文化と芸術: 2009年4月アーカイブ

 先週、親しくさせていただいている銀座柳画廊(http://www.yanagi.com)で開催されている、岡野博さん還暦記念個展のオープンニングパーティにお邪魔してきました。

岡野博.jpg 

私は、岡野さんの絵は15年くらい前から存じていましたが、還暦というのにこれまでで一番明るく華やかな絵を描かれており、少々驚きました。

 

しかし、一般に画家は年を取るにつれて絵が明るくなるようです。若い頃は、内面の葛藤が多く、それをストレートに表現するのかもしれません。年を取ることは、いろいろなことから自由になることなのでしょうか。

 

若い画家が、明るい華やかな絵を描いたとしても、そこに何も感じないかもしれません。単なる明るい絵は、薄っぺらの絵と紙一重です。(だから、若い画家は避けるのかもしれません。)

 

これは、画家だけではないような気がします。若い頃は、他人の目を妙に気にして、あらゆる常識に縛られていた気がします。

 

下賤な話で恐縮ですが、小学校の時、学校のトイレで大きいほうの用を足すことは、子供にとって屈辱でした。大学を卒業する時、これから二度と長期の休暇は取れないと思い込み、卒業旅行で二か月も海外を旅したものです。また、最初に就職した銀行を退職するときは、世界がねじれるのではと思うくらい精神的に大変でした。

 

今思えば、勝手に自分で自分を縛っていたのでしょう。年を重ねるということは、そういうものを一枚ずつ剥がしていって、本来の自分に戻っていくことなのかもしれません。

 

絵が明るくなっていくように、日々の暮らしも明るく楽しくなっていきたいですね。

 

先日、能の演目を取り入れた琉球組踊を、その元となった能と同じ日に観る機会に恵まれました。組踊「花売の縁」と能「芦刈」です。

 

組踊とは、1組踊1.jpg8世紀初頭に琉球王朝時代の宮廷で生まれた演劇です。当時琉球王国は、中国と薩摩の両方の支配下にありました。武力では独立を維持できない琉球は、外交と文化力で大国の中での独立を維持していたという、非常に興味深い国家だったのです。組踊も、おもに中国からの外交使節をもてなすための国家的事業でした。中国風でも、大和風でも独立の妨げとなるため、独自の琉球風にこだわったそうです。

 

組踊2.jpg 

そんな時代であっても、日本の能には刺激を受けたようです。組踊の作者が、親善使節として日本を訪れた時に「芦刈 芦刈.jpg」を観たのでしょう。その大まかなストーリーと、芸尽くしというエッセンスを取り入れ創ったのが「花売りの縁」です。

 

「花売りの縁」では、衣装はさすがに南国らしい華やかさなのですが、独特の哀感のある節回しは、これまで聞いたことのないもので、大いに感銘を受けました。

 

溝口健二監督に、「お遊さま」という作品があります。この映画の原作は、谷崎潤一郎の「蘆刈」です。そのまた原典に能の「芦刈」があるのです。

 

和歌の世界に「本歌取り」というものがあります。すぐれた古歌や詩の語句、
発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧です。過去の作品のイメージに、新たなものを重ねていき、奥行きのあるイメージを創り上げていくわけです。お遊さま.jpg

 

残念ながら、私が数年前に「お遊さま」を観た時は、「芦刈」も「蘆刈」も知りませんでしたが、もし先に本歌を知っていれば、きっと映画の受け止め方も違っていたでしょう。今回、独自の歴史を持つ組踊「花売りの縁」を観たことによって、一連の作品に、さらに厚みが増したように感じます。

 

こういった、時間と空間を越えて、ひとつの流れの上に重層的に新たなものが加わっていく日本ならではのスタイルは、世界に誇るべき伝統だとあらためて思いました。

東京国際フォーラムで、今日から三日間開催される「アートフェア東京」のプレビューに、昨晩行ってきました。143の画廊やギャラリーが参加する、年に一回のビッグイベントです。

アートフェア東京2007_08s.jpg 

一箇所にこれだけ集まると、壮観です。また、いろいろなタイプのアート作品が一回で見られる機会は貴重です。何しろ、現代アートが強烈な自己主張をしているブースのすぐ隣で、縄文土器や埴輪が静かに展示してあったりするわけです。

 

普通は、同じ目線では決して見比べない作品を、ここでは同じ目線で見てしまいます。一貫性がないからいやだという人もいるでしょうが、私はこの雑多感が好きです。同じ空間で展示されることにより、虚飾ではなく芸術作品の本質、つまり精神性があぶりだされ、比較される気がするのです。

アートフェア東京2007_04s.jpg 

青山二郎が、こう言っていたそうです。

「人間でも陶器でも、確かに魂は見えないところに隠れているが、もし本当に存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない」

 

個人的には、現代アートも近代絵画なども好きですが、あらためて古い陶磁器の美しさに圧倒されました。16世紀の中国の盃や19世紀の朝鮮の器、17世紀の唐津焼の向付など、現代の芸術作品と比べても、全く古さを感じさせません。

 

「新しいものとは、古くならないものである」

と言ったのは、小津安二郎です。「新しい」とは、これまでにない斬新なものということではなく、いつ観ても常に観るものの心に新しい刺激や感動を与えるものだということなのでしょう。確かに小津作品や、溝口作品は今観ても全く古さを感じません。

 

そういう「新しさ」に触れることによって、心が浄化され、エネルギーをもらえる気がします。だから人間はいつの時代も、アートを追い求めるのだと思います。

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