2010年12月アーカイブ

デフレの正体  経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21) デフレの正体 経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)
藻谷 浩介

角川書店(角川グループパブリッシング) 2010-06-10
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遅ればせながら、今年最大の収穫ともいえる「デフレの正体」(藻谷浩介著)を読みました。さすがに、多くの方が絶賛するだけあって、非常に面白かった。

 

正直言って終盤まで、恐ろしい気持ちを抱えながら読み続けました。今後ますます日本の高齢化が進み、一方労働人口は急減していく。それを、客観的データを示されながら丁寧に説かれるものですから・・・。私の実感に合う部分も多く、ぞっとしました。

 

20年前にストックホルムに半年ほどいたのですが、街に高齢者が驚くほど多かったことを覚えています。しかし、彼らは穏やかな表情で、夫婦そろって公園のベンチに座ったり、散歩したりしていました。また、小さな子供を、とても大切に街ぐるみで育てているような印象を持ちました。一方、日本はまだまだ若く、老人は目立たず、街行く人々は早足で歩いていました。私もそのひとりでしたが。

 

それから20年。丸の内や渋谷など都心の一部を除けば、街は高齢者で溢れています。20年前のストックホルムよりも、その比率はずっと高く感じます。かつてのストックホルムと違って、夫婦連れではなく、なぜか男性の高齢者の増加が目立ちます。しかも、とても穏やかな表情とは言えません。

 

本書を読むと、その傾向が今後ますます急速に進むことがわかります。特に東京で。だから、恐ろしいのです。街の風景もそうですが、高齢化と生産年齢人口減少の同時進行が経済や社会に及ぼす影響たるや、凄まじいものです。ならば、移民を増やせばいい、生産性を上げればいい、出生率を上げればいいなどの対策も考えられるのですが、それらをことごとくデータを示して否定します。だから、さらにぞっとするのです。

 

しかし、最後に三つの処方箋が示されます。そのどれもが、実現可能な案だと感じられ、最後は少しだけ光を見て読了することができます。絶望では終わらせません。このあたりの、バランスというか間合いというか攻め方というか、絶妙です。さすがに、年間400回もの講演をこなしてきただけのことはあります。

 

ちなみに、三つの処方箋とは、

    高齢富裕層から若者への所得移転を

    女性の就労と経営参加を当たり前に

    労働ではなく外国人観光客・短期定住の受け入れを

 

本書を読むと、いかに我々が間違った常識に囚われているか、客観的データを確かめずに情緒的に判断しているかを痛感させられます。例えば、上記②の反論として、女性の就労率向上は出生率の低下を招き、必ずしも生産年齢人口の増大に結びつかないとの意見がしばしば出されます。しかし、データを見ると共働き世帯の多い地域のほうが出生率は高いのです。出生率がもっとも低い東京は、日本有数の主婦天国なのです。

 

このような十分専門家に研究されつくされているようば分野においても、これだけ思い込みで流されているのですから、他の分野はどうなのかと、違った意味で空恐ろしいものを感じました。

 

先日の日経夕刊「さらりーまん生態学(いきざまがく)」に、作家の江波戸哲夫さんがこんなことを書いていました。要約すると、

 

人事部門に異動し社員教育を担当している友人に会った。新入社員教育について聞くと、OJTが重要との答え。まったくそうだと思いながらさらに聞く。OJTを担当する中間管理職には、指導する力量はあるのかと。すると、それがないので今中間管理職の教育をしているという。しかも、OJTではなく教室で・・。

 

ずっこけた江波戸氏は考える。誰が管理職にOJTの方法をOJTで教えるのか?中間管理職の主たる職責=リーダーシップは、人それぞれであるべきだ。いかに辣腕の上司でもそのままOJTの見本とはならない。そこで、友人が言う。「一番の正道は、企業がきちんと目指すべき方向を向いていることだ。そうなれば中間管理職も、それぞれにふさわしいリーダーシップの取り方が分かってくる。うちはそれが混乱しているので、中間管理職の研修なんてやっているんだ」そう言って苦笑いを浮かべた。

