2009年11月アーカイブ

またもリーダーシップの話題で恐縮ですが、リーダーシップとは個人に属するものなんでしょうか。それとも、組織に属するものなんでしょうか。

 

一般には、「リーダーシップ能力の高いAさん」というふうに、個人に属するものと理解されていると思います。

 

 

適切なリーダーがいない集団は、烏合の衆です。集団が、ある機能を効果的に果たそうとするとき、リーダーの必要性が生まれ、実際にリーダーが出現します。

 

そう考えていくと、リーダーも状況に応じて組織が生み出すものであり、リーダーシップも個人よりも組織の枠組みで考えた方が適切にも思えます。

 

リーダーは組織における役割であり、状況に応じてリーダーは入れ替わります。そして、人それぞれにリーダーとしての役割の演じ方があり、それがその人独自のリーダーシップスタイルです。なので、リーダーシップ能力がどうのこうのと議論しても無意味だと思います。問題は、適切なリーダーが生まれやすい組織と、そうでない組織があるということなのだと思います。

 

個人のリーダーシップの問題ではなく、組織能力の問題。良い土からは、常に良い芽が育つのです。では、よいリーダーを生み出す組織能力とは何でしょうか?

 

組織における個人間の関係性の質と、組織風土が大きくそれに影響を与えている気がしますが、もっと深く考えてみたいと思っています。

 

裏返せば、リーダーが生まれることを阻害している要因を見極めることが重要だと思われます。それは、あらゆる範囲に及ぶかもしれません。それに手をつけるには、経営トップのコミットが欠かせないでしょう。

 

リーダーが育たないと嘆き、お仕着せのリーダーシップ研修でお茶を濁すのではなく、育たない組織を育つ組織に変えていくことに、トップ自らが旗を振って実行していく覚悟が必要なのです。

むかしむかし、あるところに、小さな島国がありました。島国ゆえか、他の大きな国とは少し異なる社会を作っていました。人々は、家族的な会社のもとで成長しました。貧富の差も小さく、平和にくらしていたのです。もちろん、それが不公平だと不満を持つ人々もいましたが、概してうまくいき、大きな国から恐れられるほどになりました。

 

 

それが頂点に達したのがバブル期と呼ばれる時代です。およそ品物があれば、それほど手間や知恵を使わなくても売れました。供給を切れさせないことのほうが、販売よりも重要だったそうです。これでは、人を育てる必要もありません。

 

そしてバブル崩壊。一転してモノが売れなくなりました。そこで、成果主義という大きな国由来の舶来ツールを活用することにしました。ノルマを課し、達成しなければ昇給も昇格も望めないという厳しいものです。

 

その成果はどうだったでしょうか?

 

短期的には、売上も上がったそうです。しかし、中長期的には職場が荒れました。つまり、「プレイングマネジャー」という舶来の呼称で後押しされた管理職が、自分の成果を上げることに汲々となり、部下を育てることにエネルギーが避けなくなってしまいました。

 

そこで、次に会社が行ったのは、上司に負担をかけずに部下の成果を上げる方法です。「ハイポ」(パイポではありません)や「コンピテンシー」という、またまた舶来の概念を導入しました。高い成績を上げている社員の行動パターンを、真似するように教育しだしたのです。

 

その結果は?

 

またまた、職場は混乱しました。人によって、自分にあうスタイルというものがあります。それが、否定され失われてしまったのです。

 

次に手がけたのは、「チーム」とか「タレントマネジメント」というまたまたは舶来の概念でした。でも、よく考えてみれば、もともとその国の会社の多くは「チーム」で仕事をし、社員ひとりひとりの成長を見守ってきていたのです。

 

 

なーんだ、一回転してまた昔に戻ってきたのか。でも、今はもうチームを支える風土も、ひとりひとりを見守る余裕もなくなってしまっていたのです。結局、また大きな国から、魔法の杖のようなものを探してこなければならないようです。

