2017年3月アーカイブ

「ベンチャーを育てる教育」というタイトルのエッセーが、昨日の日経夕刊に掲載されていました。元内閣府事務次官の松元崇氏によるものです。

 

一部引用します。

「日本のベンチャー投資実行額は、(中略)米国のわずか2%という数字に愕然とさせられるが、その背景にあるのは日米の教育の違いだ。私はかつて米国スタンフォードビジネススクールで学んだが、その時最も人気のあった科目はベンチャー企業経営。(中略)そういった学生を育てる教育が、7.1兆円のベンチャー投資を産んでいるのだ。」

 

日米でベンチャー投資の規模に大きな差があることは明らかです。その背景(原因ではなく)に教育の違いがあることにも賛成します。しかし、そこでの「教育」は初等教育ではなく高等教育、なかんずくビジネススクール教育にあえて焦点を当てているのには同意できません。もちろんビジネススクール教育による影響もあるでしょうが、それが最もインパクトが大きいのでしょうか?私には付け焼刃、対症療法にしか思えません。

 

「(中略)では国がやればいいかというとそうもならない。そんなエリート教育よりも、授業についていけない子供をなくす教育のほうが先だとなるからだ。だが、ベンチャーを育成する教育は、いわゆるエリート教育だろうか。(中略)失敗にめげない人材、再チャレンジする人材を育てる教育があってもいいはずだ。」

 

授業についていけない子供をなくす教育も、再チャレンジする人材を育てる教育もどちらも大切です。松元氏はベンチャー教育への政策的(税金による)資源配分をもっと増やすことを主張しているようですが、果たして国が税金を投入してするようなことでしょうか?その資源投入による費用対効果が高いと考えているのでしょうか?そもそも国が介入するべきことなのでしょうか?私は費用対効果の面からも、国がやるべき(国でしかできない)ことは圧倒的に、授業についていけない子供なくす教育だと考えます。

 

日本でベンチャーがなぜ育たないかという議論は、もう二十年くらい延々と続いています。私の考えはシンプルで、日本において起業は「割に合わない」からです。つまり、リスクとリターンの関係でいえば、起業はハイリスク・ミドル(ロー?)リターンであり、一方大企業正社員はローリスク・ミドルリターンだと考えます。そうであれば、起業するのは相当の変わり者です。

 

昨日朝日朝刊の論壇時評に、小熊慶応義塾大学教授が面白い思考実験について書いています。

 

「その政策とは、時間給の最低賃金を、正社員の給与水準以上にすることだ。なお、派遣や委託その他、いわゆる非正規の働き方への対価も同じように引き上げる。(中略)『正社員よりも高いなんて』と思うかもしれない。だが、仕事内容が同じなら、正社員の方が高い根拠はない。むしろ非正規は、社会保障や雇用安定の恩恵(コスト)がない場合が多いから、そのぶん高くていいという考え方をしてみよう。」

 

さっきのリスクとリターンの関係を適用してみると、現在正社員はローリスク・ミドルリターンであり、仕事内容が同じ非正規はハイリスク・ローリターンです。だから、正社員を辞めることは非合理です。(だから、ブラック企業なんぞが存在してしまうのでしょう)小熊教授は、そのおかしな前提を疑ってみようと言っているわけです。

 

非常におおざっぱではありますが、現在の日本においてもまだ合理的な行動は大企業正社員になることであり、起業や非正規を選ぶことは非合理的行動なんです。

 

大企業正社員の中でも相似の構造がありました。少し前までは(今はよく知りません)、規制で守られた金融機関や放送局は、その他の一般企業よりも給与水準が高かった。まさに、ローリスク・ハイリターンだった。これも変です。合理的に考えたらありえない。(お役人は一応表面的にはローリスク・ローリターンだった)セグメント間の移動が不自由だとしたら、これは一種の階級社会です。

 

こういった、自由な市場経済が機能しない社会で、どんな高等教育をしたところで、ベンチャーが育つはずがない。戦後復興期にソニーやホンダが出現したのは、起業の機会費用(大企業正社員が得、それを選ばないのは損)が戦争で消滅したからでしょう。バブル前より低下したものの、現在もまだ機会費用は明らかに存在しています。

 

小熊教授は続けます。

「では、最低賃金を時給2500円にしたら、日本社会はどう変わるか。(中略)正社員にしがみつく必要がなくなる。研修やスキルアップ、社会活動や地域振興のため、一時的に職を離れることが容易になる。転職や人材交流が活発化し、アイデアや意見の多様性が高まる。起業やイノベーションも起きやすくなり、政界やNPOに優秀な人材が入ってくるようになる。」

 

ベンチャーが育たないのは、日本人の特性でも高等教育のためでもなく、構造の問題なのです。構造改革とはこういった構造にメスを入れることなのだと思います。このような環境ができて初めて、ベンチャー教育の意義が生まれます。本質的原因に切り込まないで、補助金などの対症療法しかしない政治で、日本が変われるはずがありません。

先週末、もっとも気に入っている宿、修善寺あさばに泊まってきました。なぜそれほど気にいっているのか、あらためて考えてみました。

 

●一貫したコンセプトで統一された空間(場)

旅館の敷地に入った時点から、すべてが統一されています。私が感じるそのコンセプトは、「伝統と革新の融合」でしょうか。500年を超える歴史を誇る宿は、日本ではそれほど珍しくありません。あさばは、それを確実に守りつつ、その上に現代性をさりげなく加えているところが卓越しています。現代アート作家の作品と能舞台、李朝家具などが自然に同居しているのです。素晴らしいアート作品に、作家名やタイトルを記載したタグなど一切ついていません。それがあると体感は得られなくなることを知っているのです。

