2010年6月アーカイブ

どんな会社を訪れても、そこの職場特有の「におい」を感じることができます。それは私固有の能力ではなく、皆さんそうだと思いますが、あまりそのテーマで話しあったことはありません。

 

最初にそれを感じたのは、新卒で入った銀行でのできごとでした。新入行員研修の一貫として、取引先を訪れて、そこの社員に対してクレジットカードやカードローンといった個人向け商品の営業を行いました。ある再建途上の会社を訪れたとき、ドアくぐると同時に暗い、湿った空気を感じたのです。節電のため、蛍光灯を間引いていたのかもしれませんが・・。社員の方の表情も暗く、時間の流れ方が、その中だけ違うように感じました。

 

 

その後、コンサルティング会社時代(もう15年以上前のことなので記憶違いは勘弁ください)、当時大型スーパーの覇権を争っていたIY社とD社を同じ日に訪れたことがあります。IY社本社に入ったとたん、張り詰める緊張感を感じました。ただ、決していやな緊張感ではありません。社員は全員真っ白のシャツ(ストライプもなし)で、髪も短く刈っていました。机は全員同じ方向(お客さんが通る側)を向いていました。しかも、机上には電話以外何も置いていません。「整然」のにおいです。集中することから生まれる、心地よさのようなものを感じました。

 

次に、D社本社を訪れました。驚いたことに、さっき行ったIY社と全てが正反対です。服装も髪型も、動き方もばらばらでした。でも、共通なのは皆エネルギーレベルがすごく高いことです。こちらも、いやな感じどころか、元気をもらったような気がしたものです。

 

両社の「におい」は、経営スタイルそのものでした。組織って面白いなあと思いました。その後、初めて訪れる会社にいくと、まず「におい」を探してしまうようになってしまいました。

 

 

「におい」は経営の結果生じるものでしょう。「におい」を誘導することはできるのでしょうか。つまり、結果ではなく原因にする。人間は「型」や環境に適応するものです。それゆえ、もし好ましい「におい」が発生するような仕掛けをつくることができれば、おのずと職場も会社も変えることができるかもしれません。

 

あなたの「職場のにおい」はどんな感じですか?

人材の複雑方程式(日経プレミアシリーズ)
守島 基博
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「人材の複雑方程式」(守島基博著)は、バブル崩壊後の日本企業の人材マネジメントを、リアリティーをもって分析されている、好著だと思います。

 

日本企業の弱体化→グローバル・スタンダード型人材マネジメントの安易な導入→更なる日本企業の弱体化

 

のサイクルをわかりやすく解説しているとも読めます。たとえば、

 

リーダー育成は、フォロワー育成とあいまって初めて本来の効果を発揮する。

 

選抜教育は私も必要だと思います。だからといって、それ以外の大多数の社員の教育をおろそかにしていいはずがありません。しかし、残念ながら現状はそうはなっていません。階層別研修がそうだとは言い切れませんが、一定年次になったら押しなべて研修機会を提供する姿勢すら、近年薄れているように感じます。内容を吟味した上で、やはりそこへの投資もすべきでしょう。

 

さらに、成果主義導入がその必要性を高めています。

 

敗者にとって、将来は成果をあげられると思うための仕掛け(例えば人材育成)が重要になる。(中略)評価制度の納得性を高めるための膨大な量の研修と、成果主義と連動した人材育成である。

 

成果をあげろと圧力をかけておきながら、そのための支援はほとんどない。成果が上がれば給与を増やすから頑張れ!と言っておきながら、経営陣はたとえ減益であっても報酬は増やしているという現実も、徐々に表に出てきています。

 

突き詰めてしまえば、「信頼」に行き着きます。

 

新しい戦略に移っていくといなど、企業の変革にあたっては、働く人が経営者にどれだけ信頼を置いているか、その結果としてどれだけ我慢する気があるかが、重要な経営資源なのである

 

信頼とは、不確実な状況で行動をとるときの相手の意図に搾取的な要素がないという評価だという。

 

 

長い間日本企業の隠れた経営資産であった、経営陣と社員との間の信頼が揺らいでいるかもしれないこと、これが最も重大な問題と思います。なぜそれが失われつつあるのか、そしてその回復のために何をすべきか、経営陣は徹底的に考えるべきでしょう。ここ数年が勝負だと思います。

ワールドカップに入ってから、試合ごとに結束を高めていることが、試合内容から明確にわかりますね。前回ドイツ大会と大違いです。日本チームらしさというか、日本人の特性に合ったチームになってきているようです。キーワードで言えば、忍耐、組織、補完、きめ細かさといった感じでしょうか。三点目、ゴール前での本田から岡崎へのパスは泣かせました。

