2012年11月アーカイブ

演劇から学ぶことはとてつもなく多い、そんなことをあらためて時間させられる5時間40分(合計)でした。この作品は、想田和弘監督がひたすら平田オリザを追い続けた観察映画です。ここまで撮るかというところにも、カメラは空気のようにそこに存在し続けます。

 

ペルソナの集合体である人間に「本当の自分」などないと、学校教師を対象とした講演で平田は強調します。子供たちに「本当の自分」探しを求める教師への一撃です。(自分探しの旅と称して、世界じゅうを周った元サッカー選手もいましたが、そんなことをする自分自身が「本当の自分」なのです)本当の自分を探すよりも、本当の自分を自信を持って表現できない環境にこそ、手を打つべきです。

 

ところで、目黒の市民会館みたいなところで夏休み、平田が地元の中学生に演劇のワークショップを行っているシーンが、何度も出てきます。そこでの発言に、彼の演劇に対する考え方のエッセンスが現れてきていました。なるほど、と膝を打つような言葉がいっぱい・・。

 

その中で、下手な戯曲作家の共通点として挙げていたのが、結末に一番エ

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ネルギーを注いでいる点です。上手い作家は、起承転結の起に最大のエネルギーを注ぐ。理由はこうです。演劇は舞台の制約上、映画やTVドラマのように、ストーリーの全体をシーンとして表現することはできない。それなので、観客の想像(イメージ)に多くを委ねなければならない。そのためには、作家の意図にできるだけそったイメージを持ってもらいたい。そのように観客にイメージを共有させるために重要なのが、「起」のつくりなのです。これから始まる物語をイメージしてもらうための枠組みを組み込むわけです。最初に作家の意図に沿ったイメージの枠組み(スキーマ)をつくってもらえれば、後はたとえシーンがなかったとしても、欠落している部分は観客がイメージしてくれる。

 

初期にモードを設定させることで、多くの観客のイメージをコントロールするわけです。この技術は演劇以外でも、あらゆる場面で使えそうです。企業でのプレゼンテーション、政治家の演説、企業研修の講師などなど。

 

ないものをイメージさせるということでいえば、落語も全く同じですね。話に入る前の「枕」は、演劇と同じようなモード設定の作業なのでしょう。演劇にしろ落語にしろ、人間はイメージすることで喜びを増す生き物のようです。ただ、残念ながら現在は、できるだけイメージにしなくてもすむような環境を是とするような風潮があるのではないでしょうか。「できるだけ具体的にわかりやすく」、「誰もが同じように間違いなく理解できるように」、そんなことばかりを追い求めている。そうなると、結局最大公約数的なものしか残りません。今のTV番組がそれを代表しているのかも。

 

正確過ぎてとても読む気になれない電気製品のマニュアル、これでもかこれでもかと連呼する電車の社内アナウンス・・・。アップル製品が世界中で人気があるのは、人間のイメージに頼ることを前提とした製品づくりをしているからなのかもしれません。

 

 

制約された舞台空間において、多様な観客の心を揺さぶることに腐心してきた演劇には、これからのサービス化された社会を切り開いていくヒントが、まだまだ沢山ありそうです。

映画「ショーシャンクの空に」をご覧になった方は多いでしょう。94年の作品ですが、今もレンタルDVDショップでは人気作品だそうです。公開当時、日本でもアメリカでも興行収入はそれほどでもなかったのに。恥ずかしながら、私も先日初めて劇場で観ました。ロングセラーに納得、素晴らしい映画でした。

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ティム・ロンビンス演ずる主人公の無期懲役囚アンディーが刑務所で苦労しながら脱獄する話、と言ってしまえば身も蓋もないのですが、人間の性(さが)を非常に鋭く描いている作品です。私の中に強く残ったのは、希望と自由の関係についてです。

 

1)自由なしX希望なし

無期懲役囚に、自由も希望もありません。そうして囚人を廃人にしていくのだ、という台詞がありました。

 

2)自由なしX希望あり

しかし、アンディーは希望を見つけようとします。それに対して、モーガン・フリーマン演ずる無期懲役囚レッドは、「ここで希望は危険だ」と諭します。希望が叶えられないことがわかっている状況で希望を持つことは、結局自分を追い詰めるのだと言いたいのです。30年以上仮釈放を拒絶され続けているレッドが、自分を守るために思い至った心境なのかもしれません。

 

