文化と芸術: 2018年6月アーカイブ

教養とは何か

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雑誌などでビジネスマン向けの教養特集などが組まれるようになって、だいぶ時間が経ちました。最近は欧米人と深く付き合うには西洋美術の知識が必要だとして、その手の本も売れているようです。

 

教養とは豆知識みたいなものなんでしょうか?大澤聡氏は、最近ブームの教養を指して「知的サプリ」と言っています。

 

そのO大澤氏が三人の碩学(W鷲田清一、T竹内洋、Y吉見俊哉)と対談した「教養主義のリハビリテーション」(筑摩書房)が面白いです。さしあたり鷲田さんとの対談から、気になる言葉を備忘録として抜書きします。

 

 

 

哲学とは理論の発明ではなく発見。人びとの暮らしの中で生きられている大切なものを発見する。そして、言語化する。W

 

一見遠く離れたもの同士が、実は同じ構造に支えられていたり、同じ要素を抱えていたりする。それを発見することも教養でしょう。O

 

優れたデザインには、人をパッシブにしないという特質がある。・・・優れたデザインが備えている要素にはあと二つあって、そのひとつが多義性です。・・・・良いデザインはなにが起こるかわからない方向に開かれている。・・残るひとついは批評性です。W

 

臨機応変に意味や機能を組み替えることができるのも教養です。O

 

少し変形してその文脈に接続させる、これも教養のひとつのあり方だと思う。僕はそれを「対話的教養」と呼んでいます。O

 

理論がそのまま通用しないような場所こそが「現場」と呼ばれてきました。W

 

現場的教養は、OJT的にその都度臨機応変に対応していく中で獲得されるメチエの集合体のようなものですね。その意味ではボトムアップ型。・・場数が増えるほど裾野が広がって、その分上に向かう力も高まる。そのときに考えないといけないのは「総合」のモメントでしょう。O

 

我々が直面している問題の大半は答えがでません。少なくとも一義的なソリューションはありえない。そこで、「問題」と「課題」を分けて考える必要があるんじゃないでしょうか。ここでいう問題は解決されるべきもののこと。なくなるのがいい。それに対して、課題はだれにも事態を解消することができない。決定的な解決策はない。もっとも基盤的な次元において解決の道筋がすぐには見えない、そんな難問を突き付けられている。けれど、取組み続けなければならない。その取組自体に意味がある。W

 

諸学問の連関のマップをまず頭に入れておいて、それから個別の議論に入っていく。まさに一般教養のプロトタイプですよね。・・その可能性のひとつが「現場的教養」と「対話的教養」の組合せです。それぞれの現場から立ち上がってきたメチエを対話の中でつなぎあわせていく。そういうネットワーク的な教養がありうるのではないか。O

 

詩や思想書を読む中で、自分とは全く異なる感受性や思考に触れることによって、それまで自明だと思っていたことがぐらぐら揺さぶられる。自分の前提や基盤が不明になっていく。そういう経験が読書にはあります。W

 

読む前と読んだ後とで自分の組織が再編される。その結果、周囲が異化されてそれまでと違ってみえる。O

 

教養がある人とは、たくさんの知識を持っている人という意味ではありません。そうではなくて、自分(たち)の存在を世界の中に空間的にも時間的にもちゃんと位置づけられる人のことを指しています。つまり、自分を世界の中にマッピングできるということ。そしてこの世界を平面ではなく立体で捉える。・・ひとつの対象を複数の異なる角度から観察するということです。W

 

そこで、自分とは異なるタイプの思想家なり作家なりの本を読むことが重要になります。著者との対話を通してこそ、思いもよらなかった補助線をいくつも引くことができるようになる。そうした補助線を獲得することをとりあえず教養と考えるといい。W

 

昔も今も教養のポイントは自分でコンテクストを編むことにあるのかもしれません。僕たちは歴史的な存在です。コンテクストの中にいる。ところがそのコンテクストは見えない。自分なりにマッピングするということは、とりも直さず、なぜ自分がこういう存在なのかを知るということですね。・・自分のメンタリティのバックグラウンドが分かると自己変革のきっかけにもなる。W