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本田の試合後インタビューで、「思ったほど嬉しくない」という言葉が印象的でした。そこに彼の非凡さを感じます。4月の欧州チャンピオンズリーグ(CL)の順々決勝でインテル・ミラノに敗れた直後のインタビューでも、似たような発言をしています。CLの経験で得たものは何?との質問に、

 

「これからの取り組み次第ですね」と応えています。それに次いで、

 

CL1点取ったからといって、僕の中では何かが劇的に変わったということはない。僕にとっては、練習試合の1点と同じ」

 

「ポイントは昨日の悔しさ。これから僕のモチベーションになる。それが成長につながったとき、『あの経験が生きました』と言える」

 

「目標が明確になった。僕は毎日、こうなりたいというイメージを頭の中に描いている。でも、強い相手と1試合すると、そうやってイメージする以上に明確に、なりたい自分が見えてくる。『こうなりたい』が、『こうでなければならない』に変わる。昨日の試合がそれだった」(朝日新聞10/5/8朝刊)

 

 

人が成長するための内的動機づけの一側面として、達成欲求と学習欲求があります。達成欲求とは、文字通り目標を達成したいという強い気持ちです。ワールドカップで決勝トーナメントに進出したいという欲求ですね。学習欲求は、自分自身が成長したいという欲求です。前回のプレーより精度を上げたいとか、メッシみたいなドリブルがしたいとかです。達成の判断は、客観的にできるものがほとんどですが、思うような学習ができたかどうかの判断は、自分自身しかできません。つまり、自分自身に厳しく、かつ自分を客観視できなければなりません。

 

オリンピックで入賞した日本人選手が、直後に「今日の自分をほめてあげたい」とコメントをすることが近年多かったですが、彼ら彼女らには学習欲求より、達成欲求のほうが強いのでしょう。参加してそこそこ頑張るという目標は達せうした。

 

そこがアマチュアとプロの分岐点なのかもしれません。本田選手は、正真正銘のプロですね。だから、今日の勝利直後にはもう、次の学習目標に頭が切り替わっていたのでしょう。思ったほど喜べないのは、仕方ありません。

 

決勝トーナメントでの、日本チームのさらなる成長に期待しましょう。

ハードからソフトへ、統制から自律へ、普遍から個別へ、マクロで見ればあらゆる物事がこの変化の途上にあるように感じます。これは、世界が豊かになることの必然なのでしょうか。

 

一般に企業を強くするための支援サービスと言えば、戦略策定を支援する戦略コンサル、人事制度構築を支援する人事コンサル、情報システム構築を支援するシステムコンサルなどが思い浮かびます。いずれも、普遍解があることを前提に、ハード面から統制を効果的に行うことをサポートするサービスといえるでしょう。これは、経営者の関心がそれらに向いていることの裏返しとも言えます。

 

しかし、大きな時代の変化の中で、このアプローチだけでは足りないとも感じているのではないでしょうか。マネジメント開発、すなわち強い組織を作ろうとすれば、組織構造や評価制度や業務プロセスを変えるだけでは足りない。人々の関係性や意識、能力、熱意といったソフト面の充実があって、はじめて実行力が生まれる。構造や制度は、それらに間接的に働きかける手段の一つしかすぎません。いわば梃子です。でも、他になかなか方法が見つからないので、そういったハード面のアプローチに頼るのかもしれません。でも、本丸はソフトなのです。

 

 

では、ソフト面の開発などできるのでしょうか。当然のことながら、これは時間がかかるし難易度も高い。ソフトは会社運営のプロセス全体に織り込まれており、計測が難しい、すなわち管理も難しいものです。いわば結果としての企業文化をコントロールできるのでしょうか。

 

企業文化とは、価値観や非公式な規範、習慣化した手順、意思決定のやり方などの積み重ねによって時間をかけて形成されるものです。その形成プロセスに適宜入り込んで刺激しなければ、企業文化に影響を与えられません。つまり、介入が必要です。具体的には、問題解決や意思決定、コミュニケーションの場面での介入でしょうか。そのとき、介入者はその組織の文化に染まっていては、影響を与えづらいでしょう。「社内の常識は社外の非常識」だと知らしめなければならないのですから。

 

細かいことで言えば会議の進め方一つとっても、それが企業文化に反映されています。それらひとつずつに、疑問を呈していく必要があります。

 

