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独立系エコノミストの中前忠氏の独自の視点での経済評論には、これまで注目していました。たまたま新著を本屋で見つけたので早速読みました。今年123日の発売でしたが、これまで全然その存在を知りませんでした。それほど注目されていないということなんでしょうが、残念です。

 

緻密なデータ分析に基づく洞察は、これまで同様非常に納得感のあるものでした。簡単にその主張をまとめれば、以下です。

 

1980年代のレーガノミクス以降、先進国は企業を家計より優先してきた。それは1970年代の強すぎる労働組合賃上げ圧力や戦後の福祉政策の追求への反動だった。また、トリクルダウンすれば家計も潤うとの前提を置いていた。しかし40年ちかく経過し、その副作用が顕著になってきた。トリクルダウンは起きなかった。そして富める企業と窮乏化する家計との格差拡大。その結果、トランプ政権やBrexitに代表されるようなポピュリズムが世界を覆う。少し遅れた日本でも、バブル崩壊後に企業ファーストの傾向が強まり、他の先進国の後を追い続けた。

 

それらに対応するには、企業ファーストから家計ファーストへの転換である。日本での具体策として、

 ・消費税の廃止と企業への増税

 ・貯蓄金利の引き上げ

 ・円高の促進

 ・産業構造転換に対応するための職業再訓練の制度化

などを挙げています。

 

ところで数多くのデータの中で、私の目を引いたのは1997年以降減少する家計所得(309兆円→268兆円)の内訳です。日本が米国やドイツと比較して、極端に異なるのは、(給与所得に比べて)自営業者所得の比率が急激に減少している点です。三ヵ国で1980年と2016年を比較してみます。

 ・日本:13.7% 3.0%

 ・米国:9.8%10.3%

 ・ドイツ:11.4%(95) 8.3%

日本は農家の減少が影響していると思われますが、それにしてもこの差は大きい。日本が、どんどんサラリーマン社会化していることが分かります。確かに目立つところでは、代表的自営業だった喫茶店も飲食店も、現在独立系の店を探すのは困難で、ほとんどチェーン店です。酒屋や米屋もコンビニに転換しています。

 

大学生の数が増え、その卒業生はほとんどサラリーマンになっていく。マスコミの論調では、ベンチャーが急増しているようにも感じますが、一部の成功事例を華々しく採り上げているだけで、サラリーマン社会化の進展は進む一方。

 

自営業者の一人当たり所得をみるともっと衝撃的です。2000年を100として指数をみます。

 ・日本:78.3

 ・米国:181.9

 ・ドイツ:114.6

日本では儲からないから廃業し、また新しく起業する人も減っていく。しかし、なぜ日本だけがこんなに顕著なのか。

 

国の活力は、こういうところに表れてくると思います。ボディーブローのように、これからも国力を削ぐ。

 

日本の社会も経済も、いびつな姿に一直線で変わりつつあるようです。その流れを変えるには、さらなる金融緩和や消費税引き上げではなく、家計ファーストの方針に基づく政策転換だと、本書を読んで強く思いました。

最近最も注目されるM&A交渉は、富士フィルムによるゼロックスの買収案件でしょう。当初はすんなりいくかと思いきや、ゼロックスの大株主アイカーン氏の反対でこじれてきています。友好的なMAだったはずが、敵対的なM&Aになりつつあるという状況。

 

今後どうなるかは予断を許しませんが、富士ゼロックスの存在がキーになることでしょう。富士ゼロックスは1962年、富士フィルムとランク・ゼロックスの50%ずつのJVとして設立されました。当初は、ゼロックス製品をアジアで販売する販社でした。しかし、徐々にキヤノンなど競合日本メーカーが現れ、日本市場に適応した製品が求められるようになり、富士ゼロックスも生産機能に加え、製品開発機能も備えるようになっていきました。

 

富士ゼロックスの商圏はアジア地域に限定されているため、アメリカやEUの市場では販売できません。しかし、ゼロックス本体の製品では欧米市場ニーズに応えることが難しくなり、ゼロックスは富士ゼロックスから製品の提供を受けて欧米市場に販売していくようになります。

 

徐々にゼロックスの経営は厳しくなり、2001年ゼロックスは所有する富士ゼロックスの株の25%分を富士フィルムに売却します。これで、富士ゼロックスの株式は、75%を富士フィルムが、25%をゼロックスが保有となりました。

 

そしていよいよ今回の一連のM&A騒動は、名門ゼロックスを富士フィルムが完全買収する計画です。交渉決裂した場合、ゼロックスと富士ゼロックスとの契約が解除され、袂を分かつ可能性もあります。

 

