2009年3月アーカイブ

昨年秋以降、特に今年に入ってからの企業の経費削減の嵐は、ものすごいらしいです。某超大手自動車会社は、東京出張の交通費すら支給されないそうです。また、ファナックでは会社施設以外の宿泊は原則禁止。スズキでは、社員一人当たりの文具は、消しゴム、鉛筆、赤ボールペン、黒ボールペンが、各一つずつ、ホチキスは二人で一つと決められ、余分は召し上げられたそうです。

 

こういう時代ですから、研修にもお金をかけることはできないでしょう。しかし、以前書きましたが、こういう時期にこそ、集中的に人材開発に時間を投入することは戦略的投資です。そこで、お金を極力使わないで、中身のある研修を企画し、実施することに、知恵を絞ることになります。

 

数日前の日経新聞で、富士重工の英語が得意な人事部社員が、自発的に自分が講師となり、英語の社内研修を実施し、好評だとの記事がありました。

 

社員が講師で、社内会議室で実施するので、追加コストはゼロです。時間も就業時間後でしょう。

 

いい話だとは思いますが、複数の人々に対して教育するということは、それほど簡単なことではありません。すべての大人は、過去に相当時間の教育を受けてきたわけですから、自分が提供者の立場になっても、それなりのものは提供できるでしょう。つまり、一応できてしまうわけです。その時のベンチマークは、大学教育や新人研修かもしれません。

 

しかし、すべての世界そうですが、やはりアマチュアとプロのレベル差は非常に大きいです。残念ながら、多くのビジネスパーソンは、大学教育レベル(今は随分進化しているかもしれませんが)しか知りません。他の世界と同様に、上には上があることを知り、本来はそれとの比較で、検討すべきです。

 

もちろん、いいものは高いのは当然ですが、重要なのは費用対効果です。少ない費用でも、その分企画運営者が苦労して、ある程度の効果を上げることは可能です。いきなり、アマチュアの社員が講師をするということが必ずしもいいとは限りません。(もちろん、教えることによ り講師役の社員が成長することは期待できますが)

 

こういう時代だからこそ、人材開発担当者は、知恵を出し、手間を惜しまず汗をかくべきでしょう。

 

そのためには、・・・・「人材開発マネジメントブック」を買って勉強しましょう。(最後は宣伝で、すみません。昨晩、編集者からプレッシャーを受けまして・・・)

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人材開発マネジメントブック―学習が企業を強くする福澤 英弘

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人材開発、特に研修に関わると、話し言葉に敏感になります。本を執筆するということは、いわばミュージシャンがスタジオ録音することですが、現場での研修講師を担当することは、ライブに相当します。ライブでは、観客との関係性や状況によって、さまざまな話し言葉を駆使して成果を生み出します。それを話法と呼びましょう。

 

話法を、発話者の数と話の方向が収束に向かうか、発散に向かうかで4象限に分類してみます。  話法3.ppt

 

「場」に何らかの責任を負う者(必ずしも研修講師だけではなく、社内会議の場面でも同様)は、受講者と、あるいは受講者同士で、これらの話法を使い分ける必要があります。どれを使うかは、何を獲得したいかによります。

 

例えば、「問いかけ」は相手の思考のスイッチを入れるための話法ですし、「講演/プレゼン」は、相手の理解を得るためのものです。また、「議論」は、相手を納得させ決定するための話法です。

 

最も難しいのが、「対話」です。受講者間の対話により、共感や創造を生み出すことを狙います。複数者で発散するわけですから、難しいわけです。

 

それでも、研修会場や会議室といった物理的な場を共有していれば、ある程度の場のコントロールは可能ですが、最近では、ネットを使ってバーチャル空間で、それを実現させたいとのニーズも高まっています。

 

講師が話法(モード)を使い分けることと、ネット環境でそれを瞬時に対応可能にするIT技術の両方が揃って、初めて可能になります。チャレンジングなテーマですが、もしうまくできたらインパクトは計り知れないほど大きいでしょう。

 

 

本日、東大の中原淳准教授が企画された「カフェ研究会」に参加してきました。中原さんが、「caféから時代は創られる」(飯田美樹著)に刺激を受けて企画されたものです。caf´eから時代は創られる
飯田 美樹
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著者の飯田さんによる「創発空間としてのcafé」と題する講演をはじめ、盛りだくさんの内容でとても楽しく、刺激的でした。仮想的なcaféの場でcaféについて対話しようというものでした。

 

保険のロイズは、ロンドンのコーヒーハウスから興ったことは有名ですが、思想や芸術分野などでも新しい時代はヨーロッパのcaféが生みだしていったそうです。

飯田さん曰く、

「天才たちがcaféにやってきたのではなく、caféという場が天才たちを創っていったのでは」

 

辺境に多様な人々が、入れ替わり立ち替わり集い、そこから新しい「知」が生み出されていくという景色は、理想的なもののように見えます。今、企業でも、そうした場を作りたくてしょうがないのです。が、できません。

 

Caféの条件は、

    ふらっと、いつでも行ける

    Caféの主人の前では皆が対等

    無目的で集う

    職場や家庭では、決して会うことのない人々がたくさんいる

    時にすごい人(アトラクター)にも会え、彼らとの議論にも参加できる

といった、自由と平等、開放性が担保されていることだそうです。

 

まさに、すべて企業組織の対局に位置するものです。もちろん、プロジェクトチームやスカンクワークなどといった手法を使って模擬的な場をつくることはできます。多くの企業では、それを模索しています。

 

マクロで捉えれば、日本社会にも上記の定義でのcafé的なものがたくさんあり、そこで教育され刺激された人材が、たまたま企業組織でも活躍するというのが、あるべき姿ではないでしょうか。

 

真のcaféあるいはcafé的なものをたくさん創りだす、そしてcafé育ちが集い活きる組織を創る、この二つの課題を追っかけてみたいなと思いました。

 

TVドラマ、映画、演劇、歌舞伎、文楽、狂言、能・・・

 

いずれも一応ストーリーがあって、演じ手が演じたものを客が観るという形式のエンタテイメントですが、何の順で並べたと思いますか?