 

 

めでたし、めでたし。

一方的に影響を与える力の源泉には、権威と権力と武力の三つがあると考えます。企業社会の中にも、その三つが生きています。

 

 

少し古い話題になりますが、日産のV字回復が成功したのに、カルロスゴーンCEOの存在は非常に大きいでしょう。もちろん彼の能力によるところ大ですが、それだけでしょうか?外国人だから、日本的なしがらみに捉われなかったからでしょうか?そうではないでしょう。彼が、日産ではなく大株主のルノーに雇われたCEOだったからだと思います。つまり、ガバナンスが変わったことが、変革成功にとって決定的に重要だったと思います。

 

ガバナンスが変わった場合、その力は絶大です。有無を言わせぬ力を持ちます。いわば「武力」のようなものです。逆らったら、殺されるのです。したがって、最後の最後に行使されるべきでしょう。警察や軍隊と同じで、規律には必要ですが、常に武力に脅されていて、活き活きと働けるはずもありません。

 

 

「権威」とは、正統性といいかえていいでしょう。創業者の権威も強力です。株式の保有は、武力の源泉ですが、創業者の権威は、必ずしも保有株式によるものではありません。創業一族の保有株式比率が、わずかになっても、影響力を行使出来ている上場企業はたくさんあります。

 

また、実績の積み重ねが名声を、そして権威を生みだすこともあります。

権威は、非常に情緒的なものです。だから、逆に継続的に影響力を保持できるのかもしれません。

 

 

 

最後の「権力」とは、一方が、もう一方に益をもたらす、あるいは損を強いる権限を持っているということです。その基盤にあるのは、損得です。

 

権力は最もあやういものです。相対的なものだからです。その時点での力関係を基盤にしているにしか過ぎません。さらに、損得を超えてしまったら、権力は何の意味も持ちません。

 

 

かつての固定化された企業社会であれば、半永久的な権力もあったかもしれませんが、今やそれも幻です。わかりやすく言えば人事権です。あるいは発注会社が下請け会社に無理を押しつけるのも、権力です。流動化が進んだ社会では、ますます権力の基盤は揺らいでいます。

 

 

これからの企業経営を考えるうえで、武力・権威・権力の意味をよく理解したうえで有効に活用するだけでなく、それら以外の影響力の源泉も見つけていかなければならないのでしょう。

優れた芝居とは、観る者を癒やす効果があるようです。癒しといっても、いわゆる「癒し系」の癒しとは違います。

 

「癒される」ということは、「自分だけじゃないんだ。みんな同じで、実は深いところでつながっているんだ。」という感覚になることだと思います。そういう時に、力が抜けると同時に、心の緊張が少し解けて、心が少し膨らんだような感覚を味わいます。

 

先日観た芝居でも、その感覚をしっかり味わいました。三ヶ月に一本必ず公演する加藤健一事務所の、「高き彼物」という芝居です。

  高き彼物.jpg 

過ちを犯す→隠す→罪悪感に苦しむ→告白

 

このプロセスを経る三人の男性と、それを見守る二人の女性が中心の登場人物です。物語は、この三つの秘密がからみあいながら進みます。

 

人は誰でも過ちを犯し、多くの場合にそれを隠し、そして苦しみます。だれでもそんな出来事の一つや二つを抱えていることでしょう。そんな自分にあきれたり、嫌いになったり。それを責めるのは簡単です。でも、責めたところで、どれだけの意味があるでしょうか。罪悪感に苦しむからこそ、ひとに優しくなれることもあるし、ひととつながろうとするのかもしれません。

 

 

演劇の力は、正論を押しだして説教するのではなく、共感を与え、癒しを感じさせ、結果として心の持ち方に少しだけ影響を与えることなのではないでしょうか。やはり、映画などの映像以上に、生身の人間が眼の前で語ることによって、こちらの心にダイレクトに入ってきます。

 

 