問題はゼロックスが富士フィルムとの関係を断って、単独で生き残れるかどうかです。ゼロックスは富士ゼロックスから製品を入手できないならば、と競合であるコニカミノルタやリコーに納入の打診をしたが断られたとの報道もあります。断られるのは当然でしょう。

 

一方、富士フィルムは、これまで販売できなかった欧米市場に富士フィルムのチャネルを使って、富士ゼロックス製品を販売できると豪語しています。ゼロックスはアジア市場にチャネルを持たないだろう、と添えながら。複写機はフィールドサービスが重要なので、容易には新規市場には参入できません。

 

ここまで富士フィルムが強きに出られるのは、相対的に強力な製品を持つ富士ゼロックスの株式を75%押さえているからですが、そもそも富士ゼロックスが単なる販社から組織能力を高めて、現在のメーカーとしての競争力を獲得したことが極めて大きい。さらに、JV設立時には市場として魅力が小さかったアジア市場が急成長し、一方でその反対に欧米市場は縮小を続けるという逆転現象。遅れたアジア市場を割り振られた富士ゼロックスにとっては、怪我の功名でしょう。

 

しかし、なぜ富士ゼロックスはいわば師匠を超えるような組織能力を獲得できたのか、ずっと不思議でした。そこには、日本の製造業が磨いてきた「現場発の経営革新」の存在があったと、本書を読んで知りました。QCとか現場主義といえばトヨタですが、他にもその能力を磨いてきた企業があった。

 

本書「現場主義を貫いた富士ゼロックスの『経営革新』」は、日本企業が強かった秘密を、具体的に教えてくれる名著だと思います。過去形を現在形にするための、ヒントがたくさんあります。

現場主義を貫いた富士ゼロックスの"経営革新"―品質管理、品質工学、信頼性工学、IEの実践論―
土屋 元彦
4526078549

日経ビジネスに連載されているときから熟読していた野地秩嘉著「トヨタ物語」の単行本を、読みました。力作です。著書はトヨタ公認のもと7年間に渡って取材を続けたそうです。OBや作業者の声がたくさん盛り込まれており、非常にリアリティがあります。

 

トヨタ生産方式の本質、どのように出来上がったのか、なぜ可能だったのか、がよく理解できます。


ケンタッキー工場(トヨタ初の海外単独工場)立上げ当初、ラインを15時間止めた米国人現場リーダーは、翌朝張工場長のところに出向くよう指示されます。クビになると思い一睡もできなかった。翌朝張さんのオフィスへ。(ここから引用)

 

「ラインが止まったこと、私がした処置について、いろいろ聞かれました。

話が終わり、いよいよ解雇を宣告されるのだなと思った瞬間、彼は私の手を強く握って、そうして、頭を下げるのです。

『ポールさん、うちの工場はできたばかりで大変な時期です。15時間、つらかったでしょうね。おかげさまで復旧しました。ありがとう。これからもあなたたちにはずっと助けてもらわなくてはなりません』

私は思わず泣いてしまいました。」(中略)

「トヨタ生産方式とは考える人間を作るシステムです。」と付け足した。

「考えることを楽しいと思う作業者には向いている。現場でカイゼンできることはアメリカの作業者にはなかった経験だからだ。ただし、時間を切り売りするだけの作業者には適応できないだろう。これまでの生産方式は、人間に考えなくてもいい、手や身体を動かしておけばいいというシステムでした。しかし、オーノさんは考えて仕事をしろと言ったわけです。それがこのシステムの特徴です」

 

プロローグに書かれた、このアメリカ人作業者(1988年のケンタッキー工場操業開始時から働き続けている定年間近の60歳)の発言に、本質が語られていると思います。

 

トヨタは、戦後アメリカのビッグ3が日本市場に本格参入したら潰れると本気で危機感を抱いていました。だから、ビッグ3に対して極小のトヨタが生き残るために、必死で様々な工夫をしてきました。そのひとつが、このトヨタ生産方式。物量でも資金力でも規模でも圧倒的に劣るトヨタが生き残るには、人の知恵を最大限引き出すしかないと考えたのです。

 

そうして一定の成功を収めたトヨタですが、そのやり方を果たして本場であるアメリカや他の国々に移植できるか、大きな賭けだったことでしょう。経営学の理論でいえば、現地のやり方に適応するほうが賢明だったかもしれません。しかし。トヨタ生産方式の本質にある人間観は、世界共通だと考えたのでしょう。あえて適応しない道を選びました。NUMMI最初のトップだった池渕氏はこう語っています。

「人間は自由度を与えると、仕事をしたくなるんですよ。トヨタ生産方式は強制ではなく、自由を与えるものです。だから生産性が向上したんですよ。」

 