 

さすが作家、 多くの会社でありがちな話を、的確に切り取って示してくれています。中間管理職に問題があるとの話を、私も多くの企業で聞きます。そこには、様々な構造的な問題もあるでしょう。彼らは日本型雇用形態を肌で知る最後の世代です。バブル時代含め、成功体験も少なからず持っています。つまり、最後の日本的経営世代、年金含め逃げ切りぎりぎり可能世代といえるかもしれません。しかし、それ以降の世代は閉塞が当たり前になっている世代です。現在や未来の環境をビビッドに感じるのは、20代、30代社員のはずであり、そこでの世代間ギャップは想像以上に大きいと思います。

 

そういう中間管理職の意識を変えさせるのは、さらにその上の世代の責任でしょう。しかし、基本的な価値観に大きな相違がない中で、そのようなOJT(明示的でないとしても)などできるでしょうか。江波戸氏がいうように、自分で考えるしかないのです。また、考える能力を持っているから管理職になっているはずです。ただ、考えるための方向性を示す必要はあるでしょう。それが、「企業がきちんと目指すべき方向を向いていること」なのです。それをするのが、上の世代、つまりトップ・マネジメント層の責任です。

 

「さらりーまん」は基本的には、上を見て自分の動き方を決めていく性質を持っています。下の層の教育も大事ですが、たとえそれをうまくできても上が否定した言動を取っていれば全く無意味になります。やはり、本質論に目をそむけず、企業としての価値や戦略を明確に打ち出し、それを体現した行動をトップ・マネジメント自ら取っていくことが、もっとも早道なのではないでしょうか。そういう勇気のある企業しか、生き残れないような気がします。

最近ビジネス界においても、デザインの重要性が急速に高まっているように感じます。アップルの飛躍の多くの部分は、デザインに負っていると思います。ただし、ここでいうデザインとは、目に見える装飾のことを言っているのではありません。もっと、広い概念です。

 

グラフィック・デザイナーの原研哉は、デザインをアートとの対比において以下のように述べています。

 

アートは個人が社会に向き合う個人的な意思表明であって、その発生の根源はとても個的なものだ。(中略)一方、デザインは基本的には個人の自己表出が動機ではなく、その発端は社会の側にある。社会の多くの人々と共有できる問題を発見し、それを解決していくプロセスにデザインの本質がある。問題の発端を社会の側に置いているのでその計画やプロセスは誰もがそれを理解し、デザイナーと同じ視点でそれを辿ることができる。そのプロセスの中に、人類が共感できる価値観や精神性が生み出され、それを共有する中に感動が発生するというのがデザインの魅力なのだ。 

『デザインのデザイン』

 

 

また、クリエイティブ・ディレクターの佐藤可士和はこう書いています。

 

デザインとは、問題を解決するために思考や情報を整理して、コンセプトやビジョンを導き出し、最適な形にして分かりやすくその価値を伝えていく行為です。「デザイン=表層的な形や美しさを作ること」と思われがちですが、デザインを"ソリューション"として捉えるべきだと思います。

『佐藤可士和のクリエイティブシンキング』

 

 

さらに、スティーブ・ジョブズはこう語っています。

 

デザインというのは面白い言葉だ。外観のことだと思う人もいる。本当は、もっと深いもの、その製品がどのようにはたらくかということなんだ。いいデザインをしようと思えば、まず『真に理解する』必要がある。それが何なのか、心でつかむ必要があるんだ。(中略)何かを真に理解するためには、全身全霊で打ち込む必要がある・・・・そこまでのことをする人はめったにない。

『スティーブ・ジョブズ 偶像復活』

 

 

 

三人が言っていることは少しずつ違いますが、ひとつの共通のことを言っています。デザインとは、社会にある「問題」を解決することだということです。

 

そのために、社会の多くの人々と共有できる問題を発見し、思考や情報を整理して、コンセプトやビジョンを導き出し、その解決策がどのようにはたらくか真に理解した上で、最適な形にして分かりやすくその価値を伝えていくのです。

 