そして、介入の対象としてもっとも重要なのはトップです。トップが言行不一致であれば、社員に何も期待できないでしょう。でも、社内にはトップに対し介入できる人間はほとんどいないと思っておいたほうがいい。もちろん、社外取締役に期待したい部分ではありますが・・。

 

なにより、プロセスへの介入を通じて企業文化ひいては組織能力を好ましいものに変えていくには、一貫性が欠かせません。ある局面と別の局面では異なる基準で意思決定などされれば、混乱しか生みません。そのためには、明文化した規範やルールも必要かもしれません。

 

このように、ソフト・自律・個別の時代には、ハード・統制・普遍の時代とは異なる経営が必要なはずです。まず、その認識を共有したいと考えます。

今月の日経「私の履歴書」は、オービック創業者の野田順弘氏です。創業者の立ち上げ期の話は、やはり深い説得力を持ちます。

 

創業間もない頃、若い社員の勘違いで、三菱電機のオフコンを頼まれるまま20台発注してしまった会社は大変な危機に見舞われます。その20台を売り切らなければ倒産どころか、役員全員自己破産。当時のオフコンは超高級品で、そう簡単に売れない代物でした。

 

そこから先の粘りと集中力、団結力がすごい!営業部隊は毎朝7時半に出社して、進捗と情報を共有、ブレストを行う。すると、戦略と戦術の中身が見えてきたそうです。そして、本当に期限内に20台を売り切った。

 

収穫は別のところにあった。不可能と思えた「20台完売」を達成するために考え出した戦術が、今日のオービックが得意とするソリューションビジネスの原形になったことだ。

 溺れる者がむやみに体を動かしているうちに、誰も知らない泳法を身につけたようなものだ。

 

 

この話は非常に面白いです。同社の中核的戦略である「ソリューションビジネス」が、天才や戦略家のひらめきや分析で生まれたのではなく、もがき苦しむうちに、あたかも自然に生まれてきたことです。強いプレッシャー受けて、何とかしなければならならないとの覚悟が生みだしたとも言えるでしょう。私は、これが本当の戦略創造だと思います。かっこいいものではないのです。

 

そして、それを可能にしたのが対話です。毎朝の営業会議では、本気の意見のやり取りがあったことでしょう。そして、即実行した。営業マンたちの経験は浅く、知識もそれほどなかったことと思います。でも、全員が20台売り切りという目標達成に向けて本気だったのです。それが、戦略を創造し、また強い組織をも生み出したと言えるでしょう。

 

 

組織とは構造や指示命令系統ではなく、戦略的対話すなわちインタラクティブ性を基盤としたコミュニティーといえます。戦略的対話とは、認識、仮説構築、行動からなり組織進化を促す学習プロセスです。そして、戦略とは天才がひらめくものではなく、組織の進化を促す一貫性のある行動パターンのことなのです。

 

このことを、野田氏の話は如実に語ってくれます。では、どうすれば戦略的対話が実現できるのか?これが最大の問題です。戦略的対話が生まれるには、そうなるべき「場」ができていることでしょう。では、その「場」とは?

それを考え続けていかなければなりません。

富士通にしろ、セイコーホールディングにしろ、取締役会の機能不全が露呈したトップ解任劇とその後のごたごたでした。社外取締役制度や委員会設置会社などの制度整備は行われてきました。それにも関わらず、機能不全は起こります。

 

日本企業の癖として、制度を制定すればやるべきことはやったと安心してしまう傾向があると思います。形式基準を重視する監督官庁への対応を続けてきた、長い歴史の所産なのでしょうか。

 

もちろん、適切な制度を導入することは好ましいことです。ただ、問題はそれで安心して、それ以上の中身の改善を追求しなくなってしまうことです。うがった見方をすれば、制度導入を隠れ蓑にして、既得権益を温存する意図もないのではないと思えてしまいます。

 

政府や省庁のなんとか諮問委員というのも同様かもしれません。民間知識人や文化人?のご意見を拝聴し政策立案に活かさせていただくとのオモテの意図の影で、先生方もそう答申されている(そうさせた?)ので、そうさせてもらうという官僚のウラの意図が透けて見えます。それに選ばれることを名誉と思い、喜び勇んで参加する知識人もいることでしょう。その相似形が、企業の取締役会でも行われているとしたら恐ろしいことです。

 

