2009年12月アーカイブ

先日、今話題の「フリー!」を読みました。読みながら、いろいろ自分のビジネスのことを考えさせられる好著でした。優れた本は、常に読者への問いかけを含んでおり、新たな知識による刺激とリフレクション促進で、頭をフル回転させます。想像力を掻き立てられる、これが最高のエンタテイメントだと思います。

 

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略
小林弘人
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文芸春秋の今月号で、敬愛する塩野七生さんが、最近のユニクロ現象について書いています。それなりの品質の商品を安く購入するユニクロ減少は、ブランドの本場イタリアでも顕著だそうです。それについて、塩野さんは嘆いています。ユニクロ的商品が人気なことにではなく、若い人がホンモノの高級品に興味をなくしていることにです。

塩野.jpg 

もちろんホンモノは、値段が高くそうそう買えるわけではありません。しかし、ホンモノは想像する喜びを与えてくれるというのです。彼女いわく、高級バッグを買うにも数日熟考し、その間いろいろなことを考えます。買った後も、それをどの服とコーディネイトするか、どんな場面で使うかなど、部屋に置いたバッグを眺めながら、いろいろ想像するのだそうです。

 

想像力は筋肉と同じで、使わなければ落ちてしまう。だから、落とさないためにもホンモノを身近に置くことが大切なのだそうです。機能重視のユニクロ現象が、国民全体の想像力を低下させることを危惧しているのです。

 

彼女いわく、出版の世界でも同じことが起きているとのこと。彼女の著作は、膨大な時間と調査の手間をかけているので、高額にならざるを得ないそうです。だからこそ、高い本を買っていただく読者に報いるためにも、全エネルギーを注いで執筆している。知的想像力を刺激する作品を生みだすことは、並大抵のことではありません。

 

最近は、「しゃべってさえくれれば、700円の本を出せますよ」と誘う出版社もあるそうですが、絶対に気力があるうちはそんなことはしないと断言されております。そこに彼女の矜持を感じます。

 

 

アトム(物質)からビット(ネット上の情報)へ、世界の重心が大きくシフトする時代において、想像力がますます重要になってくることでしょう。しかし、ファッションや本だけでなく、あらゆる分野で、想像力を刺激するモノは減少している気がします。このギャップに、どう対処すべきなのでしょうか。

 

 

CLOChief learning officer)という言葉も、とんと最近聞かなくなりました。試しにグーグルでCLOを検索してみたところ、トップ10になんと一件しか、この意味でのCLOはあがってきません。ローン担保証券(CLO)のほうが多く表示されます。ここまで認知されていないとは思いませんでした。

 

その理由は、人事部門と人材開発部門の関係が、日本とアメリカでは大きく異なることにありそうです。

 

多くの米企業では、いわゆる人事部門は、雇用関連の規制の遵守、社員に対する公正な待遇とその一貫性維持を目的に、人事制度策定、給与計算や福利厚生、従業員の個人記録の管理などのいわゆるアドミ業務を担う。一方ラインは、部門ミッションを達成するために採用、育成、評価、昇進などの実務を担う。つまり、企業業績に直接関連する部分は、ラインに権限があるのです。

 

アメリカでは一早く、経営環境の不確実性増大とナレッジワーカーの急増という状況で、社員や組織の能力が競争力の源泉になることが明確になってきました。そこで、経営戦略と直結した、最重要資源たる社員の能力開発や管理が経営テーマになってきたのです。だから、ラインに任せていた人材開発機能を、CLOのもとに束ねトップに直結させたのでしょう。これが本来のCLOです。

 

日本企業は、それとは大きく状況が異なります。日本企業の特徴は、相対的に人事部の権限が強いことです。人事部は、アドミ業務だけでなく採用や配置・異動、昇進昇格などのツールを使って、全社的観点から最重要資源であるヒトを動かし、企業全体の成果向上に貢献してきたのです。ただし、育成や能力開発に関しては、職能資格制度を補完する階層別研修や管理職研修を主管するにとどめ、あとはOJTと称してラインに任せていました。米企業がCLOに期待する役割の多くは、人事部が担ってきたといえるでしょう。

