2009年6月アーカイブ

雑誌「人材教育」7月号が、「日本の経営人材育成を考える」を特集しています。私もこれまで、少なからぬ企業の経営人材育成をお手伝いしてきたので、興味深く読みました。

 

 

神戸大学の三品教授は、日本と海外企業の経営者を比較して面白い切り口を示しています。

 

80年前後:日本の創業経営者 VS アメリカの専門経営者

     (松下幸之助、盛田昭夫、本田宗一郎、豊田英二ら)

90年代:アメリカの創業経営者 VS 日本の専門経営者

     (ビル・ゲイツ、アンディ・グローブ、ラリー・エリクソンら)

    現在:韓国・台湾の創業経営者 VS 日本の専門経営者

 

結局、グローバル競争力の変遷も、経営者タイプに代表される企業の発展段階で解釈できるようです。(もちろん例外はありますが)

 

創業経営者と専門経営者の違いは、創業者は目的のために手段を選ばないのに対し専門経営者は、手段(プロセス)へ固執することだそうです。言いかえれば、会社の生き残りのためなら手段を選ばない創業者と、秩序重視から抜けだせない専門経営者ともいえるでしょうか。

 

創業社長が、後進に譲った後、業績不振からカムバックした例はたくさんあります。あまり見た目はよくはありませんが、それが創業者なのです。ヤマト運輸の小倉さん、ファーストリテイリングの柳井さん、スズキの鈴木さん、新生銀行の八城さんなどなど。創業者とそれ以外では、明らかに違うのです。

 

 

では、日本の既存大企業で専門経営者を輩出するにはどうしたらいいでしょうか?答えはひとつでしょう。組織の枠の中であっても、疑似的に創業者的役割を担わせることです。新規事業、事業投資先、関連会社など、大企業であればあるほど、その候補先はたくさんあることでしょう。できるだけ早い時期に、そこに放り込むのです。親元からの支援を最少にして。

 

かつての銀行は、取引先支援と称して若手行員を倒産寸前の企業に派遣しました。リクルートの元気がいいのは、どんどん新規事業を創らせ実質的に経営をさせるからでしょう。近年では、総合商社が投資先に若手を経営陣として多数送り込んでいます。

 

まだ実力も経験もない若手が、そういう境遇に追い込まれれば、いやでも勉強もしたくなります。そうなって、初めて経営人材教育(研修)の効果が期待できるのです。

 

同期でトップだから選抜教育を受けさせようなどという、トップや人事の配慮は、思うほど効果は上がらないでしょう。当然ですが、学習効果など、本人の意欲、もう少し言うと渇望感次第なのですから。

再現性を重視する科学では、正解が存在することを前提とします。一方、かつての日本では、必ずしも正解すなわち勝者と敗者を分けず、曖昧な落とし所を見つける「大岡裁き」が重視されてきたと思います。

 

ところが、グローバリズムの名の下で、日本人の「科学教」への改宗が驚くほどの速さで進みつつあります。

 

 

そんな中で、昔の日本映画を観るとほっとします。先日観たここに泉あり.jpg、「ここに泉あり」(昭和30年;今井正監督)は、地域を文化で立て直そうとの目的で設立された高崎の群馬交響楽団の創設初期の苦闘物語です。

 

芸術性追求と「食うこと」の挟間で対立する若い楽団員の悩みに、小林桂樹演ずるマネジャーが、こう言います。(うろ覚えですが)

 

「○○君の言うことも正しいし、君の言うことも正しい。どちらかが完全に正しく、もう一方が正しくないなんてこと、滅多にあるもんじゃないよ。」

 

その後、この対立構造はさらに進んでしまいます。「食うこと」派は、ちんどん屋のバイトにまで手を出しますが、空腹の芸術派は「演奏家としての矜持はないのか」と怒り、バイト代による小宴会のちゃぶ台をひっくり返し、大げんかとなるのです。食い物の恨みは恐ろしい。

 

そこへ、ちんどん屋姿を遠目で見ていた元楽団員の妻が、感激したと言って近所から集めたお米を差し入れます。喧嘩していた両派は、急にしゅんとなります。芸術家の、ちんどん屋姿は情けないという見方も、そこまでしてでも楽団を守ろうとする姿に感動するのも、どちらも正しいのです。(ちょっとずれますが、平和と空腹は両立しないという、有名な農学者の言葉も思い出しました。)

 

この楽団は、何度も解散の危機に直面しますが、その度に移動演奏会で訪れた山村の学校の子供たちや瀬病療養所の患者たちの喜ぶ顔や厚い感謝により、乗り越えます。強い組織の原型がそこにあります。