では、どうしたらいいのか。本当に取締役会を機能させたいのだとしたら、透明性を高めることでしょう。例えば、取締役会の議論を社員に公開するのです。議事録ではなくリアルに。もちろん、非公開とすべき案件もあるでしょう。その峻別は必要です。あまりいい譬えではありませんが、国会ですら公開されているのです。仕分けもそうでした。

 

 

公開することで、取締役が本当に取り締まっているのかが明確になります。そういう規律なしに、社外であろうと社内であろうと、チェックが働くとは思えないのです。

 

大事なことは、いかに取締役会を活性化させるかでしょう。どういう人をメンバーにするか、どうそれを決めるのかといった形式論は手段のはずです。手段が目的化しているように見えます。

 

 

「仏作って魂入れず」が、あらゆる所で跋扈しています。もう、その習性から脱却したいものです。

日本企業が海外、特にアジアで優秀な現地人社員を確保、リテインできないとの話をしばしば聞きます。数年前までは、アジアの拠点は主に生産拠点でした。ところが、特にリーマンショック以降は、国内や欧米のシュリンクに伴い、相対的に販売や開発拠点としての位置づけが強化されているようです。

 

人材の面から見れば、これまではブルーカラーの採用とリテインを考えていればよかった。そこでのポイントは給料でしょう。中国の工場でホンダが苦しんでいるのもそれです。

 

一方、これからはホワイトカラーの採用とリテインが重要になります。そこでのポイントは、能力開発と公平性だと考えます。もちろん給料は高いに越したことはありませんが、その重要性はブルーカラーに比べれば低いでしょう。それ以上に大切なのは、日本人社員(在日本含め)と同等の扱いを受けられ、成長できるかどうかです。扱いとは、突き詰めれば昇進でしょうが、その前段階としての教育機会に着目すべきと考えます。

 

アジア諸国では、幸い?まだ日本企業のステータスは高いそうです。優秀な若者には、日本語を学び日本留学する人がまだまだたくさんいます。そういう人々をいち早く獲得し育成することが、日本企業のグローバル戦略の基盤になるのではないでしょうか。

 

でも、急がないと、「日本」の神通力もいつまで持つかわかりません。韓国のサムソンが、20年以上前から若手社員を世界中の国々(貧困国含め)に駐在させ続けていることが、現在の地位に貢献していることは明らかです。

 

日本人を海外に出すこととともに、優秀なローカルスタッフの日本化も大切だと思います。日本的経営、日本的人材開発のエッセンスを、正々堂々と海外で啓蒙していくべきです。もちろん、変えるべきところは変える必要があります。

 

かつて、アメリカ型経営が、グローバルスタンダードだと思われたように、アジアにおいては日本的経営がアジアスタンダードになってもおかしくはないでしょう。さもなくば、中国型経営がその地位を占めるかもしれません。

 

いずれにしろ、内弁慶にならず、自信をもってアジア諸国に関与すべきです。時間は、もうあまりありません。

本田のシュートが決まった瞬間、深夜にも関わらず、大きく拍手してしまいました。それほど、待望の一点でした。

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直前の強化試合4連敗で迎えた緒戦。対カメルーン戦を、1-0で守り抜き勝ったのです。不安が大きかっただけに、日本中が歓喜したことでしょう。

 

この試合は、「個」のカメルーンと「組織」の日本の戦いといわれてきました。たしかに、カメルーン選手の体力は超人的です。日本は、個では勝てないので組織力で勝負するしかありません。サッカーに限らず、日本の宿命のようです。

 

しかし、最近の試合では韓国にすら2連敗。その程度の組織力で、ワールドカップの強豪に太刀打ちできるのか。それが、不安の根本だった。

 

昨日の試合では、これまでとの違いを見せてくれました。それは、組織力は活かしつつ、前線では個の力も活かすというハイブリッド型です。松井、本田、大久保のFW三人は、これまでのように来たパスを回すことばかりに拘泥するのではなく、個人でできるだけキープし、隙を見つけて個人突破することを徹底していました。そうして、溜めを作ることで数的優位を築き、前線での有利な展開を実現したのです。ただし、守備はチーム一丸となって組織で守りきりました。

 

中村俊輔に代表されるような、パスを中心に組織で攻めるパターンとは大きく異なりました。組織力だけでは、アジア予選では通用してもワールドカップでは通用しないのです。それが歴然となりました。

 

そこで岡田監督が選んだのが、松井であり本田だったのです。二人とも競争の激しい欧州での経験を積んでおり、他選手に比べて個の力が、そして個性が強いことが特徴です。これまでの組織力重視のチームでは、脇に追いやられていた選手です。彼ら活躍なくして、カメルーン戦勝利はなかったでしょう。直前合宿でその選択をした岡田監督の判断力も大したものです。