3)自由ありX希望なし

年老いた囚人ブルックスは、仮釈放が決まり暴れます。刑務所を出たくないからです。半世紀ぶりに壁の外に出て、あてがわれたスーパーで働くブルックスは、やはり苦しみます。今の自分にどう希望を持てばいいというのか。自由であるにも関わらず希望は持てない。いっそのこと自由なんてないほうがいい。そして、自殺します。

 

4)自由ありX希望あり

もちろんこれが最もいいに決まっています。

アンディーの脱獄が成功した後、レッドもブルックスと同じように仮釈放され、ブルックと同じ部屋に住み、同じスーパーで働き、やはり同じように絶望しかかります。ブルックスと違ったのは、脱獄直前アンディが彼にこっそり伝えた秘密の場所を目指そうとの、かすかな希望を持ったことでした。規則を破りその場所へたどり着いたレッドは、アンディーからの手紙をみつける・・・。

 

 

人間にとって、必ずしも自由、あるいは希望があることが好ましいとは言えない。どちらかがないのであれば、両方ないほうが幸せということもありえる。それがリアリティーなのでしょう。今の日本の閉塞感は、自由であるにも関わらず希望が持てない、ブルックスのような人々が多いからなのではないでしょうか。反対に、高度成長の頃は、いろいろ不自由はあったでしょうが、これから良くなるという希望を多くの人々が共有できていた。

 

これから総選挙ですが、政治家の役割は、国民になんらかの希望を与えることです。また企業で言えば、経営者の役割は社員に希望を与えること。一番手っ取り早いのは、利益を沢山稼いで給料を増やすという形での希望です。それができるのであれば、それも一つの方法でしょう。でも、もしそれが難しくなったら、どんな方法で希望を与えるのでしょうか。形式的には自由であっても、希望が持てないのであれば、ブルックスと同じです。だとすると、希望を持つことを目指すよりも、自由を束縛される方を望んでしまうかもしれません。なんだかんだ文句を言っても、「上(うえorおかみ)に決めて欲しい」と、どこかで望んでいるとすれば、既にその兆候があるかもしれません。

 

それが国レベルになると、強いリーダーを求めるという傾向になるでしょう。それが行きつくと独裁者願望になります。そうならないためには、ひとりひとりが自分の頭でよく考えること、そして自分なりの希望を見つけることだと思います。他人がどういおうと、過去がどうだろうと関係ない。自分自身の基準で判断し希望を持つのです。レッドの忠告を無視して希望を持ち続けたアンディーのように。

 

大きな失敗は、当初のまだ慣れていない時ではなく、慣れた時に起こるといいます。それは、慣れによって油断が生じるからだと思われます。一方、慣れていない当初は緊張のあまり小さな失敗をすることも多い。

 

企業研修で、複数のクラスがあるため、同じ講師が同じ内容のセッションを複数回、別の日に別の受講者に提供することがよくあります。

 

その場合に、受講者満足度が徐々に上がっていくケースと、逆に下がっていくケースがあります。もちろん講師は毎回真剣に取り組んでいます。その違いはどこからくるのでしょうか?上がっていく理由は明らかです。回を重ねることで改善が進むからです。

 

下がっていく理由として、先に書いたように慣れが油断を生じさせ、緊張レベルが下がりそれが受講者にも伝わることが考えられます。ただ、これは油断して事前準備を怠るということではありません。その点講師は真面目です。油断は、準備段階に顕在化するのではなく、研修中に発生します。講演であれば、関係ありませんが、受講者とのインタラクションを重視して進めるスタイルですと、瞬間の反射神経と集中力が要求されます。それがどうやら鈍るようなのです。慣れは確かにあります。慣れることで、受講者の反応がある程度予測可能になり、それが集中力を低下させるのではないでしょうか。結局、最初の回の評価が最も高かったということはしばしば起きます。

 

これは演劇の俳優にも通じるそうです。平田オリザ著「わかりあえないことから」によると、人間は何かの行為をする時には必ず無駄な動きが入るそうです。優れた俳優は、それを適切に演技の中に入れ込んでいける。この「適切」が難しく、天才といわれる俳優はこれに長けているそうです。

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)
平田 オリザ
4062881772

 

普通の俳優は稽古を繰り返すうちに、この無駄な動きが少なくなっていき、結局演出家から「なんだか最初の頃のほうがよかったなあ」といわれてしまう。人間というものは、それじゃいけないとわかっていても、慣れると自分が変わっていってしまうものなのです。講師も同じなのかもしれません。

 

では人間である講師はどうすればいいのか。慣れのメリットすなわち過度な緊張感を抱かないということを残しつつ、適度な緊張感を維持する、それが大切だと思います。そのために、毎回常に自分に課題を課すことです。進め方を毎回少し変えてみるのもいいですし、毎回新しい要素を少し加えてみるのもいいでしょう。そうすることで、改善を図りつつ緊張感も維持できる。