 

したがって、日本企業の間では、「いまさらCLOといわれても、そんなの必要?」という認識なのでしょう。数年前、お決まりの舶来志向の下で一時話題になりましたが、そこまでです。

 

しかし、ラーニング支援機能は、日本企業では不足したままです。環境変化は日本企業にも訪れているにも関わらず、CLOのもっとも重要な機能である戦略的人材開発機能が、貧弱なのです。それは、大きな人事部門における一担当としての教育・研修セクションが、引き続きそのまま温存されているからなのでしょう。しかしながら、環境変化に敏感な日本企業のトップは、CLOとは言いませんが、人材開発部門の強化には大きな関心があります。ここに、トップと人材開発現場の間の大きな溝が見られます

 

CLOという言葉に惑わされず、企業生き残りのために何が必要なのかを、徹底的に検討すれば自ずと答は見えてくることでしょう。

先日、能楽「鉢木」を金春流で観ました。このお話は有名なのでご存知の方も多いと思いますが、簡単にあらすじを書きます。

 

大雪の中、僧(北条時頼)に一夜の宿を貸した佐野常世は、秘蔵の三つの鉢木を燃して暖をとりもてなし、鎌倉への忠誠心を語る。後日、鎌倉から挙兵の知らせがあり、常世が鎌倉にかけつけると北条時頼は常世を呼び出し、身分を明かし鉢木の礼にと、三つの庄を与えるという能。(以下のデッサンは能を愛した洋画家、須田国太郎によるものです。S25.11.28上演)

  鉢2.jpg 

子供のころから話は知っていましたが、能で観たのは初めてです。実際に観てみると、感じ方というか解釈が異なりました。

 

常世は、純粋に僧のために鉢の木を燃やしたと思っていましたが、単にそうではなかったようです。過去の栄光の最後の思い出を燃やすことにより、鎌倉幕府のために残している鎧、薙刀、痩せこけた馬への想いを強化させる意味があるのではと感じたのです。鉢を燃やすことで、生きる支えは過去の栄光ではなく、これからの幕府への働きのみに限定させるということです。僧へのもてなしは、そのきっかけにしか過ぎない。感謝したのは、僧よりも常世のほうだったかもしれません。

 

もうひとつ。時頼は軍勢の中から常世を捜し出し、褒美を授けたわけですが、常世の喜びを描いたと思っていましたが、今回が異なる感じを受けました。

本当に喜んだのは、時頼だったのではないか。時頼は、大雪の晩からずっと、常世に返礼をすることを思い描いていたと思います。もちろん、部下に探させ返礼することはわけないことです。そうではなく、常世の本願、すなわち鎌倉幕府のために馳せ参じる機会を提供し、その本望を遂げさせた上で返礼する必要があったのでしょう。それが、最大の感謝の示し方です。それが実現できた時頼こそ、もっとも喜んだのではないでしょうか。相手に喜んでもらう喜び。

 

 

さらに、大勢の前で忠義厚い常世に返礼することにより、武士の価値観を浸透させる場としたいとの意図もあったかもしれません。また、法の裁きの厳正さを世間に広めるため、いい加減な裁きで没落した常世の境遇を利用したとも解釈できます。

以上は私の勝手な解釈ですが、表明上とは逆の意図を想像させる余地があるのが、表現をそぎ落とした能の面白さだと思います。頭の中で、いろいろ考えさせることで、しみ込んでいくわけです。大したものですね。

 

多くの企業で、個人は保有する知識やノウハウなどを、他者に移転・伝承させることが、大きな課題になっています。団塊世代の大量定年や人材流動化の高まりもありますが、なにより企業における重要資産が、目に見える固定的資産や特許などの無形資産から、そういう評価ができない個人に属する「知識」に移行しつつあるからでしょう。ドラッカーが予言したとおりです。

 