これは、まさに経営そのものと言えます。そう、経営者とは「良きデザイナー」であるべきなのです!ジョブズのように、本当に自ら「デザイン」をできる人も稀にいますが、多くはそこまでできません。では、どうするか?「人」をデザインするのです。つまり、人材を発掘し育成し適材適所するのです。日露戦争時の海軍大臣山本権兵衛が、まさにそうだったそうです。

 

このように考えると、不確実性が高まる変革期である今日、デザインが注目されるのも、至極当然なのでしょう。

私の大学時代の友人にYさんという女性がいます。Yさんは、現在上場企業の執行役員です(そこに至るまでにも長いストーリーがありますが割愛)。その会社が海外企業に買収され、突然外資系になりました。経営陣で英語を使える人はほとんどおらず、英語に堪能なYさんは将来の社長候補とも目されるようになります。Yさん自身もその気になり、もっともっと頑張ろうと腕まくりしていました。

 

ところが、その直後、グローバル企業に勤める夫のマレーシアへの転勤が決まりました。夫はイタリア人で、二人の間には小学校低学年の娘さんがいます。夫は、娘と一緒にマレーシアについてきて欲しいといいました。夫のマレーシアでのミッションは非常に重要かつ過酷であり、単身赴任では耐えられないと思ったのかもしれません。Yさんは迷いに迷いました。そして、会社を辞めて来年4月にマレーシアに旅立つことを決断しました。

 

 

この話をYさんから聞いて、日本で女性が仕事を続けることの難しさを痛感するとともに、キャリアについて考えさせられました。Yさんは、これまで子供を三人も育てながらキャリアを積んで、現在の地位を獲得しました。苦労は多かったものの、今や報われているといえるでしょう。またこのままいけば、さらに大きなチャンスが眼の前に見えています。それを投げうつのはもったいないという考え方もあるでしょう。しかし、Yさんはこう語っていました。

「こういう決断を出来たこと、自分でも驚いています。いくつになっても新しい自分に出会えるんだなあと変な感動をしたりして・・・」

 

ロンドン・ビジネス・スクールのニコルソン教授が、キャリアのトランジション・サイクル・モデルを提示しています。キャリアとは、

①「準備」段階⇒②「遭遇」段階⇒③「順応」段階⇒④「安定化」段階⇒①「準備」段階

この4段階からなるサイクルを繰り返していくことです。もちろん、同じところをくるくる回っているのではなく、スパイラル状に成長していきます。一周経るごとに自分が成長しているか、自分らしく生きられるようになっているかどうかが重要です。(必ずしも仕事で成功していくことではありません)

 

次のサイクル(①準備段階)に切り替わるときがトラジション(節目)です。このトラジションで、その後のキャリアや生き方が大きく変わってきます。「安定化」を捨てて、次のステージに行くには、恐怖や嫌悪、あるいは逆に浮かれた楽観主義に侵されることも多いでしょう。しかし、そこで熟慮を重ね、新たな期待に基づく動機付けがなされることで、次のサイクルが適切に回るようになるのです。

 

Yさんに話を戻すと、まさにトラジッションのタイミングだったのでしょう。このままでも十分な幸福感を味わうことができる。でも成長の角度はすでに逓減してきているかもしれません。もう一つも二つも上の段階にいくには、ここでトランジションすることが必要なのだと直感的に思ったのではないでしょうか。そう決断できたことで、既に次のステージに上がっているのです。だからこそ、勇気を持ってそういう決断が出来た自分自身に驚くと同時に感動しているのではないでしょうか。

 

Yさんは、きっとひとまわりもふたまわりも大きくなって、数年後日本に戻ってくることでしょう。いや、もう日本の枠には収まらなくなっているかもしれません。

 

村上隆や奈良美智を売り出したことで有名な現代美術のギャラリスト、 小山登美夫さんが、新人を発掘するときなどに作品をみるポイントを以下のようにあげています。

 

①こだわっている主題があるか

②既存の枠組みを超えようとしているか

③社会問題や自分自身と正面から向かっているか

④新しい表現へのアプローチがあるか

 

