文化と芸術: 2010年12月アーカイブ

人間にとってアートとは何なのか?

人間はなぜ所有したがるのか?

人間にとって仕事とは何なのか?

人間にとって金銭的価値はどのような意味があるのか?

 

 

こんな多くの疑問が、このドキュメンタリー映画を観ながら湧き上がってきました。郵便局を勤めあげたハーブと図書館司書をはやり定年まで勤めたドロシーは、一見するとNY在住の普通の、というよりはちょっと貧乏そうな老夫婦です。でも、この老夫婦はアメリカ有数の現代美術のコレクターなのです。

 

二人は若い頃から、ドロシーの給料で生活費を賄い、ハーブの稼ぎをすべて若いアーティストの作品につぎ込んできたのです。そして、集めた作品は一切売りません。作品の選定基準は、彼らの収入でも買えることとアパートに納まる大きさということだけ、あとは面白いかどうかで決めます。

 

そういうと、本当に売れていない貧乏作家から買っているようですが、必ずしもそうではありません。売れ出して値段が上がってからも、安く買い続けているのです。成功した作家も、昔の恩ゆえ安く売っているのではなさそうです。それは、彼らのコレクターとして、さらに人間としての姿勢にあるようです。買ったら売らないということ以上に作家の信頼を勝ち得ているのは、買い方です。彼らは、めぼしをつけた作家のアトリエを訪ねて、良さそうな作品を見せてもらって選ぶのではなく、出来るだけ全作品を見てから判断するのです。つまり、目の前にある作品を買うのではなく、作家の成長の歴史を理解して、その成長プロセスに重要な意味を持つ作品を選ぶことが多いようです。作家からすると、作品の買い手というよりは自分自身のすべて(過去のダメな時代含め)を包括的に評価してくれているという信頼感を感ずるのだと思います。

 

なので、作家とは家族ぐるみの付き合いになります。NYから離れたところに住む作家には、毎週のように電話をかけてNYのアート事情を詳しく話して聞かせたりもします。作家の目や耳の代わりも果たしているのかもしれません。作家のパートナーとも言えるでしょう。

 

映画では描いていませんが、ハーブの価格交渉は相当タフだという感じがしました。言い方は適当ではないかもしれませんが、買い叩いているような印象です。でも、作家は画廊より遙かに安く売ります。画廊がこの夫婦をよく思っていないというコメントも出てきました。そりゃそうでしょう。マーケットの外で勝手にやられてしまうのですから。でも、夫婦は明らかに利益を追求していません。純粋にアートが好きなのです。病気といえるくらい。だから、アート関係者は彼らに敬意を払っているのです。

 

高齢の彼らは、作品をナショナルギャラリーに寄贈することにしました。狭いアパートから運び出すのに、一軒家の引っ越しの荷物を全部積めるトラックが、5台も必要だったそうです。寄贈を受けたギャラリーは、彼らの生活維持のためにいくらかの謝礼を支払いましたが、そのお金もすべて作品に代わってしまい、また広くなりかけたアパートのスペースを埋め出したそうです。いずれその作品もナショナルギャラリー行きになることでしょう。

 

ハーブとドロシーという人間自体がアート作品というしかないですね。これだけ幸福な人生は、そうはないでしょう。


温かくかつすがすがしい、でもちょっとだけ考えさせられる映画です。

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京都に出張する機会があったので、時間を見つけて広隆寺を訪れました。約十年ぶりの参拝だったのですが、あらためて広隆寺の仏像群の素晴らしさに大満足でした。

 

広隆寺といえば、言わずと知れた国宝第一号の弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)です。前回は宝冠弥勒だけを観に行ったようなものでしたが、今回は他の仏像もじっくり拝んできました。たまたま読んでいた矢内原伊作のエッセー集「歩きながら考える」の中で、宝冠弥勒以外の広隆寺の仏像群も絶賛していたので、居てもたってもいられなくなったのです。

 

京都といえば平安時代以降の仏像というイメージがあるのですが、聖徳太子と縁が深いだけあって飛鳥/天平時代から鎌倉時代までの仏像があり、像の時代変遷も知ることができます。最初に迎えられたのは、藤原時代の十二神将(木彫り)です。奈良の新薬師寺の十二神将と比べると、憤怒というより怒りが内面に向かっているような複雑な表情です。姿は藤原時代だけあって、典雅な印象で完成度は新薬師寺よりも高い気がします。

 

今回もっとも印象深かったのは、3mを超える高さの不空羂索観音立像

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す。大きさ以上にその姿態の柔らかさ、品格が素晴らしいのです。こちらも木彫りですが、肌の感触まで伝わってくるようです。また、下半身を覆っている着物のドレープの美しさも、大理石のギリシャ彫刻を思わせます。奈良の法華堂の不空羂索観音立像ほどあでやかではありませんが、私はシンプルで優雅なこちらのほうが好きです。

 

そして、何といっても弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)。正面に畳席があり、そこで座って拝めるようになっています。10分以上はそこで座って拝観していたでしょうか。これが本来の仏像の拝み方であり、それが出来るお寺はそう多くはありません。拝みながら自分と無意識に対話できます。最初は、繊細で上品なお姿に、自分の煩悩やいやな部分をどんどん洗い流してくれるような気がしました(持続しないのは残念ですが)ところが、ある

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時点から力強さと外に発するエネルギーのようなものを感じるようになりました。なぜか、別の姿に見えてきたのです。不思議な体験でした。

 

紅葉のシーズンも終わり、人影もまばらの夕暮れの広隆寺で、おごそかな時間を過ごすことができました。

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