そこでいかに、個人に属する暗黙知を形式知化するかが重要になります。さらに、仮に形式知化したとしても、すぐに移転できるわけではありません。最終的には、別の誰かが修得しなければ意味がありません。つまり、学習がゴールなのです。

 

例えば、有能な営業マンが、若手営業マンを集めて講演したとしも、なるほどとは思うかもしれませんが、同じことができるわけではありません。それをつなぐための技術がLearning engineeringです。

 

 

知識の提供者が、どのように知識を引き出し整理するか。また、受け手は、どのようなマインドセット持ち、どういう環境や形式であれば受け取りやすくなるのかを徹底的に分析する必要があります。

 

Aという事象を、そのままAとして伝達してもだめなのです。AをいったんXに転換し、それを伝達すると、受け手が内面でXA'に転換して理解するというわけです。完全にAと認識することは困難ですが、もしAのまま伝達したらBと認識される可能性を考えれば、A'でも十分です。こういうややこしい操作も時には必要です。

 

 

ある映画監督と録音担当から、直接聞いた話です。その映画は、岩手の山奥で

移住した監督の子供たちを中心にした大きな家 タイマグラの森の子どもたち - goo 映画
というドキュメンタリーです。そこでは、森の自然が大きな役割を果たします。撮影した際の録音を、そのまま使用してもだめなのだそうです。大自然の中で聞いた音は、映画館では再現できない。そこで、録音した音をいったん分解して、余分な音を削除します。そして、そこに他で別途採取した音を加えていくのです。悪く言えば、音を創作して、映像に重ねるのです。しかし、それを映画館で映像を見ながら聞くと、まるでその森にいた時のように聞こえるのだそうです。つまり、AをいったんXに転換し聞かせると、A'と聞こえるのです。

 

 

映画を観た後、映画監督と録音技術者の話を聞きながら、学習のことを考えてしまいました。

ある友人の妻君がフランダンスを習っています。彼女は、なんとなく上達が遅いような気がして、別の教室に変えました。すると、これまで行っていた教室と全く違う雰囲気で、みるみる上達しているそうです。

 

先生の教え方もあるようですが、最も違うのはそこに集まってくる生徒の意識なのだそうです。もちろん上手な人ばかりではないでしょうが、みんなが少しでも上達したいとの意欲に満ちており、それにつられて自分も頑張ってしまうのだそうです。彼女は前の教室のおっとりした雰囲気が何となく違うと感じていたから、移ったのだと推測します。

 

きっと先生が、そういう雰囲気を作りだすことに注力しているに違いありません。レッスン方法にそれほど違いはなくとも、自分が望むような「学びの場」づくりに長けているのでしょう。そして、その雰囲気が彼女に合っていたのでしょう。

 

 

そんなに奇麗でもなく、とりたてておいしいわけでもないのに、つい足が向いてしまう飲み屋があります。なぜか、そこにいると居心地がいい。その理由のひとつには、そこに集まっているお客さんたちの特性にあると思います。自分にとって、感じのいい人たちが集まっているのです。でも、その店へ来ない人からみたら、そうではないかもしれません。そう感じて足が遠のく店もありますね。

 

結果としてそういうお客さんを選んでいるのは、店主です。店主の個性が出ていて、それに知らず知らずのうちに共鳴する人が集まるようになっているのでしょう。居心地とはそういうものだと思います。19世紀のパリのcaféもきっとそうだったのでしょう。

 

 

フラダンス教室も飲み屋もカフェも、先生や店主の個性が客を集め、集まった個人個人がまた集団の個性(あるいは価値観)を形作っていく。ただし、メンバーは常に一定割合で入れ替わっているから、排他的にはならない。

 

強い組織は、そういう特徴があるのかもしれません。となると、やはりリーダー次第ということなのでしょうか?