 

数年後、楽団は少しずつ成功をおさめ、東京の有名楽団との合同公演が実現します。かつてを知る東京側のマネジャーが、段違いに演奏力も向上しよくやったと病身の高崎のマネジャーを労うと、こう応えます。

 

「そうかねえ。ただ、毎日同じことを繰り返してきただけなんだが。それが、少しは鍛練になったのかなあ」

 

正しい組織の目的を見失わない限り、単なる毎日の繰り返しであっても、それが必ず進化を促すのです。

 

 

この時代の日本映画に共通するのは、たとえ貧しくとも、必ずや今日より明日が良くなるだろうという希望です。これほど人間にとって大切なものはないでしょう。もしかしたら、少し前の中国や今のベトナムが、その時代なのかもしれません。

 

科学教によって物資的豊かさを得ても、希望を失う。このジレンマから、人間は抜け出せるのでしょうか。

昨晩、NHKBSで小澤征爾さんのインタビューが放映されていました。自宅のTVではBSは映りません。たまたま、自宅近くのジムのランニングマシン上に設置されている小型TVのおかげで観ることができました。(なので、観たのはわずか30分程度)

小澤.jpg 

どの世界でも、一流といわれる方の話は、圧倒的に面白い。しかも、どこか共通点があります。うろ覚えですが、再現してみます。

 

Q:そもそも、なんでオーケストラには指揮者が必要なんですか?

A:楽団員は、世界中から集まり、しかも様々なスクールに属しています。同じ楽譜を読んでも、少しずつ表現スタイルが違うのです。それを、演奏会である一貫したスタイルで演奏してもらうには、指揮者が必要なんです。とりあえず、今回は指揮者の考えるこのスタイルでいこうと、思ってもらうわけです。でも、普通2割は、言うことを聞いてくれません。

 

楽譜はコンテンツであり、作曲者の意思が、文字や記号で表現されています。しかし、楽譜ですべてを記録するのは不可能です。そこに、解釈の余地が出てきます。だから、その都度統一した解釈をする指揮者が必要なのです。

 

つまり、コンテンツは一つでも、コンテクストは無限にある。落語でも、演劇でも経営でも何でもそうですね。コンテンツという制約があるからこそ、コンテクストで創造ができるともいえます。

 

 

Q:どうやって、多様な楽団員に指揮者の意図を伝え、従ってもらうのですか?

A:カラヤン先生から教わったのですが、各団員をInviteするのです。指示ではありません。ある意図をもって、しぐさで伝えます。その演奏者は自分のスタイルや解釈を持っており、それを表現しようとしているのですが、なんとなく指揮者の動作に影響され、そっちの方向に変わっていきます。本人は、それに気づいていないかもしれません。でも、そうなってしまうのです。それがInviteです。

 

これは、教育と全く同じだと思います。指示や命令では、特に学習者が大人の場合は、学習できません。与えられたのではなく、自分自身で創りだしたのだと思わせなければ、自分のものにはなりません。実は、教師がその方向に導いたにも関わらず。まさに、教師の世界に自然に「招き入れる」のです。

 

それが、大人の学習、教育のポイントだと思います。小澤さんは、それをInviteと表現し、実行していたのです。学校の先生であろうは、研修の講師であろうが、会社の上司であろうが同じなのです。これは、大きな発見でした。

 

 

Q:年を重ねて、音楽は変わってきましたか?

A:年を重ねるのも悪くない。今は、自由に指揮ができる。若い頃は、音楽のルールから外れやしないかと、ひやひやしながら指揮していた。でも、観客はルールを守ることより、多少音がずれても、自由に指揮した方が、絶対喜ぶんだよ。もちろん、大事なルールからは、絶対逸脱してはいけないよ。まあ、子供の頃からルールが体に染みついているから、逸脱なんてできないけどね」

 

 

守・破・離という言葉こそ使いませんでしたが、古典芸能で語られる守・破・離そのものですね。小澤さんクラスになっても、毎日の「勉強」は決して欠かさないそうです。だから、型を離れ、自由になれるのです。

 

 

いやはや、達人の言葉は、すべて勉強になります。

爆笑問題出演のNHK番組「日本の教養」が面白いです。どこが面白いかというと、毎回異なる学界の権威者に対して太田が、すごく常識的な疑問や突っ込みを入れるところです。大学や学会では、絶対出てこないような意見です。

 