 

そう、観客の想像力を必要としないと私が考える順です。「リアル」な順ということも言えるかもしれません。

 

昨日、加藤健一事務所の「川を越えて、森を抜けて」という芝居を観ました。演劇は、能よりは「リアル」ですが、TVや映画よりは作り手側の制約が大きいものです。詳細は省きますが、芝居の中のある部分で、私は感情移入ができませんでした。つまり、個人として「リアル」を感じなかったのです。それは、脚本がどうとか、役者がどうという問題ではありません。あくまで、私個人の内面と芝居の世界がつながらなかったのです。

 

そう考えると「リアル」とは、具体的とか目に見えやすいということではなく、自分の内面とどれだけつながっているかということだと思います。だとすると、TVドラマより能のほうがリアルであるということも、十分あります。いや、実際そうです。文楽の人形や能面は固まっているにも関わらず、多様に表情を変えます(そう見えます)。

 

想像に依存するということは、観客の内面と演じ手の世界のつながりが無限大に広がる可能性を秘めているということなのです。想像に依存しないTVドラマでは、リアルであるがゆえに、つながりの程度が限定されてしまうような気がします。

 

教育の分野でも同じではないでしょうか。学び手に「リアル」(具体的という意味での)なものを与えればいいわけではありません。想像力を刺激し、思考を活発にさせるきっかけを与えることで、学び手の内面を刺激し、徐々に独自の世界を形づくっていくのではないでしょうか。

加藤健一事務所.jpg

 

WBC.jpg韓国との大接戦を制して、日本チームが見事二連覇を達成しました。原監督が、優勝後インタビューで語った「先月の代表合宿から、日に日にこのチームは進化してきた」というコメントが印象的でした。

 

プロ集団でも(だからこそ)、短期間にチームとして進化するというのは、実はすごく難しいことなのでしょう。アメリカやプエルトリコチームは、それができなかった。

 

サッカーでは、代表チームが召集され短期間でチームとして成熟させることは、どの国でも普通です。ところが、野球にはそういう機会はほとんどありません。五輪とWBCだけです。どのチームも慣れていないのです。

 

韓国と日本というアジアのチームが決勝まで勝ち残った理由は、進化のスピードにあるのかもしれません。各選手の持つコンテクストと、監督がチームとして目指すコンテクストを融合させる、また選手同士も擦り合わせる、それがチームの進化ではないでしょうか。それを、短期間で成し遂げるには、(昨日も書いた)各自のコンテクストを操る能力が優れている必要があります。その点では、アジア人が一歩リードしている気がします。

 

もし、日本シリーズ、韓国シリーズの覇者と大リーグの覇者が対戦したら、また結果は変わってくるでしょう。WBCは大リーグが企画しているイベントですが、実は(少なくとも現時点では)彼らにとって不利なイベントのようです。本当は、日本人が自らの強みを活かすフィールドを、自ら世界に企画していくべきなのでしょうが。

研修を提供する側には、二つのパターンがあります。ひとつは、コンテンツ重視がとでも言いましょうか、緻密なティーチングプランと講師用教材が用意され、講師に依存しなくても、一定のサービスが提供できるパターンです。大量の講師が用意でき、規模を追求することができます。

 

もうひとつは、講師がティーチングプランも教材も用意するパターンです。多くの場合、その教材は、開発した講師しか使えません。開発者が他者の使用を許可しないことも多いですが、そもそも他者では使いこなせないという前提があるのでしょう。

 

大量生産型か、職人芸型ということもできます。その中間は、ないのでしょうか?私はあると思います。

 オーケストラ.jpg

音楽の世界では、作曲家が楽譜に落としたものを、演奏家が独自の解釈で演奏します。また、演劇の世界では、劇作家が書いたシナリオが、演出家と俳優によって演じられます。これらは、大量生産でも、職人芸でもないでしょう。

 

楽譜やシナリオは、生み出した人が便宜上紙に落としたものに過ぎず、それ自体は絶対的なものではありません。

アイデア(作曲家)→楽譜(作曲家)→演奏(演奏家)

矢印の間には、とても大きな距離があり、解釈する余地はとても大きいのではないでしょうか。

 

アイデア、楽譜、演奏は、いわばコンテンツです。しかし、矢印のところではコンテクストを読み解く、擦り合わせのプロセスがあります。作曲家と演奏家の間のコンテクストのぶつかりあいとも言えましょうか。それがあるから、時代や状況が変わっても優れたコンテンツは生き残っていくのです。

 

さらに、演奏家や俳優は、現場で観客ともコンテクストを交換するのです。

アイデア(作曲家)→楽譜(作曲家)

             感情(観客) ⇒演奏(演奏家)

 

研修教材と講師と受講者の間でも、それと同じ関係が構築できるのではないでしょうか。コンテクストを操ることができる教材開発者や講師こそが、ホンモノだと思います。

 

先日亡くなった加藤周一さんは、終戦時二十代半ばの医学生で、東京大空襲や広島の原爆現場での医療活動に携わったそうです。そういった体験が、その後の思想に決定的だったと言っています。他にも私の履歴書を読むと、多く方の生き方に、戦争体験が強い影響を与えてきたことがわかります。何歳で終戦を迎えたか、ほんの数年の年の差が決定的に影響しているのです。