 

 

さて、この一連の動きは、日本企業の戦い方の縮図とも言えそうです。国内市場が中途半端に大きいため、得意の組織での戦い方でも十分勝ってこられました。しかし、国内市場が縮小する中で否応なく海外市場に打って出る必要があります。そこでは、従来の組織力だけは通用しないはずです。かといって、いきなり「個」で勝負するシステムに転換し、しかも勝てるはずもありません。

やはり、強みである組織力をベースにして、そこに強い個の力をも活かすハイブリッド型の組織体にならなければ、世界では勝てないのです。

 

個の力と組織の力の融合。これができるのは、世界広しといえども日本だけかもしれません。小さな光明を見た、初勝利でした。

一昨日、スマートHRD養成講座(第二期)がスタートしました。日本CHO協会主催の、全夜4回の講座です。あらゆる業種の企業からの主に人材開発部門の方々18名が今期のメンバーです。

 

同じような問題意識を持つ異業種からの参加者同士が、積極的に学びあう「場」の力を、あらためて感じました。

 

一応私が講師なのですが、ほとんど必要ないかのようです。最初に2つの「問い」を投げかけ、グループディスカッションしていただきました。

 

「企業が生き残っていくために人材開発は不可欠なのでしょうか?」

「御社の人材開発部門のミッションは何ですか?」

 

この問いだけで、規定の2時間半は終わってしまいそうな勢いでした。面白いのは、自社と全く異なる視点や考え方を、他社の方から学べる点です。もちろん、そのまま取り入れえることは難しいでしょうが、新たな視点をもらうことによって、今後の選択の可能性は確実に広がります。社内での議論では、ほとんど不可能でしょう。

 

ある外資系企業の方は、こう発言されました。

 

「同業他社から多くの即戦力を採用したが、ほとんどが成果を出せないで去っていった。ウチのやり方には合わないんです。結局、時間がかかっても、若手を内部で育てることにしました。」

 

全ての会社がそうであるはずもありませんが、ここには一つの事実があります。この事実を、どう捉えるべきなのか、それは現場で日々人材開発に取り組まれる方には、とても重要な問いかけです。

 

これは一例に過ぎませんが、こういう現場からの問いかけに、私も非常に勉強させていただいています。

 

あと三回が、とても楽しみです。

今、リフレクション(内省)が時代のキーワードになっている気がします。目まぐるしく移り変わる日々の中で、ふと立ち止まって自分自身を振り返ることを、潜在的に多くの人々が求めているのではないでしょうか。

 

振り返るには、なんらかの対象が必要です。他者との対話かもしれませんし、また自分を写すことができるなんらかの鏡かもしれません。

 

映画とは、そのような自分自身を写す鏡となりえます。ドキュメンタリー映画 「森聞き」の試写会を観て、あらためてそう思いました。

 

その映画の出演者は、普通に高校生四人と、森の仕事名人である老人四人です。高校生それぞれが、ひとりの老人に森での暮らしや仕事についての話を聞いて、文章にまとめる姿を追った映画です。

 

東京の高校生三年生女子は、母親から森に行くことを反対されます。そんなことより、受験勉強しなさいと。そうしないと、ブランド大学に入れないよと。娘は、「私はブランドでバッグを買うのではなく、好きだと思うバッグを買いたいの」と答えます。そして自ら「森聞き」を希望して山に入ります。森聞.jpg

 

四人はそれぞれ、圧倒されるような歴史と技術と誇りを背負った老人と出会い、面くらいます。そこでは感動的なエピソードが綴られるわけではありません。四組それぞれの不器用な交流があるだけです。

 

観ている多くの人は、高校生に自分を重ね、映し出すことでしょう。自分が高校生のときはどうだっただろうか。今、何が変わったのかと。あるいは、先の母親に重ねる人もいることでしょう。また、老人に重ねる人もいるでしょう。どの世代が観ても、自分をなんらかの形で振り返ることができる映画です。

 

決して、涙の別れがラストに待っているわけでもありません。結論があるわけでもありません。だから、リアルなのです。観終わった後で、誰かと感想を語り合いたくなる映画です。実際に、試写終了後、話し合いました。観る人によって、いろいろな観方ができるのだと実感できました。

 

いい作品(本でも映画でも絵画でも)とは、観(読み)終わってから自分の中でじっくり何かを考えたくなるものだと思います。心の中に、何かが刺さるわけですね。Entertainmentとは、心に入り込んで残るもの。Amusementは、一瞬で過ぎ去りますが、それとは異なります。

