2011年9月アーカイブ

一昨日の夜、NHKで「サンデル教授の『究極の選択』」という番組を観ました。ご存知のサンデル教授が、東京、上海、ボストンを衛星で結び、ディスカッションを仕掛ける番組です。今回は震災復興がテーマです。

 

東京だけなぜか必ずしも現役学生でないのが変でしたが、上海復旦大学、ハーバード大学の学生らが参加、サンデル教授の見事なファシリテーションで、深い議論に入り込む様子が興味深かったです。

 

サンデル教授が繰り出す質問、すなわち論点が非常に明確で、それが番組に緊張感を与えていました。

        自然災害への復興は誰が負担すべきか

        それへの補償には、被災者の被害の大きさによって差をつけるべきか

        原発災害の補償は誰が負担すべきか

        危機を引き起こした企業は救済されるべきか

        原子力発電を今後どうすべきか

        貧しい人や国に対価を払ってリスクを負担させることは公正か

 

どれも現在の日本が国を挙げて真剣に議論すべき論点です。教授は、議論を深めるため、2001年の3.11テロ被害者への補償の例、リーマンショック直後の銀行救済の例(日本のバブル崩壊後の銀行救済にも触れて欲しかった)、南北戦争での身代わり傭兵などを引き合いに出していきました。

 

学生の反応は国によって違いがあるのは当然ですが、思ったほど差は少ない印象でした。一番差が目立ったのは、原子力発電を継続させるべきかの質問。日本では半数は脱原発なのに対して、ボストンは全員が原発支持だったのはちょっと驚き。

 

面白かったのは、サンデル教授が原発支持派にした質問です。自分の住む地域に原発ができることに賛成するか?ボストンでは、支持派の半数が手を下ろしました。つまり近くではいや。東京では、支持派4人のうち一人だけが手を挙げ続けました。その理由を問うたところ、「現在の豊かな生活を維持するには原発が必要。そのために必要なら近所に原発ができるのは仕方ない」と応えました。

 

そう応えた日本人女子学生のあっけらかんとした物言いと、リアリティーの無さ、そして「仕方がない」という日本的な理由に、今の日本人の典型をみたように思います。彼女は、沖縄の米軍基地が彼女の住む東京のど真ん中に移転してきたとしても、日本を守ってもらうためには「仕方がない」と素直に受け入れるのでしょうか。

 

それから、日本人の参加者に目立った発言というか姿勢がひとつありました。それは、必ずしも教授の質問に正面から答えないで、その周辺に関する持論を開陳するだけで終わってしまう姿です。これは今回の出演者の特性ではないと思います。質問の意図がわからなくてそうなっているというよりも、正面から答えることを何となくよしとしない雰囲気があるのではないでしょうか。それが大人の答え方とでもいうように。TVの討論番組でも、パネルディスカッションでもそれが普通です。

 

そもそも今回の番組のように論点を明確にしての議論が少なすぎる気がします。教授のように論点を深堀りするような追加質問をできるような司会者(議長)もいないし。こういった風土が、現在の日本での復興の遅れや政府の混迷につながっているように思えてなりません。安定期であればそれでもよかったでしょう。しかし今は危機なのです。

 

平和ボケという言葉がありますが、安定ボケではないでしょうか。三人の日本人コメンテーターが登場していましたが、正直いる意味がわかりませんでした。そのうちの一人(彼女はバレエダンサー)のコメントが象徴的。「議論を聞いて、たくさん考えなければならないことがあることを実感しました」、なるほど、日本人の大人の問題意識レベルをあぶり出すという意味では存在価値があったのかもしれません。

 

建設的議論を忘れた国家が、どうやって危機を乗り越えるのか、歴史が示すありうる唯一の方法は独裁者への委任です。

 

話が少し大きくなりましたが、真面目な議論、真面目な対話の技術こそ、今の日本人にとって必要なスキルだと改めて痛感しました。

 

前回、映画「綴方教室」について書きましたが、その映画で戦前の職人の不安定なくらしと勤め人との違いがよく理解できました。

 

映画の終盤、貧しさゆえ芸者に売られそうになった主人子正子ですが、フリーのブリキ職人である父は工場の常雇いの職工となり給料をもらう身分になったことから、その危機を脱します。また小学校を卒業した正子も、女工として給料をもらえる身分となり明るい未来が開けていく、そんなエンディングでした。

 

当時会社の社員となることは、貧乏を脱して生活を安定させるための特効薬だったのです。さらに終戦後の労働争議、高度成長を経て、終身雇用は日本的経営の中核と言われるようになりました。

 

しかし、バブル崩壊後は終身雇用崩壊も引き起こしました。リストラの嵐が吹き荒れ、大企業の正社員であっても退職を迫られるような事態となったのです。それを促すかのように、終身雇用は日本企業のグローバル競争の足かせとなるとの論調が強まり、それを理由にトヨタの社債が格下げされるほどでした。

 

ところが、多くの大企業は終身雇用の看板を下ろすことはしませんでした。代わりに終身雇用をなんとか守るため、正社員の採用を絞り込み、非正規労働者の比率をどんどん高めていきます。もともと終身雇用を維持していたのは大企業の男性社員だけで、全労働人口の8.8%に過ぎないとのデータもありますが、さらに狭き門となったのです。

 

その結果、終身雇用で守られるであろう大企業の少ない正社員の椅子を目指して、新卒学生の悲惨な「就活」が繰り広げられることになりました。それは、リーマンショック、震災を経て、ますます過激になっているようです。(まるで正子の時代に戻ったかのごとく)

 

ここで素朴な問いです。現在及び将来において、大企業はやはり終身雇用の看板を外さないほうがメリットは大きいのか?終身雇用ではグローバル競争に勝っていけないのか?正社員を絞ることは競争上得策なのか?新卒社員は、新卒で大企業に就職したほうが長期的にもメリットが大きいのか?