 

80年代後半の社会人になったばかりの頃、あるドラッカーの著作で「現在のアメリカ人は、史上初めて親の世代より貧しくなりつつある。」とある部分を見つけて、驚いたことを覚えています。当時、経済は成長するのが当たり前で、親より豊かになるのを当然と考えていました。アメリカも大変なんだなあと思っただけで、まさか日本もそうなるとは予想だにしませんでしたが、今、現実となりつつあります。

 

私の世代は、戦争や学生運動のような強烈な共通体験はありません。しかし、バブルとその崩壊、そして小泉改革によるミニバブルとグローバル不況を経験しつつあります。それらを、何歳で経験したかも、その後の生き方に影響を与えることでしょう。例えば、就職時期に重なった世代はまさにそうです。生活環境のみならず、考え方へも影響を及ばさずにはいられません。

 

個人的な体験で言えば、銀行員一年目でバブルを経験し、いきなり理解不能な即物的価値観に圧倒されました(銀行では顕著でした)。 ジュリアナ3.jpg  個人としては、安月給でバブルを謳歌することはかないませんでしたが。そして、バブル崩壊。肌感覚でおかしいと感じるものは、やっぱりおかしいんだ、と妙に納得しました。最近のミニバブルでも、それを確認した思いです。同年代の人は、同じような少し冷めた感覚を持っていると思います。

 

「社会経済情勢X体験年齢」で、一つの世代を括れます。もちろん、この世代の塊も、年齢を重ねるにしたがって、年齢による影響を受けていきます。そう考えると、世代という場合、三パターンあるのではないかと思います。

     年齢に影響される世代(例:親の世代と子の世代の対立)

     純粋にデモグラフィックに定義される世代(例:団塊世代)

     「社会経済情勢X体験年齢」による世代(例:就職氷河期世代)

 

戦後、比較的安定した社会を生きてきた日本人にとって、あまり三番目の世代は重要ではなかったのでしょう。ところが、昨今これだけ不確実性が高まる社会となっては、その意味は大きくなっていくに違いありません。社会や組織の一体感を維持していく際に、その視点を忘れてはならないと思います。

一昨日、「形」から入るのはいいとして、その後でどうするのか、ということを書きました。そのことを、少し角度をかけて、さらに考えてみました。

 

和魂洋才という言葉があります。それは、明治時代に、進んだ西洋の技術を取り入れるものの、日本人の精神は失わないという決意の言葉だったと解釈しています。この考え方が、現在の日本の底流にあると思います。

 

例えば、社外取締役制度。バブル崩壊後、雪崩を打ったように日本企業は採用しました。この制度の精神は、株主からすれば、社長の「部下」である内部取締役だけでは、経営のチェックが機能しない。利害関係のない社外の有能な人材が取締役となり、経営を「取り締る」べきである、ということでしょう。その精神は、理にかなっています。

 

この制度を「形」として採用した日本企業は、果たしてこの精神も採用したのでしょうか。その後の状況を見る限り、そうでもなさそうです。うがった見方かもしれませんが、

―外部の人間に、うちの会社のことがわかるはずはない

―社外取締役の得意分野に関しては、ご意見を拝聴するが、それ以外は聞き流そう

―株主重視の開かれた企業であると、アピールするために社外取締役制度を活用しよう

 

という論理が罷り通っている気がしてなりません。

 

つまり、「形」だけ取り入れ、「精神」は取り入れていない、まさに和魂洋才ではないでしょうか。数年前にはやった買防止策も同様です。

 

今、日本企業に必要なのは和魂洋才ではなく、「和才洋魂」だと思います。グローバル競争に対応するためには、そのエッセンスを取り入れることを避けことはできない。ただ、日本企業組織に導入するに際しては、日本的な適用方法を工夫すべきです。そのまま取り入れてもだめだし、もちろん形だけ取り入れてもだめです。グローバルな精神を日本組織に適合するように解釈し、形を整える、そんな努力をもっとすべきだと思います。

 

(その具体策を提案するのが、経営学者なのだと思うのですが、残念ながら洋魂wakonyousai-yoko.jpg洋才が多いように感じてしまいます。)

バブル崩壊後、株主重視経営、社外取締役制度、成果主義人事、非正規労働促進など多くの制度や仕組みがグローバリゼーションの名の下で、日本企業に導入されました。その後、10年程度経過し、その評価はどうなっているのでしょう。

 

「形」から入ることも大事です。まずは、導入してみて、それが機能するように徐々に体制を作り上げていく。だめだったら、その時点で見直せばいい。というのが、大抵導入時に使われる論法です。

 

しかし、その「形」を実りあるものにしていくためには、その背景に複雑なミニエコシステムともいえるような体系を構築しなければなりませんが、それを本気で行うことは少ないようです。

 

CFOやCLOもそんな流れの中で、話題になりました。財務部長とCFO、CLOと人事部長は何が違うのか、どれだけ理解され導入されたのか。そして、今どれだけCFOやCLOに値する機能が存在するのか。

 

あらためて、その必要性を評価し、もし本当に必要とされるのならば、どうやって日本企業でそれを導入していくのか、ミニエコシステム構築から考え直してみる時期に来ていると思います。