 

教養とはまさに自由になるための術です。自由と言うと、自分を様々に絡め取ってくる制度から解き放たれるようなイメージがありますが、僕は自由とはむしろ自分が生きていく上でのコンテクストを自ら編んでいけることだと思います。W

 

ところがアートにはそうした目標がないんですよ。・・とにかくわくわくすることをやりたい。その「わくわく」のイメージが互いに違っているから、アイデアを出しあって、ああでもないこうでもないと議論をしながら形にしていく。そして、最後に「これだ!」というものができる。これって多文化共生社会そのものじゃないですか。価値観を共有しないままでもみんなで一緒にやれるのがアートなんですよね。・・素手でやっていくということ、そして価値観の共有を前提にしないで生活のコンテクストを編んでいく能力。これからの社会にとって最も大切な能力でしょう。W

 

前傾姿勢で走り続けるあり方に限界が来ている。その時々の関係性のネットワークの中で、「いま・ここ」をどう組み直すかを判断していかないといけない。ゴールが流動化した時代には、教養も別のモデルを用意しないといけない。さらにそのとき、「わくわく」がそこにあるといい。O

教養主義のリハビリテーション (筑摩選書)
大澤 聡
448001666X

ヒトは安易にラベルを貼り理解したつもりになって、それを前提として様々思いや思考を発展させるものです。ラベルを紋切型(ステレオタイプ)に貼ることで、善悪、損得といったようにばっさばっさと二分し、どちらかに決めていきます。認知エネルギーを最小化するために、人類に備わった能力といえるでしょう。

 

しかし、得てしてそれは間違う。世の中に絶対正しいとか絶対に得といったものはありません。でも、それを知っていてもどうしてもラベルに頼ってしまうのが人間。そのことに気づかせてくれる機会は、とても貴重です。私にとって映画は、その貴重な気づきのツールなのです。

 

さて、カンヌでパルムドールを取った 「万引き家族」は、まさにそういった映画でした。映画で描かれた、思い込みを揺さぶる問いかけをいくつかあげてみましょう。(上段が常識で、下段は映画で語られる別の見方) 

 ・他人の子どもを黙って連れ出して一緒に暮らすことは誘拐犯罪である

  →虐待された子供を保護しただけで、身代金も要求していないから誘拐ではない

 ・子供に万引きの仕方を教えてはいけない

  →子供が生きていくために必要なことで教えられることは万引きくらい

(刑事にそう語る彼の気持ちを想像してみたい)

 ・死んだら届けて葬式をあげ、火葬しなければならない。勿論年金も停止

  →生前世話をしたのだから、法的家族でなくても死後も年金を代わりに遺族年金として受け取っても構わない。そのためには死亡を届ける必要はない

 ・老人が死亡しても届けず年金を代わりにもらい続けていたということは、カネ目当てで老人と同居していたということ。そこに愛情や絆などない

  →当事者である老人が望んでいた。お互いにつながりを感じていた

 ・愛情とお金のやり取りは同時には成立しえない

  →愛情とおカネの交換が明示されておらず、かつ双方が暗黙の了解をしているのであれば成立しうる

 ・子供が二ヶ月も失踪したにも関わらず、捜索願を出さないということは、両親が子供を殺したからに違いない(マスコミ目線)

 →子供を虐待していたから、それがばれるのが怖くて届けられなかった

 ・子供は学校に通って勉強しなければならない

  →「学校とは家で勉強できない子供が仕方なくいくところ」

 

他にもたくさんあります。

最後の学校の話は、小学校に通う同じ年頃の子供をみて、男の子(息子相当)が語る台詞です。彼は本が好きで、実際に家で教科書を読んで勉強しています。

 