権威者の立ち位置は、それぞれの専門分野にあります。それに対して、太田の立ち位置は、単なる素朴な一個人にしかすぎません。でも、その太田の質問や意見に、権威者がたじたじとなったり、妙に感心したりするのです。普通は、権威者の発言に一個人が感心するはずなのに。

 

逆説的ですが、普通は権威者=教養、なんでしょうが、この番組を観ていると、時に太田が教養を体現しているように感じることがあります。そこが、何とも面白いのです。

 

 

そうなると、教養とは何だ?との疑問がわきます。正解などないのでしょうが、私は「世界を把握し、そこに自分を位置づける力」だと定義しています。

 

来週から、東京国立近代美術館で「ゴーギャン展」が開催されます。今回の目玉は、名作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」です。

我々は・・・.jpg 

まさに、この言葉です。この疑問に答えるべく学問は発展してきたと言うこともできるでしょう。きたところ、行くところ、それは世界の捉え方を表していると思います。そして、その世界に自分自身がどう関わるのか、それれが「何者」の意味ではないでしょうか。所詮、最後は主観にしかすぎないでしょう。

 

この疑問に、それぞれの角度から切り込んでいったのが、特定の学問分野です。権威者は、ある一場面での権威にしかすぎません。それに対して、太田は主観的な総体として、切り込もうとしているのです。だから、教養を感じるのかもしれません。

 

では、どうすれば教養を身につけることができるのか?

大きなテーマですので、別途考えてみようと思います。

先週の金曜、東大中原淳准教授が主宰する恒例のLearning barに参加しました。テーマは、ずばり「リーダーシップ開発」です。

神戸大学伊達さん.jpg 

 

神戸大学の伊達さんのプレゼンを聞いていて、共感することが多くありました。企業研修の分野でも、リーダーシップ開発はとてもメジャーなテーマで、ニーズも大きい。にも関わらず、これだ!といった開発方法論も確立されていませんし、そもそもリーダーシップ開発なんてできるの?という疑問が常に付きまといます。

 

ニーズは大きくかつ誰もが何でも言えるので、魑魅魍魎が跋扈する世界でもあります。正直、私はあまり近づきたくはない領域です。

 

そこを、伊達さんは、若手研究者ゆえ大胆にも「リーダーシップはロマンス(妄想?)に過ぎない」と言い切ったのです。

 

その話を聞いていて、青山二郎が言った言葉を思い出しました。

 

「美なんてものはない。ただ、美しい物があるだけだ。」

 

それと同様に、りーダーシップなんてものはなく、ただそこでの「リーダー」がいるだけではないでしょうか。集団には必ずリーダーが生まれてきます。それらのリーダーの共通項を抽出し、それをリーダーシップとして概念化したところで、実践で活用できるとは思えません。百人のリーダーがいれば百のリーダーシップスタイルがあるというのが私の実感です。

 

ただ、似た様な時代背景や業界・業務特性、ライフステージ、企業文化、そして個人の性格などによって、リーダー像の共通項を抽出し、参考にすることは多少有益かもかもしれません。(すごく難しそうですが・・・。)また、自社にとっての好ましいリーダー像を、自ら定義することも意味があるはずです。

 

そしてその上で、そのようなリーダーが輩出されるように組織環境を整えることはできるでしょう。それは、決して「りーダーシップトレーニング」や「選抜者へのコーチング」などではないと思います。環境を整えもせず、リーダーが生まれてこない理由をトレーニング不足や上司の力不足に求めるのは、経営者の責任回避ではないでしょうか。リーダーを育てるのは、トップリーダーでしかありえないのです。

 

 

そんなことを考えさせられた、とても有意義な会でした。

 

(注:上の伊達さんの写真は、中原さんのブログhttp://www.nakahara-lab.net/blog/2009/06/learning_bar_23.htmlから転載しました。)

 

今朝の日経朝刊に、ソフトバンクが研修の外部委託を減らし、内製化を進めていくとの記事がありました。これまで、全体の6割を占めていた外部委託を2割にまで減らすことにより、費用を3割削減できるそうです。ただ、幹部研修など社内講師では難しいものは、引き続き外部委託するそうです。

 

また、中小企業診断士などの有資格者を、社内講師として登録し、年間10日程度講師を担当してもらうそうです。

 

さて、この記事から、簡単な計算で内製化と外部委託の費用の比率が、12.4であることがわかります。内製による研修費用には、社内講師や受講者の機会費用は含まれていないでしょうから、外部流出する会場費、受講者移動宿泊コストくらいでしょう。仮に一日研修で考えてみましょう。会場費は一時間約一万円で8万円。移動や宿泊費はばらつきが大きいですが、ざっくり一人7千円、受講者数を30人として、計21万円。内製研修費用合計29万円。外部委託の費用は、その1.4倍の約40万円となります。

