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わたしの渡世日記〈下〉 (文春文庫)
高峰 秀子
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先日、「高峰秀子の流儀」を読んで彼女の生き方に感銘を受け、彼女のエッセーをこれから読もうと 宣言しました。最初に読んだのが、彼女の自叙伝とも言える本書。いやー、内容は言うに及ばず、文章力にも驚きました。こんなに、才人だったとは。

 

司馬遼太郎が、「いったいどういう教育を受ければ、こんな人間が出来上がるのだろう」とつぶやいたと、先日書きましたね。本書を読んで、わかったような気がします。周囲の「ホンモノ」を見極め、そんな偉大な先人達から、貪欲に学ぶ力を持っているのです。

 

世の中には、「ただ、その人が存在する」というだけで、なんとなく心強く、心の支えになる人がいる。精神的スポンサーとでもいうのだろう。私の場合も、それほど親しい間柄とはいえなくても、会えば優しい心遣いを見せてくれ、親切な言葉をかけてくれる精神的スポンサーといえる人はいる。(中略1)私は決して有名狂でもなく、肩書きをひけらかすような人間は大嫌いだが、この人たちの、積み重ねた教養と勉学にプラスされた「心の豊かさ」に、私は心を引かれる。立派できびしい仕事を持っているから心が豊かになるのか、心が豊だからきびしい仕事に耐えられるのか、頭の弱い私にはわからないけれど(中略2)。

いわゆる世間で「立派な人」「偉い人」と言われても、心に愛情のない人は、私には偉くも、立派にも見えない。そういう人はただ学問のお化けである。

 

(中略1)部分には、池田潔、扇谷正造、今日出海、池島新平、大宅壮一の名前があります。他にも、梅原龍三郎、谷崎潤一郎、川口松太郎らものすごい人たちが教師なのです

 

高峰の向学心に火を付けたのは終戦直後の山本嘉次郎監督でした。撮影の合間、退屈する若い彼女にこう言いました。

 

なんでもいいから興味を持ってごらん。なぜだろう?どうしてだろう?って考えるっていうのは、ワリと間が持つよ。そうすると世の中そんなにつまんなくもないよ。

 

下巻の解説は沢木耕太郎です。これがまたいい!解説は、本の内容を解説者が持つ刀で、すぱっと切ってみせるのが醍醐味ですが、正にそれを見せてくれます。膝を打ちたくなる文章が続きます。

 

ここに高峰秀子の文章の最大の特徴である、その底に貫かれている人生を肯定する意志の強さが明らかになる。人生を肯定する意志、というのが大袈裟ならば、人生を味わい尽そうとする意志、と言い換えてもよい。

 

高峰秀子にとって、松山善三との生活はひとつの長大な作品だったのかもしれない。だが、この作品はこれまでの作品と違い、演じることではなく、生きることで作品となった。

 

もし、高峰秀子が雌ライオンであるとするなら、この雌ライオンの最大の願望は、人生において常に潔くありたいということであるに違いない。

 

 

川口松太郎が推薦文で書いたように、本書は「人生の指導書」に違いありません。

 

人材の複雑方程式(日経プレミアシリーズ)
守島 基博
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「人材の複雑方程式」(守島基博著)は、バブル崩壊後の日本企業の人材マネジメントを、リアリティーをもって分析されている、好著だと思います。

 

日本企業の弱体化→グローバル・スタンダード型人材マネジメントの安易な導入→更なる日本企業の弱体化

 

のサイクルをわかりやすく解説しているとも読めます。たとえば、

 

リーダー育成は、フォロワー育成とあいまって初めて本来の効果を発揮する。

 

選抜教育は私も必要だと思います。だからといって、それ以外の大多数の社員の教育をおろそかにしていいはずがありません。しかし、残念ながら現状はそうはなっていません。階層別研修がそうだとは言い切れませんが、一定年次になったら押しなべて研修機会を提供する姿勢すら、近年薄れているように感じます。内容を吟味した上で、やはりそこへの投資もすべきでしょう。

 

さらに、成果主義導入がその必要性を高めています。

 

敗者にとって、将来は成果をあげられると思うための仕掛け(例えば人材育成)が重要になる。(中略)評価制度の納得性を高めるための膨大な量の研修と、成果主義と連動した人材育成である。