この物語は、三人とも告白をすることによって癒され、また新たな歩みを始めます。多くの観客も私同様、また歩み始める力を、少なくともその時はもらったはずです。

 

 

私も、この芝居を観て、自分のこれまでのいろいろな出来事を振り返りました。反省するというのと少し違います。そして、「自分も過去から延々と続く人間の一人にすぎない。特別でもなんでもない、他の人と同じなんだ。」漠然とですが、そういう大きな存在の中に、自分を位置付けたような気がします。

 

 

小泉.jpg同一化できる演劇に出会えることは、大きな喜びです。ぜひ、ご覧になってみてください。演者の一人、小泉今日子さんの、すっとした立ち姿の美しさ、それを観るだけでも十分満足できます。

経験を積んでくると、だいたい状況を把握すれば、解決できそうな問題かどうかのあたりがつくようになってきます。もちろんその時点では、どうやって解決するかの筋道が見えているわけではありません。でも、何となく雰囲気?でわかります。

 

 

クライアント(お客様)の異常事態に対処することを常態としているコンサルタントは、特にその鼻が利きます。

 

クライアントは、その時点ではまだ漠然とした「悩み」を抱えています。「悩み」とは、今の自分の力ではどうにもならないと感じている苦境のことです。たとえば、カリスマ創業経営者がまだ健在の企業で、指示待ち文化が浸透しており経営幹部が育たず、経営者から「なんとかせー」と迫れ、苦境に陥っている人事部長がいるとしましょう。それは、「悩み」です。

 

コンサルタントは、クライアントの悩みを聞き、即座に「問題」になるかどうかを判断します。「問題」とは、自力で解決できると思われる苦境のことです。なぜそうなっているのか、創業経営者はどう認識しているのか、そして彼に何を選択してもらうべきなのか、社員や他の経営陣はどのように理解しているのか、経営上の意思決定は実態としてどうなされているのか・・・、などの「問い」を立てるのです。

 

問いが整理できれば、おおむね解決できそうかどうかのあたりがつき、この時点で「問題」かどうかが認識できます。問いへの仮説が設定できれば、さらに解決の筋道が見えてきます。「悩み」が「問題」に転化するということは、そういうことです。

 

 

国際関係論では、DangerRiskを区別しているそうです。Dangerとは、関与するファクターが多過ぎて、手のつけようのない危険のことです。イラクやアフガニスタンがそうなのかもしれませんね。一方、Riskとは、関与するファクターが考量可能であるので、管理したりコントロールしたり、ヘッジしたり出来る危険のこと。(終戦直後の日本は、情報収集を怠らなかったアメリカにとってRiskだったのかも。)従って、外交の要諦は、DangerRiskに変換することなのだそうです。悩みと問題の関係に似ていますね。

 

一般に「仕事ができる人」とは、このような変換作業をスムーズに行う能力が高い人だといって間違いないでしょう。

今週の日曜の夜、NHKスペシャル  「魔性の難問 ~リーマン予想・天才たちの闘い」という番組を観ました。ものすごく、面白かったです。昨年も、数学の難問にとりつかれた数学者に関する番組がありましたが、この分野におけるNHKの制作力はすごいですね。

 

さて、リーマンといっても、昨年破綻したあのリーマンではありません。以下NHKのサイトから転記します。

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数学史上最難関の難問と恐れられ、今年問題発表からちょうど150年を迎えたのが「リーマン予想」である。数学の世界の最も基本的な数「素数」。数学界最大の謎となっているのが、23571113171923・・・と「一見無秩序でバラバラな数列にしか見えない素数が、どのような規則で現れるか」だ。数学者たリーマン.jpgちは、素数の並びの背後に「何か特別な意味や調和が有るはずだ」と考えて来た。「リーマン予想」は、素数の規則の解明のための最大の鍵である。最近の研究では、素数の規則が明らかにされれば、宇宙を司る全ての物理法則が自ずと明らかになるかもしれないという。一方、この「リーマン予想」が解かれれば私たちの社会がとんでもない影響を受ける危険があることはあまり知られていない。クレジットカード番号や口座番号を暗号化する通信の安全性は、「素数の規則が明らかにならない事」を前提に構築されてきたからだ。