 

 

これまでも、何度も書いてきましたが、研修費用削減のため内製化を進めるのは、大きな流れとなってきています。果たして、40万円で委託していた研修内容を、講師としてはアマチュアである社員講師が品質を落とさないで提供できるのか。なかなか難しいところだと思います。しかも、社員講師の機会費用を加味すると、実は節約額の40万円は、大幅に小さくなるはずです。(社員講師が、暇なら別ですが、そんなことはないでしょう)

 

しかし、企業では難問にチャレンジし、課題を克服していかねばなりません。そのためには、単に社員講師を起用するだけでいいのか、頭の使いどころだと思います。

かつて駆け出しのコンサルタント時代、先輩からこんなことを言われました。

 

「コンサルタントは、分析や提言の中身が重要なことは言うまでもないが、それ以前に第三者であることに価値がある。どんなに優秀な経営者でも、自分や自社のことを冷静に見られなくなることがある。だから、業界の門外漢であるコンサルタントの言葉を信頼してくれ、高いお金を払ってくれるのだ」

 

当時は、そんなものかなあと思ったのですが、年を経るに従ってその意味が良く理解できるようになりました。

 

 

先日、ある講師が予定している一日セミナーのクラス運営計画を、一緒に考えました。講師には言いたいことがいっぱいあります。当日使いたいパワーポイント資料も膨大になっています。それぞれに思い入れがあるので、なかなかカットできません。

 

第三者である私は、思い入れがないだけに、それを冷静に見ることができます。当初講師が準備してきた計画や資料を見ると、枝葉が生い茂って幹 熱帯雨林.jpgが見えない樹木のように感じました。一番言いたいメッセージ、すなわち幹を際立たせるには、大幅な剪定が必要なのです。

 

そこで、その講師が多少気分を害すことも予想しながらも、大胆にパワーポイントのページをカットし、また並びかえました。いったん、第三者がそれをやって、目の前で見せなければ、なかなか思い入れを断ち切れないのです。

 

これができるのは、私の能力や経験の問題ではなく、単に第三者だからです。私も、何度も逆の立場で苦労して作った資料を、バッサリ捨てられたものです。でも、冷静に考えれば、確かにその方がいいと思いえることばかりでした。

 

 

プロ野球の選手兼監督も、映画の主演兼監督も、演劇の主演兼演出も、たいていはうまくはいきません。人間なんて、所詮その程度の能力なんだと割り切って、それを補う方法を考えるべきなんです。

 

ただ、最近の社外取締役制度はそうか、というとちょっと違う気がしています。最終顧客のことだけを考えて、バッサリできなければ第三者とはいえないのですから。

過疎の山村にアートがどれだけ力を吹き込むことができるか、その荘大な実験ともいえる越後妻有トリエンナーレhttp://www.echigo-tsumari.jp/2009/index.htmlが、また7/26から始まります。

越後妻有トリエンナーレ2009.jpg 

私は前回2006年に初めて参加しました。参加というとアーチストみたいですが、もちろんそうではありません。でも、あの空間にいるだけで参加しているような気分になるのです。

 

今年がちょうどスタートから10年目(4回目)、当初は相当大変だったらしいです。百人を超える現代美術のアーチストが世界中からあの過疎の山村に集まり、数ヶ月も滞在して作品を創り上げるのですから、想像しただけで恐ろしいことです。

 

友人の一人が、メキシコ人アーチストの通訳として、その過程を体験したそうです。田舎の老人たちは、外国人というだけで警戒してしまいます。ましてやimages.jpg、わけのわからないモノを造る人など、想像をはるかに超える存在だったようです。文化や習慣も異なります。そういう人々を、村人が簡単に受け入れるわけがありません。

 

ひたすら忍耐強く、コミュニケーションを続けるしかなかったでしょう。異文化コミュニケーションの最たる事例ですね。

 

でも、最後は涙でお別れするまでに、その関係は強固なものになったそうです。間に入った通訳やボランティアの方々の苦労も大変だったと思いますが、やはりアートの力も大きかったのではないかと思います。

 

 

当初から三回で自治体の補助が打ち切られることが決まっていたため、四回が開催されるか微妙でしたが、これまでの評価の高さにより、自治体支援なしでも継続されることになったそうです。このような経済状況のもとで、画期的でしょう。

 