 

成果をあげろと圧力をかけておきながら、そのための支援はほとんどない。成果が上がれば給与を増やすから頑張れ!と言っておきながら、経営陣はたとえ減益であっても報酬は増やしているという現実も、徐々に表に出てきています。

 

突き詰めてしまえば、「信頼」に行き着きます。

 

新しい戦略に移っていくといなど、企業の変革にあたっては、働く人が経営者にどれだけ信頼を置いているか、その結果としてどれだけ我慢する気があるかが、重要な経営資源なのである

 

信頼とは、不確実な状況で行動をとるときの相手の意図に搾取的な要素がないという評価だという。

 

 

長い間日本企業の隠れた経営資産であった、経営陣と社員との間の信頼が揺らいでいるかもしれないこと、これが最も重大な問題と思います。なぜそれが失われつつあるのか、そしてその回復のために何をすべきか、経営陣は徹底的に考えるべきでしょう。ここ数年が勝負だと思います。

高峰秀子の流儀
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小津安二郎監督にとって原節子がなくてはならないように、成瀬巳喜男監督にとって高峰秀子は最高のパートナーでした。原は若くして引退し、鎌倉の自宅に引きこもってしまい、一切外部との関係を遮断しています。高峰は、55歳で引退したあとも、エッセーを書き続けました。でも、やはり映像には現れません。

 

私は成瀬映画ファンで、当然のように女優としての高峰秀子のファンです。しかし、なぜか彼女のエッセーは読んだことがありません。今回、斎藤明美著「高峰秀子の流儀」(新潮社)を読んで、大いに後悔しています。

 

梅原龍三郎に気に入られ、多くの肖像画を残している、往年の大女優のイメージを越えてはいませんでした。(失礼ながら、存命とは思いませんでした)その作品(映画とエッセー)と人柄を、私が尊敬する司馬遼太郎、沢木耕太郎、井上ひさし各氏が絶賛していることを、本書で知りました。

 

驚くべきことに、彼女は学校に一ヶ月強しか通っていないそうです。小学校含めてですよ!字は、絵本などを見ながら独学で修得したのです。4歳で実母が亡くなると、叔母に養女としてもらわれました。その直後に子役デビューです。養母(高峰はデブと呼びました)は、金づるとしての高峰にしか興味がなく、学校に通わせなかったのです。しかし、彼女は養母が死ぬまで養い、世話を続けた。

 

司馬遼太郎が、高峰を称してこう言ったそうです。

 

「いったいどういう教育を受ければ、こんな人間が出来上がるのだろう」

 

教育は学校で受けるものではないのです。先日亡くなった市川昆監督が、終生頭が上がらなかったのが高峰です。市川の撮った東京オリンピックの記録映画が、完成直後政治家やマスコミから批判され、ぼこぼこになっていた市川を、彼女一人が擁護した話は、全くもって痛快。こんな女優、いや人間がいたことが驚きです。(つい先日、日経「私の履歴書」で暴露した有馬稲子とは大違い!!)

 

 

大女優高峰秀子は、86歳でまだ健在です。この伝説のような人と同じ空気を吸っていると思うだけで感謝したくなる、そんな人柄が伝わってくる一冊です。これから、エッセーを読みます!

クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国
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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ ~天正少年使節と世界帝国」をやっと読了しました。本書は、2003年刊行されすぐ購入したのですが、本文526ページの重さのためか、ずっと本棚に置きっぱなしでした。ところが、その間著者の若桑さんは亡くなり、本は文庫化され、妻が先に文庫で読了してしまいました。それで、やっと重いこの本を手に取ったというわけです。

 

読了して思ったこと、もっと早く読めば良かった。イエズス会関係の膨大な資料を丁寧に読み解いて描いた世界は、私のこれまでのなんとなくの疑問に答えてくれるものでした。

 

なぜ、信長は南蛮人を好んだのか。逆になぜ秀吉や家康は彼らを憎んだのか。なぜ光秀は信長を討ったのか。なぜ、わずか数十年で、キリスト教は九州を中心の大名から農民にまで浸透したのか。そして、隠れキリシタンと呼ばれる信者は、なぜ迫害のもとで信仰を捨てなかったのか。なぜ、日本はポルトガルやスペインは、他のアジアの国々に対するように植民地化しなかったのか。なぜ、江戸幕府はオランダだけに出島を与えたのか。などなど。