今週の日月で、修善寺の温泉に行ってきました。「あさば」 という老舗の温泉宿です。サービス、食事、風景、お湯など、あらゆるものあさば.jpgが洗練されており、いつ来ても寛ぐことができます。もちろん、お値段も相応ですが。今回最も印象的だったのは、床の間の掛け軸に、大好きな松田正平の書がかかっていたことです。もちろん、宿は私の購読新聞は知っていても、好きな画家の名前までは知らないでしょう。でも、心地よい宿というものは、そういうものです。

 

一転、昨晩の夕食は、「サイゼリヤ」で食べました。経営手法には、興味はあったのですが、そのレストランには初めて入りました。噂に劣らず、その低価格とにこやかな店員の態度には、関心しました。もちろんあさばとは全く異なる料理とサービスですが、値段からすれば、悪くないと感じました。

 

それを実現するために、当社は磨き込まれた仕組みと店員教育を徹底しています。仕組みとは、簡単に言ってしまえば規模の経済性と標準化です。それらの追及により、低価格でそこそこのサービスを実現しています。サイゼリヤでは、顧客もそれを承知で食事に行くわけです。サイゼリヤに限らず、ファミリーレストランという業態そのものがそうですね。サイゼリア.jpg

 

子供の頃は、ファミリーレストランは少なくとも私の周りにはありませんでした。外食とは、美味しくないけど安い店と、気の利いた料理を出す店、美味しいが高い店の三種類でした。その後、外食産業の進化の中で、安いだけの店はなぜか残っていますが、気の利いた店はどんどん消滅していき、ファミリーレストランに代替されていったように思います。美味しいが高い店も、バブル崩壊後は、減少の一途でしょう。

 

ファミリーレストランは、気の利いた料理「もどき」を、豊富なメニューで提供する業態だと思います。気はそれほど利いていないかもしれませんが、種類は豊富です。それまでは、ハンバーグの気の利いた店、スパゲッティの気の利いた店と、メニューによって店を使い分けていたものが一か所ですむ、そういう利便性もあります。探す手間も省けます。値段は、それほど安くはありませんが。サイゼリヤは、さらに美味しくないけど安い店の領域にまで、踏み込んでいます。

 

このような現象を、産業化というのでしょうか。産業化によって、本物「もどき」の製品やサービスを、膨張する中産階級に提供する。これ自体は、庶民にとってはありがたいです。

 

ただ、「もどき」を「もどき」とわかって消費しているうちはいいのですが、それが本物だと勘違いしはしないか、その結果、本物が生き残る余地がなくなってしまいはしないか。どんな分野であっても、一部の本物が、全体の進化を導いていくのだと思います。たとえば、老舗和菓子店がお菓子の分野の進化を支えているといいます。

 

日本の社会的つよみは、ボリューム層である庶民が、本物を見る目を持っていることなのではないかと思います。手間を省くこと、効率を追求することを最大の価値とすれば、本物は失われます。日本人がもともと持っているDNAを思い出したいものです。

人間は、極限状態に陥ると、別の「誰か」が現れ、導いてくれることがあるといいます。エベレスト世界初登頂を成し遂げたヒラリー氏が、疲れで朦朧となりながらかろうじて歩いていると、自分の頭の後ろに人間の存在を感じ、指示を与えて続けてくれた。だから、遭難せず生還できた。という話を読んだことがあります。

 

また、能では夢幻能といって、僧の夢に死者の亡霊が現れ、ひとしきり思いを述べて、目覚めとともに消えていくという形式があります。 夢幻能2.jpg  死者が夢枕に立つということも、それほど珍しいことではないようです。これらは、死者が強く思い残したことがあって、それを夢の形で生きている人に伝えると解釈されることが多いようですが、この世の人の潜在意識にある、ある考えが、死者の言葉を借りて顕在化すると考えることもできるのではないでしょうか。ヒラリー氏も同様です。

 

人間の認識は、所詮自分の頭に中にある記憶パターンと、その時の心持ちに適合するかどうかでなされると思います。人間は見たいものしか見ないですし、想定外のことは受け入れられないものです。

 

そんな人間が、極限状態や夢に頼らず、自分の認識の外に踏み出すには、どうしたらいいのでしょうか。ひとつは、自分が無知な存在であると自覚することでしょう。無知だから、外に光を求める強い意志が生まれる。

 

さらに、自分自身をもう一段階上から客観的に見つめることができるようになれば、認識の枠を破ることができそうです。元ヤクルトの古田選手が、優れた選手の条件として、常にもう一人の自分が自分を見ていることと言っていました。松下幸之助氏は、それを自己観照と言っています。

 

無知を知覚し、とらわれから放たれ、鳥瞰的に自己を見られる。

どちらも、禅の教えに通じると思います。

㈶日本能率協会主催のHRMセミナーに参加した翌日に、「三等重役」(昭和27年東宝)を観ました。

 

HRMセミナーのテーマは、「人事のネットワーク力」でした。人事は、経営者、事業ライン、外部とのネットワークを、もっと強化しなければならない。ネットワーク力が高い人事ほどラインからも評価され、業績も良いということでした。

 

翌日観た映画では、古い日本企業の雰囲気を十分味わうことができました。会社は家であり、社長は家長。家長は、家族ひとりひとりの生活に深い関心を持つ。こういう牧歌的な風景でした。

 

三等重役.jpg 

森繁久弥演ずる人事課長が社長に最も近く、一緒に難問奇問?に対していくのですが、その距離感がいいのです。単なる腰巾着ではなく、情実入社には断固社長に反論を主張したりしますが、社長もそんな一筋縄ではいかない人事課長を信頼しています。

 