利益誘導や補助金頼りでない地方活性化の仕掛けとして、アートが果たすことのできる役割を、全国に示しつつあるこの大地の芸術祭、大げさかもしれませんが、市場重視型資本主義に代わる新たなパラダイムの萌芽という気がしています。

 

まあ、そんな理屈を抜きにしても、とにかく参加するのが今から楽しみです。

 

集団があれば、そこに必ず嫉妬は生まれます。それが人間というものでしょう。では、それをどうマネージするのか。

 

 

無名塾を主宰する俳優仲代達也による、良いパフォーマンスを見仲代達也.jpgせる劇団は、必ず組織の中に嫉妬があるそうです。むしろ、仲間の能力の高さに嫉妬できない仲良しグループでは、良い結果が残せない。「お互い役を奪いあう敵と思え」と指導しているとのこと。

 

たしかに、仲良しグループでは厳しい外部との競争に勝っていけないでしょう。内輪での心地よさと、外部競争での勝利の両立は難しいはず。

 

嫉妬を負のエネルギーと正のエネルギーに分けるものは、いったい何でしょうか?それは、自己においては、現状を客観的に観ることができる能力であり、組織としては「礼儀」ではないかと思います。

 

安定を求め、自己を客観視できなければ、その矛先は相手に向かいます。以下、立川談志のことばです。

 

「己が努力、行動を起こさず対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬というんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。(中略)現実は事実だ。そして、現状を理解、分析してみろ。そこには、なぜそうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。」(「赤めだか」より)

 

批判的思考(クリティカル・シンキング)がそこでは大きな役割を果たすでしょう。ここで、大事なのは、批判の矛先は他者ではなく自己に向かうという点です。

 

 

次に、組織としてどう対処すべきか。仲代は、それを「礼儀」に求めます。演劇では一年先輩は神様です。でも、実力と人気があれば、その先輩を追い越すこともある。「先輩を追い越すことがあるからこそ、礼儀が大切だ」という。お先に行かせていただきます。申し訳ありません。失礼させていただきます。こういう礼儀が、他者に向けられそうになる嫉妬を和らげる。そして、他者に転嫁できなくなった嫉妬心を自分自身に向け、自己研鑽の強い動機とする。これが強い組織の秘密なのだそうです。

 

嫉妬心と批判的思考と礼儀が、強い組織の源泉だという説、私はなんとなくですが、納得できます。

ウェブを活用した学習で、学習効果をもっとも左右する要素は何でしょうか?

 

東大の中原先生に伺ったのですが、画面上のインストラクターがどれだけ美しいか、だそうです。それを裏付ける研究論文もあるらしいです。それじゃあ、教育工学の役割とは何なんだと、嘆いてもおられましたが・・。

 

まあ、それはそれとして、美人やイケメンインストラクターがいなければ、どうしたらいいでしょうか?インタラクティブな機能がない、一方通行型のEラーニングで学習効果を上げることは容易ではありません。

 

視聴者の集中力との勝負です。どんなにためになるコンテンツでも、一人で画面に向かって学習するのに、30分集中させることも難しいそうです。

 

なぜでしょうか?

一方通行型では、「疑問→思考→アウトプット→フィードバックによる内省→次の疑問」のサイクルを回すことができないからではないでしょうか。最近のEラーニング教材では、これに対応するデザインを導入しているものもあるようです。最新のインストラクショナル・デザインの知見を組み込んで。でも、猿の学習実験(クイズに正解するとご褒美)を見ているようで、あまり魅力的ではなさそうです。

 

 

そこで思いついたのが、最近どのTVチャンネルを回しても放送している、複数のタレントが解答を競うクイズ番組です。 クイズ番組.jpg視聴者は、回答者の答えの理由などを聞いて、自分の考えと比較しながら観ているのではないでしょうか。つまり、他者の思考を鏡としながら自分自身も思考をする。そして正解に対しても、他者の回答と自分の回答それぞれを対照して理解する。そんなプロセスに、視聴者は模擬的に自分も番組に参加しているように感じるのではないでしょうか。

(そういう研究があると面白いのですが)

 

 

実際研修でも、自分なりの解答を持った上で、他者の発言や他のグループの発表を聞くと、大いに学習効果はあると感じます。自分が考えもしなかった思考プロセスが、いくつも見えたりするからでしょう。講師が解説するありきたりの解答よりも、ユニークな他受講者の考えに刺激を受けることも多いようです。

 

「門前の小僧習わぬ経を読む」という諺がありますが、読経だけでなく禅の公案(修行者と師との間の問答)を盗み聞いていたら、小僧もはるかに賢くなることでしょう。

 

こんなクイズ番組スタイルのEラーニング、面白いと思いませんか?