 

また、桃山時代の少年がローマに行ったということは、歴史で習ったような気がしますが、まるでおとぎ話のようにしか捉えていませんでした。しかし、それは事実であり、グレゴリウス歴で知られる法王グレゴリウス十三世や世界帝国スペインのフィリップ二世にも謁見しているとは!学校でならった日本史と世界史が見事につながった!当時の日本も、世界の変化と無関係ではなかったのです。まるで、現在のように。もし、そのまま日本が世界に開いていたら、鎖国していなかったら、日本や世界はどうなっていただろうと、想像せずにはいられません。

 

著書の若桑さんは、資料を丹念に読み解くうちに、少年使節の4人と友人になったかのようです。それだけ、魂が込められています。歴史を扱いながらも、著者の思いや主観が、溢れる部分があります。その言葉は、強く心に刺さります。

 

イエズス会の偏執的なまでの報告義務と収集癖が、歴史に名を留める有名人(信長、秀吉、高山右近、利休、フィリップ二世・・・)のみならず、無名の人々の言動までも記録しています。それらを丹念に読み解く、まさにミクロの活動が結果としてマクロの姿、つまり16,17世紀における日本と世界の姿を見事に描いているのです。ミクロを突き詰めるとマクロになることが、実感されます。上っ面だけの抽象論や空中戦では、なにも本質には到達できない。これは、塩野七生さん著作にも共通することですが(なぜか二人ともイタリア語が堪能な女性)本書を読んで、あらためて感じました。若桑さんは、刊行4年後の2007年に亡くなってしまいましたが、本書を世に出すことできてきっと本望だったことでしょう。

「ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争 上・下」を読んで、「大きな物語」の重要性を再認識しました。戦闘でいかに勝つかも重要ですが、もう少し時間軸を延ばして判断・評価することはさらに重要です。(ここでの「物語」は、本の内容の意味ではありません)

 

例えば、日露戦争での勝利が太平洋戦争での敗北を導いたという見方もできるでしょう。だとすれば、日露戦争で勝ったことが日本にとって良かったことなのか。

 

先の本で言えば、朝鮮戦争への介入で新生中国は国内のみならず世界でも地位を固めたといえます。しかし、それが毛沢東の独裁を招き、その後の文化大革命などの悲劇を導いたともいえます。朝鮮戦争に介入しなかったソ連が漁夫の利を得たという見方もできますが、それがアメリカの冷戦志向を強化し、ソ連崩壊を促したともいえます。

 

ハルバースタムはそうは書いていませんが、朝鮮戦争で最も得をしたのは日本かもしれません。しかし、そこで原型が造られた経済構造に、今日本が苦しんでいるのもまた事実です。

 

また、アメリカも、朝鮮戦争からベトナム、そしてイラク、アフガニスタンへと脈々とした流れができます。結局アメリカも、大きな物語で捉えるのではなく、国内政局や特定企業の利害といった小さな物語で動いているのだと、本書は主張しているようです。

 

このように、ある事象の成否はどの時間軸で見るか次第です。そして、長い時間軸で捉えたものが「大きな物語」であり、それを描けるリーダーがいるかどうかが、国家においても企業においても、死活問題になる気がします。別の言い方をすれば、それが戦略的思考なのかもしれません。

 

残念ながら今は、「小さな物語」の中でいかに得をするか、に皆が汲々としているように思います。その際の基準は、現時点における他者との比較です。いわば空間スケールでしか判断せず、時間スケールが欠落しているのではないでしょうか。

 

 

今年のNHKの目玉「坂の上の雲」や「龍馬伝」は、それぞれの時代における「大きな物語」を描いていこうとしているのかもしれませんね。時代は、あらためて「大きな物語」を求めているような気がしないでもありません。是非、そうあってほしいです。

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上
山田 耕介
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ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 下
山田 侑平
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舞台を制作するプロデューサーという仕事は、一般の人からはよく見えませんが、ものすごく難しく、かつエキサイティングな仕事のようです。本書の著者は、劇団夢の遊眠社の営業マネジメントを経て、現在自らが社長を務めるシス・カンパニーを創業した北村明子さんです。