番組では、「創造主の暗号」と言われる素数の謎をCGや合成映像を駆使して分かりやすく紹介し、素数の謎に挑んでは敗れてきた天才たちの奇想天外なドラマをたどる。

 

このような難しい内容を、私のような一般視聴者に(ある程度)理解させて、楽しませるのは、並大抵のことではできません。映像の持つ柔軟性や、説得力をいかんなく発揮して、一本のエンタテイメントとして仕上げる実力には、恐れ入りました。

 

難しいことを、わかりやすく解説し、しかも楽しませることほど難しいことはありません。現代の人材開発や教育で、もっとも重要なことだと思います。

 

 

もう一つ(今度は中身ですが)面白かったのは、異分野との対話によって、重大な発見があったということです。

 

リーマン予想と格闘していたダイソン博士が、コーヒーラウンジで偶然居合わせた原子物理学のモンゴメリー博士に、突然自分の研究について語りだしたそうです。すると、何となく聞いていたモンゴメリー博士が、自分の研究分野にある「原子核のエネルギー間隔」の式と全く同じだと指摘したのです。一見、全く無関係の原子核と数学が結びついたのです。

 

大きな発見や研究の進歩は、このようなセンレンディピティによると、よく言われますが、まさにその典型だったわけです。

 

細分化をよしとする科学の欠陥が、ここに表れています。それを打開するのは、多様性や想像力、物語など、よりホリスティックなアプローチなのだと思います。

 

 

以前、 カフェについて書きましたが、具体的な形としてはカフェが思い浮かびます。モンゴメリー博士と、ダイダイソ博士が対話したのもコーヒーラウンジでした。

 

そういえば、つい最近友人の大川さんが「ワールド・カフェをやろう!」(日本経済新聞出版社刊)という本を共著で出しました。越境、つながり、結びつきなどの重要性が、ますます理解されていくようです。

ワールド・カフェをやろう
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昨日の日経朝刊「経済教室」で、一橋大学のアメージャン教授が、近年のビジネススクールの変化について書いています。その変化とは、以下4点だそうです。

1)    ビジネススクールがグローバルに広がっている

2)    研究に力を入れるようになっている

3)    社会起業が重視されるようになっている

4)    教授法が、ケース・メソッド中心からフィールドスタディ、ゲーム、シミュレーション、コーチングなどへシフトしている

 

4)    の背景としては、全人格教育を目指すべきだとの考えがあるという。自己認識能力や対人能力を高め、経営にとどまらず世界が抱える問題の知識を深め、能力を実地に試す機会を与えるようになったという。そして、それらは日本企業が得意とする分野であり、日本の企業や大学が世界に貢献すべきと言っています。

 

私の解釈は、かつて欧米のビジネススクールとはハードスキルを学ぶところだったのだが、それでは企業のニーズに応えられないことがわかったので、ソフトスキルを重視するようになったというものです。ハードスキルとは、ファイナンスやマーケティングのように科学的に学ぶことができるスキルであり、ソフトスキルとは、リーダーシップやモラールのように体験的にしか学べないスキルのことです。

 

ハードスキルはどんどん、ロジック中心の科学の方向に進みました。ビジネススクールの教授の論文には驚くほど数式がたくさん出てきます。ビジネスマンはほとんど見たことがないような。それは、教育の専門分化も促したことでしょう。それが、研究重視の方向なのかもしれません。(専門化、科学化は教員にとって望ましいことのようです:DHB 20059月号参照)

 

 