 

ただ、俳優の場合は演出家がそういったアドバイスをできますが、講師の場合多くはその役を担ってくれる第三者がおらず、自分自身のメタレベルでそれを認識しプランを考える必要があります。(私は可能な限り、その演出家の役割を担おうとしています)講師とは、大まかな脚本で受講者という共演者と同じ舞台で演ずる俳優なのです。

 

 

ところで、人間たる俳優はリアルな演技をするために、「適度な無駄」を何度やっても同じように再現させる必要があります。つまりロボット化です。一方、同じ動きしかできないロボットは、プログラムの中に「適度な無駄」を入れ込むことで、人間っぽいリアルな動きを出すことができそうです。人間とロボットが両極端から同じ「リアル」を目指すわけです。この両者が同じ舞台で演劇を行ったらどうなるでしょうか。

 

平田氏と大阪大学の石黒浩教授は、実際にアンドロイド演劇として実行しています。私も先月、アンドロイド版 「三人姉妹」を観てきました。本当の自分と演じる自分の違いとは? 何に人間は共感するのか? 人間と非人間の違いは? などいろいろ考えさせられる舞台ではありましたが、まだ私の中では消化しきれていないように感じます。

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田中真紀子文部科学大臣の3大学不認可騒動は、結局彼女による撤回と謝罪で終わりました。田中大臣が日本の大学教育に投じた一石も、結局うやむやになってしまいそうです。少なくとも私の友人の多くは、彼女の一石に賛成し喝采すら送っていました。でも、マスコミは「オサワガセ田中女史がまたやった」「進学を検討していた学生がかわいそう」という情緒論に終始していたようです。いかに現在の日本で、正論を述べ本質の議論を促すことが難しいか再認識しました。

 

ほとんどの人は、

「日本は子供の数が激減しているにも関わらず大学数は急増している。それにつれて大学教育の質は、社会が要請するものからどんどん乖離し劣化している。それが苛烈な就職難の要因にもなっている。さらに、若い社員の能力低下が、日本企業のグローバルな競争力低下の原因のひとつになっている」

ということを知っています。

 

そんな折、苅谷剛彦著「イギリスの大学・ニッポンの大学」を読み、考えさせられました。苅谷氏は日本の高等教育研究の第一人者であり、2008年に東大を去りオックスフォード大学に移りました。日米英における高等教育実践者の言葉は、いちいち腑に落ちます。例えば、

グローバル化時代の大学論2 - イギリスの大学・ニッポンの大学 - カレッジ、チュートリアル、エリート教育 (中公新書ラクレ)
苅谷 剛彦
4121504305

 

(日本の)大学は訓練のしやすさを示すシグナルだけ提供していればよかった。大学入試で測られる偏差値や大学のランクがそうしたシグナルとなる。それらは、大学受験で必要とされる、努力や勤勉さ、さらには要領のよさや飲み込みのよさを示していた。だから、大卒者の大部分に就職後に正社員として仕事を通じて知識や技能をじっくり身につけさせることのできる余裕があった時代には、大学で何を学んでいるかに社会は関心を向ける必要がなかったとさえいえるのである。

 

日本の社会にとっての大学は学習の場であったとしても、そこでの学習は、授業以外のこうしたさまざまな経験を通して得られる「体験学習」であり、大学はそのための時間を与える場であれば十分だったのである。(中略)学校教育の最後の段階で、幅広い「体験学習」の時間を与え、就職後には会社人間として職業に必要な技能・知識を身につける・そういった人的資源形成の日本的な仕組みのもとで、大学の役割は規定されてきたのである。

 

 

こういったことが続いてきたのは、日本の大学も国内の新卒市場も、日本語という言葉の壁と日本企業の雇用慣行とによって守られてきたこと、その慣行は国内市場が大きくかつ成長していたため企業もOJTをするなどの余裕があったためだと考えられます。

 

ところで、本書で書かれている面接を中心としたオックスフォード大学の入学試験は、日本企業の採用プロセスと非常に似ていることに驚かされました。

 

自分(面接官たる教員)がその学生を指導するようになったら、この学生はその後のハードな教育内容をこなせるかどうか、厳しい教育と学習を経て将来どのくらい伸びるだろうか、いい論文が書けるかどうか、生涯にわたって社会に貢献できる人間になるだろうか、といった観点から学生の能力や適性を見抜こうと教師も必死になる。

