2015年4月アーカイブ

どんどん増え続ける外国人観光客。ありがたいことです。日本の人気スポットの一つに、渋谷のスクランブル交差点があるそうです。最初それを聞いたとき正直、何で?と思いました。私には、大きな交差点にしかすぎません。

 

渋谷駅ビルのスクランブル交差点を見下ろせるところに行ってみると、確かにいました。たくさんのいかにも観光客という外国人(欧米系、アジア系問わず)が、嬉々としてスモホでスクランブル交差点を動画撮影しているはありませんか。

 

 こんな多くの人が一度に道路を渡っているのを見たことがないなあ。まるで打ち寄せては返す波のようだね。どうやったらあんなふうにお互いぶつからずに歩けるんだろう

 

こんな感想を持つ外国人が多いそうです。外の視点によって、自分自身に気づく代表例ですね。

 

では、なぜ我々日本人はこんな「芸当」が自然にできてしまうのでしょうか?人口過密地帯で日々暮らしているから誰でもできるようになる、と思ってしまいそうですが、本当にそうでしょうか?そこには、日本人が持つ独特の「DNA」があるような気がします。

 

日本の古典芸能の音楽では、指揮者らしき人はいません。歌舞伎や能の囃子方、文楽の太夫と三味線、どれも指揮者らしきものはなく、「息」を合わせることで調和を取っています。

 

息と同様大事なのは「間」です。絵画や建築物における2,3次元の間も日本の特徴ですが、その大元は時間に対する間だと思います。

 

免疫学者であり小鼓の名手だった多田富雄さんに、「間の構造と発見」という論文があります。その最初に、大正・昭和前半に活躍した大鼓の名手川崎九淵翁がNHKで能楽のスタジオ録音した際の発言に触れています。

kawasakikuen.jpg

 

「あなた方は、私が打つ大鼓の音ばかり録音しようとしているが、音と音の間の何も聞こえていない部分を録音しようとしていない。」

無音を録音はできません。しかし、「身体」が介在する能楽堂では、「間」という無音が聞こえるような気がします。その「間」を、舞台にいるシテや地謡も共有し、合わせることができるのでしょう。見物も、その間に吸い込まれ共有することで、一体感を得て、能の世界に没入できるのです。

  

多田氏はこう言います。

 

能のコスミックな音楽表現は、まさにこの自在な「間」の存在に依存している。と私は考える。物理的、時計的な時間とは違う、不思議な時の流れ。それを刻む決して正確に等間隔ではない身体的なリズム。(中略)

 

「間」というのは、前述の通りネガティブな「非存在」ではなくて、存在するもの相互の間に存在する緊張した時間と空間である。目に見える実体、あるいは耳に聞こえる音を取り去ったことによって新たに生成された何ものかなのである。(中略)

 

この「間」はやがて、日常生活の中にも侵入し、日本人独特の生活規範になってゆく。お互いの間に「間」を計り、それを微調整することによって孤立を避け、上下左右の流動的関係を作り出してゆく日本人の本性は、このあたりに基礎を持つのではないだろうか。

現代日本文化論〈7〉体験としての異文化
河合 隼雄
4000261274

 

どうですか?スクランブル交差点を、何の苦も無く渡れるのは、「間」の概念が浸みついているからではないでしょうか。

 

ただ、間が機能するのはそれを無意識に内面化している仲間内だけです。そこに異分子が入ったらどうなることでしょう。見物する外国人は、自分たちがそれに同化できそうもないから、面白がっているのです。

 

また、間は孤立や非存在ではない。しかし、間ではない、絶対的な孤独や非存在に日本人が置かれたら、そこで耐える力を持っているでしょうか。夏目漱石は留学先のロンドンで、それに苦しんだのかもしれません。

 

渋谷のスクランブル交差点は、いろいろなことを考えさせてくれます。

新年度が始まり、街には新入生や新入社員が嬉々として闊歩しているように思えます。この嬉々とした心持を、一日でも長く持ち続けてほしいものです。

 

私にも新入社員(行員)時代がありました。新入行員研修で、「当事者意識を持て」と、ことあるごとに言われたことを思い出します。正直、その時は「当事者意識」の意味は、さっぱりわかっていませんでした。

 

時代を経て、今年のトヨタの入社式でも豊田社長がも、「与えられたどんな仕事、環境でも、当事者意識を持って徹底的にやりぬいてほしい」と語りかけたそうです。

 

その後、縁あって企業の人材開発に携わるようになったのですが、やはりクライアントからは、「当事者意識」というキーワードを頻繁にきくことになります。

 

いつの時代も、どの階層においても「当事者意識」が必要かつ不足しているようです。「オーナーシップ」という英語が使われることが増えてきましたが、本質は同じでしょう。

 

デジタル大辞泉によると、当事者意識とは、「自分自身が、その事柄に直接関係すると分かっていること。関係者であるという自覚。ということだそうです。当たり前の定義です。

 

こういうときは反語を連想します。「他人事」でしょうか。なぜ、他人事となるのか考えれば、当事者意識を持つための方法?が見えてくるかもしれません。

 

・自分が関わっても、その影響力が限りなく小さいと思うから

・自分のやっていることが、全体にどう影響しているのかが見えてこないから

・そもそも、なぜみんなでこんなことをしているのか、その目的が見えないから

・また、目的が見えたとしても共感できないから

 

こんなところでしょうか。それに対して、大人はこう反論します。

 

「そもそも、今のお前に全体像だとか意義だとか、そんなことわかるはずがない。無理だ。俺もそうだった。でも、わからないなりに、じっと我慢してこつこつ続けることで、いつか分かる日が来る。その時、お前は俺に感謝するはずだ。(みんなそうだったんだから)」

 

この考え方も、今の私には理解はできます。でも、これで当事者意識を持てと説得するには無理があるでしょう。

 

上司や会社に対して、絶対的な信頼と敬意があれば、すべてを委ね信じ、よくわからないものの「当事者」となりきることができたのかもしれません。きっと、かつてはそうだったのでしょう。

 

でも、ご存じのとおり、会社に対して「信頼と敬意」を払う時代ではありません。業績悪化すれば、いつリストラ対象になってもおかしくないのですから。ただ、会社に対してそれが持てなくても、ある上司個人には「信頼と敬意」を持てることがあるかもしれません。それで、当事者意識を持たせるやり方。でも、組織の一員である一上司にとって、それは非常に荷の重いことでしょう。

 

そうなると、「信頼と敬意」ではなく別のロジックが必要です。あまり言いたくはないですが、それは、「損得」ではないでしょうか。

 

ただそれは、必ずしも短期的なお金や評価といったインセンティブのことだけではない。人間はそれ以外にも「得」を得ることができる動物です。そうすることで、自分に「いいこと」がある。その「いいこと」とは何か、その活動が「いいこと」に結び付くには、その前提として何が必要か、そのために組織は何をすべきなのか、など会社はもっともっと考え抜くべきです。

 

そう、当事者意識を持つということは、「考え抜く」ことを厭わないこと。個人にそれを期待するのなら、組織がその何倍も「考え抜く」ことは当然です。それがないまま、「当事者意識を持て」といわれても、????ですよね。


(書いているうちに、これは社員と会社の関係だけでなく、国民と政府の関係も同じだな、とふと気づきました。)

このアーカイブについて

このページには、2015年4月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2015年3月です。

次のアーカイブは2015年5月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1