トヨタ生産方式は革命だと言われますが、本当にそうだと思います。トヨタ以外に、世界に通用するモデルを築いた日本企業はあるでしょうか。他にはセブンイレブンくらいしか思い浮かびません。オリジナルなやり方で国内で成功を収めても、海外では現地に適応してしまうケースが多いのではないでしょうか。経営陣のリーダーシップの問題なのかもしれません。トヨタやセブンに続く日本発の真の改革者が登場することを期待します。


トヨタ物語
野地秩嘉
B0797PKLQF

総選挙報道を見ていると、日本政治も来るところまできたかと嘆息してしまいます。国会議員の多くは国家よりも自分が大事と考えていることが、毎日明るみに出ています。ただ、国会議員を嘆くことは、国民を嘆くこととほぼ同義。日本国民は、みみっちくて気の短い自分のこと目先のことしか考えていない人々の集団なのでしょうか。私もその一人であることを認めざるを得ません。

 

熟議がもともと苦手。他人の意見にすぐ左右される。問題があれば、手っ取り早くすぐに解決する結論が欲しくてたまらない。未解決の状況に耐えられない。

(本質的に解決されなくても、「XXX会議」「YYY革命」というものを立ちあげれば解決した気になる)

 

企業研修の場面でもしばしばみられる光景です。「で、答えはなんですか?」経営に正解はないと何度言っても、「じゃあ、先生の考える結論を教えてください。」問題を最短時間で解くことを求められたこれまでの人生、いきなり正解はないと言われても困ってしまう。とりあえず、すっきりすればそれで満足。

 

ここで受講者が望むような速最短で問題解決できる能力を、「ポジティブ・ケイパビリティ」といいます。特に近年、この能力開発に焦点があてられています。

 

それに対する「ネガティブ・ケイパビリティ」とは何でしょうか?本書によると、

不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ、不思議さや疑いの中にいられる能力。

 

以前私は「知的強靭さ」と表現しましたが、似ています。

 

手っ取り早い結論にすぐ飛びついて自分の心理的不安定さを解消するのではなく、そこを耐え、立ち止まってより本質を追求しようとすることができる能力です。この力によって、詩人キーツは本質に近づくことができたのですし、著者は精神科医として患者に向き合うことができたのだそうです。

 

道端に咲く花を見ても何も感じない人もいれば、その花の美しさに感動し詩や絵画で表現できる芸術家もいる。その病気を治癒することができないとわかって受診を拒否する医者もいれば、患者に共感し寄り添い続けることでいい影響を与えることのできる医者もいる。

 

人の判断は、ほとんどが過去の経験や知識に基づきます。つまり自分の持つ小さなフィルターを通してしかものを見て、そして判断せざるを得ません。そして結論を急げば急ぐほど、そのフィルターは小さくなりものが見えなくなります。問題も単純化せざるを得ない。短期的にはそれでもいい。(コンサルタントはその道のプロです)

 

しかし、人間が生きていくということは、単に問題を次々に解決し続けることではない。問題に直面したときに安易に判断せず、場合によっては問題と共存し時間を経ることで適応していくことも大切です。そこで必要なのがネガティブ・ケイパビリティです。

 

不確かさの中で、それから逃れることとは違います。かつてバブル崩壊直後、銀行の不良債権が積み上がっても、いずれ地価は上昇するだろうと高をくくって手を打たなかった銀行。これは、不確かさから逃れる態度です。一方、不確かさや曖昧さに正面から向き合うということは、心理的にはダメージがあるとしても地道に不良債権処理を進めることです。前者は、本当に地価が再上昇すると予測したのではなく、不良債権処理という後ろ向きな仕事をしたくないと思うが故の、希望的観測に基づいていたのは明らかです。それよりも、勇気を持って問題を正面から受け止め向き合うことが、適切な道であったことは歴史が証明しています。

 

これからますます不確実性が高まる世の中になっていきます。過去の知識に基づくポジティブ・ケイパビリティ―の威力はどんどん低下していく一方で、ネガティブ・ケイパビリティの必要性は高まる。

 

ネガティブ・ケイパビリティは、寛容とも近い概念です。拙速に敵味方、善悪、損得を判断し選別することの正反対です。たとえ異なる意見であっても、熟議し共通点を見つけて歩み寄る、それこそが「日本的美徳」だったのではないでしょうか。不寛容は日本だけでなく、世界中に渦巻いています。溜息がでます。

4022630582ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)
帚木蓬生
朝日新聞出版 2017-04-10

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どんなに論理的思考力が高い人であっても、インプットする情報にバイアスがかかったりしていたら、アウトプットの精度は当然落ちます。そして、バイアスを完全に回避できる人間など存在しないと思っておいたほうがいいでしょう。

 