 

私の個人的経験からは、会社にとって終身雇用のメリットは依然大きいと感じています。その会社の価値観を共有したり、社内のネットワークを構築し、それによって効率的かつ効果的な仕事をするには、絶対終身雇用のほうが有利です。日本企業がボトムアップ力に優れているのは、終身雇用と深く関係しているでしょう。

 

もちろん多く議論されているように弊害も大きい。環境変化に弱い、イノベーションが生まれにくいなどなど。しかしそれらは、トップダウンの弱さ、もう少し言えば経営層の質の低さにあると思います。つまり上記弊害は終身雇用故ではなく、経営層の質の問題だと考えます。もちろん、終身雇用ゆえ神輿に乗る調整能力に長けた経営者がいいのだとの意見もあるでしょう。でも果たして本当にそうでしょうか?

 

トップダウンと終身雇用は併存できないのでしょうか?会社組織の問題は、どうしても扱いやすいテーマ(採用絞り込み、組織再編など)や制度論に行きがちです。でも、本丸は経営層の意識や能力の問題ではないでしょうか。とはいえ誰も手をつけられない。結局そこに手がつけられるのは日産やJALのように破綻に直面した場合だけになりがち・・。

 

そろそろ新しい日本的経営のモデルを見つけなければならないでしょう。もうお手本となるモデルはありません。試行錯誤を繰り返してでも自ら見つけなければなりません。企業も政府も同じ、もう残された時間はあまり残っていない気がします。

昭和13年山本嘉次郎監督作品のこの映画は、主演の高峰秀子と原作の豊田正子との不思議な縁を感じさせます。当時13歳だった高峰と15歳だった豊田、若くして人気者となったふたり。奇しくも二人は昨年12月、相次いで亡くなりました。


原作は、東京下町の貧しい一家の長女正子を中心とした物語です。家族は貧しさゆえ窮地に陥ったりしますが、威張っているものの気の弱い父と気丈な母、無邪気な二人の弟とともに、ひっそり暮らしているのです。


映画では、高峰演ずる6年生の正子は、小学校で綴方(作文)がとても上手だと先生に褒められます。その後、つらいことがあっても綴方をひた向きに書き続けることで、明るさを保っていきます。大好きなその先生は、その後も正子を支えます。


一方、現実の高峰は5歳から子役として脚光を浴び小学校すらまともに通えませんでした。そんな彼女の楽しみは、ファンやスタッフからもらった絵本や雑誌などを見て、ひとり字を覚えることだったそうです。しかも育ての母親は、高峰を金づるとしか見ていない。夜中に布団の中でこっそり本を読んでいると、それを見つけた養母は、「字の読めない私へのあてつけか!」と怒鳴り、本を破って捨てたそうです。

 

貧乏だが優しい家族や先生に恵まれた豊田、おカネはあるが不幸な家庭で学校にも行けない高峰、同年代でありながら対照的な二人だったことで

綴方教室.jpgしょう。映画化の際撮影所を訪れた豊田に高峰が女工を見下した発言をしたと豊田が書いたことの反発した高峰が、内容証明でそれに反論する騒ぎもあったそうです。末恐ろしいふたり・・。

 

その後、ご存知の通り高峰は名作「二十四の瞳」で、先生を演じました。「綴方教室」で先生の愛情をいっぱい受けた正子を演じた小学校にも通えなかった高峰にとって、特別な役ではなかったかと想像します。この役で、女優の名声を確かなものにしました。

 

ところで、書籍「綴方教室」はベストセラーになりましたが、豊田は貧乏生活から抜け出せたわけではありません。その本の著作権者は豊田ではなく、あの先生のものになっており、豊田には一銭も印税は入ってこなかったからです。何ということでしょう。


小学校を卒業し女工になっていた豊田は、その後も創作を続けます。空襲で弟を失い、戦後は共産党に入党。文化大革命時の中国に渡り苦労したようです。夫からは捨てられ、帰国後もほそぼそと宝飾店で働きながら、創作を続けました。あるエッセーに、共産党は貧乏人の味方だと思っていたがそうではなかったと、書いたそうです。

 

幸せな結婚生活を送り早くに女優を引退、その後エッセイストとしても活躍した高峰、創作を続けながら貧乏と戦い続けた豊田、その二人は昨年12月に相次いで亡くなりました。何が二人を分けたのでしょうか。昭和の歴史がここでもひとつ幕を閉じた。そんなことを感じた映画「綴方教室」でした。

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