 

興行という水もの商売を、俳優や脚本家という個性も自己主張も強い人々を束ねて、芸術性とビジネスを両立させるという超複雑な役割です。

 

研修講師も、ある意味で俳優や脚本家のような役割で、そういう方々とずっと一緒に仕事をしてきた身には、とても沁みる言葉に溢れていました。少しだけ、ピックアップします。

    相手の心証を気にして中途半端な話をするよりも、本気で思っている内容を伝えたほうが、相手に対して誠実です。

    企画には、人間そのものが表れます。どういうものをやりたいかで、プロデューサーの人間性が出るのです。

    プレゼンはお芝居そのもの。ある目的と感情を込めてせりふを投げ、相手の役者がそれを受けてまたせりふを返す、相手の表情や体の動きの変化を見て、こちらも臨機応変に返すのがうまい役者です。相手が反応しやすいように返せるかどうかも腕の見せ所。企画書は台本として大切ですが、そこに書かれた言葉に命を吹き込むのは言葉のリレーをしている人間どうし。

    「お友だち」と一緒に仕事をすると、立場の違いが出た時に人情が邪魔して言うべきことが言えなくなってしまう。見るべきものも見えなくなってしまう。

    人との関係は大切にしますが、人を脈という中に組み込んだことは一度もありません。(中略)もちろん仕事に戦略と計算は必要ですが、「人脈」という言葉には、計算ばかりが感じられます。(中略)人を動かしていくのは、つまるところ。誠意と熱意しかありません。それは、どこの世界でも同じだと思います。

    執着と熱意は別のものだと思います。執着をなくせば、発想の転換を余儀なくされるので、新しい可能性も見出せます。

    スタート地点でまず、「私が観たいお芝居」のイメージがあり、そこに目利きとしてのプラスアルファの要素が加わり、今の私がいると思うのです。

 

さらに、興味深かったのは、井上ひさし氏によるあとがきです。彼は、難しいプロデューサーの仕事を以下のように例えています。

    精力的な読書家

    優れた哲学者や社会学者

    慎ましい扇動家

    実務家

    会計士

    治療を嫌がる病人にさっと注射針を刺す老練の看護師か、教会の神父さん

    広告代理店の社長

    最後に、劇場に集う全ての者の母

 

さすが、言い得て妙!

演劇の世界に、ビジネスの世界も徐々に近づいていることを実感します。

だから演劇は面白い! (小学館101新書 50)
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「日本人はチームワークが得意」

 

多くの日本人の中で信じられている、日本人の強みのひとつではないでしょうか。

 

ところが外国に行くと、どうもそうではないそうです。「日本人はチームワークが苦手」だと認識されているようなのです。

 

そもそもチームワークとは、

        異質な個人の集まりを

        リーダーによって、ひとつのチームに作りあげられ(チームビルディング)

        チームとして、目的に向かってワークする

ことです。

 

しかし、日本人の間ではちょっと違います。

        メンバーが指名されれば、基本的に同質なので、そのままチームとなる

        チームで働くことは当たり前なので、目的や求心力が弱くてもすむ

        従って、リーダーの存在も重要ではない

        なんとなく、カバーしあいながら目的に向かって進む

 

我々日本人にとっては、メンバーが何らかの理由で集まれば、そのままチームになり活動できるので、その意味ではチームワークは得意といえるかもしれません。

 

ところが、海外など異質な集団の中でチームワークするとなったら、からきしダメでしょう。容易に想像できます。つまり、チームワークが苦手なのです。

 

そして、このようなチームワーク下手の問題は、日本人同士の間でも、発生しつつあるように思います。

 

「もう会社が一生面倒みるわけではない。自分自身のキャリアは自分で考えろ」といったような、「会社」としての一体感を低減するようなメッセージを発し始めた日本企業において、同質化は薄れ、異質化に向かっていることは、否定しようのない事実だからです。

 

 

チームワークに限らず、自分自身のことを知ることは、そう簡単ではありません。知るためには、いったん自分を棚にあげ、他者(他国)の視点から見つめ直すことが必要です。

 

 

