アート作品は、作家の意図はある意味どうでもよく、観る人がどう感じ思うかが全てといってもいいでしょう。
この「嵐電」も、観る人に様々な想像をさせる余地を残しており、観る人によって解釈は様々に違いありません。
そもそも「嵐電」という電車はどのような存在なのか。普段決まったダイアに従って走っていながら、どの電車に乗るかで、その後の行き先、つまり人生は無限に枝分かれする。その無限の選択肢の中で、人は偶然にある一つを選んでいる、あるいは選ばれているにしか過ぎない。そういうことの象徴が「嵐電」であるように感じました。狐の乗務員は言います。「この電車に乗ればどこにだって行けますよ」、と。
40代、20代、10代の3組のカップルの話が同時進行していきます。40代の鉄道関係のライターである井浦新は、一人で嵐電線路脇のアパートに住み始めます。鎌倉に残してきた妻からときどき携帯に電話は入ります。しかし、その電話は本当にかかってきたものなのかも疑わしい。井浦の想像ではないかと私には思えました。彼は、もう現世にはいない妻を、思い出のある嵐電の周辺に探しに来ているように見えるのです。彼は、妻に対して何らかの後悔をしている。鉄道ライターの仕事ゆえ、家に全然帰らなかったことなのかもしれないし、他の理由かもしれない。

嵐電には都市伝説があり、「夕子さん」にラッピングされた電車をカップルでみると結ばれるというものと、狐と狸の乗務員の乗った電車に乗ると、カップルは別れるというもの。井浦はかつて妻と京都を訪れた時に、どうやら狐と狸が乗務員の嵐電に乗ったようです。そこから人生が何かずれていってしまったと、井浦は感じているのかもしれません。その電車がどんな行いを意味しているのか、全くわかりません。人は誰でもそういう自分なりの分岐点を持っているものなのでしょう。あの時、あの電車に乗ってしまったと。それが、観る者をざわつかせるのです。
最後の方に、嵐電線路沿いの家で、妻と仲良く暮らす井浦が描かれます。こういう「幸せ」な人生も有りえたのだという井浦の想像なのだと思います。諦念なのかもしれません。
20代のカップルも、及び腰の恋が成就しかけたところで狐と狸の嵐電に乗ってしまった。その結果、男は去り、女は打ちひしがれる。やはり、その乗った嵐電が何を意味するのかはわかりません。最後に、このカップルを映画撮影するシーンがでてきます。一度目のテイクは、現実に二人の間に起きたことの再現。その後、監督はもう一度同じシーンを撮ると告げます。しかし、テイク2はさっきのことは忘れて、別の気持ちで演技して、と指示。二人はそれに挑みます。先ほど書いた井浦の有りえたかもしれない想像と違って、このカップルはテイク2が可能だということの暗喩なのではないかと感じました。
10代のカップルは、不細工で不器用で猪突猛進。なんとも、微笑ましい。
三つの世代のカップルの成長過程、成熟過程を表現していると言えなくもない。でも、それより、乗る電車によって人はどうにでもなるという、他力思想を表現した映画なのだというように、私には感じられました。
でも、きっと、そう思う人はそう多くないだろうな、とも思います。それが芸術というものなんでしょう。とにかく、不思議で魅力的な映画です。
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