2011年2月アーカイブ

自分を客観的にみることほど難しいことはありません。特に、自分が全体をリードしなければならないときなど、どうしても自分が描いているストーリーに沿っているかどうかに執着してしまうので、視野が狭くなってしまいます。

 

これは通常の仕事でもプロジェクトでも本の執筆でも研修でも同じです。研修の講師は、出来るだけ全体をみるようにしますが、自分自身が見えなくなるときがあります。その結果、その場で起きているある一部に目が届かなくなってしまうのです。どんなに優秀な講師でもそういうことが時に起こります。

 

本の執筆の場合は、そういう時に編集者が意見をいい修正を図ることができます。つまり編集者の重要な役割の一つは、没入する執筆者に対して客観的な視点を与えることです。編集者の貢献は非常に大きいものがあります。

 

能には、舞台の後ろに後見と呼ばれる人が二人座ります。道具の準備や着

kouken.jpg

替えの手伝いをするだけでなく、シテがことばを忘れたり、間違えたりした時に小声で正しい言葉を教えたりもします。また、万が一シテが体調不良などで舞台を続けられなくなったときには、その場で代役を務めることもあります。(当たり前ですが、滅多にそんなことは起こりません)従って、後見は弟子が務めるのではなく、同じレベルの能楽師が務めます。

 

一見、これはとても無駄で贅沢なことのような気もします。しかし、自分と同等以上の後見が後ろに控えているという事実が、シテを安心させ能力を最大限発揮させるのではないかと、私は想像しています。さらに、常に後見に後ろから見られているという緊張感が、シテに自らを客観視することを促している世にも思えます。そういう意味で、能における「後見」は非常によく出来たシステムなのではないでしょうか。

 

どんな場面であっても、人をリードする立場にある人は、自分にとっての後見を用意し、その声に耳を貸すことが大切なのだと思います。

植松電機の植松努さんの講演を昨日聞きました。主催者から「日本一感動する講演会」との案内を聞き、そこまでいうのならと足を運んだのです。看板に偽りはありませんでした。

 

北海道の小さな町工場が宇宙開発を実際にやっています。世界中からエリート技術者を集めたのではありません。みんな「素人」でした。彼らが、ことごとく世間の「普通」の考えを打ち破ってきました。普通とは過去の多くの人々の経験に照らして、最も起こりうることだと定義できるでしょう。「普通、宇宙開発は高学歴の超エリート研究者が手掛けるもの」といった具合です。

 

 

彼らの原動力は、「好き」ということと、「そんなの無理」という言葉を徹底的に嫌うことです。「そんなの無理」で終わるのではなく、「だったらこうしよう」と考えることです。

 

植松さんのお話を聞いていて、一般的な「普通」は実は普通じゃない、人々が最大公約数に収斂しないと生きていけない特殊な環境における方便だったのではないかと思い至りました。例えば戦時中、銃を大量生産するにはみんな右利きでなければ不都合がある。だから左利きを「ぎっちょ」と呼び蔑む。「普通」は右利きなのです。また、稲作文化の日本では集団行動が不可欠で、普通に価値を置いたとも考えられます。

 

いずれにしろ、現在の環境において、「普通」は普通じゃないのです。だから、植松さんの言っていることは、実は「当たり前」のことです。なぜ、当たり前のことを言って、これだけの人々を感動させるのか。みんなが薄々感づいていたことを、真面目に本気で語っているからでしょう。裸の王様に裸だと叫んだ子供と同じようなものです。でも、大きな違いは、植松さん自身が本当の普通を実行して、結果を出していることです。そこに人々は勇気づけられるのです。決して評論家ではない。

 

多くの企業も、普通じゃないことを求めています。でなければ、イノベーションは生まれないからです。でも、社員には「普通」を求めます。矛盾しています。自律した社員になれと指示しても言うことを気かない社員はだめだ、と本気でいうのです。笑い話ではありません。

 

企業の中で、この滑稽だが深刻な問題に立ち向かうのが人事や人材開発の重要な役割だと考えます。



DVD&ブック 植松努の特別講演会 きみならできる!「夢」は僕らのロケットエンジン ―北海道の小さな町工場が"知恵"と"くふう"で「宇宙開発」に挑む
植松 努
477451196X

昨日に続いてリスクについて考えてみたいと思います。

 

「最近の若い社員はリスクを取ろうとせず、目立つことを避けようとしているよう」

 