 

経験を積むほど、Entertainmentを楽しめるだけのキャパシティーが大きくなることでしょう。齢を取ることは、悪いことではない気がしました。これからも、こういう作品にたくさん触れていきたいものです。

 

高峰秀子の流儀
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小津安二郎監督にとって原節子がなくてはならないように、成瀬巳喜男監督にとって高峰秀子は最高のパートナーでした。原は若くして引退し、鎌倉の自宅に引きこもってしまい、一切外部との関係を遮断しています。高峰は、55歳で引退したあとも、エッセーを書き続けました。でも、やはり映像には現れません。

 

私は成瀬映画ファンで、当然のように女優としての高峰秀子のファンです。しかし、なぜか彼女のエッセーは読んだことがありません。今回、斎藤明美著「高峰秀子の流儀」(新潮社)を読んで、大いに後悔しています。

 

梅原龍三郎に気に入られ、多くの肖像画を残している、往年の大女優のイメージを越えてはいませんでした。(失礼ながら、存命とは思いませんでした)その作品(映画とエッセー)と人柄を、私が尊敬する司馬遼太郎、沢木耕太郎、井上ひさし各氏が絶賛していることを、本書で知りました。

 

驚くべきことに、彼女は学校に一ヶ月強しか通っていないそうです。小学校含めてですよ!字は、絵本などを見ながら独学で修得したのです。4歳で実母が亡くなると、叔母に養女としてもらわれました。その直後に子役デビューです。養母(高峰はデブと呼びました)は、金づるとしての高峰にしか興味がなく、学校に通わせなかったのです。しかし、彼女は養母が死ぬまで養い、世話を続けた。

 

司馬遼太郎が、高峰を称してこう言ったそうです。

 

「いったいどういう教育を受ければ、こんな人間が出来上がるのだろう」

 

教育は学校で受けるものではないのです。先日亡くなった市川昆監督が、終生頭が上がらなかったのが高峰です。市川の撮った東京オリンピックの記録映画が、完成直後政治家やマスコミから批判され、ぼこぼこになっていた市川を、彼女一人が擁護した話は、全くもって痛快。こんな女優、いや人間がいたことが驚きです。(つい先日、日経「私の履歴書」で暴露した有馬稲子とは大違い!!)

 

 

大女優高峰秀子は、86歳でまだ健在です。この伝説のような人と同じ空気を吸っていると思うだけで感謝したくなる、そんな人柄が伝わってくる一冊です。これから、エッセーを読みます!

組織能力を開発する

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組織開発を部署名に付けた日本企業は多くはないと思います。一方、外資系企業では珍しくありません。その差は何なんでしょうか?

 

日本企業では、組織とは開発するものではなく、構成員をアサインし役割を規定すれば出来上がるものでした。したがって、開発すべきは組織ではなく人材でした。組織能力についても、あまり意識してこなかったと思います。意識しなくても、創業社長の個性や哲学が、何となく組織に浸透して、それが組織能力となっていたのです。

 

最近、私がそれを痛感したのは、日本電産です。当社は、リーマンショック直後の20091月、社員5%、幹部10%の賃金カットを発表しましたが、見事20103月期には好決算を記録し、賃金カット分に1%の金利を上乗せして全部返済しています。一般の会社では、これだけ迅速かつ徹底できないでしょう。日本電産の組織能力は、その「結果責任」の徹底にあるのではと思います。

 

組織能力は、ある程度長い時間をかけないと形成できないでしょう。それは、戦略との一貫性が必要です。これまで多くの日本企業は、大きな戦略転換を必要としてこなかったため、組織能力をあまり意識する必要がなかったと考えられます。したがって、じっくり形成することができた。

 

しかし状況は変わりつつあります。社員の多様性も高まり、またM&Aを含む戦略の大胆な転換にも迫られています。それに合わせるようにして、組織能力の開発あるいは転換も必要になっています。

 

ところで、個人の能力開発(人材開発)と組織の能力開発を峻別する必要はあまりないのではと思います。人材開発を検討する際にも、その組織に対する効果を十分吟味する必要があります。また、組織開発を検討する際にも、それが個人の能力発揮にどのような影響を及ぼすかを想定すべきでしょう。つまり、コインの裏表の関係なのです。

 