私はケースメソッドが減少しているのは、その必要性が減少したからではなく、本当のケースメソッドをリードできる教員が減少しているからではないかと踏んでいます。科学化の方向性とケースメソッドは必ずしも一致しないのです。なぜなら、ケースを教えるにはある特定の分野の知識だけでは無理です。ケースは素材であり、様々な分野から切り込むことができます。自分が苦手の方角から質問が来たら、なかなか答えられるものではありません。でも、経営は総合的・統合的なものなのです。

 

そのような場合、優秀な教員は、その分野に詳しい学生に議論を振るでしょう。そういった、臨機応変なインタラクティブ能力が重要なのです。でも、これも科学化と一致しません。

 

全人格教育も重要ですが、それを大学に期待すべきなのでしょうか?ビジネスには、ハードスキルもソフトスキルも必要ですが、その議論は時代遅れの感がありませんか。本当にビジネスパーソンが学ぶべきなのは、情報が不足して不確実な状況で、いかに意思決定の精度を上げ、その実行を推進するかです。その観点から、カリキュラムもそして、教員の質も見直すべきなのではないでしょうか。

以前にも書きましたが、今リーダーシップほど、曖昧な日本語はないと思っています。人によって解釈がかなり異なるのです。そこで、最近は、その言葉をできるだけ使わず、別の言葉(カタカナ以外)を使うようにしています。

 

 

 

またまた、益川敏英さんの「私の履歴書」です。今朝、師である坂田昌一先生について、以下のような記述がありました。

坂田.jpg 

ある日、私が院生会議の結果を先生に報告することがあり、坂田先生の研究室を訪ねた。用件が済んで部屋を出た後、ノートを置き忘れたに気づき、ノックもそこそこにお部屋に入った。すると先生がモップで床をぬぐっている。さっき私が泥まみれの靴で汚したところの後始末をされていたのだ。

 「益川、そんな泥靴で入ってくるやつがあるか」とか「足跡をふいておけ」としかれば済んだ話だが、決してそういうことはおっしゃらない。我々が萎縮せず、気軽に議論をしに来られるように気を使っておられたのだろう。(日本経済新聞「私の履歴書」09/11/13より)

 

 

「ドアを開け放っておくので、いつでも話しにこい」という上司に限って、訪ねると「すまん、すぐ出なきゃならん。また来てくれ」。「今日は無礼講だ。言いたいことを言え」というから、恐る恐る言ったら、不機嫌になってしまう。そんな経験、誰にでもあるのではないでしょうか。要するに、上に立つ者が、「自分はこんなにオープンで、寛容なんだ」と思いたいだけなのかもしれません。

 

本当にオープンで自由闊達を求める上に立つ者は、フォロワーに対して自分の存在感を感じさせないうちに、そうなる雰囲気や状況を作っているものだと思います。「オープンでやろう」と気勢を上げる者ほど、オープンでない者はいません。

 

益川さんのように、モデルとなる師がいることは幸運なのかもしれません。そう、上に立つ者は、「上司」ではなく、「師」をめざすべきなのです。

 

上司は、会社のルールで決まる存在に対して、師とはフォロワーが自ら選ぶものです。そして、何らかの理由でrespectされる存在です。どうすれば、師になれるかを考えていけば、「上に立つ者としての振舞い」も見えてくるかも知れません。

これまで何度か、海外駐在者への教育について、企業の人事の方に話を伺う機会がありました。一般に、派遣前トレーニングをする時間的余裕はなく、最低限の内容になりがちだそうです。

 

1)    セクハラ、パワハラなど、法務に関する知識

2)    税務処理など会計に関する知識

3)    派遣先の文化や慣習の知識

4)    元駐在者による、体験談

5)    簡単な外国語(ほとんどは英語)のレッスン

 

だいたい、こんな優先順位のようです。ほとんどマイナスの可能性をゼロにするための訓練です。優先順位が高いのは当然です。

 

 

次に、駐在を終えて帰国した社員(マネジメント職)に、何が困ったかをヒアリングすると、

1)    ローカル社員とのコミュニケーション(特に評価に関するもの)

2)    ローカル社員の動機づけや育成

3)    ゼネラルマネジメントに関する知識やスキル

 

このような項目が多いそうです。

 

さらに、では何を派遣前にトレーニングしておけばよかったですか?と問うと、大方の人は、実際現地に行って体験してみなければだめだ、と答えるそうです。その結果、せいぜい体験談となるのでしょう。

 

しかし、本当にそれでいいのでしょうか?