あらためてそれを思い出させてくれる出来事がありました。先週末、年に一回の能の発表会を彦根城御殿内の能楽堂で行ってきました。1800年に造られた井伊直弼も立ったであろう能舞台に立てる貴重な経験をさせていただきました。終了後は大津のホテルに移動し、打ち上げとなった次第ですが、そこでの出来事です。

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参加者は彦根城から衣装の入ったスーツケースなどをマイクロバスの下部に格納し、バスで移動したわけですが、ホテル到着後スーツケースの取違いが発生したのです。Aさんは自分のケースを誰かに間違って持っていかれたと添乗員に届けました。バスからの荷下ろし時最後に残ったスーツケースは自分のスーツケースによく似ているが微妙に色の異なる別物で、しかもロックがかかっており開かない。自分はいつもロックはしないので、誰かが取り違えて自分のを持っていったのではないか、と。

 

いったん各部屋に分かれた後、全員が宴会場に集まったところで、添乗員がみなにスースケースを取違えた方がいるようですが、どなたか心当たりのある方はいませんかと尋ねました。さらに、まだ自分の荷物を開けていない方いませんかと問うても反応はありません。参加者全員が揃い、全員分の荷物がバスから降ろされ参加者の手に渡ったにも関わらず、間違えたという人がいない。謎に包まれ、皆勝手に様々な想像をめぐらし仮説を出しあったのですが、結論は出ません。

 

そんな混乱状態のなか、ある方がそのロックされたスーツケースの鍵部分をいじったところケースは突然開きました。実はロックされていなかったのです。Aさんに中味を確認してもらったところ、それは自分の荷物だとのこと。一件落着。鍵はかかっていなかったのにもかかわらずかかっていると思い込み、さらにはだから自分の物ではないと思い込み、色が微妙に異なるとまで思い込んでしまったのです。

 

ちなみに、Aさんは決して私のようなそそっかしい方ではなく、それどころか普段沈着冷静だと皆から見なされている方でした。そんな方でも情報インプット時になんらかのバイアスがかかってしまったのは、驚きでした。

 

バイアスに留まらず、情報インプット能力すなわち観察力は人によって極めてばらつきの大きな能力だと思います。私は子供の頃、シャーロックホームズの小説が大好きでした。特に話の冒頭の、ホームズの事務所を初めて訪れた依頼人に対して、ホームズが次々に依頼人に関する知るはずもない属性や状況などを指摘していく場面に感心したものです。ホームズの観察力、洞察力ってすごい!、と。

 

ホームズのような人間はいないから小説になるのであって、我々一般人はあまりに観察ができていない。その理由は、人間はパターン認識することで認知エネルギーを節約するようにできているからです。

 

例えば、ツルツルの坊主頭にサングラスをかけたスーツ姿の体格のいい男性を見たら、その筋の方だとつい視線を逸らしませんか?そのようなパターン認識で、いちいちいろいろな可能性を模索しながら、見つめ続けることのリスクとエネルギー消費を回避している。その方が賢いのです。

 

勿論弊害もあります。私は古い陶磁器が好きです。初めて目に触れたとき、ついこれは唐津かとか、いつの時代のものだろうか、いくらくらいなのかと考えてしまいます。また、美術館で絵を観るとき、ついタイトルや解説文を先に目をやってしまうことがあります。既存のパターンにあてはめて理解することで、認知エネルギーは節約できるのですが、その代わりに自分自身にとっての本当の価値を測れなくしている気もします。効率的ではありますが、既存パターンというフィルターを通してしか観察ができない。ホームズは、既存パターンにはとらわれず徹底的に観察し洞察する。

 

この既存パターンに囚われず徹底的に観察し、最後は既存の物差しではなく自分の中の評価軸(美意識)で判断する、こういった能力こそが現在の経営に最も求められているのだと確信しています。

 

フッサールの現象学に「エポケー」という概念があります。判断を一次停止するという意味です。既存パターンによる思い込みを回避するには、あえてエポケーする態度がますます重要になってきます。経営とは差別化することであり、差別化とは常識とは異なる切り口を発見し提示することです。


たまたま手に取った、「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか?」(山口周著)にも同じようなことが書かれており、膝を打ちながら読み続けました。読書の喜びは、こういったところにもありますね。


4334039960世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」 (光文社新書)
山口 周
光文社 2017-07-19

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4295000922ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも 行き詰まりを感じているなら、 不便をとり入れてみてはどうですか? ~不便益という発想(しごとのわ)
川上浩司
インプレス 2017-03-16

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私が稽古に通う矢来能楽堂のトイレ(大の方)には、こんな張り紙がしてあります。「このトイレは自動ではないので、必ず流して下さい。」

 