海外の現場で、長年にわたりグローバル人事コンサルティングに携わってきた篠塚正芳さんの近著「世界で成功するビジネスセンス」(日本経済新聞出版社刊)は、そのようなヒントに溢れています。

  

 

世界で成功するビジネスセンス
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実証性を重視する経営学者である著者(テキサス大学准教授 清水勝彦氏)が、あえて「既存の経営知識で説明できる要因はたった3割」と言い切り、残り7割は、「それぞれの企業の特殊要因」と割っている潔さが、この本の魅力です。

 

また、「科学の徒であるはずの経営学者が、『直感』『勘』の大切さを説くのもどうかと思いますが、実際『直感』や『勘』は私たちの生活や様々な意思決定に大きな役割を果たしています。」とも書いています。

 

 

アンディ・グローブが言っているように、小さな出来事を、「シグナル」(きざし)と捉えるか「ノイズ」と捉えるか、そこに経営の本質があるように思います。ある企業にとってはノイズであっても、別の企業にとってはシグナルかもしれません。

 

その判断は、合理性では無理でしょう。そこには、直感が働くとしか思えません。これは、経営学の範囲外の部分です。

 

直感でAと判断したものの、「待てよ、よく考えてみるとBじゃないか」と思い直してBを選ぶとたいてい失敗します。これは私の経験からの学びです。でも、どうやらこの現象は私だけではないのだと、本書を読んでわかりました。

 

よく考える=説明できるようにする=過去の経験や常識に当てはめる

 

という思考のはたらきが、どうもあるようです。そして、得てして多くの場合は過去の常識が当てはまらないことが多く、それが致命的だったりする。

 

いわゆる専門家や、業歴の長い企業が陥りやすい罠です。ビギナーズラックは、偶然ではないのかもしれません。

 

 

オーナー企業で成功するパターンは、オーナーの直感によるものが多いようです。ユニ・チャームも、整理用品から紙おむつに参入することを決めた役員会では、創業者以外全員反対したと聞きました。創業者が、論理的に他の役員を説得できたはずはありません。創業者自身、直感としか言えなかったのですから。

 

 

では、どうやったら直感を磨けるのでしょうか。我々凡人ができることは、障害物を取り除くことくらいかもしれません。先に述べたように、経験や常識がそれです。そのためのトレーニングが、著者の言う「小さなこと」を軽んじない姿勢なのでしょう。

経営の神は細部に宿る
清水 勝彦
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30回サントリー学芸賞を受賞した「アダム・スミス」(堂目卓生著・中公新書)を、やっと読みました。受賞しただけあって、古典をこのように現代人にとって刺激的なものとして紹介した力量はさすがです。良書は、人によって様々な読み方ができるものですが、私は特にアダム・スミスの洞察力に感銘を受けました。

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)
堂目 卓生
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洞察力は、ビジネスパーソンにとって重要能力だとよく言われます。でも、洞察力とは、どのような能力なのでしょうか。私は、洞察力には二つの種類があるのではと思います。一つは見えない構造を見抜く力、もう一つは心眼といわれるものです。

 

一つ目を、仮に構造把握力と呼びましょう。コンサルタントが洞察力というときは、こちらの意味で使われます。よく氷山の例えが使われます。水面に出ている氷山は、まさに氷山の一角であり水面下には巨大な氷山が沈んでいる。その水面下の見えない氷山を見抜くことが、洞察の一つの例です。また、構造とは、多くの因果関係の束ということもできるでしょう。結果は、水面上の顔を出していますが、それらの原因は水面下で見えない。水面上の結果だけを見ても全体を見たことにならないし、そこから真実を読み取ることはできません。見えない原因と、複雑な因果関係や行動のメカニズムを読み解くことで、初めて全体像が把握できるわけです。このような洞察力は、科学に基づくものといえそうです。

 

アダム・スミスは、この力が特別秀でていたのではないかと思います。大英帝国が、七つの海に植民地を保有し、独占植民地貿易でわが世の春を謳歌していた頃、彼は異なる見方をしています。

 

本国(イギリス)は、独占貿易のための諸規制によって絶対的利益を犠牲にしている。(中略)独占貿易の目的は、自国がどれだけ絶対的に豊かになるかということではなく、他国と比べてどれだけ豊かになるかということであった。(P220

 