つい最近、ある友人がアメリカでIBMのマーケティング部門トップとお話しする機会があったそうです。そのトップは、広報出身者でした。一般的には、広告・宣伝や営業で実績を上げた方が、トップになることが多いのですが、あえて広報出身。友人がそのことを尋ねると、そこにIBMの経営スタンスが表れているとのことだったそうです。

 

従来は、製品やサービスの機能やブランドイメージを顧客に伝え購入する気にさせる、その仕掛けを考えるのがマーケティングだったはずです。

 

ところが、現在ではIBMという企業そのものを顧客や社会へ伝えることが、最大のマーケティングだと考えているようです。

 

製品・サービスもブランドも企業活動の結果にしか過ぎません。結果は、調べれば誰でもわかります。大事なのは、結果を生みだす原因のほうなのです。どんなに美しい製品を販売していても、それを生みだす企業がBlackだとしたら、いずれその製品の化けの皮が剥がれるといことを、一般消費者が気づいてしまっているのでしょう。

 

つまり、顧客にとっては、「何を売っているの?」よりも「あなたは何者なんですか?」の方が、大切な問いとなっているというわけです。

 

これは、化粧で飾れず、素顔で勝負しなければならないということです。素顔を美しく保ち、かつ素顔をできるだけたくさん見てもらう活動がマーケティングだと解釈できます。

 

販促ツールの一つとして、地球環境保護活動を訴えるような活動ではだめです。エコという化粧に過ぎないことは、簡単に情報収集できる現代においては、すぐにばれます。逆効果でしょう。

 

 

企業そのもの、ひいては社員ひとりひとりが顧客にさらされているということなのです。企業が社会的存在であるのであれば、それも自然なことに思えます。社会にとって好ましい経営思想や哲学を持つ企業が生き残っていくという、適切な淘汰が始まりつつあるのかもしれません。

土曜日、目黒区美術館に「文化資源としての<炭鉱>展」を観てきました。事前の評判もよく、炭鉱には何となく興味があったので、是非観たいと思った企画です。

山本.jpg 

美術と炭鉱がどうつながるかは、観てのお楽しみですが、炭鉱が文化資源だという視点がまずユニークです。最近は、産業遺産という言葉は一般的になりました。富岡製糸工場が有名ですね。軍艦島も、最近の人気スポットです。旧産業の廃墟を歴史資産として見直そうというものでしょう。

 

産業は、当たり前ですが多くの人間により成り立っています。その人間の営みに注目したのが「文化資源」という言葉だと思います。そして、さらにその「資源」から、これからも文化や芸術が生まれてくるのだと位置づけているのです。

ブラス.jpg十年くらい前から、イギリスから「フルモンティ」「ブラス」「リトルダンサー」という衰退する炭鉱を背景にした優れた映画が生まれました。日本でも、「フラガール」のヒットは記憶に新しいところです。

 

一つの大きな産業が衰退、消滅するということは、ものすごいことです。そこから、文化もう生まれずにはいられないのです。

 

 

さて、私が愛知県の小学生の頃、九州から多くの転校生が来ました。彼らの親は炭鉱で働いていたのですが、閉山となったので、当時盛況の繊維業での働き口を求めて、多くの家族が移ってきていたのです。

 

言葉の違いはすぐに慣れましたが、何となく習慣が異なるような気がしたものです。(鶏を絞めて食べたのには驚きました)

 

やがて、繊維業も輸入品に押され衰退していきました。しかし、幸いなことに、トヨタという地元優良企業が余った雇用を吸収したのです。

 

 

このような産業の盛衰は、否応のないものです。問題は、いかに席を譲るべき産業をスムーズに安楽死させるかだと思います。最近の状況は、延命策ばかりを弄して、適切で配慮の行き届いた安楽死を促しているようには思えません。

 

でも、それが政府の役割でしょう。自動車産業が、炭鉱や繊維業のようになった時、その影響はそれらを大きく上回るでしょう。自動車産業がどうなるかはわかりませんが、準備は必要でしょう。(デトロイトを見るまでもなく)

 