こんな声を聞くことが多くなったように感じます。以前ある研修で、普段物事を決めるときに何を基準に決めるかと問うたところ、若い人ほど「リスクを避ける」ことを基準にする意見が多く、驚いたことがあります。

 

しかし、これは若手だけの特徴でしょうか。私はそうではないと思います。全世代おしなべてリスクを避ける傾向にあるのであり、若手が目立つのは自分自身が若かった時と比べやすいためだからだと思います。

 

では、なぜどの世代もリスクを恐れるようになったのか。ひとつは時代の不確実性が高まったからだと考えます。例えば、かつては大企業に就職してしまえば、年功序列と終身雇用でほぼ一生安泰でした。つまりリスクを考える必要がなかった。従って、リスクを測る技術も不要でした。

 

しかし現在はだいぶ変わりました。秩序が揺らぎ、不確実性が高まった。ここでいう不確実性とはバラつきの振れ幅や確率も、どのような選択肢があるのかもよく分らない不確実性です。そういった環境では、リスクを測り管理するスキルが求められます。ところが、これまでそんな経験も学習もほとんど積んできていません。

 

リスクに向き合うこととは、危険を察知して避けることではありません。ハイリスク・ハイリターンとローリスク・ローリターンの大原則のもとで、自分の立ち位置を定め、それによって自ら行動を決めることです。そのためには、リスクやリターンの大きさや質、起こりうる可能性についての想像力が欠かせません。それがなければ、(一か八か以外は)結局ローリスク・ローリターンに収斂してしまうでしょう。とにかく想像できないのですから。終身雇用など期待できない時代にも関わらず、就活生が一部の大企業に殺到するのはそんな心理ではないでしょうか。

 

この想像力の欠如が、近年リスクを恐れる二つめの理由だと思います。日本の失われた20年が、想像力を抑え込んできたのかもしれません。ITバブルやホリモンブームというのもありましたが、結局多くは出る杭と見なされて叩かれました。民主党の政権奪取も、儚い夢を抱いて投票した人々を落胆させるのに十分な現状です。ほとほとさように、想像力(特にポジティブ方向に)を働かせるのはしんどい状況が続いています。想像できなければ、夢も希望も描けません。(もっと怖いのはネガティブ方向への想像力欠如かもしれません)

 

ではどうしたらいいのか。世の中のできるだけ多くの自然や物事と、体を張った(ネットの世界ではなく)相互作用を経験することで想像力を育み、その上で自らの頭で考えてリスクに向かい合うスキルを身につけるしかないと思います。逆に、最も避けるべきは、他者への追随や物真似でしょう。現在求められる、最も重要な人材育成テーマかもしれません。

今年に入ってからチュニジア、エジプトといったアラブ諸国で起きていることを年初に予測した人は、おそらく世界じゅう探してもいないでしょう。それまで治安警察などに抑え込まれていた民衆が、危険を顧みず大規模なデモを繰り返し、完全に民主的な方法で政権を崩壊させたのです。な

3a7fd_29_m0429011.jpg

ぜ、民衆はリスクを恐れず行動したのか。フェイスブックの力は確かに大きかったでしょうが、この革命の本質は違うところにあると思います。

 

現在のひどい状況が、将来さらに悪くなると多く人々が確信したので、リスクを取る行動を示したのではないでしょうか。

 

現在の状況とは、絶対的なレベルではなく、過去や他者との比較で認識されるでしょう。アラブの状況で言えば、以前より豊かになっているかと、貧富の差が拡大していないかの点です。日本の敗戦直後のように、皆が貧しければ耐えられるのです。チュニジアもエジプトも、全体的には豊かになっていますが、貧富の差の拡大は大きな問題となってきていたようです。政府は、豊かにしてやったのだから多少の貧富の差は我慢せよとの意図だったのでしょうが、貧富の差は想定以上に大きな不満の種だったのです。貧富の差の固定化を促す治安警察の抑圧と食糧価格高騰が、それに拍車をかけます。

 

多くの民衆の感じ方は、

『国は以前より豊か<自分は他者よりも貧しい』、だと思います。

 

もうひとつは、未来の予測される状況です。今回のデモの主流は若者でした。彼らは最も失業に苦しんでいる世代です。国が豊かになってきているのに、自分たちには職がなく生活が苦しい。その傾向は改善するどころか悪化している。その原因の一つには、グローバル化を前提とした、リーマンショック以降の世界同時不況や中国をはじめとする新興国の需要爆発による物価高騰もあるでしょう。しかし、大事なのは若者にとって職、すなわち未来がないこと、そしてそれが改善される見込みが立たないことです。