人事課長は社内のあらゆる情報の結節点となっているようで、だからこそ社長も彼を信頼しているのでしょう。当時は高度成長の直前ですが、すでに組織はその準備ができていたようにも感じます。高度成長期にもっとも欠乏していた資源は人材でした。人材を采配する人事部や労務部の力は、今では想像できないほど大きかったそうです。森繁の上司たる現社長も、以前は人事課長だったという設定です。社長を代々輩出する部門が、その会社の本流であることは今も変わりません。

 

その後、営業、マーケティング、技術開発、財務など機能の重要性も高まり、相対的に人事部の地位は低下します。その結果、それまで人事部が担っていた、社内の情報結節点が次第に消滅していったのかもしれません。

 

ところが、ナレッジエコノミーに世の中全体が変わっていくにつれて、あらためて情報結節点が重要になっています。ネットの活用で、情報流通量は飛躍的に増大しましたが、それらを束ね、解釈し整理する機能が、以前に増して必要になっています。これは、システムでなく人間にしかできないことです。ナレッジは、基本的には人間が創出し、加工します。だから、人材(人的資源という言い方もしますが)を司る人事部門のネットワー力が、あらためて求められているのではないでしょうか。先祖がえりではないですが、「三等重役」の頃の家族的企業のエッセンスを、現代の企業組織にも導入することができたらなあと、映画を観て感じました。

論理思考力を鍛えることが重要だということに、反論を唱える人はほとんどいないでしょう。しかし、95年に、バーバラミント著「考える技術 書く技術」(ダイヤモンド社刊)を山崎康司さんの企画・翻訳で出版した頃は、まだ、「日本ではこんな理屈っぽい本は売れない、そもそも日本の組織では論理思考はネガティブなんだ」と言われたものです。 考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則
Barbara Minto 山崎 康司
4478490279

 

 

 

本書のタイトルは、簡潔かつ的確だったと今でも思っています。

 

(論理的に)考えることは重要である。分かりやすく書くためには、考えなければならない。従って。手を使って、ひたすら書くことにより、考える力も鍛えられる。

 

考えたことを的確に表現する技術だけでなく、書ことによって考える技術の重要性が、このタイトルから伝わったのではないでしょうか。

 

私の問題意識は、もうひとつあります。本書では、書くことを「文章を書くこと」と前提しています。もちろん、それが一番分かりやすいのですが、さらに「数字で書くこと」も考えることと不可分の関係にあると考えます。

 

数字で思考を深め、思考を表現する技術です。こと企業経営に関する限り、多くの事象は、文章(例えば、「手当の付かない残業が、組織の収益性を下げている」)と、数字(例えば、「労働時間を10%削減することにより、生産性が15%アップし、収益性は3%向上する」)の両面で表現できます。

 

 

数字で思考し表現するにも、論理思考は欠かせません。文章における論理思考力は、考え書くことにより鍛えることができます。では、数字における論理思考力は、どうやって鍛えることができるのでしょか。

 

このような問題意識に基づき、2007年に「定量分析 実践講座」(ファーストプレス刊)を執筆しました。定量的に分析する力と、数字における論理思考力を結びつけようと考えたわけです。 定量分析実践講座―ケースで学ぶ意思決定の手法
福澤 英弘
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しかし、もっと効果的に鍛える方法がある気がしています。それは、エクセルです。数的思考ツールとして、エクセルを活用できないかと模索しています。

昨晩、六本木アカデミーヒルズのアダットシリーズ「プロに学ぶプロジェクトプランニング」の講座をオブザーブさせていただきました。

 

開始早々、永禮講師から受講者に対して、「自分の仕事のうち、プロジェクト型業務の比率が半分以上の方は?」と問うたところ、20名のうち約半分の方が挙手されました。こういう講座を受講する方ですから、一般より比率は高いとは思いますが、それでも随分多いなあと感じました。

 

永禮講師によると、プロジェクト型業務とは、以下を指します。

    非定型、非ルーティーンワーク

    メンバーは流動的

    時限性あり

    指示命令系統が複雑で流動的

 

これまでの経営管理は、基本的には上記と正反対の定型業務を前提に組み立てられてきました。経営層から下達された業務目標を、上司が部下に伝達し、その遂行を支援する。上司が、部下の行動を見守り、長期的観点から指導し、評価する。そういう形です。しかし、バブル崩壊の92年ごろから、インターネットの普及もあいまって、急速に仕事の仕方が変わっていったような気がします。

 

そして、現在において、このようなノスタルジックな業務の進め方がほとんどだという正社員は、ことホワイトカラーに限っては、絶滅種に近い存在となっているのではないでしょうか。

 

そうなると、定型業務主体で育ってきた管理職層と、入社時点からプロジェクト型業務主体で育ってきた若手中堅社員の間に、単なる年齢の壁以上の壁ができ、経営管理が難しくなっていることでしょう。

 

それに加え、「自分らしく生きること、誰の同意もなく自己決定すること」に価値を置くことを求められてきた「ゆとり第一世代」(874月~884月生)が、いよいよ来年社会人デビューします。彼らは、チームで行うプロジェクト業務どころか、一人プロジェクトを追及するかもしれません。

 

定型業務で育った管理職、チームでのプロジェクト型業務が当たり前の中堅、一人プロジェクト志向の若手、こういう組織を運営する経営管理のあり方を、今から検討しておくべきだと思います。

思考停止という言葉は、よく耳にします。では、どういう時に思考停止するのでしょうか。

以下の3パターンがあるのではと考えます。

 

1) 関心がないので、思考が進まない

2) 関心はあるのだが、とっつき易い結論や解決策をすぐみつけ、それ以上思考しなくなる

3) 予想もつかなかった状況に、途方にくれ思考が一時停止してしまう

 