一つの産業が衰退し消滅するということは、独自の文化を生み出すほど、人々の大きな影響を与えるのですから。

昨晩、アカデミーヒルズで「アダットシリーズ ハーバードケースメソッドで学ぶ経営戦略」を開講しました。この師走の忙しい時期にもかかわらず、27名の参加がありました。ありがたいことです。

 

テキサス大学のビジネススクールで教えている清水勝彦准教授に講師を担当していただきました。普段は英語でやっているので、多少日本語の単語が出てきづらいこともありましたが、流石に素晴らしいスピード感と的確なリードで、受講者の積極的な発言を引き出し、2時間半はあっという間に過ぎてしまいました。ほとんどの方は、今回が初めてのケース・メソッドで、しかも一回きりなので当初は不安だったのですが杞憂でした。

 

終了後ある受講者が、「面白かったが、なんかもやもや感がありすっきりしない」と感想を述べておられました。当然の感想だと思います。私もビジネススクールで初めてケースに触れた頃、同じような感想を持ちました。経営だから正解がないのはわかるけど、じゃあ何を学べばいいの?という感想だったと思います。

 

それまでの学校教育では、すべて正解があったのです。それがいきなり、最後まで正解がなく、頭の中が広がったまま終わってしまって、気持ち悪いのです。

 

でも、その気持ち悪さが大切なのです。もし、正解を教えてもらって、すっきりして帰れば、それで終わり。何も頭に残りません。すぐ忘れるでしょう。他に覚えるべきことはたくさんあるのですから。

 

もやもやしているから、ずっと考え続けるのです。考え続けること自体が学習であり、筋肉トレーニングと同じなのです。それに納得するのに、私も結構な時間がかかりました。

 

 

それから、ある受講者が、こんな感想をおしゃっていました。

 

「ケーススタディに対して、一般的に言われる『過去の事例を扱っても・・』とか『机上の空論では・・』という意見が当てはまらないということが、身をもって体験できたので大変有意義でした。」

 

一人でもこう言っていただけると、やった甲斐があったというものです。

舞台を制作するプロデューサーという仕事は、一般の人からはよく見えませんが、ものすごく難しく、かつエキサイティングな仕事のようです。本書の著者は、劇団夢の遊眠社の営業マネジメントを経て、現在自らが社長を務めるシス・カンパニーを創業した北村明子さんです。

 

興行という水もの商売を、俳優や脚本家という個性も自己主張も強い人々を束ねて、芸術性とビジネスを両立させるという超複雑な役割です。

 

研修講師も、ある意味で俳優や脚本家のような役割で、そういう方々とずっと一緒に仕事をしてきた身には、とても沁みる言葉に溢れていました。少しだけ、ピックアップします。

    相手の心証を気にして中途半端な話をするよりも、本気で思っている内容を伝えたほうが、相手に対して誠実です。

    企画には、人間そのものが表れます。どういうものをやりたいかで、プロデューサーの人間性が出るのです。

    プレゼンはお芝居そのもの。ある目的と感情を込めてせりふを投げ、相手の役者がそれを受けてまたせりふを返す、相手の表情や体の動きの変化を見て、こちらも臨機応変に返すのがうまい役者です。相手が反応しやすいように返せるかどうかも腕の見せ所。企画書は台本として大切ですが、そこに書かれた言葉に命を吹き込むのは言葉のリレーをしている人間どうし。

    「お友だち」と一緒に仕事をすると、立場の違いが出た時に人情が邪魔して言うべきことが言えなくなってしまう。見るべきものも見えなくなってしまう。

    人との関係は大切にしますが、人を脈という中に組み込んだことは一度もありません。(中略)もちろん仕事に戦略と計算は必要ですが、「人脈」という言葉には、計算ばかりが感じられます。(中略)人を動かしていくのは、つまるところ。誠意と熱意しかありません。それは、どこの世界でも同じだと思います。

    執着と熱意は別のものだと思います。執着をなくせば、発想の転換を余儀なくされるので、新しい可能性も見出せます。

    スタート地点でまず、「私が観たいお芝居」のイメージがあり、そこに目利きとしてのプラスアルファの要素が加わり、今の私がいると思うのです。

 

さらに、興味深かったのは、井上ひさし氏によるあとがきです。彼は、難しいプロデューサーの仕事を以下のように例えています。

    精力的な読書家

    優れた哲学者や社会学者

    慎ましい扇動家

    実務家

    会計士

    治療を嫌がる病人にさっと注射針を刺す老練の看護師か、教会の神父さん

    広告代理店の社長

    最後に、劇場に集う全ての者の母

 

さすが、言い得て妙!