これは、企業を評価する際のポイントや、あるいは一緒に仕事をする人を評価する際に着目すべきとほとんど同じだと思います。

 

企業であろうがビジネスパーソンであろうが、そもそも何をやりたいのかがなければ、今後の発展性も限定されてしまうでしょう。もちろん、それはまだ明確な言葉で表現できないかもしれません。でも、もし本当にあるのであれば必ず明確に伝わってきます。

 

しかし、それが既存の前提/パラダイムにこだわっていると実現は無理でしょう。パラダイムが所与の状況で、後から参入して勝ち目はない。ゲームのルールをひっくり返してこそ、勝機が見えてきます。いい加減な常識にとらわれず、本質を見通す洞察力が必要です。

 

そして、それらを実現することで、最終的に何を目指しているかです。それは、社会とのかかわりや、あるいは自分自身の内面深くに関わる何かでしょう。企業でいえば、経営者の価値観が問われる部分です。

 

既存の枠組みを超え、さらに新しいアプローチを見つけなければ差別化はできません。企業もビジネスパーソンも、常に他者とは異なるアプローチを探し続けて、初めて見つかるものです。追い求めもしないものに、幸運は降ってきません。また、異なるアプローチを探し続けることに喜びを感じる素質も大切です。

 

 

このように考えてみると、企業経営がどんどんアートに近づいているとも言えそうです。ビジネスで成功しようと思ったら、アートにも慣れ親しんでおいたほうが良さそうです。

 

人間にとってアートとは何なのか?

人間はなぜ所有したがるのか?

人間にとって仕事とは何なのか?

人間にとって金銭的価値はどのような意味があるのか?

 

 

こんな多くの疑問が、このドキュメンタリー映画を観ながら湧き上がってきました。郵便局を勤めあげたハーブと図書館司書をはやり定年まで勤めたドロシーは、一見するとNY在住の普通の、というよりはちょっと貧乏そうな老夫婦です。でも、この老夫婦はアメリカ有数の現代美術のコレクターなのです。

 

二人は若い頃から、ドロシーの給料で生活費を賄い、ハーブの稼ぎをすべて若いアーティストの作品につぎ込んできたのです。そして、集めた作品は一切売りません。作品の選定基準は、彼らの収入でも買えることとアパートに納まる大きさということだけ、あとは面白いかどうかで決めます。

 

そういうと、本当に売れていない貧乏作家から買っているようですが、必ずしもそうではありません。売れ出して値段が上がってからも、安く買い続けているのです。成功した作家も、昔の恩ゆえ安く売っているのではなさそうです。それは、彼らのコレクターとして、さらに人間としての姿勢にあるようです。買ったら売らないということ以上に作家の信頼を勝ち得ているのは、買い方です。彼らは、めぼしをつけた作家のアトリエを訪ねて、良さそうな作品を見せてもらって選ぶのではなく、出来るだけ全作品を見てから判断するのです。つまり、目の前にある作品を買うのではなく、作家の成長の歴史を理解して、その成長プロセスに重要な意味を持つ作品を選ぶことが多いようです。作家からすると、作品の買い手というよりは自分自身のすべて(過去のダメな時代含め)を包括的に評価してくれているという信頼感を感ずるのだと思います。

 

なので、作家とは家族ぐるみの付き合いになります。NYから離れたところに住む作家には、毎週のように電話をかけてNYのアート事情を詳しく話して聞かせたりもします。作家の目や耳の代わりも果たしているのかもしれません。作家のパートナーとも言えるでしょう。

 

映画では描いていませんが、ハーブの価格交渉は相当タフだという感じがしました。言い方は適当ではないかもしれませんが、買い叩いているような印象です。でも、作家は画廊より遙かに安く売ります。画廊がこの夫婦をよく思っていないというコメントも出てきました。そりゃそうでしょう。マーケットの外で勝手にやられてしまうのですから。でも、夫婦は明らかに利益を追求していません。純粋にアートが好きなのです。病気といえるくらい。だから、アート関係者は彼らに敬意を払っているのです。

 