近頃のトイレは立ち上がると同時に自動で流してくれるので、それに慣れた方がつい手動で流さずに、そのまま立ち去ってしまう事故が頻発したからなのでしょう。私のオフィスのトイレもその機能がついていますが、勝手に流されることに反発して、その機能をオフにしました。なんとなく、主体性を否定されたような気がしたのです。

 

これは便利な機能が必ずしも益ではなく、不益にさせる例だと思います。便利=益とはいえないこともあり、逆に言えば不便=益ということもありえます。それを扱ったのが本書です。(不・便益ではなく、不便・益です、念のため)

 

こういった発想は楽しいですし、役に立ちます。ついつい、楽(らく)=便利=益ということを前提に暮らしや仕事をしていますが、本当にそうか?と疑うことは大事ですね。

 

本書にも記載ありますが、自動車のナビ、これは本当に便利ですが、おかげで道を覚えなくなってしまいました。かつてナビがなかった頃は、知らない土地では地図を片手にいろいろ考えイメージしながら運転していたので、一度通った道はしっかり頭に刻まれたものです。今では、何度通っても、ナビなしでは不安です。

 

機械による人間の能力の拡張機能は、便利ではありますが、それへの依存を高め、人間本来が持っている能力を低下させてしまいます。PCのおかげで漢字が書けなくなったのも同じこと。便利=楽ではありますが、本当に益かどうかよくわかりません。

 

荒川修作+マドリン・ギンズによる三鷹天命反転住宅という住宅があります。HPからのその説明の一部を転記します。

 

私たち一人一人の身体はすべて異なっており、日々変化するものでもあります。与えられた環境・条件をあたりまえと思わずにちょっと過ごしてみるだけで、今まで不可能と思われていたことが可能になるかもしれない=天命反転が可能になる、ということでもあります。荒川修作+マドリン・ギンズは「天命反転」の実践を成し遂げた人物として、ヘレン・ケラーを作品を制作する上でのモデルとしています。

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簡単に言えば、ユニバーサルデザインの正反対のコンセプト。段差や階段などをなくしたユニバーサルデザインの住宅に住むのは確かに楽かもしれませんが、その結果人間が本来持っていた生命力を喪失させてしまうのでは、との主張が根底にあるのだと思います。だから三鷹天命反転住宅には、フラットですべすべした床は一切ありません。何度か入ったことがありますが、室内を歩くのに一苦労するものの、不思議なわくわく感と活力が湧いてくる気がしました。三鷹天命反転住宅は、不便な益を追求したものと言えます。

 

私は冬には薪ストーブを使っていますが、おいしく焼き芋を焼いたりシチューをいれた鍋を温めておけるという便利さはありますが、それ以上に不便な点のほうが大きいと感じます。特に最初に火を熾すときは、本当に大変ですし時間もかかります。軟弱な私は薪を束で買っていますが、決して安くはありません。明らかに灯油やガスストーブの方が、便利で楽でしかも安いです。でも、やっぱり薪ストーブが好きです。

 

本書に、不便益の条件として以下三点が挙げられています。

 ・習熟を許す

 ・主体性を持たせる

 ・スキル低下を防ぐ

 

薪ストーブで火を熾し、うまく燃やし続けるにはそれなりのテクニックが必要です。毎回試行錯誤していますが、少しずつ習熟している実感はあります。自動的に温かくなるエアコンなどの暖房器具は全てお任せであり、私に主体性はありません。薪ストーブでは自己責任であり、主体性を問われます。人類の根本にあるはずの、「火」に対するセンシビリティーというか扱いの感覚というスキルの低下を防いでいると言ったらちょっと大げさですが、そんな実感はあります。


便利さが加速する現代、あえて不便の益を追求することはとても意味があることだと思います。

 

自分が漠然と感じていたことを、スパッと整理して提示してくれることは、読書の醍醐味のひとつです。新しい視点を獲得することが、なにより私にとっての「益」なのだと思いました。


なお、本書と合わせて隣接分野である「仕掛学」を読むといっそう楽しめます。

仕掛学仕掛学
松村 真宏

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人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書)
井上智洋
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近頃話題のAIですが、それが人々の社会や経済に与えるであろう影響について、わかりやすくコンパクトにまとまった良書です。特に、社会の歴史的変遷を視野に、AIが第四次産業革命を引き起こすという説明には説得力があります。

1760年 第一次産業革命:蒸気機関

1870年 第二次産業革命:内燃機関、電気モーター

1995年 第三次産業革命:PC,インターネット

2030年 第四次産業革命:汎用AI,全脳アーキテクチャー

 

 第三次産業革命で遅れを取った日本が、第四次産業革命にも乗り遅れた場合、ロボットがはたらく無人工場を所有する外国資本からサービスや商品を購入しなければばらなくなり、極論すれば日本企業は全く収入が得られず、日本人収入の道は絶たれるということにもなりかねないと、筆者は懸念します。