演劇の世界に、ビジネスの世界も徐々に近づいていることを実感します。

だから演劇は面白い! (小学館101新書 50)
4098250500

先週の金曜、東大中原准教授が主宰するLearning barで、三井物産株式会社人事総務部の渡辺雅也さんの「組織文化を変える ~経営理念の浸透~」というお話しをうかがいました。同社が、2002年国後事件や2004DPF問題といった発端とした危機に、組織の面からどのように立ち向かったかという、非常に興味深いお話しでした。

 

一言でいえば、社員ひとりひとりが自分にとっての「良い仕事」を見つめ直そうという運動でした。

 

タイトルこそ経営理念の「浸透」ですが、私は「活性化」のほうが相応しいと感じました。浸透には上から下へ徐々に伝達するというイメージがあります。創業者や経営者が、理念を忘れてしまった社員たちに、あらためて教育しようというスタンスが垣間見えます。そのために、社長講話を開催し、またカードを配りポスターを至るところに掲示する。一方、「活性化」とは、本来組織や個人が持っていた能力を、顕在化させる、あるいは呼び起こすことです。

 

 

いずれにしろ、理念が社員ひとりひとりのものになっていないのが、現象としての問題でしょう。まずは、それに対処しなければなりません。

 

その場合の浸透策とは、上から目線による「教育」です。言いかるならば「躾け」です。その効果は、現代の組織においては疑わしいでしょう。

 

私は、「教育」ではなく「ラーニング」をベースにするべきだと思います。教育や躾けが外から与えられるものに対して、ラーニングは内面の変化です。経営理念であれば、内面が何らかの変化しなければ、形骸化することは明らかです。

 

企業としてできることは、内面の変化を促す仕掛けや場を提供することだけでしょう。つまり、ラーニングの促進策です。

 

評価制度に経営理念をリンクさせるという、間接的に個人に働きかけるハードアプローチもありますが、あくまで間接的に過ぎません。ひとの表面的な行動は変わるかもしれませんが、意識はなかなか変えられません。

 

 

三井物産では、徹底的に個人に直接働きかける方法にこだわり、全社員が「良い仕事」を考えるワークショップに参加したそうです。そして、その前提には経営陣のフルコミットがありました。

 

 

今回の事例からわかったことは、組織として望ましい方向へ、個人のラーニングを促すには、適切な「問い」を立てることが重要だということです。「良い仕事」という問いは、下記の条件を満たしています。

 

    誰もが経験に基づき、一人称で語ることができる(うちの会社、うちの部ではなく)

    いろいろな解釈ができ、自分自身で考えることができるだけの曖昧さがある(正論だけですまない)

    社員皆が同じ目線で対話でき、その後共通言語化しうる(立場や業務の違いを超えられる)

 

当社で行ったことは、以下のようにまとめられると思います。まさに、Learning engineeringの実例です。

適切な問い→適切な対話→内省→内面の変化→行動の変化

 

トップのコミットのもとで、本気で企業がこのようにラーニングを促進させるバックアップをしたら、不可能なことはないと思います。(ちょっと楽観的かもしれませんが)

 

説明責任と効果測定

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事業仕分けは、政府の予算策定プロセスを透明にした点で、批判はたくさんあるとは思いますが、画期的なことだったと思います。

 