関心がない場合とは、例えば経営会議などで、他部門に関する議論には参加しないといったケースです。あるいは製品開発部門の社員に、どれだけ顧客の声を聞かせてみても、反応がないというケースもあります。このパターンは、関心を持たせる仕組みを導入することにより、思考が進むようになることはよくあります。

 

予想もつかなかった事態に直面した場合は、多くの人間が思考停止するようです。95年の阪神大震災を経験した方に伺うと、よくそうおっしゃいます。一般には、仕方のないことでしょう。こういう事態においても、思考停止しないだけの能力を持った人が、首相や大企業のトップになるべきなのでしょう。

 

とっつきやすい結論に飛び付き、そこで思考停止するパターンは、結構厄介です。95年頃

、「MBAマネジメントブック」MBAマネジメント・ブック
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という本を出版しました。簡単に言えば、ビジネススクールで教えている経営学のフレームワークをまとめた本です。企業研修でもテキストとして頻繁に使用しました。その頃、ある企業の研修の場で、講師がこの本を指してこう言いました。

「こういう本があるから、考えなくなるのだ。書いてあるフレームワークに当てはめただけで、考えた気になってしまう。こういう悪書を出すやつはけしからん」

教室後ろでオブザーブしていた私は、居づらい雰囲気になりましたが、言っていることは正しいと思ったことを覚えています。

 

人間は、結論が出ない状態を不快に感じ、嫌います。だから、思考するわけですが、不快から早く逃れるために、安易な解決策に走ってしまうのです。その場合、多くの場合その解決策は、世の中的には認められているので、罪悪感は抱きません。そこで、思考が停止するのです。状況だけ見れば、悪いことではないようにも見えます。でも、その安易な解決策は、普通正しくありませんし、本人もうすうすそれに気付いているのです。人間はそういうものです。

 

そこで、本当にそうか?と、疑問を持ち、思考を続ける「知的強靭さ」を持ちたいものだと思います。安易な結論を、いくらでも簡単に入手できる、便利な世の中になるにつれ、思考停止が広まっていくようで怖いです。

インターネットの出現により、地球は小さく、またフラットになったと言われていますが、日本企業のグローバル化や組織的なグローバル人材育成は、牛の歩みという気がします。なぜ、なんでしょうか?

 

企業にとってのグローバル化とは、内外の一体化と定義しても大きな問題はないでしょう。それは、三つの観点で捉えられます。

 

1)モノ:機能の一体化

2)カネ:資本の一体化

3)ヒト:人材の一体化

 

上記のうち、機能、資本、人材の順で、一体化の難易度が上がっていくと思います。85年の円高不況以降、多くの日本メーカーは、海外に製造拠点や開発拠点を設置していきました。資本の一体化は、資本規制撤廃の面では90年代までにかなり進みました。上場企業の株式の三割近くは外国人が保有しています。しかし、ここ数年続いた海外ファンドによる日本企業買収への企業や政府の対応を見ていると、まだまだ資本の一体化の道は遠いと思わざるをえません。

 

そして、人材の一体化。これは、私が新卒で社会に出た約20年前と、大きくは変わっていないとの実感です。難しいのは確かだとしても、どうして変化がないのでしょうか。

 

人材の一体化にも、ハードとソフトの両面があります。つまり人事制度の一体化と、個人の能力の一体化です。この両者が車の両輪となり、一体化を推進していかねばなりません。

 

個人の能力は、(図4-6chart_04_06.jpgにあるように、5階層からなると考えることができます。下から、特性・動因、態度、メタスキル、スキル、知識です。この中で、グローバル人材固有の能力を考えてみると、言語や現地での商慣習などの知識は、確かに固有のものも多いでしょうが、それ以外では、それほど多くはないと思えます。グローバル人材に必要とよく引き合いに出される「多様性への受容力」や「多文化の人材に対するリーダーシップ」なども、程度の差こそあれ、国内で成果を出すにも必須の能力になってきています。(なお、グローバルの場面で、日本人が他国の人材に比べて優れている能力はたくさんあることも強調しておきます。)

 

そういう状況でも、グローバル人材育成が着目されるのは、たとえば海外拠点に派遣されることにより、(国内でも必要とされるが、国内でより)能力発揮すべき時期が早まる、あるいはサポートしてくれる人材がいないことにより必要性が顕著になる、と考えるべきなのではないでしょうか。

 

だとすると、考えるべきはグローバル人材開発ではなく、純粋に自社にとっての人材開発なのだと考えられます。あえて「グローバル」人材と捉えることにより、知識の問題や人事制度の問題に矮小化されてしまうリスクがあります。

 

もちろん、それらも大切ですが、一部にしか過ぎません。国籍はどうあろうと、本当に自社社員に必要な能力を冷徹に見極め、それを起点に経営システムを組み立てるべきです。残念ながら、この点は20年前と比べても、あまり変わっていません。

 

では、そんなことが、日本企業にできるのか。最短の道は、やはり資本の一体化を先に進めることでしょう。ガバナンスが変われば、動きます。日産がいい例です。もし、それができないのなら、・・・・グローバル競争の荒波にさらされ、適者生存の法に従って、自己変革するしかないでしょうか。

東大大学院教授の姜尚中さんが、「若者と職場をつなぐキーワードは『クラフトマンシップ』だ。徒弟制度で腕を磨き、顧客と情動的なやりとりをすることに日本の若者は興味を持っている。」と書いておられました。

 

その理由を推測するに、

    師匠との濃密な関係を通じて、技を獲得できるから

    自分にしかできない何かを表現できるから

    形として目に見えるモノを生みだすことができるから

    生みだしたモノを介して、社会とつながる実感を味わえる

 