 

ある人の体験談を聞いて、これからの自分の行動に役立つように解釈し、咀嚼できる方は、そう多くはないと思います。また、話す側も、自分の苦闘した経験を、どう言語化し、どのように伝えれば、これからの人に役立つかを整理出来る方は、やはりそうはいないでしょう。

 

多くの方の経験や知識も、いったん概念化した上で、聞き手の状況や認識に適合するような方法で伝えることが必要だと思います。受け手の学習となり、行動を変えることが目的です。これも形式化なのかもしれません。人間は、感情に訴えるような物語のほうが刺さる場合もあれば、概念化されていないと受け止められない場合もあります。

 

その違いは、受け手側に受け止めるに必要な基本知識や経験がどれだけ共有されているかだと思います。たとえば、ヤマトでは、宅急便での「嬉しかったこと」を集めビデオ化し、研修で活用しているそうです。同じセールスドライバーの経験を持つ他の社員には、その物語が、本当に刺さるそうです。

 

これから海外に派遣される社員にとって、体験談という物語では、響かないのではないでしょうか。想像力が働かないのです。だから、概念化が必要なのだと思います。

 

このことは、海外派遣者だけのことはなく、あらゆる人材・組織開発の場面でも共通する課題だと感じています。

 

一昨日、移転なった山種美術館へ、「速水御舟展 -日本画への挑戦」を観にいきました。

 
速水.jpg 

 速水は40歳で早逝した天才ですが、その短い画歴の中で、何度も新しい試みを行っています。評価された自分のスタイルに安住する気など、さらさらないかのように。

 

こんな言葉を残しています。

 

「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。(中略)登り得る勇気を持つ者よりも、更に降り得る勇気を持つ者は、真に強い力の把持者である」

 

すごい言葉だと思いませんか。登った頂きに満足するのが、ほとんどの人間だと思います。あえて、そこから降りる勇気、そして再び登り返す勇気、これを本当の勇気だというのではないでしょうか。

 

失敗したから、もう一度挑戦するという勇気、これも貴いものですが、彼はそういう明らかな失敗はしていません。失敗していないにも関わらず、評価された自己をいったんご破算にして、新たな道を切り拓こうとするのです。これは、安定や高い評価、実績を失う可能性もあるわけですから、いわゆる再挑戦よりさらに難しいことだと思います。

 

しかし、彼にとってはそういう安定や名声など、どうでも良かったのでしょう。そんなものよりも、常に描きたい理想の絵があり、それを追求せざるを得なかった。これは、常に葛藤を抱えることになり、苦しい道でもあったはずです。だからこそ、勇気が必要なのです。

 

晩年、夫人に、「これからは売れない絵を描くから覚悟しておけ」と告げていたそうです。

 

速水の絵は、単に美しいだけでなく、意思と勇気、そしてそれから滲みだす凄みが感じられます。そんな速水の絵から、勇気と励ましをもらった気がしました。

20年前の今日、ベルリンの壁が崩壊しました。早いものですね。当時、私はストックホルムの大学院にいました。変化の胎動というべきか、えもいわれベルリン壁.jpgぬ熱気が漂っていたことを思い出します。その2週間ほど前、大学院の企画でゴルバチョフ政権下のソ連を訪れ、共産社会の衰退を目の当たりにしていたので、それほどの驚きは感じませんでした。

 