一方、予算削減に反対して気勢を上げたノーベル賞受賞者や、オリンピックメダリストたちは、残念ながら逆効果だったのではないでしょうか。科 仕分け.jpg学やスポーツが国家にとって大事であるとしか言っておらず、かえって「本当にそうなの?他の使い道に比べて、なぜ大事なのかわかるように説明してよ。」という疑問に答えられていなかったからです。それが、彼らの反論は内輪の論理にしか過ぎないと印象を与えたのではないでしょうか。つまり、説明責任を果たしていない。

 

 

ところで、今朝の日経に、GEの人材育成に関する記事がありました。その中で、GE人材教育担当副社長が、金融危機後の方針についてこう言っています。

 

「(人材育成に対する)イメルト氏の姿勢、予算は変わらない。経営陣は幹部教育を時間と金をかけるに値する投資と捉えている。教育の予算を正当化したり、投資効果を考えるより、教育の中身を考える。」

 

米国企業の中でもGEは、投資対効果にシビアなことは間違いありません。でも、もはや人材育成は、投資対効果を云々する段階を超えているのでしょう。それに比べ、多くの日本企業は、「人材育成の費用対効果はどんなんだ」、「効果測定はできているのか」などと、こと教育投資に関しては緻密な議論を好むことがあります。まるで、教育投資をしない言い訳を探しているように見えることもあります。これは一体なぜなんでしょうか?

 

透明性と説明能力に原因があると思います。先の事業仕分けの例でいえば、予算を使用する側も、配分する側も、透明性も説明責任も果たしてこなかった。だから、国民は疑心暗鬼となり、投資効果を激しく求める。

 

日本企業の教育投資も、経営陣や社員に対してはたしてどれだけ透明性を持って説明責任を果たしてきたか、よく考えてみる必要がありそうです。人材開発部門が、経営陣へその施策の重要性や価値を、どれだけ彼らが納得するような形で説明してきたでしょうか。また研修を受ける社員や彼らの上司に、どれだけ何としても受講したいと思わせるだけのプログラムを用意し、かつそれを伝えてきたでしょうか。

 

それらが不十分であれば、事業仕分けと同じように、結局費用対効果を定量的に示せ、ということにならざるを得ないのではないでしょうか。本当に重要だと、経営陣も社員も納得できたら、末梢の議論などに時間を割かないはずです。

 

 

早くGEのように「大人の集団」となり、競争力強化のために議論に集中したいものです。

有名な中古車市場の例です。販売会社は、売り物の中古車の性能や履歴を把握していますが、買い手は情報を持っていません。すると、買い手はどんなポンコツを掴まされるか分かったものではないので、出来るだけ安く買おうとします。

 

販売会社が、これは高品質なんだといくら説明しても、疑いははれません。その結果、低品質の中古車のものに収れんしていってしまいます。そうなると、高品質の中古車は、市場に出回りにくくなり、結局市場は破たんします。これが、情報の非対称性の問題です。

 

もし、ほとんどの販売会社と買い手が長期的取引で成果をあげているのであれば、大きな問題にはなりません。しかし、市場が急成長しているような時期であれば、hit & awayの悪徳販売会社も生き残るチャンスがあるわけです。

 

 

その対策には、シグナリングとスクリーニングがあります。研修講師と研修を実施する企業の関係で考えてみましょう。

 

    シグナリング(情報優位者による)

講師はもちろん自分の実力を把握しています。一方、初めて依頼することを検討する企業は、講師の実力の情報を持っていません。優秀な講師は、ポンコツ中古車と一緒ではないとの情報を提示しなければなりません。本来、そのような場合に有効なのは、資格制度です。大学教員も、研修講師も、日本では資格制度はありません。多くの他の業界では、業界団体や一部の目端の効く人が認定制度を自主的に制定し、運営しています。が、その信憑性は、?のものも多いようです。

 

そこで、reputation(名声/評判)を頼ることになります。過去の顧客リストや、著作物などを提示します。かつては、著作を持つことはそれなりの名声になったようですが、現在では、出版社によってはお金次第です。なので、講師が良いシグナルを発するのは決して容易ではありません。結局、講師の属する研修ベンダーのreputationに依存することも多いようです。

