文化と芸術: 2017年1月アーカイブ

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今年は「本物」にこだわりたいと先日書きました。では、本物とは何か?私の中では、本物には「美」が宿っていると勝手に理解しています。

 

例えば、私は骨董を観るのが好きですが、無意識のうちにそこに「美」を探しているように思えます。うまく説明できないけれども、魅かれる、引き込まれるようになるものに美を感じるようです。(美を感じるから引き込まれるともいえますが)そういうモノは、やはり本物だと思います。では、なぜ引っ込まれるのか。これまでよくわかりませでした。

 

人間は何を美と感じるのか、たまたまカントがこのようなことを書いていることを見つけました。

 

われわれの想像力は、通常、知覚に従い、それほど自由に動かせるわけではないない。けれども、音楽を聴き絵画をみることによって、想像力は日常を離れて自由に遊ぶ。(中略)それらが現実に存在するわけではない。それは知覚ではないのだから想像であり、しかも想像力は作品の導きに従うのだから、無意味な混乱に陥ることにない。そのようなときにわれわれは美を感じる。

 

つくり手による一定のガイドのもとに、想像の翼をどんどん広げることができる対象に、美を感じるようです。自分自身の知覚能力には限界があります。理性が大きく幅を利かせる日常においては、想像力を使う機会はそれほど多くはありません。というか、あまりに想像力を逞しくさせ過ぎてしまうと「変な人」になってしまいます。

 

でも、人間の本能は、想像を巡らせることに喜びを見出す性質があるようです。そこが、他の動物との最大の違いかもしれません。

 

私なりの「美」に触れたとき、想像力がフル回転を始めます。制約のない自由な物語が勝手に紡ぎだされますが、言葉(知性)では表現できません。そんなときに美を感じているようです。本物でなければ、そんな想像力は起動しません。よく優れた芸術作品は『精神性が高い』と表現されますが、作り手の想像力と観たり触れたりする鑑賞者との想像力が、深いところで交錯することが「精神性」のことなのかもしれません。

 

「美」に近い感覚に、「崇高」があります。カントはこう説明しています。

 

満点の星のように、あまりにも巨大なものを見ると、それが無限であると頭(理性)ではわかっても、その細部を想像していく過程には限りがなく、いつまでたっても終着点を見いだせない。気持ちは無限の大きさへと引き上げられるが、ひたすらそれに見とれるしかない状態になってしまう。感性的知覚がきっかけとなって、理性が把握する無限を埋めていこうとする想像力のはたらきがいつまでも終わらない。この状態が崇高である。

 

私は、夕暮の風景に崇高を感じることがあります。無限から発された作為の全くない美、そこに崇高を感じるようです。宗教体験もそれに近いのかもしれませんが、よくわかりません。

 

どれだけAIが進歩しても、このような美、崇高といった感覚をコンピュータが理解することはできないでしょう。人間ならではの能力を、もっともっと大切にしていきたいですね。人間のゆるぎない土台にある「確実」なものです。

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