 

『国は豊になっていく<自分には未来がない』

 

つまり、ひどい現状がさらに悪くなると確信すれば、政府に反旗を翻すという大きなリスクを取ることも正当化されるのです。もちろん、リターンすなわち革命の成果はまだ見えません。ただ、見えない将来のリターンにも見合うくらいの現状のひどさと希望喪失があったのでしょう。

 

デモ中のタハリール広場(カイロ)では、持ち物検査のために長い行列ができたり、イスラムの礼拝の時間にキリスト教徒による人間の楯で守ったりしたそうです。さらに大統領辞任が決まり広場から撤収する時は、皆で掃除をしていたそうです。これらはそれまでのエジプトの国民性からは考えられないことだということです。リスクを見積もってその結果一歩踏み出すことは希望を持つことであり、希望は人に誇りと倫理感をもたらすのかもしれません。

 

翻って現在の日本、そして中国はどうでしょうか。

雪がちらつく11日(金)の夜、映画 「死なない子供、荒川修作」を観てきました。上映後は、山岡監督と本間桃世さん(荒川修作+マドリン・ギンズ東京事務所代表)のトークショーもありました。

 

 

荒川さんは惜しくも昨年5月に亡くなりました。私にとって、これまで荒川さんは同時代のアーチストというよりも、一風変わったげーじつ家(失礼!)という印象でした。作品のいくつかは目にしたことはありますが、正直よくわかりません。アメリカではものすごく有名なアーチストだとの知識はありましたが。

 

荒川さんの言動の超人的なところは、いろいろ耳にはしていました。そして、この映画で扱われている天命反転住宅にも、本間さんに誘われ完成早々出かけました。それでも、まだ、何者なのかはよくわかりませんでした。でも、この映画を観て少しだけ(ほんと

f0132618_20171751.jpg

に少し

ですが)わかったような気がしました。

 

天命反転住宅は死なないための家です。死なないとはどういうことか。もはや荒川さんは亡くなってしまったので真実はわかりませんが、私が感じたのはこういうことです。


人間は肉体を仮の宿として一時的に借りているだけ。しかもその肉体がその人なのではなく、肉体にある「何か」と周囲の「関係性」がその人である。つまり、人間は生物、無生物含めあらゆるものと交信していることで存在している(量子力学っぽい)。交信できることが生きているということ。逆に言えば、一見生きている人間も、その交信能力が衰えてしまえば死んでいる。現代の人間は、その交信能力が衰えている。五感を研ぎ澄ますような生活をしていないからだ。したがって、研ぎ澄まさざるをえないような環境に身を置けば、真に生きることができる。そのための環境装置が天命反転住宅なのである。

確かに、その住宅の中の床といい壁といい、安楽な生活とは程遠いものでした。でも、だからこそ生きる力が湧いてくるようにも感じました。山岡監督は、入居後花粉症が治ったそうです。またそこで生まれた女の子は、一歳くらいで立派な土踏まずができていました。監督が最後に言った言葉が印象的でした。彼は入居後、荒川さんの本「建築する身体」を読んだものの、さっぱり理解できなかったそうです。でも、そこで暮らすようになって、だんだん体の感覚が変わってきたそうです。

 

「自転車に乗るのと同じです。自転車の乗り方の手引書を読んでもさっぱりわからないでしょう。でも、いったん乗れるようになったら、書いてあったことが簡単に理解できます。それを言葉で表現すると、やっぱり手引書に書いてあったようにしか言えません。それと同じ感覚です。体で理解したのです。」

 

「体がどう変わったか。体の中の隅々に電話が開通した感じです。例えば、肩こりは肩に問題があるのではなく、股関節に原因があるとわかるようになった。そんな感じです」

 

 

人間存在の意味まで作品(というにはスケールが大き過ぎますが)にしてしまった荒川修作とは、やはりすごい人でした。亡くなる前に、お会いできなかったことが、今さらながら残念です。この映画を観て 天命反転住宅を訪れると、何かのスイッチが入るかもしれません。(体験ツアーもあります)

 

しかし、こういう人知を超えた人、超人をとくに日本という狭い社会で支えてきた本間さんは、大した人だとあらためて感じ入りました。

建築する身体―人間を超えていくために
荒川 修作 マドリン ギンズ Madeline Gins
4393955056

大相撲の八百長疑惑がマスコミを賑わせています。ことの本質は、八百長があったかどうかではなく、大相撲をどう日本社会の中で位置づけるのかだと思います。

 