高齢の彼らは、作品をナショナルギャラリーに寄贈することにしました。狭いアパートから運び出すのに、一軒家の引っ越しの荷物を全部積めるトラックが、5台も必要だったそうです。寄贈を受けたギャラリーは、彼らの生活維持のためにいくらかの謝礼を支払いましたが、そのお金もすべて作品に代わってしまい、また広くなりかけたアパートのスペースを埋め出したそうです。いずれその作品もナショナルギャラリー行きになることでしょう。

 

ハーブとドロシーという人間自体がアート作品というしかないですね。これだけ幸福な人生は、そうはないでしょう。


温かくかつすがすがしい、でもちょっとだけ考えさせられる映画です。

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西友のTOBに絡むインサイダー取引で、元取締役の夫が告発されました。いよいよ起こるべきことが起きたという印象です。

 

インサイダーなどの監視をするのが社外取締役の役割なのに、そこからの情報でインサイダー取引が行われてしまったのです。検事が証拠に手を付けたのと同じくらい重要な事件だと思います。

 

にもかかわらず、元取締役本人は便益を受けていないとの理由で告発されないとのこと。法的には情報提供に関する規制がなかったということになります。これも驚きです。(直接)儲けなければ、情報を漏らしても犯罪にはならないということです。なぜこう法律になっているのか、理解に苦しみます。

 

夫が逮捕とあるように、この元取締役は女性で、(推測ですが)ファッション業界では超有名なキャリアウーマンの先駆者的な人です。ファッション業界に特化したビジネススクールの名誉学長(現在)でもあります。こういった名誉ある人なので社外取締役に選任されていたのでしょうが、たとえ夫婦間であっても守秘義務は守るべきという常識さえお持ちでなったのでしょうか。

 

形式だけアメリカに真似た制度のつけが、今後頻発するのではないかと危惧します。

京都に出張する機会があったので、時間を見つけて広隆寺を訪れました。約十年ぶりの参拝だったのですが、あらためて広隆寺の仏像群の素晴らしさに大満足でした。

 

広隆寺といえば、言わずと知れた国宝第一号の弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)です。前回は宝冠弥勒だけを観に行ったようなものでしたが、今回は他の仏像もじっくり拝んできました。たまたま読んでいた矢内原伊作のエッセー集「歩きながら考える」の中で、宝冠弥勒以外の広隆寺の仏像群も絶賛していたので、居てもたってもいられなくなったのです。

 

京都といえば平安時代以降の仏像というイメージがあるのですが、聖徳太子と縁が深いだけあって飛鳥/天平時代から鎌倉時代までの仏像があり、像の時代変遷も知ることができます。最初に迎えられたのは、藤原時代の十二神将(木彫り)です。奈良の新薬師寺の十二神将と比べると、憤怒というより怒りが内面に向かっているような複雑な表情です。姿は藤原時代だけあって、典雅な印象で完成度は新薬師寺よりも高い気がします。

 

今回もっとも印象深かったのは、3mを超える高さの不空羂索観音立像

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す。大きさ以上にその姿態の柔らかさ、品格が素晴らしいのです。こちらも木彫りですが、肌の感触まで伝わってくるようです。また、下半身を覆っている着物のドレープの美しさも、大理石のギリシャ彫刻を思わせます。奈良の法華堂の不空羂索観音立像ほどあでやかではありませんが、私はシンプルで優雅なこちらのほうが好きです。

 

そして、何といっても弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)。正面に畳席があり、そこで座って拝めるようになっています。10分以上はそこで座って拝観していたでしょうか。これが本来の仏像の拝み方であり、それが出来るお寺はそう多くはありません。拝みながら自分と無意識に対話できます。最初は、繊細で上品なお姿に、自分の煩悩やいやな部分をどんどん洗い流してくれるような気がしました(持続しないのは残念ですが)ところが、ある

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時点から力強さと外に発するエネルギーのようなものを感じるようになりました。なぜか、別の姿に見えてきたのです。不思議な体験でした。

 

