2014年12月アーカイブ

役員会や経営会議が活性化しない、機能しないという悩みをよく聞きます。トップが発言するだけで、他の参加者は聞いているだけ。ある参加者が発言しても、他の参加者は専門外とばかりにやはり聞いているだけ。そんな会議で、適切な意思決定ができるとも思えず、現状追認か逆にすべて「リスクが高い」との究極の反論であたらしいことは進んでいかない。企業の最高意思決定機関がこうですから、下のレイヤーでの会議も推して知るべしでしょう。


ある企業の研修(入社10年目くらい)で、終了後受講者の一人からこんな質問が講師にありました。

「グループ討議後の発表で、自分のグループの発表者の理解が足りなかったのか、ちょっと違う解釈で発表してしまった。発表者はできるだけ機会を与えようと持ち回りにしたので、そういうことも起きてしまう。でも、発表後に私からそれは違うと意見を言ってしまうと発表者の気分を害してしまうかもしれない。そういう場合、どうやって発言内容を修正すればいいでしょうか?」

 

こういう質問がくること自体驚きでした。その企業は非常に優秀な社員が多く、議論も活発です。年長者の意見に皆が従順に従うという雰囲気でもありません。それどころか、闊達な意見交換がなされる印象でした。しかし、この質問から推し量るに、メンバー同士の軋轢となるようなことはしたくなく、調和を重んじ、その中で多くが不満に思わない結論を導き出していくような、討議の進め方をしているようなのです。

 

誰かがファシリテーター役を買ってでて、効果的な討議運営を図ればもっと良い意見が生まれてくるでしょう。でも、自分がしゃしゃり出てファシリテーター役を買って出るのは、ちょっと嫌だという雰囲気があるのかもしれません。能力は高いのですが、それを発揮するのは遠慮する。奥ゆかしいのかも。きっと業務上の会議などでは、上司や責任者が必然的に議長やファシリテーター役を務めるので、うまく機能しているのでしょうが、研修のような並列関係のメンバーで構成される討議場面では、ファシリテーター不在となってしまう。そういうチームダイナミクスがはたらいているようです。

 

個人の能力は高くても、必ずしも組織の成果に結びつかない、つまりΣ(個人の能力)>(組織の能力) という現象が起きてしまっているかもしれません。「組織が強い」ということは、以前ならトップダウンで上の考えが末端まで速やかに浸透するという意味だったかもしれませんが、現在「組織が強い」とは、組織内の化学反応で新しいものが生まれる仕組みができているという意味で使われているのだと思います。

 

では、どうやって化学反応を起こすのか。

 

日経ビジネス誌、富士重工吉永社長の「経営教室」で、こう吉永社長は語っています。

吉永社長.jpg

 

役員会議では、私はなるべく発言しないようにしています。代わりに、参加者の理解が深まっているかどうかに気を配っています。技術の専門的な話を、営業系の人がきちんと理解できているかどうか。またバランスシート上の細かい数字の話が、技術系の人たちにまで腑に落ちているかどうか。そこを見るようにしています。

 

ですから私は、「それはこういう意味だよね」「ここがポイントなんだよね」などと、参加者の理解を深める発言をします。会議に参加するメンバーの知識や見識を引き出しながら、なおかつトップとしての基本的な考え方、会社が進むべき方向性を伝えたいからです。

 

吉永社長は、ファシリテーターとして議論の科学反応を促しつつ、自分の考えも伝えている。参加メンバーは、社長から考えを押し付けられたとは思わないはずです。それどころか、その考えは自分が生み出したくらいに思うかもしれません。こういう役員会があれば、下の階層の会議も同じような形態で進む可能性が高い。結果として、組織は強くなる。上に立つものは、カリスマではなく科学反応を促すファシリテーター、そういう企業が今後は生き乗っていくことでしょう。


 

 

 

 

 