 

上記の教育や学習、論文という言葉を「仕事」に置き換えれば、そのまま私が企業の採用場面で体験した立場(採用&被採用者)に通用します。

 

 

つまり日本企業が採用時に行うスクリーニングを、イギリスでは大学が行っている。さらに言えば、日本企業が新卒社員に行ってきたOJTを中心とした教育を、イギリスではチュートリアルという仕組みで大学が行っているとも言えます。

 

しかし、日本企業にそんな余裕はどんどんなくなっている。だから、日本の大学にその教育機能を求めるように動くのか、それとも既にその機能を担っている海外の大学卒業者の採用を増やしていくのか。

 

国内大学へ期待したところで、構造化された仕組みを変えることは困難ですし、できたところで10年単位の時間がかかることでしょう。となると、海外大学卒業者に依存せざるを得ない。しかし、それは言語の問題以上に開かれた企業文化に変革するという企業組織の問題に直結します。(例え、国籍問わず外国大学卒社員を採用したとしても、これまで通りの組織であれば長続きしないでしょう)これはそう簡単ではありません。とはいえ、大学の変革を待つか、自らの変革に舵をきるかと問われれば、グローバル競争に直面する企業は、後者の選択しかできません。

 

日本の大学教育の問題は日本企業の競争力に直結するのです。その意識を持つことが不可欠です。では、オックスフォード大学では、どのような教育が行われているか。もちろん、日本企業のOJTとは大きく異なります。それは別途考えてみたいと思います。

自分では無理だと思っていることを、何とか変えられるのではないか、と気づかせることはとても重要ですが難しいことです。でも、決して不可能ではありません。ポイントは、「自分では」を「我々なら」に転換することだと、先日ご紹介した「社会を変えるには」(小熊英二著)を読んで気づきました。

 

10/1「チャンスをつかむ人とそうでない人」を書きました。その会社は、長期的な経営環境は非常に厳しいのですが、目先利益は出ているため、社員に危機感はあまりない。そのことに危機感を抱いた社長の意図を汲んで、事業部門長を対象としたワークショップを実施し、危機感の醸成を狙ったのです。

 

ワークショップでは、先に書いたようにメンバー全員が前向きだったわけではありませんでしたが、終了後にふたつの宿題を課しました。


ひとつは、ワークショップでも議論した、「当社の目指すべき10年後の姿とそこに至るステップ」を、各グループ(3グループあります)でブラッシュアップすること。二つ目は、「そのために自部門がやることと、自分自身がやること」です。このふたつを提出してもらいます。それを、グループごとに社長との対話の時間を設け、発表し対話することにしたのです。もちろん社長には事前に発表内容に目を通しておいていただきます。

 

先日、三回の対話セッション(社長との朝食会の仕立て)が終了しました。社長には、皆一生懸命考えてくれた、と大変喜んでいただきました。さらに、12月に開催予定の役員会で3グループとも発表するようにとの指示。収支の数字をもう少し詳しく入れて欲しいとの追加注文が付きましたが。

 

このワークショップの企画運営責任者である教育研修部長は、こう私にメールをくれました。

「厳しい環境にあることを認識し、対策を考えることでモチベーションはあがるものなのだと思いました」

 

厳しい現実を直視することはつらいことです。直視した結果、やる気がそがれることもあり得ます。それを経営としてどう扱うかは、難しいところです。

 

しかし、皆現実には気づいているのです。ただ、「自分」としてどうすればいいかわからない。だから見えないふりをすることもあるでしょう。そこに問題があります。やはり、経営に近い階層のリーダーには直視させるべきです。ただし、孤立させない。他のリーダーも同じような悩みを抱えていることに気づかせ、自分だけでなく「我々で」打開策を考える、そういうふうにもっていくことが大切です。そして、その成果をトップが正面から受け止める。それによって、彼ら彼女らのモチベーションは確実に向上します。

 

損益責任に縛られ、ばらばらになりがちの部門長らに、「我々」意識を持たせることで、重たい歯車が回っていくのです。

 

イノベーター(革新者)とアーリーアダプター(初期採用者)が16%を超えると、爆発的に普及が拡大するというマーケティング理論があります。組織もそれと同じで、こういった「我々」を組織の中で増やしていき、全社員の16%にまで達すると、爆発的に変化が起こるかもしれません。

 

地道にばらばらな「個」をつないで「我々」をつくり上げ、16%にまでそれを増やすことで重たい粘土層も溶解して、大きな変化が起こる事例はたくさんあります。決してあきらめる必要はありません。

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