紅葉のシーズンも終わり、人影もまばらの夕暮れの広隆寺で、おごそかな時間を過ごすことができました。

日本列島は数千万年前までは大陸の一部で、それが徐々に分離して今のような日本列島になったということは常識ですが、実はいったん大陸から分離した後も、何度もくっついたり離れたりを繰り返してきたことが、分かってきているそうです。

 

その結果日本列島は、世界でもっとも動物の固有種、つまりそこ以外には存在しない種が多いということです。これは驚きです。日本には132種の固有種がいますが、あのガラパゴス諸島ですら120種です。日本と似た島国のイギリスはゼロ。日本はガラパゴス以上にガラパゴスなのです。

 

絶海の孤島ガラパゴスは大陸から分離されて以来ずっと孤立していたので、固有種は最初から増えることはありませんでした。しかし日本は、何度も接近を繰り返してきたため、その都度新種が渡来してきたからだそうです。そして、それらは日本では絶滅しなかったのです。

 

翻って人類、つまり我々日本人も同じことです。海外との接触は、何度も開けたり閉じたりを繰り返してきました。有名なところでは、聖徳太子の頃の遣隋使、遣唐使、清盛の日宋貿易、足利義満の勘合貿易、信長時代の南蛮貿易、そして黒船です。その時期以外は公式には閉じていたとも言えます。但し鎖国時代があったからこそ、国風文化が花開いたともいえます。日本列島に渡ってきた種が、日本で独自に進化を遂げたように。

 

日本人も地面と同じように、固有種(固有文化)が世界一残る民族になっていったのでしょうか。日本のガラパゴス化を批判する向きもありますが、そもそも本家本元は日本だった。そう割り切ってしまえば、また異なる世界も見えてくるのではないでしょうか。だとすれば、シャープがスマートフォンや電子書籍サービスを「ガラパゴス」とネーミングしたのも、開き直りではなく現実直視なのかもしれません。

 

ところで、現在は鎖国時代なのか開国時代なのか。黒船以降の開国時代が終わり鎖国に入ったという見方もできるかもしれませんが、そうではないのかもしれません。

「円熟するとは、自分の強みを知り、強みに反して苦労しなくてよくなることだ」という言葉を見つけました。『スティーブ・ジョブズ 偶像復活』(東洋経済新報社)のあとがきにあります。

スティーブ・ジョブズ-偶像復活
ジェフリー・S・ヤング ウィリアム・L・サイモン 井口 耕二
4492501479

 

これは深い言葉だと思います。若いときは、そもそも自分の強みが何かもよくわかっていません。その結果、強みを打ち消すような行動をあえて取ったりしてしまうものです。

 

確か塩野七生さんの言葉だったと思いますが、「組織を変革しようとすればするほど強みを打ち消すような行動を取ってしまう」という箴言がありました。円熟しない個人も組織も同じなのですね。

 

また、得意なことと好きなことも混同しがちです。それが自分にとって快いからでしょう。しかし、必ずしも得意なことと好きなことが一致するわけではないことが、だんだんわかってきます。それが分かってきたとき、どちらを選ぶのか。そもそも、その時点ではもう選択の余地は残されていないかもしれませんが。

 

さて、「強みに反して苦労しなくてよくなる」のは、

・正しく自分の強みを理解するから

・(好きなことより)強みを活かすことを優先するから

でしょうか。

 

それもありますが、さらに、

 ・自分の強みでない部分は、素直に得意な人にやってもらうことができるから

 ・他の人の強みを見つけて、尊重することができるから

といった点も大切だと思います。

 

そもそもなぜこのような境地に達することができるのでしょうか。やはり、自分の限界を思い知らされたからだという気がします。弱みと限界を知ることにより、強みもあぶり出され、かつその有り難味もわかってくる。ジョブズも、アップル追放劇やピクサーやネクストでそういう経験を積んだのかもしれません。

 

結局自然体ということです。でも、なかなかそれが難しい。なかなか円熟できない自分がいます。



ところで最初に挙げた本は非常に面白いです。ジョブズという人間のキャリア発達論、起業論、経営戦略論、リーダーシップ論など、様々な読み方が出来る深みのある好著です。


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