自分の声をテープで聞いたり、写したビデオを見ると、死ぬほどイヤじゃないですか?写真すら見たくないです。たとえ、傍から見てすごくきれいで魅力的な人でも、同じような反応を示しますよね。自分がなんとなく抱いている自分自身のイメージと、ギャップがあるからではないでしょうか。

 

また、お気に入りのレストランで、ある日突然味がおちたり、サービスが悪くなると、もう一切次から行きたくなくなりませんか。冷静に考えれば、おちたとはいえ、まだ他のよく行く店よりは、レベルが高かったりするにもかかわらず。

 

いまだにばたばたしている定額給付金ですが、手に入れるまでにすごく時間がかかって、もう忘れたころに受け取っても、たぶんたいして嬉しくないのではないでしょうか。驚きがなくなれば、もうけものだから散財してしまおうなんて思わなくなる。既にもらって当然のお金なんですから。

 

入社同期よりもわずかボーナスが千円多かっただけで、大喜びした人を知っています。

 

 

このように、ヒトは絶対基準で評価するより、自分が勝手に抱いたイメージと比べて評価する癖があるようです。それとズレているとすごく感動したり、逆に落胆します。

 

逆に言えば、自己イメージつまり期待値をいかにコントロールするかがポイントになってくるわけです。営業、マーケティング、交渉、部下管理、そして学習の場も。期待値のコントロールがうまくいくと、多くの問題は解決しそうな気がします。

 

 

ところで、先日教育系TV番組制作の方に伺ったのですが、90年くらい以降に生まれた人は、自分の映像や声に触れても、全く違和感を覚えないそうです。生まれた時から自分の姿を親に撮影され続けて育ったため、他者に映る自分のイメージと自分自身が抱く自己イメージが一致している(私たち大人は、そのギャップに嫌悪感すらいだく)からではないかとのことでした。だから、写されることも全然平気なんだそうです。ちょっと大げさですが、長い人類の歴史の中で、初めての人類なのかもしれません。このイメージの一致が、自分自身を客観的に見ること(物理的姿ではなくメタ認知のレベルで)にどう関係するのか、興味が湧くところです。

実証性を重視する経営学者である著者(テキサス大学准教授 清水勝彦氏)が、あえて「既存の経営知識で説明できる要因はたった3割」と言い切り、残り7割は、「それぞれの企業の特殊要因」と割っている潔さが、この本の魅力です。

 

また、「科学の徒であるはずの経営学者が、『直感』『勘』の大切さを説くのもどうかと思いますが、実際『直感』や『勘』は私たちの生活や様々な意思決定に大きな役割を果たしています。」とも書いています。

 

 

アンディ・グローブが言っているように、小さな出来事を、「シグナル」(きざし)と捉えるか「ノイズ」と捉えるか、そこに経営の本質があるように思います。ある企業にとってはノイズであっても、別の企業にとってはシグナルかもしれません。

 

その判断は、合理性では無理でしょう。そこには、直感が働くとしか思えません。これは、経営学の範囲外の部分です。

 

直感でAと判断したものの、「待てよ、よく考えてみるとBじゃないか」と思い直してBを選ぶとたいてい失敗します。これは私の経験からの学びです。でも、どうやらこの現象は私だけではないのだと、本書を読んでわかりました。

 

よく考える=説明できるようにする=過去の経験や常識に当てはめる

 

という思考のはたらきが、どうもあるようです。そして、得てして多くの場合は過去の常識が当てはまらないことが多く、それが致命的だったりする。

 

いわゆる専門家や、業歴の長い企業が陥りやすい罠です。ビギナーズラックは、偶然ではないのかもしれません。

 

 

オーナー企業で成功するパターンは、オーナーの直感によるものが多いようです。ユニ・チャームも、整理用品から紙おむつに参入することを決めた役員会では、創業者以外全員反対したと聞きました。創業者が、論理的に他の役員を説得できたはずはありません。創業者自身、直感としか言えなかったのですから。

 

 

では、どうやったら直感を磨けるのでしょうか。我々凡人ができることは、障害物を取り除くことくらいかもしれません。先に述べたように、経験や常識がそれです。そのためのトレーニングが、著者の言う「小さなこと」を軽んじない姿勢なのでしょう。

経営の神は細部に宿る
清水 勝彦
4569709303

教え手(先生)が情報を伝達するという学習モデルはもう古い。学び手自身が、外部とのインタラクションを通じて知識や知恵を創出しなければだめだ。

 