当時、東独の人々は、壁の崩壊と、間髪いれぬ西独との併合に、きっと大きな夢を描いたことでしょう。それまでは、自由の夢は虚構に過ぎず、現実にはなりえなかったのでしょうから。それが、一気に変化しようとしていたのです。

 

そして、20年が経ちました。彼らの夢はどうなったのでしょうか。報道を見る限りでは、夢破れ希望を失い、旧体制に戻りたいと考える人も数多く出てきているようです。

 

 

人間は現実の中で生きていかなければなりません。しかし、現実だけでは生きるエネルギーが湧いてきません。そう、夢が必要なのです。夢はかなうかどうかが問題なのではなく、かなう可能性が少しでもあると思えるかどうかが、重要なのだと思います。

 

現実から見て、夢が実現する可能性が少しでもあれば、そこに希望が生まれます。逆に、その可能性がないと諦めてしまえば、絶望になります。

 

 

企業組織でも同じだと思います。入社早々の新入社員のきらきらした眼は、いつまで続くのでしょうか。かつてのように、マイホームを持つ、(適度に)出世するという夢を希望にして生きることは難しくなっています。それに代わる夢を、経営者はすべての社員に描かせることができているのか、そして、実現可能性を感じさせ、希望を抱かせることができるのか。

 

日本の企業組織は、現実を直視しつつも、社員に夢と希望をもたらすことが、最も重要な存在理由だと私は思います。もしそれがなく、契約関係(損得)だけで成り立っているとしたら、給料以上の働きはしないでしょう(もちろん、それを前提の組織をつくる道もありますが)。その場合、競争力は格段に落ちるはずです。

 

社員のロイヤリティーが下がったとか、モチベーションが低いとか、自律させなければ(言語矛盾です)とか、様々な課題を耳にします。そうなんでしょう。でも、その原因は、社員にあるのではなく、夢を見せられない経営陣にあることを忘れてはなりません。自分たちの頃は、そんなものは自分で考えたなどと、言えはしないのです。

 

 

ベルリンの壁崩壊から20年。世界は、少しは良くなったのでしょうか。良くするには、国家や企業は、どのような夢を描くべきなのでしょうか。

 

今朝の日経「私の履歴書(益川敏英氏)」に、こんな言葉がありました。

益川氏.jpg 

高校生くらいの知識ですらすら読める水準の本ではない。でも、本というのは面白いもので、時間を置いて少しずつ目を通すと、以前はわからなかったところが、突然理解できたりする。それは自分も気づかないうちに、知識が蓄積されるためだ。

 

 

こういうことって、ありますよね。時間を置くということが、大切なのでしょう。きっと、新しい知識は、すぐには既存の知識とは結合されない。しかし、時間をかけることにより、脳の中にある関係しそうな知識との間で、結合したり、補完したりして、新たな位置(意味合い)を確保するのではないでしょうか。

 

これは、科学系の本だけのはなしではなく、小説でも、音楽でも絵画でもそうです。初めて聴いていいなあと思った曲が、何度も聴くうちに飽きてくることも多いですね。でも、最初は、「ふーん」くらいにしか感じなかった曲でも、何度も聴くうちにすごく良くなり、しかもずっと飽きないということは、多くの方が経験することではないでしょうか。(もちろん、初めて触れて一気に刺さる傑作もありますが。)

 

前者は、既存の体系の中で、すぐに位置を占めることができるので、簡単に理解できるのですが、それ以上のものにはなり得ない。いずれ埋没する。しかし、後者は、脳の中で新たなシナプス結合が起き、全く新しい刺激となる。そして、深く刻みこまれる。こんなことが起きているのではないでしょうか。

 

そう考えると、知的喜びも、美的喜びも脳の中では同じ現象なのかもしれません。大事なのは、常に新たな刺激、結合を追い求める姿勢なのでしょう。

ハイパフォーマー、コンピテンシーなど、数年前には非常に話題になりました。最近は、あまり聞かないような気がしますが。社内で高い成果をあげている個人の行動特性を、抽出して、採用や育成、場合によっては評価にまで活用しようというものだったと思います。

