演技を進めるうちに、ふと客席が気になりました。京都の友人が応援に来てくださっていたので、なんとなくどこにいるのかと探してしまったようです。すると、脇正面に若い金髪の欧米系の女性が目に入り、また正面席にはアフリカ系の若い男性の姿も目に入りました。さすが京都、こんな素人の会に外国人も見に来るのだなと、何となく頭をよぎったようです。後でわかったのですが、京都観世会館はの客席はすり鉢状になっており、とても見やすい傾斜です。ということは、舞台上からもお客さんの顔がよく見えるのです。

 

でも、これらは全て邪念です。地謡の声に集中しなければなりません。それぞれの詞章と仕舞の動きは対応しています。私は今回、詞章をすべて暗記して臨みました。謡と仕舞の動きがずれないようにするためです。しかし、観客席に意識が少しいっていた中間部あたりで、私の動きと謡が少しずれていることに気づき、一瞬「まずい修正しなければ」と思ったのです。稽古の時もその程度のずれは時々起ることで、それほど大きなミスではない。十分修正できる程度のずれです。でも、それに気づいた瞬間、頭が真っ白になったのです。真っ白というのは適切かどうか、一瞬時間が止まった、あるいは記憶が飛んだ気分です。

 

ふと我に返ると、謡はそのまま謡われているのに、仕舞と詞章の対応が分からなくなっていました。道に迷った感じ。その間私の動きは止まっていたでしょう。思いっきりまずい事態です。その直後、「秋風怨みあり・・」という謡が耳に入り、位置が分かりました。そして、その部分の型にすぐ移ったのです。とにかく元の道には戻れましたが、動揺は隠せません。その後、なんとか仕舞を最後までやり通せましたが、頭の中で様々な感情が渦まいていました。

 

これが、私の二度目の失敗談です。頭が真っ白になった時間は、多分4,5秒だと思います。素人が観れば、そういうものだと思いミスに気付かないかもしれません。そのくらいの間なのです。でも、私の中では数分も経過したように感じました。なんで、こんなことが起きてしまったのか。今回も、稽古の時にそんな失敗をしたことがないところです。引っ掛かりやすいところではありますが、その分注意していたので、忘れたことは一度もありません。しかし、今回はその注意が他のこと(観客席やずれの自覚など)に気を取られたため欠落し、さらにそこに焦りが加わり頭の中におかしな作用を及ぼしたのかもしれません。

 

私が止まった瞬間、切り戸口の内側では、モニター(舞台の映像が映される)を観ていた中所先生が、「真っ白になった!」と頭を抱えていたと、その場にいた稽古仲間から聞きました。

 

今回は、前回ほど私は最初緊張していなかったのかもしれません。もし、緊張していれば観客席に目は行かないと思うからです。どこかで、緊張が緩み、集中もできていなかったのでしょう。緊張していれば、頼るのは地謡しかないわけですから、地謡の謡いを集中して必死で聴いていたと思います。それさえできていれば、詞章と仕舞の型のリンクはかなり体に染み付いていたので、今回のような失敗はしなかったのでは。

 

前回は思いがけなく緊張しすぎて、今回は思いがけなく緊張しなくて、二度の失敗を繰り返してしまいました。緊張感を「うまく」コントロールし「うまく」集中すること、それが私の現在の大きな課題なのだと思います。次回、なんとか今回の学びを活かしたいと、本気で思っています。

 

まめ藤さんと.JPG

なお、終演後の宴会は思いっきり楽しみました。こっちは当初の期待通り、いや期待以上でした!!












******************** 2015/6/17 追記 ***************************

昨晩、中所先生とお会いする機会があったので、京都での失敗についてお詫びしました。すると、「我々だって、ああいうことは起きます。でも、すぐに戻れて良かったですね。謡をしっかり覚えていたから、その時の詞章を聞いてすぐに正しい仕舞の動きを思い出せたのです。謡を覚えておくことは絶対必要です。」とおっしゃいました。確かに、あの場面でもし謡を覚えていなかったら、と思うとぞっとします。大きな教訓です。

あまりに有名なニーバーの祈り。

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

 

O GOD, GIVE US

SERENITY TO ACCEPT WHAT CANNOT BE CHANGED,
COURAGE TO CHANGE WHAT SHOULD BE CHANGED,
AND WISDOM TO DISTINGUISH THE ONE FROM

THE OTHER

 

「変えることのできないもの」とは、死や老、あるいは他人と完全に理解しあうのは不可能なことのように、人間として抵抗できず受け入れざるをえないものを指していると思います。そういったものには、抗うよりも受け入れることを学ぶべき。

 

翻訳では、最初に「変えることのできるもの(SHOULD BE CHANGED」といっていますが、本来は、「変えるべきもの」という訳のほうがしっくりきます。(また、なぜ大木氏はあえて原文と順序を変え、「変えることのできるもの」を先に持ってきたのかは不明)

 

また、「変えるべきもの」に対して「変えるべきでないもの」もあるはずです。特に近年は、変えることが善であり、変えないことは悪だという、空気も大きくなりつつあるようです。

 

そこで、「変えるべきでないもの」のフレーズを加えたいと思っています。

 

変えるべきでないものについて、

それを守り続ける頑固さを与えたまえ。

 

以下、私なりに追加修正してみます。

 

神よ、

変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

変えるべきものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えるべきでないものについて、

それを守り続ける頑固さを与えたまえ

 

そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものと、
えるべきでないものを、識別する知恵を与えたまえ。

 

つまり、まずその是非や価値は問わず、例外なく存在する「変えることのできないもの」に言及し、次に「変えることができるもの」を「変えるべきもの」と「変えるべきでないもの」に峻別し、双方に対して言及する、こういう流れのほうが、私にはしっくりくるのです。

 

近頃特に、「変えるべきでないこと」は、案外忘れられている気がします。古代より舶来品や舶来思想に滅法弱い日本人ですから、「変える」ことへの志向というか憧れはDNAに染み付いていますので、別に最近だけのことではありませんが。

 

ただ、面白いのは、単純にそのまま日本に取り入れたものは実はあまり多くはなく、フィルターを掛けたのち、日本人に適合するように変形して取り入れていることです。例えば、律令制を中国から輸入しましたが、その根幹をなす科挙制度は採り入れませんでした。禅や仏教もそうですね。

 

このように日本人は、古来「変えるべきもの」(取り入れるべきもの)と「変えるべきでないもの」(取り入れないもの)を峻別する賢さを持っていたのではないでしょうか。

 

これこそが、日本人が「変えるべきでないもの」だと思うのですが、では「変えるべきでない」と判断する基準は何でしょうか?そこに、日本人の思想の古層あるいは原型、構造のようなものがあると思われます。

 

こういう時代だからこそ、それについて深く考えてみるべきではないでしょうか。

 

規模が大きい方が勝つのは常識だと思われますが、そのロジックを整理することは案外なされていません。

 

規模効果(Economy of scale)といった場合、一般にマーケティング費用や減価償却費などの固定費が多くの製品に按分されることでコストが下がる効果と、バイイングパワーが強まることで原材料費などの変動費が低下し、コストが下がる効果の二つがあります。

 

また、学習(習熟)効果によって生産性が向上し、コストが低下することも広い意味では規模効果です。

 

さらには、範囲の経済性(Economy of scope)も効きます。コンビニチェーンの配送を考えたとき、トラック一台に1品種を載せて周るよりも、10品種を載せたほうが効率的に決まっていますね。つまり、品数の幅(範囲)が広いほうが資源の有効活用ができるため、範囲を広くできる規模を持つ企業のほうが有利なのです。

 

ついでに言えば、ネットワーク経済性も規模が大きいほうが効きやすいでしょう。またコンビニの例でいえば、ある狭いエリアにドミナント出店することで、配送ルートが効率化し、一店当たりの配送コストは安くなります。これは必ずしも企業規模ではありませんが、一定範囲内での規模(店数)が重要という言い方もできます。

 

ここまでは、これまでも盛んに規模を正当化するロジックとして語らてきたことです。ここに、「学習の経済性」を新たに加えたいと思います。

 

先に述べた学習効果は、生産従事者やサービス提供者などの個人が、習熟により技能を高めることを想定していました。そういう熟達者が増えることで、企業全体の生産性が高まり、コスト優位を実現する、そういうロジックです。確かに、生産現場や小売り業や外食産業では、それも有効です。しかし、コスト削減効果はわりと速く逓減してしまうのではないでしょうか。だから、そういう現場では、正社員ではなく、アルバイトや派遣社員の比率が高い。それはそれで、理に適っています。

 

私が追加したい学習の経済性は、ちょっと違います。平均コストを下げる方に働くだけでなく、付加価値を向上させるほうにより効果を生むものです。

 

DMG森精機の森社長のインタビューが参考になります。森精機とDMG社を合併させる理由として、規模が大きくなることのメリットをいくつか語り、最後にこう強調します。

 

最後は、実はこれが最も重要なんですが、知恵の集積です。我々は現在、月に約1000台の機械をお客様に納品しています。一方、多くの競合相手は50台くらい。我々は月に1000の現場での最新事例を勉強えきるのです。(中略)我々の場合、日本や中国はもちろん、欧州全域、米国の最新事例までも知ることができます。この差は大きい。

 ここで言う知恵とは、部品の材料、加工方法、使用している工具やソフトだけではありません。世界中に散らばる我々のサービス担当者がお客様の元に行くので、工場で働くワーカーの質やホストぶり(顧客の迎え入れ方)までも学ぶことができます。(日経ビジネス 2015.05.25

 

これは、同社が工作機械メーカーだからではありません。今の時代、出来合いのものを長年売り続けられる企業なんて存在しません。常に、改善、改良、新製品を出し続けなければ負けます。そのために必要なものは、出来るだけ多くの有効な情報であり知恵なのです。それらを獲得するにも、規模の大きさ、顧客基盤の広さが必要になりつつあるということです。つまり、学習機会の多さが付加価値向上に大きく効いてくる。

 

但し、条件があります。どれだけ学習機会が多いとしても、それを学ぶ学習能力が低ければ、猫に小判。DMG森精機では、組織としての学習能力が高いので、学習機会規模を求めるのだということを、忘れてはいけません。

 

学習能力X学習機会=学習の経済性

 

なのです。これは逆説的ですが、たとえ規模が小さくても、学習能力で(学習能力の高くない)規模の大きい企業に伍していくことも可能だということを示しています。学習能力Based competitionでしょうか。(東大藤本教授は、「能力構築競争」という言葉を使っています)

 

過去の規模効果は、コスト低減の方向にのみ着目していましたが、これからは付加価値向上のためのロジックを見定めていくことが重要です。

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