 

 泊まった部屋の床の間には、「大空」と墨書された掛け軸がかかっていました。驚きました。その書は今私が最も好きな画家である松田正平の書だったのです。まさか私の嗜好まで調べたわけではないでしょうが、旅館のコンセプトに共鳴する客は、松田の作品も好きなはずだとの確信があったのかもしれません。

 

 

●地元で取れるベストの食材を使った料理を、ベストの環境で食す

あさばの料理が本当においしいのは、地元で取れる季節の食材にこだわっているからでしょう。しかも、地元産の中で最良の食材を厳選し、考えられうるだけの手間をかけ、しかもその手間を感じさせずさりげなく調理しているプロの腕を感じさせます。料理そのものの味だけでなく器も素晴らしい。例えば日本酒の徳利は、これまた私の好きな九谷の磁器作家須田青華のものでした。

 

 夕食が絶品なのは当たり前として、朝食はもっと素晴らしい。朝食だけ食べに来てもいいくらいです。出汁巻卵は、出されてすぐには熱くて食べられませんでした。そのくらい最もおいしいタイミングで食べてもらおうと、調理場と仲居さんが協力しているのです。仲居さんに聞いたところ出来上がって一分以内に出すことを心掛けているそうです。調理場のすぐ近くの部屋でもないのに、どうやっているのでしょうか?

 

●快適さを徹底的に追及した仕掛け

泊まった部屋はこんなつくりです。廊下から引戸をあけると板の間の小さな玄関のようなスペースがあり、さらに引戸があります。その引戸を開けると1.5畳くらいの小上がりのような畳敷きのスペースがあり、その先の引戸を開けるとメインの8畳くらいの部屋があります。その奥は全面障子になっています。障子の先は一段低くなった縁側的な空間があり椅子が二客ならんでいます。その先はガラス戸で、屋外との境となっています。すぐ外は他の部屋と共通のテラスになっており、その先の池越しに能舞台があります。能楽堂でいえば正面席にあたるところに、泊まった部屋があるわけです。能舞台で能が演じられるときには、そのテラスに座席が並びます。

 

 さて、小上がりスペースを右に行くと障子があり、その先は洗面所。さらにその先の引戸の先にトイレがあります。洗面所の障子の手前下右側に小さな冷蔵庫とエアコンの吹き出し口が並んでいます。

 喉のために、寝室のエアコンを停止して寝ることにしています。しかし、小上がりにはエアコンのスイッチが見当たりません。直接布団を敷いた部屋には、小上がりのエアコンからの空気は入らないため、あえて集中管理しているのでしょう。夜中にトイレに立つとき寒くないようにと考えられているのかもしれません。実際に私は夜中にトイレに立ちました。ふすまを開けた先の小上がりは温かくほっとしました。そして、一つ目の障子を開けて洗面所に入り、さらにもう一枚引戸とあけてトイレに入り用を足しました。しばらくして、あれっ変だなと感じました。トイレも洗面所も寒くないのです。ほんわりとですが温かいのです。トイレも洗面所も室内には暖房器はありません。もちろんエアコンの吹き出し口らしきものもありません。なのに寒くない。小上がりにはエアコンの吹き出し口がありますが、障子と引戸はずっと閉じられていました。不思議だ?

 

 障子を開けたり閉めたりしているうちに気づきました。障子を閉めた際に当たる壁側の部分の木の色が少し周囲と異なることに気づいたのです。後で、新しい木を取りつけたのでしょう。よく見るとその部分は、三本の長細い木で構成されています。説明が難しいのですが、断面図でいえば凹と凸が接合されている構造です。ただし、ぴったりは接合されておらず数ミリスペースが空いている。つまりり、外側と内側では光は直接通しませんが空気は通ります。外から中を見ることはできないが、暖気は通るという仕掛けです。それが洗面所の入り口とトイレの入り口それぞれに設置されており、だから寒くなかったというわけです。その工夫と心配りに感動しました。

 

●作為するのではなく、そうなるように場を調える

暖気が通る工夫は作為と言えば作為ですが、もっと簡単に作為することは可能です。トイレや洗面所に小型ヒーターを置けばいいだけのことです。多くの旅館ではそうしています。この宿はそれを潔しとはしないのでしょう。出来る限り作為を排して快適にしたいとの意思が感じられます。

 

 到着後、一風呂浴びてガラス戸越しに能舞台を眺めていました。舞台手前の池の端に、まだ葉が出ていない小ぶりの木がありました。その木の枝に小鳥がとまりました。綺麗な色の鳥で、よく見るとカワセミです。川に飛び込んで魚を取るあのカワセミです。驚いてしばらくずっと見続けました。数分たったところで、突然カワセミは池に飛び込み、すぐV字ターンして飛んでいきました。一瞬のことで、魚を咥えているのかは確認できませんでしたが、水面下にもぐったのは確かです。まさか、宿の部屋からカワセミの漁を目撃できるとは思いもよりませんでした。

 

宿が池の鯉のようにカワセミを飼っているはずはありません。ましてや客の前で漁をするように仕込んであるはずもありません。すべては無作為です。でも、私が目撃する位ですから、何度も繰り返された光景なのだと思います。カワセミが客の目の前で漁をするような環境を常に整備しているからこそ、そうなるのでしょう。きっと他にも私たちの眼に触れないところで、膨大な作業が行われているのだと思います。無作為の作為。これ見よがしの言動は避け、見えないところで常に新しい努力を惜しまない。これが500年以上にわたってこの宿を一流成さしめている、伝統と革新の秘密なのかもしれません。

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