 

AIが労働者に置き換わり、AIを所有する資本家だけが利潤を得る恐ろしい世界が待っているかもしれない。資本と労働が手を携えて価値を創造し続けるのが資本主義なのですが、労働が不要になればもはや資本主義ですらなくなってしまう。

 

労働が不要になるのであれば、人々は遊んで暮らせるユートピアが実現できるでしょう?そんなことはありえません。利潤は全て資本家のものであり、労働者に配分されることは、ふつう有りえないからです。

 

そうなると、そもそも人間は何のために存在するのかという哲学的疑問が生じます。筆者は「おわりに」も最も言いたいこと記しているようです。

 

 

資本主義に覆われたこの世界に生きる人々は、有用性にとりつかれ、役に立つことばかりを重宝し過ぎる傾向にあります。(中略)ところが、その勉強は未来の利益のために現在を犠牲にする営みであるとも言えます。現在という時が未来に「隷従」させられているのです。

 

役に立つが故に価値があるものは、役に立たなくなった時点で価値を失うので、その価値は独立ではありません。

 

バタイユは「有用性」に「至高性」を対置させました。「至高性」は、役に立つと否に関わらず価値のあるものごとを意味します。

 

私たち近代人は、人間に対してですら有用性の観点でしか眺められなくなり、人間はすべからく社会の役に立つべきだなどと偏狭な考えにとりつかれてように思われます。

 

機械の発達の果てに多くの人間が仕事を失います。役立つことが人間の価値の全てであるならば、ほとんどの人間はいずれ存在価値を失います。従って、役に立つと否とに関わらず人間には価値があると見なすような価値観転換が必要となってきます。

 

 

AIの出現が人間存在の意味を問い直すという筆者の思いには、大いに共感します。我々は、資本主義とそれを支える「有用性」にどっぷりつかっています。役に立つ者が偉く、そうでないものは無価値だと、心のどこかで思っていませんか?この延長線上に相模原の障害者施設の事件もある気がします。

 

真・善・美は、古来から人間が追い求めるものとされてきていますが、それらは短期的には有用性は低いかもしれません。今の時代、真・善・美を追い求めるのは、非合理で価値の低いことだと思われている気がします。

 

でも、数千年前から人間はそれらを追い求めているのであり、「有用性」基準なんてほんのここ2300年くらいのことでしょう。本来の人間のあり方に立ち戻ること(価値転換)を、AIが促しているのだと本書は主張しているのです。

戦略系コンサルティング会社に入社した時、コンサルティングの価値について先輩に質問したことがあります。なぜクライアントは我々コンサルタントに、高いお金を払ってくれるのか、と。いくつか答えてもらったと思いますが、今でも残っているのは、「第三者性」の価値です。

 

いわく、「クライアント社内の問題について、内部にいる社員には内部ゆえに見えないことがある。コンサルタントは、内部にいないからこそ見えるものがあり、解決策も見つけられるのだ。」

 

正直、当初はピンときませんでした。コンサルタントは思考力や分析スキルが優れているからお金がもらえると思っていたのに、そういったもの以上に「外部者」という立場ゆえにお金がもらえるように聞こえてしまったからです。

 

それから四半世紀が経った今、その時先輩が言った意味が非常によくわかります。いろいろな形でクライアントの社内に足を踏み入れましたが、現場は千差万別。組織文化も社員のレベルも、ものの観方もそれぞれ全く異なります。でもずっと内部にいる社員自身は、何がどう違うのかよく理解できません。私は、毎回とても興味深く観察させていただいています。こういう多様な組織の現場をたくさん肌で知るからこそ問題が見え、解決策も見えてくるのです。

 

「サイロ・エフェクト」を読んだら、それは文化人類学者の視点と同じだと腑に落ちました。未開の社会などを観察する文化人類学のフィールドが、企業組織・社会になっただけなんです。著書のジリアン・テットは、文化人類学者を経てフィナンシャル・タイムズ紙の記者になった方です。文化人類学者の視点で、高度専門化した現代の企業組織や社会を描写しているのです。

 

終章で人類学の6つの方法論をまとめています。コンサルタントにも非常に有効な視点だと思いますので、要約します。

 

1)現場で生活を経験することを通じて、ミクロレベルのパターンを理解し、マクロ的全体像をつかもうとする。

2)オープンマインドで物事を見聞きし、社会集団やシステムの様々な構成要素がどのように相互に結び付いているかを見ようとする。

3)その社会でタブーとされている、あるいは退屈だと思われているために語られない部分に光を当てる。社会的沈黙に関心を持つ。

4)人々が自らの生活について語る事柄に熱心に耳を傾け、それと現実の行動を比較する。建前と現実のギャップが大好きだ。

5)異なるもの(社会、文化、システムなど)を比較する。比較することで異なる社会集団の基礎パターンの違いが浮かび上がる。別の世界に身を投じてみると他者について学べ、かつ自ら自身を見直すことができる。こうして、インサイダー兼アウトサイダーになる。

