2012年12月アーカイブ

初めてのお客さま(企業の方)に呼ばれて、説明や意見交換することがよくあるのですが、常に難しさを感じています。ある目的のもと、初対面の方と話をすること自体苦手ではありません。でも終わった後で、なんかしっくりこなかったなと反省することがよくあります。

 

何が難しいのか、なぜしっくりこないのか、自分でもうまく整理できていませんでした。でも、やっと平田オリザさんの言葉で腑に落ちました。

 

 「引く」っていうのは、イメージが共有できていない段階で、強いメッセージやイデオロギーを押しつけられたときに感じるんです。(中略)

 

人の心は複雑で繊細です。だから、イメージしやすいものから、イメージしにくいものへ、ひとつひとつのイメージを確認しながら近づけていく。(中略)

 

だから、「引く」という現象をちゃんと捉えて、段階を追ってコンテクストをすり合わせていかないと。

 

相手とまだイメージが共有できる前に、こちらからつい強めのメッセージを発してしまうことがありました。そういう時に、「引いている」相手を正しく認識できないため軌道修正できず、後で「しっくりこなかった感」を味わうはめになっていることが多いようです。

 

特に相手が複数人いる場合、それぞれの方とのコンテクストの擦り合わせレベルに差が出てくることが普通です。例えば、相手が4人いるケース。Aさんはこちらの言葉に敏感に反応し的を射た質問もしてくれている。Bさんは関心はあるのだがやや距離をおいている印象。Cさんは関心はあるのだが、こちらの言っている内容をあまり理解していなさそう。Dさんは関心も理解度も高くない。

 

こういうケースでは、ついAさんに照準を合わせて話をどんどん進めてしまいがちです。そうすると、他の方々がどんどん引いていってしまう。Aさんが意思決定者で他の方は勉強のため(?)同席するなんていうこともままありますので、それであればそれほど問題はありません。ところが、実はBさんやCさんが実質的意思決定者だったりすると、すれ違ったミーティングになってしまいます。

 

相手がBさんやCさんだけだったら、それに合わせたモードで話を進めることもできるのですが、コンテクストがすぐに擦り合わせできてしまうAさんが混じることで、つい引っ張られてしまうのです。

 

平田さんはこう言います。

 

これからの日本人には、このコンテクストのすり合わせの技術が求められると思います。皆がそれぞれ異なるライフスタイルを持ちはじめたということもそうですし、また、加速度的に国際化も進んでいきます。だから、どんどん多様化する社会を生きるためには、コンテクストをすり合わせ、たとえわかりあえなくても、一定時間内にどこか共有できる部分を見つけていく。そうした力が必要になってくると思います。

 

社内外公私を問わず、あらゆる場面でコンテクストの共有が難しいことが増えて来ています。だからSNSのようなバーチャルな世界で、共有できる仲間との世界に浸りたいという欲求も高まっているのでしょう。

 

しかし、そこに回避ばかりしていれば、ますますリアルな世界でコンテクストを擦り合わせる技術が身に付かず、コミュニケーションの問題を抱えることになります。営業やマーケティング、交渉といった外部と接するシーンや、社内での人間関係など、どこでも問題を抱えています。

 

他者をリードできるということは、コンテクストの操作能力が高いということと同意なのかもしれません。

 

バカとはいったいどういう人を指すのでしょうか?


先日、恒例の加藤健一事務所の翻訳コメディー、「バカのカベ」を観てきました。

 

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風間杜夫演じるピエールは、毎週火曜に仲間を集めて一風変わったパーティーを開いている。そこでは毎回持ち回りで、ゲストを一人連れてくる。そのゲストは「バカ」でなければならず、ゲストを笑い倒すことがそのパーティーの趣旨なのだ。今日は、ピエールが担当で、税務署員のフランソワ(加藤健一)を招待したのだが・・・。

 

バカを笑うパーティーとは随分と悪趣味ですが、バカは笑われてもそれが自分のことだとは気付かず、傷つかないということらしい。ピエールは、確かに超KYで、やることなすことピントがずれており、何をやってもうまくいかない。それが、このコメディーの笑わせどころなのですが、ふと気付くと自分自身もそれに近いことをやっているのでは、と一瞬怖くなる。でも、すぐ笑ってしまうんですが。

 

ここでの「バカ」とは、空気を読めない、先のことを予測した行動が取れない、相手の気持ちを慮れない、あまりに純粋過ぎる、といったことのようです。

 

しかし、コメディーの常道で、最後にはピエールが自分のほうがバカだったと気付くに至り、フランソワと友情を結んで終わります。

 

最後のクライマックスの場面、加藤健一演ずるフランソワが、シリアスにとても長い台詞を語る場面がありました。この台詞によって、ピエールの内面が大きく転換する重要な場面です。

 

その台詞が始まって数秒後、あろうことか私のすぐ隣の席あたりから、携帯電話の低い呼び出し音が・・。団塊世代くらいのカップルだったのですが、女性のほうが慌てて鞄の中をまさぐるのですが、携帯が見当たらない。やがてみつけたのですが、その携帯ではなかった。すると、今度は隣の男性が慌てて鞄をまさぐる。やはり、見つからない。時間は過ぎていく・・・。やっと見つけ出し音を止めた。

 

私はもう舞台なんか忘れて、いらつきながら隣の一部始終に注意が集中。ふつふつと怒りがこみあげてきました。その男性は、音を止めるとすぐ、着信履歴を確認し、小さく「いったい誰が・・」と吐き捨てました。すぐ隣の私にやっと聞こえるくらいの声でしたが、独り言だったのか、あえて周囲の人に聞かせたかったのか。まだ落ち着かないその男性は次に、「なんでだよう。切ったのに・・・」とつぶやく。

 

どう考えてもその男性本人が悪いのに、どうにかして他のだれかの責任にしないと気がすまない心境のようです。第三者からみれば、非常にバカげた心理状態と言えるでしょう。でも、そうせざるを得ない。そう思ったら、いらつきや怒りが吹っ飛んでなんだかおかしくなってきました。

 

そうだ! バカはここにもいた。バカとはフランソワのような純粋過ぎてKYな人のことではなく、自分を守ることに愚かしいまでに汲々としている、隣の男性や私自身、そして人間みんなのことなのかもしれない、さらに言えば、私たちは「自分と異なる」という理由だけでその人を笑い物にしたりするバカなのかもしれない、と思えてきたのです。

 

アクシデントも演劇のうち。出来事をどう受け止めようと、それは観客の自由。なんだか、得したような損したような不思議な夜でした。

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