子供の頃、不思議に思っていました。ボクシングの試合は年に数回しかTVで放映されないのに、なぜプロレスは毎週放送されるのか。私の実家近くの田舎の体育館にもプロレス興行が、数年に一回は来ました。そして、TV放送以外の日も、ほとんど毎日のように全国各地で試合していることを知りました。なんでプロレスは、そんなことができるのだろう。大きくなるにつれて、誰も教えてはくれませんでしたが、次第に分かってきました。プロレスは、スポーツではなく見世物なんだと。当時はやっていたローラーゲーム!と同じだ。

 

では、大相撲はなんなのでしょうか?スポーツなのか、神事なのか、興行(芸能)なのか?朝青龍の登場までは、それらの3種がいい具合に融合していたように見えました。しかし、朝青龍が活躍しだすと、アスリートによるスポーツだという色合いが前面に出てきたように感じます。つまり、最も強い者がチャンプであり、それ以上のものではない。当然、軋轢がうまれました。

 

もしスポーツであれば八百長は悪です。興行であれば必ずしも悪ではありません。人情相撲という言葉があるくらいです。

 

問題はこれまでの大相撲はいいとこ取りしてきたことではないでしょうか。国技という看板は神事に由来しています。だから横綱は他スポーツのチャンピオン以上に尊敬を集めます。それゆえ、国が収入をある程度保障しているのです。また、NHKが全場所放送するのです。

 

一方、スポーツだと思うから、一般のファンは真剣に勝敗に一喜一憂して楽しみます。もしスポーツでなければ、これだけ多くにファンが存在することはないでしょう。歌舞伎ファンと同じ程度だったかもしれません。

 

また、興行だから年に6度も本場所がありますし、地方では地元の勧進元が主催した巡業も行われます。

 

朝青龍は、興行をすっぽかし、神事を無視し、スポーツに徹したのです。八百長はあり得ないでしょう。しかし、興行や神事であれば、それは八百長とはいいません。白鵬は、あえて神事に戻そうとしたとも言えるでしょう。このタイミングで八百長問題が発覚したのは皮肉なのか必然なのか。

 

 

つまり、朝青龍の登場で問題提議された大相撲の位置づけが、今回あらためて問われているのです。もう、いいとこどりはできないでしょう。個人的には、スポーツを大前提にして、そこに日本文化のフレーバ-を加える方向だと思いますが、そこまで内部から改革できるかです。

 

これは、古い体質の日本企業が抱えている問題と相似形をなしているような気がします。

毎週日曜の18時からNHK教育テレビで放映されている「白熱教室JAPAN」。昨日の回から、慶應ビジネススクールの高木晴夫教授のクラス(全4回)が始まり、早速視聴しました。

 

高木先生.jpg

私もかつて受講した高木先生のクラスは、ケース・メソッドの典型的なクラスです。つまり、先生は問いかけはするものの、ほとんど解説はしません。受講者の発言を確認しながら、板書(本物の「黒板」です)にどんどん書いていきます。しかし、次第に板書にクラスの流れが描かれてきます。その板書を示しながら、高木先生は次の問いを発します。この繰り返しですが、さすがに番組では板書のダイナミックな部分はあまり表現されていませんでした。

 

さてクラスの内容です。久しぶりにMBAの学生のケースでの発言を聞きましたが、総じて突っ込みが浅く表面的に感じました。でも、仕方ないでしょう。彼らはまだビジネス経験が少ないのですから。特に近年は、企業派遣生が減り、大部分は自費学生(その多くは新卒)で、平均年齢も下がっているようですし。とはいえ、想像の部分が多いにも関わらず、積極的に発言していました。高木先生は、クラスの途中で参考資料(「チーム効力感に関する研究ノート」)を配布し、それに関する解説も行っていました。ディスカッションの後でこれを配布することによって、理論収得の効率は上がるでしょう。(私の時代は、ノート配布だけで終わっていたような気もしますが)

 

その前日に、某大手企業の部長クラスを対象にした研修でケース・メソッドを実施したばかりだったので、同じケース・メソッドであっても、その使い方や意味合いが大きく異なることを、興味深く感じました。

 