6)人類学は人間の正しい生き方は一つではないという立場を取る。我々が世界を整理するために使っている分類システムは、必然的なものではないことをよくわかっている。世界を整理するために使っている公式・非公式なルールを変えることもできる。

 

 

こうしてみると、戦略コンサルタントも人材・組織開発コンサルタントもクライアント企業という社会に、人類学者の視点を持って関わっていると言えそうです。特に、(現在メインとしている)人材・組織開発コンサルタントの立場は、大勢の社員を研修という場で観察することができます。まさに、人類学者の視点を大いに発揮することができる、非常に貴重な機会に常時接することができるのです。

 

インサイダー兼アウトサイダーとして、こういった場を通じてクライアント企業の組織の現状が手に取るように見える、これは大変な財産だと思います。

サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠
ジリアン テット 土方 奈美
4163903895

最近というか10年くらい前から、電車の中で新聞(紙の)を読んでいる人はほとんどいなくなりました。私はまだ読むので、社内で新聞を読んでいる人が隣や前にいると、思わず同好の士だと親近感を持ちます。

 

他の乗客はほとんどスマホをいじっています。ゲームかSNSですね。通勤時間に何に時間を費やすかは、結構大事な判断だと思います。SNSでは、主に友人の投稿を読んでいるわけで、それがそんなに面白いのかと私は思ってしまいます。それよりも、プロの新聞記者が書いた記事の方が質も高く、有益に決まっています。にもかかわらず、SNSに多くの時間を費やす人の方が今や「ふつう」なので、友人の寄稿がそれだけ面白いと判断せざるをえません。なぜだ??

 

これは、私にとって謎でした。

そこに、一つの回答を得ることができました。佐渡島庸平著「ぼくらの仮説が世界をつくる」にこうあり、なるほどーと納得!

 

一方、SNSでつながっているのは、知り合いや興味のある人たちです。親近感のある人たちとも言えます。身近な人が発信するから、ぜんぜん知らないプロの文章よりも「面白い」と感じるのです。

 面白さというのは、<親近感X質の絶対値>の「面積」だったのです。

 

「親近感」という要素が加わることで、多くの謎が解けます。「おふくろの味が一番」なのは、質ではなく親近感ゆえだそうです。

 

私はこれまで、質と親近感が同じレベルで比較されるとは思いもよりませんでしたが、言われてみればそうかもしれません。

 

親近感をもう少し掘り下げてみたいと思います。なぜ、人は親近感があると面白く感じるのか。

 

親近感とは、対象と自分に共通項があることです。友人とは多くの経験を共有しているでしょう。知らない人でも高校が同じというだけで親近感を持つのは、何かを(何かわかりませんが)共有しているはずだと感じるからでしょう。それを媒介にして「つながっている」はずだと思える。

 

つながっている対象と共通項があるということは、相手(対象)の断片的な発言から、それを起点として様々な想像をふくらませることができます。そこに書かれた文字情報以外の既知の情報と結びつけることで、全く未知の人の発言の何倍もの情報(思い込みも含め)を獲得できる。だから想像の余地が膨らみ、共感を得やすくなります。

 

人間は、本能的に「共感」を好ましいもの、つまり「面白い」と認識するのでしょう。また、想像を膨らませること自体を「面白い」と認識するのではないでしょうか。また「面白い」ものを想像して作っていくとも言えるかも。

 

これらは供給者である企業に、どのような示唆を与えるでしょうか。

 

あらゆる業界で、質の絶対値で差を大きくつけることが難しくなっています。だから、親近感に勝負の土俵が移りつつある。親近感とは共通項を持つことであり、それは想像を刺激する体験を共有し共感すること。User experienceにこだわったAppleは、最も親近感の醸成に長けた企業と言えます。Apple toreに入った瞬間から親近感醸成プロセスは始まります。User experienceとは、Apple(製品もサービスも)とユーザーの相互作用に他なりません。

 

何らかの「場」を共有し、そこで顧客と共働でなにかをつくりあげていくような「体験」をもたらすサービスは「親近感」重視のビジネスといえます。それがネット上である場合もありますが、リアルな世界の方がよりパワフルです。ただし、規模は稼ぐのは困難。

 

親近感を醸成する仕組みの設計、これからの重要なテーマです。


追記:この佐渡島氏の著書は、おっ!と思わせる新鮮な着眼がたくさん書かれており刺激的です。情報収集→仮説構築ではなく、仮説構築→情報収集という記載も、我が意を得たりでした。