彼は、人間に対する深い洞察に基づいて理論を組み立てています。

 

めざす理想が、いくら崇高なものであっても、そこに至るまでの道が、あまりにも大きな苦難をともなうものであれば、人々は、統治者の計画についていくいことができないであろう。体系の人(man of system)は、理想を正しく理解さえすれば、すべての人は、理想の達成に対して、自分と同じ情熱と忍耐をもつはずであると信じて疑わない。(中略)人々がついていくことができなければ、失敗に終わるだけでなく、社会を現状よりも悪くするであろう。(P244

 

振り返ってみれば、そうだったんだと簡単に思えることも、先に見通すことは非常に難しいことは誰もが経験ありますね。それができる能力が、洞察力だと思います。

 

なお、彼の人に対する洞察は、構造把握力だけではなさそうです。二つ目の洞察、すなわち心眼については、別途考えてみたいと思います。

国立劇場での文楽二月公演の際に、竹本住大夫の近著「なほに、なほなほ」のサイン本を購入しました。数年前の「私の履歴書」をまとめたものです。新聞で読んでいたので、買うのを躊躇していたのですが、サインに負けてしまいました。

なほになほなほ―私の履歴書 (私の履歴書)
竹本 住大夫
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住大夫の大阪弁で半生が語られ、芸と人間性の内側が垣間見える楽しい本です。いくつか、心に残った話がありますが、その中でも襲名に関する話に、考えさせられました。

 

住大夫は、最初は古住大夫という名前でスタートし、その後、文字大夫を襲名し、そして昭和60年に現在の住大夫を襲名します。

 

文字大夫の襲名披露公演で、非常に難易度の高い出し物を語ることになりました。襲名披露で、恥をかきたくないと抵抗するのですが、師匠に押し切られました。しかし、本番では三味線や人形遣いの師匠らによって、これまで経験できなかった高みにまで登れたそうです。そして、「これが襲名というものなんや」とつくづく思ったそうです。想像するに、師匠連中が、これから自分の力で上がるべきハイレベルの世界を、文字大夫に垣間見せたのではないでしょうか。

 

一段階上の名前を襲名することを認めるのは、一座です。一座は、それを認めたからには全面的にバックアップします。襲名披露の口上では、舞台中央に本人が座り、その両側に一座の重鎮が並びます。そして、次々に重鎮が襲名を祝うと同時に、本人への支援を願い、観客に深々と頭を下げていきます。慣れない世界で一人立ちする息子への支援を頼む親の姿のようです。

 

この一体感が、襲名した芸人に覚悟を迫るのでしょう。親の期待に応えられない子は、この世界で生きていけなくなります。襲名は、ゴールではなくさらに高いレベルを目指すスタートです。

 

住大夫も、「名前がどうあれ、コツコツ勉強していくことが大事で、襲名は目的ではないんです。いうたら、『努力を重ねて、さらに芸を磨きます』ということを内外に宣言するのが襲名やと思うております。」と述べています。

 

これまで襲名披露を何度か観る機会がありましたが、確かにその後、芸の質が一段階上がるように感じます。本当に芸のレベルが上がったのか、それとも私の見方が変わっただけなのか、それははっきりわかりませんが・・。文楽に限らず、日本の古典芸能の世界における襲名という仕組みは、組織のスキルレベルの維持向上、一体感の醸成、新陳代謝などに、非常に有効な役割を果たしていると思います。

 

ところで、日本企業では、かつて社員を名前でなく、役職で呼ぶことが一般的でした。部長、支店長、課長など、私もかつて上司を役職で違和感なく呼んでいました。時代も変わり、残念ながら、私は呼ばれた経験はありません。だから想像するしかないのですが、きっと昇進し新たな役職で呼ばれることは、襲名と同じように、自分自身をもう一段階上のレベルに引き上げることを宣言する、覚悟を決めることだったのでないでしょうか。上も、決めたからには支える。部下や同僚も、これまでとは異なる見方をするようになる。そうして、そのような組織全体の雰囲気というか圧力が、期待を現実のものに変えていったように思えるのです。

 

役職で人を呼ぶことは前時代的であり、「さん付け運動」を進めるべきだと、私も考えていました。でも、もしかしたら、それは違うのでは、と近頃思うのです。