戦略を実現するために、個人や組織にどのような働きかけをすべきなのかを、長期的企業経営の観点から検討するのです。日本企業においても、このような企画と実施を人材開発部門が担うことになっていくと思います。今日、人材開発部門ほど、戦略的に重要な部門はないのだと考えるべきでしょう。

クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国
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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ ~天正少年使節と世界帝国」をやっと読了しました。本書は、2003年刊行されすぐ購入したのですが、本文526ページの重さのためか、ずっと本棚に置きっぱなしでした。ところが、その間著者の若桑さんは亡くなり、本は文庫化され、妻が先に文庫で読了してしまいました。それで、やっと重いこの本を手に取ったというわけです。

 

読了して思ったこと、もっと早く読めば良かった。イエズス会関係の膨大な資料を丁寧に読み解いて描いた世界は、私のこれまでのなんとなくの疑問に答えてくれるものでした。

 

なぜ、信長は南蛮人を好んだのか。逆になぜ秀吉や家康は彼らを憎んだのか。なぜ光秀は信長を討ったのか。なぜ、わずか数十年で、キリスト教は九州を中心の大名から農民にまで浸透したのか。そして、隠れキリシタンと呼ばれる信者は、なぜ迫害のもとで信仰を捨てなかったのか。なぜ、日本はポルトガルやスペインは、他のアジアの国々に対するように植民地化しなかったのか。なぜ、江戸幕府はオランダだけに出島を与えたのか。などなど。

 

また、桃山時代の少年がローマに行ったということは、歴史で習ったような気がしますが、まるでおとぎ話のようにしか捉えていませんでした。しかし、それは事実であり、グレゴリウス歴で知られる法王グレゴリウス十三世や世界帝国スペインのフィリップ二世にも謁見しているとは!学校でならった日本史と世界史が見事につながった!当時の日本も、世界の変化と無関係ではなかったのです。まるで、現在のように。もし、そのまま日本が世界に開いていたら、鎖国していなかったら、日本や世界はどうなっていただろうと、想像せずにはいられません。

 

著書の若桑さんは、資料を丹念に読み解くうちに、少年使節の4人と友人になったかのようです。それだけ、魂が込められています。歴史を扱いながらも、著者の思いや主観が、溢れる部分があります。その言葉は、強く心に刺さります。

 

イエズス会の偏執的なまでの報告義務と収集癖が、歴史に名を留める有名人(信長、秀吉、高山右近、利休、フィリップ二世・・・)のみならず、無名の人々の言動までも記録しています。それらを丹念に読み解く、まさにミクロの活動が結果としてマクロの姿、つまり16,17世紀における日本と世界の姿を見事に描いているのです。ミクロを突き詰めるとマクロになることが、実感されます。上っ面だけの抽象論や空中戦では、なにも本質には到達できない。これは、塩野七生さん著作にも共通することですが(なぜか二人ともイタリア語が堪能な女性)本書を読んで、あらためて感じました。若桑さんは、刊行4年後の2007年に亡くなってしまいましたが、本書を世に出すことできてきっと本望だったことでしょう。

新国立美術館で開催されている「ルーシー・リー展」を観てきました。彼女は、95年に亡くなった、イギリスで活躍した陶芸家です。1902年生まれの彼女の作品が、年代を追って250点展示されている、これまでで最大規模の回顧展です。作品の素晴らしさは言うまでもありませんが、彼女の凛とした生き方や感じ方、性格が作品を通して伝わってくるような展示でした。

 

●「守」の時代:ウィーンでの活動期~ロンドン初期

ウィーンで生まれたルーシーは、初期にはいくつかの先人からの影響を受けています。ひとつは、クリムトに代表される、伝統的な美術から分離する新しい芸術運動(分離派)の影響。金を多用した装飾性の高い作品が特徴です。ふたつめは、バウハウス運動の影響。無駄を省いた、合理的で機能的な作品が特徴です。三つ目はロンドン亡命後のバーナード・リーチの影響。リーチは、柳宗悦や浜田庄司との交友で有名な、陶芸家です。日本の民芸運動とイギリスの伝統的陶芸の融合を図った芸術家です。ルーシーは、リーチを通して日本の焼物や李朝陶器の影響を受けていることが、作品から見て取れます。

 

彼女は、1940年代くらいまで、こういった時代の先端の型を貪欲に学んでいます。つまり「守」の時代です。ただ、決して先人の型を模倣しているわけではありません。常に、初期に芽生えたなんとなくの「自分らしさ」に照らし合わせながら、型を吸収しているのです。

 