今や、この考え方は常識になりつつあります。では、どうやって第三者が知恵の創出を促すことができるのでしょうか。「では、考えてみてください」と、問いかけてみたところで、思考が進むでしょうか。

 

学習に関わるものにとって、大きな課題だと思います。そのヒントは、芸能や演劇にあるような気がしています。

 

説明や解説、飾りがいっぱいのTVドラマやバラエティーは、古い情報伝達型学習のイメージです。その時は、面白かったり、ためになったと感じるかもしれませんが、あとに何も残りません。

 

その正反対が能です。友枝昭世さんがこう言っています。

 

「能は、あえて全てを語りません。(中略)どう悲しいとか、どうつらいといった具体的な説明を避け、表現を惜しむことで、作品の世界は舞台の上だけで完結することはなく、観る人ひとりひとりの中でそれぞれの物語が創られていく。」

 

また、演劇や落語における「間」も観客の思考や想像を促します。平田オリザさんは、こう書いています。

 

「間をとるということは、すなわち観客が想像力の翼を広げる時間なのです。(中略)観客の想像力を見積もって、その範囲内で間を取ることが重要です。(中略)『やっぱり、オレもそう思っていたよ』と、あたかも観客が自分で気がついたかのように仕向けるのが、演出の仕事です。そのためには、どうしても、一度観客の脳の中に、無意識の選択肢をいくつも作っておいて、その中の一つを、観客があたかも自分で選んだかのように誘導していかなくてはならないのです。」

 

このように間接的に相手の想像力を覚醒させ、思考を導く技術を教え手は身につけなければなりません。

 

ただ、教える側に立つと、どうしても沈黙が怖くなってしまいます。受講者は、間が長いとは思っていないにも関わらず、講師は我慢できなくなり説明してしまう光景を何度も目にしてきましたし、自分でも味わいました。講師は、先のことも見えているだけに間が短く感じてしまうのです。こうして、想像や思考の機会を奪ってしまうのです。自分では、なかなかわからないものです。

 

 

相手を誘導しないことによって、「場」をコントロールする。これがプロですね。

 

今朝の日経朝刊の「大機小機」に、「レッテル貼りはやめよう」といったコラムがありました。すぐにレッテル貼りをすることは、真の問題解決にはつながらず、却って解決の妨げになってしまうのでやめようという趣旨でした。

 

特に最近は、市場経済信奉者はXYで、Xが主導した政策はすべて間違っていた、という乱暴な議論が横行しているように思えます。かつての自分は市場経済急先鋒だったが今は違う、という自らレッテル貼りをする懺悔録までベストセラーになる始末です。きっと、戦中もこんな感じだったのだと想像できます。

 

では、なぜ我々日本人はレッテルを貼りたがるのでしょうか。

    レッテルを貼ることで、問題解決につながると漠然と思っている

    他者にレッテルを貼ることで、自らの立場(レッテル)を明確に世間に示すことができ、保身できそうと考える

 

前者は、本質的な問題解決をしたがらないということの裏返しに思えます。では、なぜしたがらないか。安易に結論にたどりつくことは、心地よいものですが、論理を詰めて結論までたどりつくことは、結構しんどいことです。なかなかそれに耐えられないのです。

 

しかも、ここに至るまでに、いくつもの誘惑が待っています。

「もう、そのくらいでやめとけよ」

「みんな、冷やかにお前を見ているぞ」

「そんな理屈どおりじゃないぞ、世間は」

「悪いことは言わない。大人になれよ」

 

さらに、たとえ結論にたどりついても、今度は他者にそれを理解させるという、より高いハードルが待っています。最終ゴールは、とてつもなく遠いのです。

 

 

このような難しい局面でも、真実を追求する力が「知的強靭さ」です。

偉大と言われる、経営者(ヤマト運輸の小倉さん、ホンダの本田宗一郎など)や政治家、学者は、すべてこの知的強靭さに秀でていたのだと思います。知性と信念の双方を兼ね備えていた方々です。

ヤマト小倉さん.jpg 

どうすれば、それに近づけるのか。まだまだ先は長いです。

職場の人材育成力低下が著しいという話は、そこここで聞きます。組織のフラット化、成果主義、株主重視、人材アウトソースなど、バブル崩壊後日本企業に盛んに取り入れられた経営ツールやコンセプトは、職場の育成力を低下させこそすれ、高める方に作用することはなかったので、当然と言えば当然です。

 

そこで、最近再び職場の育成力に注目が当たりつつあるようです。ゆとり世代が社会人になる来年以降、ますますその傾向は高まっていくことでしょう。

 