といったところでしょうか。こういうものに若者が憧れるということは、それらが今の社会に欠乏しており、かつ必要としているからだと考えられます。

 

自分が生み出したモノによって社会とつながるという喜びは、意外にどんな人間でも持っていると思います。芸術家であっても、自己表現の発露としての作品を観て共感してもらいたいと思っているはずです。豆腐屋さんも、自分が作る美味しい豆腐によって、お客さんに喜んでもらいたいと思っているでしょう。

 

しかし、大企業の組織の一員として、その喜びを味わうことは、実はそれほど簡単ではありません。でも、「大人になるということは、そういうことなんだ」と自分に言い聞かせて、芸術家にも豆腐屋さんにもならず大企業に就職していく。

 

ところが、それはもうそろそろ適切な道とはいえなくなっているのじゃないか、と若者は直観的に気づいているのではないでしょうか。

 

先日、東京都美術館の「生活と芸術 アート&クラフト展」を観てきました。19世紀後半のイギリスで、行き過ぎた工業化の反動として、アート&クラフト運動が興ったそうです。

 

 

アート&クラフト展.jpg 案外、若者は炭鉱のカナリアと同じかもしれません。その鳴声を敏感に聞き取り、社会を変えていくことが、今の大人に求められているのではないでしょうか。これは、決して昔に戻ろうということではありません。21世紀にふさわしい『クラフトマンシップ』を見つけていくことだと思います。

毎週楽しみにしている新聞コラムに、花園大学佐々木閑教授の「日々是修行」(朝日新聞木曜夕刊)があります。数年前に花園大学で、1週間ほどの禅に関する集中講座を受講したことがあり、先生には勝手に親近感をいだいています。

 

昨日のコラムは、「学問と実践が交わる快感」と題するものでした。先生がタイの山奥の僧院に行き、そこで修行中の日本人僧侶二人と対話した時の話です。

 

 

タイの僧侶.jpg 

古代仏教の研究者である佐々木先生が、古代文献にあった儀式のことを僧侶に問うと、僧侶が「それは実際にはこうです」と言って実物を見せてくれる。欠落していたピースが次々に埋まっていくような快感があったそうです。

 

「頭の中だけで組み上げてきた私の学問に、初めて生気が吹き込まれたような思いだ。」

 

僧侶もこれまで自分たちが、理由もわからず実践してきたことの、そもそもの意味や理由を先生から聞き、これまでの疑問が氷解していくようだったそうです。

 

このような時間を体験できる学者も実践者も、幸福でしょう。

 

「釈迦の本当の姿は、学問と実践が交わるところに立ち現れてくる。」

 

ビジネスの世界でも同じでしょう。企業研修の醍醐味は、こんなところにあるのです。

現在のグローバル不況が去った後、これまでの企業とは、全く異なる戦略で市場を席巻する企業群が現れる気がします。

 

戦略にもいろいろな定義がありますが、私が最もピンとくるのは、「自社が、安定的に高い収益性を実現できるような、均衡状態を構築すること」という定義です。

 

「新規参入があることにより、市場の収益性は限りなくゼロに近い水準で均衡する」というのが経済学の教えです。この自然的原理を打ち破るだけの環境を創りだすことが戦略です。もちろん、談合や規制、保護などはなしで、です。

 

これは、いま風に言えば、「自社に有利なエコシステム(生態系)を構築する」ということでしょう。関わるステークホルダーにとって快適なエコシステムを構想すること自体、大変なことですが、それを実現するのはもっと難しいことです。

 

実現するためには、Ignition point(発火点)を見つけることが肝心です。これは、ベタープレイスジャパンの藤井社長からうかがいましたが、その例で示しましょう。

 

同社は、電気自動車を普及させるためのプラットフォームを提供することを目指しています。普及のネックは、バッテリー価格です。そこで、バッテリーを自動車メーカーに無料提供し、充電施設(ガソリンスタンドの電気版のようなもの)を展開、そこでの充電量に応じて利用者から電気自動車2.jpg対価を受け取るというビジネスです。

 

 

 

もう一つネックは、ユーザーの安全性への不安です。技術的には問題ないのですが、初期の個人ユーザーは、高速道路の真ん中で火を噴いたりしないだろうか、と心配してしまうかもしれません。その結果、エコシステムは出来ても、肝心の一般個人ユーザーが電気自動車の購買に踏み切れない可能性があるのです。

 

そこで、普及のためのIgnition pointが必要になります。それが、東京のタクシーだそうです。東京のタクシーは、比較的組織化されています。タクシー会社に働きかけ、電気自動車を導入してもらいます。それだけでも相当な台数です。

 

さらに、電気自動車タクシーに乗った乗客は、その乗り心地の良さを体感できます。また、耐久性を要求されるタクシーが電気化されていることを知れば、電気自動車の耐久性に安心感を持ってもらえることでしょう。

 

このように、都内のタクシーをIgnition pointにして、市場を拡大させることを狙うそうです。

 

 

どこをIgnition pointにして、どんなエコシステムで市場を制覇する企業が現れるのか。この不況期に準備は着々と進んでいることでしょう。

先日「不況時の研修」 という記事を書きました。

 

不況時には、残念ながら多くの企業は、研修費用を削減します。そのような状況下、社員それぞれは、自己学習へどのような対応をするのでしょうか。各方面の方々から伺った話を総合し、不況時の社会人自己学習について、あくまで仮説を書きたいと思います。

 

企業や業種による差は大きいとはいえ、それ以上に差が大きいのは世代でしょう。非常に大ざっぱですが、管理職前後とそれ以前(仮に、若手と呼ぶ)で、区別されます。

 