    「破」の時代:40年代~60年代

40年代の終り、たまたま博物館で見た新石器時代の土器の壷リー2.jpgにインスピレーションを受け、そこから独自のスタイルが展開しました。初期に芽生え自分らしさと、それまで吸収した型、そして新石器時代の土器の影響などがうまい具合に融合し発展していくさまが、その時期の作品に表現されています。

 

「型」を基盤に置きながら、自分のスタイルが確立するまさに「破」の時代です。誰が見てもルーシー・リーの作品だとわかる、オリジナリティあふれる作品ばかりです。しかも、ひとつのパターンだけではなく、いくつものスタイルを生み出しています。しかし、どれもルーシーなのです。

 

●「離」の時代:70年代以降

そして、それまでの蓄積が一気に花開くようです。それまでに確立したいくつかのスタイルが、何のてらいもなく自由に融合していきます。こだわりから解き放たれ、肩の力を抜いて、好きなように作品を創っていることが感じられます。形も色調も華やいでいるようです。融通無碍という言葉が リー.jpg思い起こされました。まさに「離」です。面白いのは、1920年代からずっとつながっているものも、確かに見えることです。

 

ルーシー・リーという一人の陶芸家の生涯とその思いを、「守・破・離」のフェーズごとに観て感じることができる、とても良い展覧会だと思います。

 

人間にとっての「守・破・離」の意味を、あらためて考えさせられた気がします。

 

近年、ベンチャーの評判が芳しくありません。確かに、上場基準が大幅に緩和されたのに乗じて、2003年頃からそれを悪用する輩がたくさんいました。それが、今のベンチャー離れを呼び、さらに反動して大企業志向が再び高まってしまう事態となったわけです。日本経済全体としては、非常に好ましくない方向だと思います。

 

ところで、日本ではベンチャーが育たないとの論はずっと以前からあります。いわく、リスクマネーが出ない、日本人は創造性が低くリスクを取らない国民性だ、大企業が本来ベンチャーを手がけるような事業まで参入する、などなどいろいろな理由が流布しています。

 

それぞれ一理あるかもしれませんが、私は大企業における意思決定の方法に大きな理由があるのではと考えています。

 

ベンチャーを起こし成長させるには、既存企業(特に大企業)との取引が欠かせません。既存企業の担当者に、なんとか高い評価をもらったとしても、その担当者が上司やそのまた上司に決裁を仰ぐ必要があります。いわゆる稟議制度です。彼らを説得させるのは、簡単ではありません。

 

ここで二つのパターンがあります。現場の担当者の申請をほぼ、無条件に決裁する上司(めくら判)と、重箱の隅を突くようにだめだしをする上司です。

 

前者の上司は部下を信頼しており、大枠のみしかチェックしません。後者の上司は、自分の存在意義は否定することだとでも思っているかのようで、リスクの最小化が判断基準です。したがって、ベンチャーとの取引は、真っ先に否定されるべきものです。それを慮って、部下は上司にリスクの低い申請しかしなくなります。

 

前者の企業が相対的に多ければ、ベンチャーが伸びる余地が大きいといえるでしょう。しかし、現実はまだまだ後者が大半を占めるのではないでしょうか。

 

コンプラなどのリスク対策の重要性はますます高まっています。その意識が、通常の取引選定にまで影響を及ぼしているとしたら、ますますベンチャーの芽は摘まれることになるでしょう。

 

 

戦後、ソニーやホンダといった当時のベンチャーがたくさん輩出されたのは、高成長を続ける経済のもとでは、上司は部下に任さざるをえなかったからかもしれません。今の中国がきっとそうですね。もし、そうなら今のようなデフレ経済では、ますます成長しづらいという悪循環にはまりそうです。

 

 

私は周囲を巻き込む稟議制度は日本人に合っていて、悪い制度ではないと思っています。しかし、それがスピード感や変化対応力を弱めたり、ベンチャー育成を妨げるのであれば、仕組みを変える必要がありそうです。でも、それは非常に難しい。

 

 

 

では、どうするか。意思決定する際の意識に働きかけたい。それは、日本における大企業を頂点にしたピラミッド意識(それはある種の差別意識かもしれません)を払拭することです。

 

そのためには、大企業に、ベンチャーの力を取り込むことで大きな価値を生み出しうることに気づかせることが近道と思います。ベンチャーを保護するという意識ではなく、合理的に活用する道を示すのです。トヨタの米電気自動車ベンチャーのステラ・モータースへの出資が、その魁になればと思っています。残念ながら、相手は米国企業ですが・・。

 

 

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