 

しかし、いうまでもありませんが、優秀なAさんのやり方や考え方を真似れば、成果が上がるというようなはずもありません。人には、人それぞれ自分にあったスタイルがあるはずですから。そういう、優秀者の型にはめようとして、失敗した企業も実は多いのではないかと思います。(そういう事象は、あまり表には出てきませんが)

 

そんなことより、自分にあったスタイルをどうやって見つけさせるかが、重要だと思います。そのためには、自分自身の過去の経験や失敗などを振り返ってみる必要があるでしょう。そこでは、他者とのダイアローグが有効です。

 

ただ、内省だけでは、成長イメージがわかないでしょう。そこで、ロールモデルの存在が重要になります。理想は、ある一人の上司が、それであることでしょう。しかし、それは現実には、難しいことです。

 

そこで、ある突出した実績を上げた人たちの成功要因を分析するのです。そこには、行動・思考特性もノウハウも、いろいろ入ってくるでしょう。それを抽出して、真似することが目的ではありません。抽出された要素を、材料として、対話をするのです。そこでは、「こんな真似は私にはできない」だとか、「こんなだけなら、私もできそう」などと、他者との対話の中で、自分のスタイルや価値観にあった方法を、イメージしていくのです。

 

やはり、ここでもダイアローグが重要ですが、ポイントは対話する際のネタ、材料です。材料の工夫次第で、内省しかつ成果を高めるためのヒントをつかむことも可能になるはずです。あとは、それを実行し、体験学習のサイクルを回すことです。

 

このように、コンピテンシーモデルを作り、それを社員に示せばすむという時代から、もう一歩も二歩も進んで、自らのスタイルを見つけ持論を生みだすことを支援する時代に入りつつあるように感じています。

 厚生労働省は平成19年3月20日、インフルエンザ治療薬「タミフル」の輸入販売元の中外製薬に対し「10代の患者には原則として使用を差し控えること」と添付文書の警告欄を改訂し、緊急安全性情報を医療機関に配布するよう指示しました。

タミフル.jpg 

既に旧聞に属すかもしれませんが、この措置に対して、どう思いますか?10代の生命を尊重した的確な判断と思いませんか。一般には、そう捉えられているようです。

 

本当にそうでしょうか?タミフルを服用していれば、治ったかもしれない患者のことは考慮に入れられていないようです。異常行動というマイナスの可能性と、薬で治るというプラスの可能性、その両方のバランスをどう取るかといった判断に、社会の考え方が如実に表れるように思います。

 

日本は、マイナス方向のリスクを極端に避ける文化なのでしょうか。もし、そうだとしたら、それはなぜなんでしょうか?

 

ひとつには、マスコミの体質があると思います。少しでも防げたかもしれない事故が発生すれば、その責任追及は熾烈を極めます。一方、行動の結果としてプラスの成果があったとしても、あえてマスコミは報道しない傾向があるようです。マスコミが、責任追及をミッションとしているかのうようです。マスコミがそう行動するということは、それを人々が期待しているからだとも言えるでしょう。

 

もう一つは、機会損失という概念が、ほとんど浸透していないからだという気がします。もし、タミフルの服用を続けていれば、どれだけ若い人の生命を救えたか(実際は停止したため救えなかったが)という発想は、まさに機会損失の発想です。もし、・・・なら、という仮の話は、詮無いことだということなのでしょうか。ダム建設や予算消化など、政府に、そもそもそういう発想がないからでしょうか。合理的判断よりも、感情が社会を支配していると、言えなくもないです。

 

合理性だけでなく、また感情だけでもない。双方を十分に考慮した上で、判断する。そのためには、ぶれない価値観や哲学が必要です。それを、どこで身につければいいのでしょうか。深い人間洞察と経験と知恵、それらを兼ね備えた「老人」の出番かもしれません・・が・・・。

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