 昨日、NHK-BSCool Japanという番組(再放送)を見て、いろいろ考えさせられました。昨日のテーマは、外国人が日本の慣習、ルールについて疑問に思うことでした。それらについて、一般の日本人に理由を聞き、それについてスタジオにいる10人くらいの外国人(南アフリカ、英国、米国、中国、ノルウェー、チリ、ロシア・・・)同士で意見交換し、最後に外国人たちが、その習慣はCool Not coolかを表明するというものです。

そこであげられた慣習は以下です。

1)お見送りの際に、相手が見えなくなるまで送り続ける

2)人前で足を組まない

3)乾杯が終わるまでは、誰も飲んではいけない

4)電車やバスの中では携帯電話で話さない


確かに外国人が、それぞれ不思議に思うのもわかります。番組を見ながら、各国のものごとの捉え方の違いがよくわかって面白い。

 

例えば、ほとんどの外国人は足を組む方が、相手に対して敬意を表すことであると考えていました。相手が足を組まずまっすぐに足を置くと、早く話を終えて帰りたいのではないかと不安になるということです。確かに足を組むと、すぐには逃げられない。日本人は足を組むことは横柄な態度で、相手に失礼と考えますが違うもんですね。唯一足を組まないといったのは南アフリカの人で、当地では足を組むのは女性だけで、男が組むと女っぽいと見られるのだそうです。へーっ!

 

4つとも、日本人が相手に対して気遣いをすることがその理由だと、外国人も理解はしているのですが、なかなか納得はできず、13までは大半がNot coolでした。しかし、4番目の携帯電話のマナーだけ、逆にほとんどの外国人がCoolと感じていたのは新鮮な驚きでした。


どの国でも、電車内で携帯電話を使って話すのはマナー違反とは考えられておらず、普通に話すそうです。彼ら自身もそうです。しかし、使われていると時々イラつくこともある。そういう彼らは、日本に来て携帯電話で話す人が(ほとんど)いない社内では、とてもくつろげて快適だというのです。彼らは日本の公共交通機関の静けさや安全を、非常に高く評価しています。つまり、自分の国でも本当は社内携帯電話使用禁止にして欲しいと思っている。でも、それは不可能だともわかっている。集団よりも個人の利害を重視するので、絶対他者のために便利な携帯使用を控えることはないと。

 

携帯電話のマナーは、世界どの国においても、携帯電話が普及してからせいぜい15年くらいで普及した新しいマナーです。それほど歴史的経緯は関係ない。そこで、日本だけがそういうマナーが出来たのは面白いですね

過去15年間は、世界に功利主義(利己主義)が広がった時期といえます。その時期に登場した携帯電話についても便利さが最優先され、日本以外ではマナーは作られなかった。もし50年前に携帯電話が発明されていたら、各国のマナーはどうなっていたか?上記、13まではおかしいと感じた外国人も、携帯使用に関しては日本人の態度を高く評価している。相手を慮る心は万国共通だが、その程度や表現方法が国によって異なるのでしょう。


日本には個人主義が弱いのと同じ意味で利己主義がまだ弱い。言い方を変えれば、相手を慮る心は残っている。そして、それを残している日本を、ある意味外国人は羨ましいと思うこともある。これは日本の財産であり、アドバンテージと考えるべきでしょう


これまで多くの日本人は、外国人(特に欧米人)のマナーや行動が正しいもので、それができない日本人は遅れている、外国人と同じように振る舞わなければという強迫観念がどこかにあったように思います。(電車内で嬉々として携帯電話で話している日本人もそうかもしれません)しかし、携帯電話のマナーのように、外国人がしたくてもできないことを日本人は実現している、ロールモデルになり得るんだと認識することも必要なのだと思います。


もちろん、日本人が見習うべきことはたくさんあります。ステレオタイプで画一的に判断するのではなく、ひとつひとつ自分の頭で考えて判断していく、そういう賢さがこれからは求められていくのでしょう。

 

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