優れた演劇は、二時間程度の間に、人間及び社会の本質を強いインパクトをもって気づかせてくれます。小説では時間が必要ですし、映画では生身の人間でないだけに、どうしても間接的な印象になってしまいます。芝居は、生きた人間が、すぐそこで躍動しているわけで、そこからのインパクトは強烈です。
恒例の加藤健一事務所の「木の皿」も、そうした優れた作品でした。身近な人々の中に悪人はいません。みな、自分と社会の中でなんとか折り合いをつけようと奮闘しています。でも、集団の中では矛盾が生じて、悪気はなくても、誰かに犠牲を強いたり、傷つけることになってしまいます。残念ですが、そういうことが生きていくためには起こりうるのです。この芝居では、加藤健一演ずるロンという老人が、その対象になってしまいます。そうなったとき、どう振舞うべきか?
同居する嫁は、ロンの世話に耐え切れなくなり、夫(ロンの二男)にロンを老人ホーム(1953年のアメリカのそれはひどい場所だったようです)に送ることを迫ります。娘(ロンの孫)は、ロンが大好きで、それに大反対です。そして、最後には家を出てロンとホテルで暮らすと言いだします。そこまで言う孫娘に感謝するものの、ロンは一人老人ホームへ行きます。
その直後に、キラー台詞が孫娘から発せられ、幕が閉じます。ロンが去った家で、嫁が片付けをしていると、木の皿が出てきます。ロンは、陶器の皿はすぐ割ってしまうので、嫁は割れない木の皿をロンに使ってもらっていました。その皿を持たすことを忘れたというのです。すると孫娘が、それ私に頂戴といいます。そんなものどうするの?と尋ねる嫁(母)に彼女はこう言い放ちます。
「ママも年をとるのよ」
家族のみならず観客も、現時点でのロン一家の問題に捉われていました。でも、時間軸を伸ばしてみてみれば、全員がロンになる可能性があることに、この瞬間に気付かされたのです。その瞬間、観客席も凍ったような気がしました。これぞ演劇の力です。
この週末、こちらも恒例の文楽公演に行ってきました。江戸時代には、文楽にもそういう力があったのでしょう。でも、残念ながら現代ではそうもいきません。とはいいながらも、普遍的な部分もあります。少しの普遍性と、多くの様式美に堪能されるのです。