 

そこには、モラルハザードが生まれる余地があります。つまり、講師にとって、研修ベンダーのreputationがあるのだから、それほど一所懸命に準備しなくてもなんとかなるとの甘えが発生する可能性です。それを防ぐには、研修ベンダーの厳しいチェックとフィードバックが欠かせません。ただ、それには多大な手間と評価者の高い能力が必要で、非常にコストがかかります。(受講者アンケートは、一側面しか評価されません)なかなか、難しい問題です。

 

●スクリーニング(情報劣位者による)

企業側は、面談や講師にデモを実施してもらってテストすることができます。あるいは、研修の目的やゴールイメージ、受講者の特性などの詳細情報を提示し、それに対してどのようなアプローチを講師が取ろうとするかを提案させることができます。提案内容をみれば、その講師がどの程度のレベルなのか、またどの程度コミットしてくれそうか、などの情報を入手することができるでしょう。つまり、情報開示させる機会を用意するわけです。

一見、良さそうな解決策ですが、これも容易ではありません。企業側が、まず適切な情報(企画内容等)を講師に提示できるか、また講師の提案やデモを正しく評価できるか。もしそれらができなければ、「優秀な講師」はその提案やデモという手間をかけようと思わなくなってしまう可能性もあります。つまり、評価する側の能力が問われるわけです。

 

 

このように、情報の非対称性は、なかなか手ごわい問題です。でも、そこのソリューションを見つけ出していかなければ、市場はいびつになり、いつまでたってもあやしい業界と見なさ続けることになるでしょう。

日経朝刊の「やさしい経済学―日本の『長い近代化』と市場経済」(by東京大学中林真幸准教授)が面白いです。

 

明治・大正期に日本の輸出を支えた製糸業は、女工哀史で有名ですが、実は現在の経営に通じる多くの革新がなされていました。そこに、今の経営問題へのヒントもたくさんありそうです。

  富岡製紙工場.jpg 

昨日の稿によると、糸の品質を向上させ、輸出競争力を高めるために、全量検査を取り入れました。それはすなわち、女工の能力を計測することにつながります。生産性を上げるために、徹底した成果主義が採用されました。生産性が高いものは、男性監督官よりはるかに高い賃金が支払われました。それが全体的な品質と生産性の向上につながり、全体の賃金水準も向上したのです。

 

ここでの示唆は、成果主義を採用するには、成果測定に費やすコストと人件費総額の増加を前提にしなければならないということです。バブル崩壊以降に広まった日本企業の成果主義とは、成果測定をあいまいにし、また総額人件費の増加は覚悟していなかったでしょう。逆に総額を抑えるための成果主義と判断されても仕方のない運用だったと思います。その揺り戻しが、現在来ているのです。形だけ真似ても魂が入っていない典型と言えるでしょう。

 

今日の稿には、当時家事という個別スキルしか持てなかった女性が、上記のような成果主義の職場を獲得することにより、「亭主持ちの窮屈」を「忍ぶ」よりも、「自働自営」の「気楽」を選ぶようになったとあります(「信濃毎日新聞」1893826日号より)。100年以上も前の記事です!!

 

また、女性をサラリーマンと読むこともできそうです。これまで終身雇用先企業における個別スキルのみを磨いてきた社員が、市場で評価される普遍スキルの獲得を目指し、労働市場へ参入する。これは、歴史的な流れの一部なのでしょう。ただ、女性の「婚活ブーム」は、その流れに逆行しているように思えますが・・・。

 

日本の企業や社会の特殊性を必要以上に言い訳にする論調がありますが、歴史を紐解いてみると、必ずしもそうではないと発見することがあります。特殊なのではなく、それを隠れ蓑にして、徹底した合理的経営がなされてこなかったのかもしれません。短期的には不合理に見えても、長期的には合理性に適うことはたくさんあります。時間軸を考慮した上での合理性の追求が、今あらためて求められているのだと思います。

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