部長向けでは、ケースは議論のきっかけにしかすぎません。大まかにいうと、以下の流れで進みました。

1)ケースの内容の確認

2)そこから普遍的なイシューを導き出す

3)講師が、そのイシューに関係する他社事例や、あるいは自分の経験を提示する

3)イシューと、それに類する受講者の経験を照らし合わさせる

4)その上で、イシューに対する受講者の考えを述べさせる

5)異なる考えも提示させ、意見を戦わせる(統一見解は不要)

6)講師が本ケースで考えてほしかったこと、(稀に)それへの自分の見解を述べる

 

大事なのは、イシューをあぶり出し、受講者個人の経験と「紐付け」することなのです。経験豊富で学習能力も高い受講者であれば、必ず自ら紐付けすることができます。ケースの業界、国、時代は全く関係ありません。つまり、経験学習を促す手段としてケースを活用するわけです。これが、若い学生を対象とするクラスとの最大の相違点でしょう。若い学生が対象であれば、経験学習より模擬体験、シミュレーション目的でケースを使うことが普通です。

 

ケースはあくまで素材であって、それをどう活かすかは、料理人たる講師の腕次第です。もっと言えば、料理人に方句性を示す店のオーナーの腕次第なのです。

近年、成熟期を迎えた日本企業では、管理職への昇格(ここでは昇進の意味も合わせて使います)は非常に重要なテーマになってきます。そもそも、ポストが昔のように増えない。昇格候補者に、それまで後輩を指導した経験がないものが多くなる。それどころか、入社以来ずっと最若手ですごしたものもいる。環境変化に伴い、管理職に求められる要件も変わりつつある。一方、管理職になりたがらない社員も増えている。

 

こんな中で適切に管理職を選定するには、従来のやり方では通用しなくなりつつあるようです。知識を問うことは簡単ですがそれでは済まず、視野の広さ、問題意識の深さ、問題発見し解決する能力、前提にとらわれず新しいアイデアを創出する能力、他者へ影響力を及ぼす能力などなど、測定が難しい要件がどんどん増えています。

 

管理職を絞らざるを得ないのであれば、それら測定の難しい課題を出来るだけ正確に測定し、納得感を得られるような手段を用いなければならないでしょう。

 

ここまでを整理すると、人事部の課題は、

①時代に合った管理職の能力要件を定義する

②それらを正確に測定する手段を用いる

③受験者も彼らの上司もその結果に納得感を得る

④落ちた者も、今後どのような努力をすれば次回合格するかの道筋が見終える

 

ということでしょう。特に、①と②の両立は困難です。現在の流れは、①を測定するために「論文」や事前に与えられた課題に対するプレゼンテーションなどが好まれる傾向があるようです。(それほど規模が大きくなければアセスメントセンター型も盛んですが大企業には不向きかもしれません)しかし、②を満たすことは難しい。採点者の主観に大きく依存するからです。ある実験では、記述式の問題を二人(その分野の専門家です)の採点者が採点し、その結果の差異(相関係数)は0.40.7だったそうです。1が完全一致ですから、半分強しか同じ評価にならなかったということです。それだけ採点者によるばらつきが大きいということです。

 

これも満更悪いわけではありません。もし、論文で測定したいのが、その組織のコンテクストに根ざすものであれば(極端に言えば、この人と一緒に働きたいか)、そのコンテクストを熟知した採点者が良いと評価すれば、それは「良い」のです。採点の信頼性はさほど重要ではありません。面接では主にその観点で見るのでしょう。

 

ところが、論文やケース・スタディへの記述式回答で、問題解決能力といった観点を測定するとなると話は別です。測りたい能力は組織コンテクストとは無関係であれば、やはり測定の信頼度が重要になってきます。(その会社における特殊な「問題解決能力」であれば別ですが)

 

信頼度を上げるには、最低限の条件として一定量以上の問題数が必要です。ある分析データによると、相関係数を0.7程度にするには30問、0.9にするには80問は必要だそうです。記述式試験では不可能な問題数であり、記述式試験だけでこれから求められ能力を測定することは不可能でといえるでしょう。

 

組織コンテクストも織り込んで測定する論文、プレゼン、面接などと、普遍的能力(知識ではなく主にコンセプチャル・スキル)を出来るだけ正確に測定する問題数の多い択一型問題の併用が望ましいのではないでしょうか。そうすることによって、③④の課題にも叶う可能性があると考えます。

 

このアーカイブについて

このページには、2011年2月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2011年1月です。

次のアーカイブは2011年3月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1