2018年12月アーカイブ

ここのところの人材開発のトレンドのひとつは、ダイバーシティ教育でしょう。女性管理職比率が低い、もちろん役員においても。また外国人の役員も少ない、などといったことが、新聞等でも盛んに指摘されます。もちろん、ダイバーシティには他にも、人種、宗教、障碍、LGBT、年齢、世代などいろいろな多様性があります。

 

ある尊敬する経営者から、なぜ企業においてダイバーシティが必要だと思うか?と質問されたことがあります。

 

不確実性の大きい経営環境においては、組織の中にも多様性を保持したほうが変化へ対応しやすく、また創造性も高まるからじゃないでしょうか、と教科書的な回答をしました。

 

するとその方はこうおっしゃいました。

「創造性とか変化対応とか、みんないろいろ理屈をつけるけど、経営者はそんなことは考えていない。もっとも企業が勝ち続けられるフォーメーションを考えれば、必然的に多様化した集団になるんだ。」

 

私は、目から鱗が落ちた気分でした。世間ではダイバーシティが目的化しているが、ダイバーシティは目的ではなく手段です。すくなくとも、民間企業においては。本来の目的は、企業が強くなることです。

 

では、なぜ本来の目的を追求することを忘れ、目的化した手段に汲々としているのか。考えてみましょう。

 

・日本では、少なくとも戦後の高度成長期においては、画一的な労働者(つまり非多様性)を基盤にした組織が有効だった(理由は明らかでしょう)

・ヒトは何らかの共通的を持った人びとで集団を形成したがり、その集団を維持する力がはたらく

・その結果、集団内でメリットを配分するとともに、異なる集団を排斥することで集団の結束力を高める

・そうした環境に長期間置かれることで、それに都合のいい「理論」ができあがり、集団内で信念として共有されていく

(例:女性は数字に弱いので高度な仕事にはむいていない、など)

・そうした「理論」は、無意識のバイアス(そもそもバイアスとはアンコンシャスなもの)となってその理論にそった思考や行動を導く

・集団において、そう考えるのは自分だけじゃないと認識されれば、さらにそのバイアスは強化されていく

・そうしたバイアスのもとでは、たとえ「理論」を否定するような事象が起きたとしても、やがて肯定する事象に変化しがち。その結果、やはり「理論」は正しかったと確信される=ピグマリオン効果(予言の自己実現)

(例:数字に強い女性がそれを活用できる仕事を任されてとして、周囲の男性の協力が得られず、やがて他の部署に異動させられてしまう。そして、やっぱりな、と周囲の男性は安堵する)

 

かつては、こうした画一化が合理的だったとしても、経営環境は変わっていき、環境不適合となっていくわけです。しかし、こうした状況は、ヒトの心理面に深く刻まれるため、なかなか脱却できません。そのため、グローバルで競争している企業は、海外企業との競争に負けていくことになります。このままではまずいということになり、「ダイバーシティ」が大事だ!ということを言いはじめたのです。

 

しかし、人びとはなかなかぴんときません。それは、ダイバーシティを重視しなくても、まだまだ生き残れる企業の方が大多数だからでしょう。腐っても鯛、世界第三位のGNPを誇る日本です。まだまだ国内市場は大きい。減ったとはいえ、まだ規制で守られている業界は多い。また、グローバル企業からみると、日本は限界市場であると判断し、本気では参入しようとしない。だから、生産性が多少低くても生き残っていける。(日本企業のホワイトカラー生産性が低いのは、それが維持できるからです)

 

こうして、役所や経済界が旗を振っても、日本全体の「空気」にはなっていない。上辺の形だけ整えて、やり過ごそうとする。(社外取締役の起用など、手段が目的となり実施することで安心する)

 

保守的大企業の「空気」を変えるには、まだまだ力不足なんです。

 

しかし、このままでいいのでしょうか?私は典型的な「ゆでがえる現象」だと思います。まだまだ、と思っているうちに茹で上がってしまう。では、どうすればいいか。

 

これまで培ってきた「理論」を、ひとつひとつ否定することは非効率です。それよりも、これまで集団に守られてきた社員の思考パターンを変えさせる必要があります。それには、

・自分が当たり前だと考えていることを、必ずしも他者はそう考えない現実を見せる

・相違が発生するのは、自分はある「フィルター」(バイアス)を通してものをみる特性があることを気づかせる

・同様に、他者も独自のフィルターを持つことに気づかせる

・従って、自分と他者に相違があり、それを受け入れる必要があること認識させる(異文化受容)

・異文化を受容する能力には個人差があることを理解し、それを高めるための方策を知り実行する

 


上記のプロセスは、考えてみればダイバーシティ教育に限るものではありません。ヒトが社会の中で生きていくためには、絶対に必要なスキルです。だから、本来これらは、学校教育や家庭内教育でなされているべきかもしれません。


もともと集団主義の傾向が強い我々日本人が、たまたまアメリカの庇護のもとで長期にわたって巨大な国内市場で成長を謳歌してきたのですから、社会や組織における多様性の必要性を感じなかったし、したがって教育しなかったのも当然かもしれません。

 

しかし、明らかに時代は変わりつつある。他者との違いを認めて、その違いを最大限活用するスキルが、今後さら不可欠になることは間違いありません。ダイバーシティ教育という狭いスコープで捉えるのでは、手段の目的化を脱することは、茹で上がるまでできないでしょう。今からでも、教育すべきだと考えます。

 