事件が明らかになった後、尋問する若い刑事に、彼は問います。「なんで、学校に行かなければならないの?学校でしかできないことって何?」

 

刑事は一瞬いい淀み、「・・・友達と絆を結ぶことかなあ」(記憶曖昧ですが)と自信なさそうに応えます。いじめ問題が途絶えない現在の学校は、果たして友達と絆を結ぶところと言い切れるでしょうか?そう思っているのは、そう思いたい大人だけかもしれません。その方が、都合がいい。

 

こうした大人のご都合主義による常識や思い込みに、疑問を投げかけ続けることに、この映画の価値があると思います。

 

家族って何だろう?法律ってなんだろう?マスコミやそれに従う大衆って何だろう?学校ってなんだろう?この先には、政府や国家って何だろうという問いかけも用意されている気がします。だから、文部科学大臣がパルムドールを取った是枝監督に会って祝福したいとの申し出を、監督は以下のコメントを出して断ったのだと思います。

 

「映画がかつて、『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような『平時』においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています」

 

立派ですね。芸術家はこうあるべきだと思います。

今年のカンヌ映画祭で、是枝監督がパルムドールを受賞しました。日本でも話題になりましたね。嬉しいものです。それに関して、いろ

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いろな報道がありましたが、私の心に残ったのは、審査委員長を務めたケイト・ブランシェットさんの映画祭を総括した「今年のカンヌは、インビジブル・ピープル(見えない人びと)に光を当てた映画が多かった」という言葉と、それに対する是枝監督の反応です。

 

是枝監督はこう応えました。

 

自分の作品も確かにそうだと思った。「万引き家族」は社会から排除され、取り残された人たちが、不可視の状態でそこにいる。発見されたときには犯罪者としてしか扱われない。「誰も知らない」の子供たちもそうだった。

 

そのことが彼女の「インビジブル」という言葉を聞いて、自分の中で言語化された。それまでは言葉にできていなかった。(中略)外から与えられた言葉で、自分の作家としてのスタンスがクリアに見える瞬間がある。有り難い。

 

そもそも「見えない人びと」に光を当てること自体、容易ではありません。スルーして何も見えないのは、自分が構成している主観の世界には存在しないからです。物理的には存在しても、主観の世界には存在していない。人はそのようにできているからです。

 

しかし、芸術家は異なる目を持っています。客観的に世界を見ることが得意なのです。だから、先入観や偏見にとらわれずに、客観的に見ることができるのです。ただ直観ではあるでしょう。

 

そして芸術家は直観的に捉えたものを、それぞれの表現手段(映画など)を使って表現します。

 

その結果、我々凡人も、芸術家などの視点の異なる他者と対話(映画鑑賞)して初めて「見えて」きます。

 

しかし、芸術家もなぜそれに自分はこだわったのか、自覚していないことも多いようです。是枝監督は「言語化」できなかった。言語化とは、具体の世界を抽象の世界に引き上げることです。今回是枝監督は、ケイト・ブランシェットさんから「インビジブル・ピープル」という言語をもらいました。なるほど、自分がずっと表現したかったことはそれだったんだ、と自覚できたのです。

 

今後、是枝監督は抽象化されクリアになった自分のこだわり。すなわちインビジブル・ピープルを、自分自身の主観の中に取り入れて、さらに豊かな映像世界をつくりあげていくことでしょう。

 

ここまで書いたのは、主観と客観、具体と抽象という二軸によるマトリクスの中をぐるぐる移動することの事例です。

 

私たちは、ひとりでは学ぶことはできない。(芸術家ではないとしても)視点の異なる他者と対話することで学んでいくのです。どんなものからも学んで成長を続ける人がいます。そういうひとは、このマトリクス上を高速度で回転しているのだと思います。

 

では、その原動力は何なのか?

 

世界をもっと深く知りたいという好奇心でしょうか?安易に自分を納得させて楽になろうとは思わない、自分自身に対するプライドでしょうか?

 

う~ん、まだよくわかりません。

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