 

 

では、職場の育成力を高めるには、どうしたらいいのでしょうか?プレイヤーは、以下の5者です。育成される若手、育成を担うマネジャー、職場の先輩、人事部、経営層。

 

若手自身の意識や能力は当然として、やはり重要なのは、若手が育つ場たる「職場」の前線責任者であるマネジャーの役割が重要であることは言うまでもありません。

 

では、どのようなマネジャーが望まれるのでしょうか?この認識が、プレイヤーによって大きくぶれている気がします。以下は、(ステレオタイプ的)推測です。

 

        若手:わかりやすい指示、そして親切に教えてほしい。一方やる気にさせて欲しい

        先輩:自分達は目標達成に忙しいので、教育はマネジャーにお任せしたい

        人事部:強いリーダーシップで、若手を指導してやってほしい

        経営層:なんでもいいから早く一人前にしろ

 

 

こんな周囲の思惑の中で、マネジャーは、トレードオフに苦しみます。

 

短期業績目標達成 VS 長期人材育成

手取り足取り指導 VS やる気重視で任せて育てる

とにかくやらせる VS ほめて動いてもらう

マンツーマン指導 VS 職場全体で育てる

 

それぞれ、左右どちら側にも理はあります。だから、マネジャーは悩むのです。いっその事、皆が「鬼軍曹になれ!」と言ってくれれば、どんなに楽なことか。トレードオフをmanageするのがmanagerだろ!という声も聞こえてきそうです。

 

昔から「中間管理職の悲哀」という言葉はありましたが、経済全体が成長していれば、悲哀を感じつつもなんとかなったものです。仕事がどんどん増えれば、勝手に若手は育つし。

 

 

しかし、世界は変わりました。解はありませんが、少なくとも問題は単純ではなく、ますます複雑化しつつあることを、関わる全員が認識する必要はあるでしょう。

SWOT分析、PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)、3C分析・・・・、これからはいわゆる経営戦略を学ぶに際して、必ず登場する分析ツールです。経営戦略=これらのツールを学ぶこと、としている書籍や講座もあるほどです。

 

神田昌典氏も先週の週刊東洋経済でコメントしていましたが、これらはほとんど20年以上前に提唱されたものです。少なくとも私が20年前にビジネススクールにいた時には、既に定番でした。

 

考えてみればおかしな話です。これだけ経営環境の変化が激しいにもかかわらず、20年以上前のツールが有難く教えられている。それらの有効性がなくなったわけではないとしても、せめてそれらを超える考え方やツールがもっと一般的になってもいいのではないでしょうか。

 

このような現象は、日本においてだけではないかと思います。では、なぜ?

以下は、私の仮説です。

 

複雑な問題を、ある程度誰もが理解できるように概念化し、その解法をパッケージ化し大衆化する。それによって、広く問題解決の手法が流布する。これが、アメリカ企業や経営学界のアプローチです。

 

もちろん、そこでのパッケージ(ツール)は、汎用的なものではなく、状況に応じて活用者がうまく使いわける性格のものです。ツールを知っていることより、使いこなすことに意味がある。当然のことです。

 

しかし、それらが日本にもたらせられると、そうは理解されません。極端に言えば、問題解決の魔法の杖と捉えられるのです。なぜか?

 

日本での学びでは、古来より「型」を重視してきました。型とは、一子相伝で代々伝承される家の秘法のようなものです。伝承される方は、その有効性などに疑問を持ってはいけません。ただ、間違いなく記憶し、有難く使用するのみです。他の選択肢はないのです。また、それに代わるものを見つけようともしません。従っていれば、間違いないのです。それが型です。いわば、それさえ知っていれば間違いない、魔法の杖です。

 

経営ツールを輸入した際に、ツールを型と無意識に解釈したのではないでしょうか。型ですから、それに疑問も持たないで、ただひたすら使い続ける。

 

輸入業者は、魔法の杖とは言わないでしょうが、受け入れる側がそう勝手に期待すること自体は悪いことではありません。そうして、何となく双方で魔法の杖の幻想が膨らんでいく。

 

お気づきのように、これは単に経営戦略の分析ツールやフレームワークだけのことではありません。

 

巷で売れている手軽な経営本や自己啓発本は、ツールをさも型や魔法の杖だとの共同幻想の結果売れているような気がしてなりません。たとえ高価な大工道具を手に入れたからと言って、家が建てられるわけもないのです。

 

何にしろ、本質を学ぶことは難しいものです。

 

 

 

 

 

 

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