若手は、企業に頼らないで生きていけるように、目に見えやすい(わかりやすい)スキルと資格の獲得を目指します。アカデミーヒルズのライブラリーの稼働率は、昨年秋以降、急に高まっているそうです。また、資格系社会人学校の学生数も大きな伸びを示しています。「勉強法」系の書籍も相変わらず好調です。

 

この層は、資格に代表されるように、第三者が見て分かりやすいスキルの獲得を目指すようです。ビジネススキルにしても、ベーシックな会計、マーケティング、論理思考といった知識やスキルです。この層のうち、ビジネススクールなどの(時間も含む)投資費用の大きい学習に、どれだけ振りむけるかは不明です。一般に、好況期のほうが、自発的転職が増える傾向にあることから、不況期には投資リスクを取らなくなることは予想されますが。

 

一方の、管理職前後の層です。好況期には忙しくて、自己啓発の時間が取れなかった人が、残業が減ったことにより学習時間を確保できるようになるとも考えられます。しかし、組織の中核にある彼らは、リストラの影響でかえって仕事が増えてしまうこともあるようです。

 

若手のように、スキルアップして転職をという夢を描きづらくもなっています。日本全体が不景気なら、どこへ行ってもそうは変わらない。だとしたら、これまで培ってきた経験が活きる、今の会社で何とか頑張ろうと、考えがちです。

 

そう覚悟を決めたものの、では会社を盛り立てるべく、自己のスキルを高めるために投資をするか、というとそうでもなさそうです。ただでさえ、可処分所得は独身若手より少ないところにもってきて、給与の削減幅も若手より大きい。給与は減るが、仕事は減らない。でも、責任は大きくなる。

 

給与とポジションが上がることが予測できる好況期であれば、特定専門スキルを向上させるための投資も厭わなかった中堅社員も、不況期には不安が先に立ち、投資に慎重になってしまいます。

 

 

以上、仮説ベースで書いてみました。結論としては、こんな時こそ企業が、会社の中核を担う管理職前後の人材開発投資に、力を入れるべきだと考えます。そうでないと、多くの日本企業の屋台骨が揺らいでしまのではと危惧します。

重大な局面での判断を、間違えないようにする秘訣はあるのでしょうか。

 

判断を間違う要因を、まず考えてみたいと思います。自分自身の数ある失敗を思い越してみると、情や我欲に引きずられる、狭い視野で考えている、小さな理屈にこだわりすぎた、そんな要因があった気がします。

 

では、どうすれば、正しい判断を妨げる要因を排除できるのでしょうか。ひとつには、「ここ」と「いま」から離れることだと思います。意思決定するのは、今ここで、です。そうすると、判断の材料もどうしても今、ここに偏りがちです。

 

例えば、大きな問題となっている雇用問題。経営者は、今いる社員をどうするのか?リストラしなければ今期営業赤字に陥る、それでいいのか?株主にどう説明すればいいのか?など、「いま」「ここ」での対応に頭を抱えていることでしょう。

 

大企業の経営者くらいになれば、「いま」「ここ」だけでなく、未来や社会への影響も考慮に入れるべきでしょう。ましてや、政治家は。

 

 

「いま」「ここ」からいったん離れて、普遍的な思想なり価値の視点を持って判断すべきなのでしょう。そのためには、一人孤独に思考する場所が必要かもしれません。さらに、時間的空間も超えるべきです。たとえば、歴史や古典に遊ぶことでしょうか。

 

 

時間に追われ、どこに行っても、携帯電話やメールでがんじがらめになってしまいがちな私たち。強い意志を持って実行しなければならないでしょうが、その対価は大きいように思います。

 

不動清水の木.jpg

 

古典は、読むたびに、その時点での自分に訴えかけるものがあります。

 

能楽の始祖ともいえる世阿弥が、「花伝書」の中で、初心について書き残しています。(白洲正子著「世阿弥」より) 世阿弥―花と幽玄の世界 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
白洲 正子
4061963945

 

二十代半ばとは、良い芸の生まれる時節である。名人を向こうに廻しても、若い人のほうが評判が良かったりする。観客も、新しもの好きなので、必要以上に持ち上げ、本人も思い上がる。この年頃の美しさを「初心の花」という。この、一時的な花を真実の花と思いこむ、その慢心が真実の花から遠ざける。

 

義太夫の竹本住大夫にこんなエピソードがあります。26歳くらいの頃、自分でも満足いく語りができ、観客も大喝采だった。誇らしい気持ちで、舞台を降りると当時六世住大夫だった父が、近寄ってきて「上手ぶってやるなっ!」と怒鳴り、張倒された。

 

初心の花から、うまく脱皮できるかどうかが大切です。さらに、真実の花を目指して、その後初心はどのような役割を果たすのでしょうか。

 

世阿弥は、「花鏡」で再び初心に触れています。

 

初心忘るべからず。現在の自分の程度を知るために、若年の頃の未熟な芸を、スタート地点として忘れてはいけない。忘れると、初心に逆戻りしてしまう。

 

初心時代から盛りの年頃を経て、老年に及ぶまで、その時々に似合った芸風をたしなむべきである。時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」という。

 

過去に演じた一つ一つの風体を、全部身につけておけば、すべてにわたって厚みが出る。時々の初心忘るべからず。

 

 

初心の花や時々の初心は、どんな人にでもあるものだと思います。未熟だった初心の頃の記憶を削除するのでもなく、また懐かしむのでもなく、今の自分の程度を測る起点として忘れない。そして、常に時々の初心を追及していく。そんな厚みのある人生を送りたいものです。

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