ぼくらの仮説が世界をつくる
佐渡島 庸平
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集団の統合原理

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昨日、マンションの管理組合を例に、コミュニティーの難しさについて書きました。そもそも私の問題意識は、ある集団の中でそれぞれが大事にしている様々な価値を、他者とどう認め合い、必然的に生まれる対立に折り合いをつけて統合した組織や社会、コミュニティーにしてゆけばいいのか、にあります。

 

営利目的の企業体であれば、経済的価値だけで押し通せそうですが、私たちが属するのはそうではない集団(マンションの住民から、日本国民、人類レベルまで)のほうが圧倒的に多いはずです。

 

集団を結びつける統合の原理は3つあるとポランニーは指摘しています。それぞれの集団のパターンに従って相互に扶助する「互酬」、集団の中で貨幣や財を一手に集めたうえで、それを法や慣習、権力者の決定によって構成員に配分する「再分配」、市場のもとでの可逆的な個人間・集団間での財・サービスの移動である「交換」、これら三つの統合形態を組み合わせながら社会を形成しているのです。

 

イメージするかつての日本社会は、そのバランスが取れていたのでしょう。交換を原理としている「会社」ではたらきながら、家に帰れば地域コミュニティーの一員としての役割(道路の草刈り、消防団、お祭りでの役務など)を果たす。また、古くから「無尽」と呼ばれる金融面での相互扶助の仕組みがあり、実質的には「再分配」の役割を果たしていたそうです。また、村の篤志家が貧しいが賢い子どもを援助して、学校に通わせたという話もたくさんありました。これも再分配です。

 

こういったバランスのいい統合ができていたのは、個人間の信頼がベースにあったからです。そして、信頼の源泉は、お互い顔を知っており、しかも長期的に離れがたい状況にあることでしょう。長期持続的関係になるので、個人の利害と集団の利害は一致する余地が大きい。地域の環境がよければ、そこに住み続ける自分にとっても嬉しい。

 

考えてみれば、「交換」を基盤にした「会社」も、かつては社会の相似形だったともいえそうです。自分の仕事だけをやればいいのではなく、困っている社員がいれば、できる社員が面倒をみるのは当たり前でした。そこには、自分に何かあれば助けてもらえるという「お互いさま」の精神があります。

 

また、日本企業の賃金カーブは、右肩上がりの角度が他国に比べ急と言われます。つまり、若いうちは生産価値より少なめの給料をもらい、年を取るにつれて生産価値を超えた給料をもらうようになるということです。

 

一見不公平な仕組みのようですが、「生活給」という概念で捉えれば理に適っています。家庭を持ち子供が大きくなるに従って生活費は増えます。それに合わせて給料も増やしていく。「能力給」とはまったく異なるのです。これは、相対的若手から高齢者への「再分配」です。(年金や健康保険も基本的には同じ構造です。)これが成り立つのは、長期持続的関係、すなわち終身雇用的な考え方に社員も経営者も価値をおいている場合です。かつては、能力給より生活給のほうが納得感が大きかった。

 

つまり、日本企業は、一見「交換」原理だけで成り立っている組織を、コミュニティーと同じように三つの統合原理のバランスを重視してきた。社会の相似形ともいえる組織をつくってきたのです。

 

しかし、状況は大きく変わりつつあります。会社は社会やコミュニティーではなく、労働力と賃金を交換する場のよう。さらに、本来は三原理で統合されるべき地域コミュニティーも、「交換」が幅を利かせるようになっています。(お金を払うことで消防団入りを拒否できる等)

 

マンションの住民は、そもそもコミュニティーとの意識すら抱いていないかもしれません(賃借住民が混じっていることもそれを促している)。資産価値の維持向上という交換価値のみで統合しているように見えなくもありません。

 

企業も含め社会が「交換」偏重になっていくなかで、それの歯止めになるのは「公共精神」であり、それを仕組みとして実現させるのは政治のはず。そもそも、すべての基盤にあるべきなのは相互の「信頼」。しかし、それを政治が壊しているのが、現実に起きていることなのかもしれません。

 

以下は、「経済時代の終焉」からの引用です。たまたま、マンション管理組合総会と本書を読んでいる時期が重なり刺激を受けました。

 

経済のゆたかさを「目的」から「結果」へと置き換える、そういう発想の転換が必要だ。経済は経済的な現象だけで成り立っているのではない。経済のゆたかさは、私たちが生きるに値する「善い社会」を構築する過程で派生してくる、ひとつの結果なのである。



経済の時代の終焉 (シリーズ 現代経済の展望)
井手 英策
4000287311

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