昨晩、和泉流狂言「狐塚」を観ました。(国立能楽堂の企画で、先月は同じ狐塚を大蔵流で観ました。ストーリーはほぼ同じですが、設定が微妙に異なりました)

 

簡単にストーリーを説明するとこうです。

 

今年は豊作。狐塚にある田を群鳥に荒らされては大変と、主人は太郎冠者に田にいて鳥を払うことを命じます。やがて真っ暗闇になり、一人っきりの太郎冠者はだんだん不安になります。狐塚というくらいで、そのあたりは狐が人間を化かすと評判だからです。

 

次郎冠者はひとりで番をする太郎冠者のことが心配になり、様子をみにいきました。真っ暗やみなので、「ほーい、ほーい」と呼びかけます。その声を聞いた太郎冠者は、いよいよ狐が化かしにきたと思い込み、恐ろしさのあまり、招くふりをして捕え縛り上げます。次に、主人も心配になり来ますが、同じように縛りあげられてしまいます。

 

恐ろしさのあまり二人とも狐だと信じ込んだ太郎冠者ですが、やがて二人の反撃をうける・・・という話です。

 

いたってシンプルな話ですが、人間の本質を的確に描いているといえるでしょう。人間は想像しなくてはいられない生き物です。だから、一人ぼっちでしかも真っ暗で心細いと、すべてが悪い方に想像してしまうのです。防衛本能がはたらくのかもしれません。

 

そうなると合理的な判断はできなくなります。様子を見にきた太郎冠者と主人の姿が本人そのものに見ても、よくぞそこまで化けたものだと、逆に警戒心を高めてしまいます。

 

こういうこと、よく聞きませんか?私がすぐ思いついたのは、自分が三顧の礼で連れてきた後任の社長を、二人続けてクビにして、自分が社長に復帰した某社の創業者二代目です。彼はひとり暗闇を心の中に抱え、不安でしかたがないのでしょう。だから、自分が連れてきた後任社長が狐に見えて、自分を騙しているのではと思いこんでしまう。外から来た社長は、誠意をもってその二代目と話し合ったかもしれません。でも、誠意を示されればされるほど、「うまく化けた」とますます警戒心を高めてしまう。

 

こういうことは、この会社のみならず、いたるところで起きているのではないでしょうか。

 

室町時代から人間の本質はまったく変わっていない。よくぞ、600年も前の狂言作者は、そうした人間の本質をシャープに切り取ったものだと、あらためて感心します。すごいもんですねえ。

先週の土曜日、東京芸術劇場でのエル・システマ ガラコンサートに行ってきました。エル・システマとは、1975年にベネズエラで設立された組織で、子供たちがオーケストラやコーラスに参加することで、音楽を学び、集団としての協調性や社会性を育み、コミュニティとの関わりをつくることを目的としています。日本では、東日本大震災をきっかけに2012年に設立されました。福島県相馬市、岩手県大槌町、そして2017年には長野県駒ケ根市と東京でも活動を開始。そうした活動の、いわば発表会がこのガラコンサートです。

 

第一部は、相馬子どもオーケストラ、大槌子どもオーケストラ、駒ケ根子どもオーケストラの合同演奏会です。ベネズエラから、エル。システマの先輩でもあるデュダメルに師事した21歳の指揮者エンルイス・モンテス・オリバーさんが来日し、指揮しました。想像以上に上手で、子どもとは思えないほどの演奏。特に、バイオリンソロの半谷くん(高一)は、なかなかのテクニックでした。

 

第二部は、昨年に続き東京ホワイトハンドコーラスの子どもたちによる演奏です。ホワイトハンドコーラスとは、聴覚障害や自閉症、発声に困難を抱える子どもたちが、音楽に合わせて白い手袋でパフォーマンス(手歌・サイン)するものです。歌詞からサインを作るのも子どもたちです。声を出さなくてもコーラスができるという、素晴らしい発想ですね。

 

今年は、こうした「サイン隊」に「声隊」が加わりました。声隊は、視覚障害で目が見えない子どもたちです。舞台向かって右側にサイン隊が並び、左側に声隊、舞台左端に伴奏ピアノの配置。それぞれの隊に、指揮者の先生がつきます。

 

視覚障害の子どもたちは、ピアノの伴奏に合わせて大きな声で歌い、その声を受けた指揮に合わせて聴覚障害に子どもたちがサインでコーラスを奏でる。奇跡的なコーラスだったと思います。何よりも、どちらの子たちも楽しそう。でも、ここに至るまでは相当の苦労があったと思います。支える人たちには頭が下がります。( サイン隊と声隊の合同練習の動画をみてみて下さい。)

 

眼が見えないからできないのではなく、伴奏を聴いて歌ってサイン隊を導く。また、聞こえず声がうまく出せないからコーラスできないのではなく、指揮に合わせて体で歌を表現する。そのパフォーマンス観客に伝わり、それが指揮者や伴奏者にもフィードバックされ、さらにコーラスに反映されていく。

 

無いものを嘆くのではなく、あるものを活かして全体に貢献する。それがこのホワイトハンドコーラスの意味だと思います。そうしたプロセスに参加することで、誰もが楽しみや喜びを感じることができる。こうした姿に共感しない観客はいません。人類は、補い合い支え合うことで生きのびてきました。その本性が、こういう場面には意識せずとも発露してくるような気がします。

 

普段は忘れてしまいがちな、こうした本能を思いださせてくれる、貴重な機会でした。

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