文化と芸術: 2010年2月アーカイブ

昨日、国立博物館で「土偶展」を観てきました。大英博物館での展示の移動展です。縄文土器はたくさん触れる機会がありまたが、土偶をまとめて観る機会はほとんどありません。想像以上に、素晴らしい展示でした。縄文人の思想やものの見方まで想像できそうな気がしたほどです。

 

数日前の日経文化欄に面白い記事がありました。例のごとくうろ憶えですが。

 

  ラスコー2.jpgラスコー洞窟の壁画は数万年前の人類が牛や馬を描いたものだが、遠近法も使われている。遠近法は空間把握能力と関係がある。子供がよく頭からいきなり足が生えているような絵を描くが、それは言語の能力と関係がある。驚くほどリアルな絵を描いた幼児が、言葉を覚えるに従って幼稚な絵を描くようになってしまうという研究がある。頭から足が生えているような絵だ。そして、その絵の横には、パパと書いてある。つまり、左脳が発達し言語能力が高まることにより、絵は抽象化していくのかもしれない。

 

私なりに解釈すると、人間はふつう成長し空間把握能力が高まればラスコー洞窟画のようなリアリティーのある絵画表現ができるようになる。言語能力が発達すると、リアリティーある絵画表現は不要になり、言葉で置き換えるようになる。(したがって、ラスコー洞窟画時代の人類はまだ言葉を使えなかったかもしれない。)その結果、リアリティー溢れる絵画表現は苦手になり、幼児の絵のように記号化する。また、視覚として見える像をリアルに描くのではなく、自分に「見えた」像を描くようになる。つまり視覚ではなく認識や印象を描くようになる。(デフォルメ、抽象化)さらには、視覚情報とは別の概念を描くようになる。(概念化)それらとは別に、美的感覚が養われ、「美しさ」を描くようになる。近代までの職業的画家は、このような流れに逆らって具象を表現する技術を磨くことにより、敬意を集めた。

 

以上が、その順番で発達するかどうかはわかりません。紀元前2,3千年前の縄文人が製作した土偶には、リアリティーは感じませんが、デフォルメや概念化や美的感覚を感じることができました。例えば、「縄文のビーナス」は女性の身体の特 縄文.jpg徴をデフォルメして見事に表現し、そこには母性への敬意という思想概念を表現しつつ全体のバランスの美しさは見事です。その他の土偶にも、概念化や美的感覚を大いに感じます。縄文人の文化、言語能力は非常に高いものがあったのだと思います。(三本指の人間表現が、縄文土器には多くあります。それは、月を崇拝する当時の信仰を表現しているとの解釈もなされています。)

 

 

ピカソの絵の変遷に代表されるように、具象、抽象、デフォルメなどは一方向の進化ではなく、すべてをバランスよく認識し、保有することが人間にとって自然なのではないかと思います。ようは、どれも大切なのです。晩年のピカソやマチスが、幼児のような絵を描いたことは有名ですが、あそこまで芸術を突き詰めた人間の、自然な姿なのかもしれません。

 

 

現代は、言語に支配されている傾向にあります。つまり左脳社会です。そのバランスを取る意味でも、土偶のような古代人の表現が、イギリスや日本で大きな話題を呼んだのは当然だという気がしました。

 

先日、文楽二月公演を観てきました。演目は、ご存じ「曽根崎心中」。見どころは、「天神森の段」道行きの場面です。道行きとは、心中のた道行き.jpgめ死地におもむく男女が、風景の中をひたすら歩く場面です。以下、そこでの語りの一部です。近松門左衛門の名調子、惚れぼれしますね。

 

鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契ていつまでも、我とそなたは女夫星(めおとぼし)。必ず添ふと縋りより、二人が中に降る涙、河の水嵩も勝るべし心も空も影暗く、風しんしんと更くる夜半

 

そもそも道行きという型があること自体が日本的です。会話は多くはなく、風景の中をひたすら歩く。しかし、移動する風景が二人の心情を雄弁に語る。語りも、人と風景が溶け合っているようです。そこに太棹(三味線)がさらに心情を盛り上げる。日本人にとって、風景は切っても切れない深い関係にあるようです。

 

 

話は変わりますが、日経夕刊1/18週に連載されていた元世界銀行副総裁の西水美恵子さんの話がとても面白かったです。特に面白かったのは、キャリアに迷っていた時きっぱり決めた場面です。

 

山の上のスキー場にロープウェイでのぼり、眼下に開ける太平洋を見ていたら、「何を悩んでいるのだろう。私のやりたいことは経済学だ」という答えが、すうっと見えてきました。

 

合理的意思決定でも何でもありません。風景が彼女に意思決定させたとも言えます。実は、私も似た様な経験があります。移動中の新幹線の座席で、ノートにふたつの選択肢のプロコンを列記しながら、あることで迷っていました。いくら書いてみても結論はでません。そんな時に、車窓から快晴の空を背景にした富士山が見えたのです。見なれていた富士山ではありますが、その時はちょっと違って見えた気がします。そして、その瞬間迷いが晴れました。

 

非合理な意思決定ではありますが、最後の最後は風景の力が決めるのです。これは、日本人特有なのかどうかはわかりませんが、道行きにしても西水さんにしても、風景と人間の関係について、興味が尽きません。

このアーカイブについて

このページには、2010年2月以降に書かれたブログ記事のうち文化と芸術カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブは文化と芸術: 2010年1月です。

次のアーカイブは文化と芸術: 2010年3月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1