2018年4月アーカイブ

現在ほど想像力の重要性が高いにも関わらず、それが理解されていない時代はないのではなあいかと思います。技術の進歩とは、人間が想像力を持たなくても生きられるようにするためにあるかのようです。技術の進歩が想像力を失わせ、そのためさらに技術が進歩していくというサイクル。

 

現在来日中のスピルバーグ監督が、映像クリエイターを目指す若者向けトークセッションで、「想像力はオンラインで買えるものではなく、皆が持っているものだ。想像力に対して心を開き、そこから物語が浮かんだら、それを書き留めて欲しい」と助言したそうです。

 

これは創る側だけでなく、観る側にも響くメッセージだと思います。

 

ところで、昨日、能「西行櫻」を観ました。言うまでもなく能は、観る者の想像力を必要とします。それがなければ、板の上でおかしな面をつけた老人が、よろよろ動いているとしか感じないでしょう。しかし、想像力によって、舞台はいか様にも変化します。

 

最後の場面です。

 

夜が明け初める頃、西行の夢も醒めつつあります。そして、西行とまみえた老櫻の精(シテ)は夜明けとともに消えていきます。

 

シテ  「花の影より。明け初めて。

地謡  「鐘をも待たぬ別こそあれ。別こそあれ。別こそあれ。

シテ  「待てしばし待てしばし 夜はまだ深きぞ。

地謡   「白むは花の影なりけり。よそはまだ小倉の山陰にのこる夜桜の。花の枕の。

シテ  「夢は覚めにけり。

地謡  「夢は覚めにけり嵐も雪も散り敷くや。花を踏んでは同じく惜む少年の春の夜は明けにけりや翁さびて跡もなし翁さびて跡もなし。

 

 

老櫻の精は、嵐や雪によって散ったかのような一面の櫻の花びらの上を、ゆっくり惜しみつつ歩きながら少しずつ透明になり、最後は消えてみえなくなる。その歩き消えゆく姿に、老櫻の精がまだ少年だった頃の姿が重なる。

 

このラストシーン、私にはそう観えました。観る人によって、きっとそれは異なることでしょう。しかし、確かに私にはそう観えた。

 

数十年の時間がそこに一瞬照射される。人間の無常観を見事に表現している傑作だと思います。演者の力はもちろんですが、言葉の力もすごい。


本当の芸術作品は、観る者になんらかのメッセージを直接与えるのではなく、間接的な刺激を与えることで観る者の内面にあるものを浮き上がらせるのだと思います。スピルバーグ監督が言った「想像力は皆が持っているものだ」との意味は、そういうことなのかもしれません。

 

しかし、日々の雑事にまみれて、人は内面の何か(想像力と呼んでもいいかもしれません)を認識することも発露することもできなくなってしまっている。だから、ときどきそれを解放することが必要なのだと思います。私にとっては、それが能や芸術作品に触れることなのでしょう。

 

文化主義の帰趨

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夏目漱石の小説を読むと、明治末期から大正初めの若い世代は、とてつもなく教養に富み、深くものを考えているように感じます。そういった知性的な人びとによって、大正デモクラシーは推進されたのでしょう。

 

しかし、大正デモクラシーと昭和初めの全体主義は隣接しています、というよりも重複しています。これは不思議でした。なぜ、知性や教養が盛り上がっていく時期に、同時に軍国主義が芽生え、やがてそれ一色に染まってしまうのか?そんな疑問を抱いきながら、昨日ある哲学の勉強会に参加しました。ぼんやりですが、その答えが見えた気がします。

 

 

1904年の日露戦争に勝った日本は、一等国として恥ずかしくない教養を身に付けることが奨励される雰囲気でした。その最前衛たる大学生や旧制高校生は、あきらかなエリート。そうしたエリートは、大衆に交わるべきではなく知の城に「籠城」すべきと考えられていました。

「第一高等中学校の生徒は、・・・日本を指揮すべき人びとなれば、俗世の大衆凡下との接触を断ち寄宿舎に拠りて真の指導者としての規律・倫理を身に付けるべし」(明治19/1886年 木下康次一高校長)

 

明治末期になると、より社会性を重視する方向も出てきます。その代表が、同じく一高校長も務めたクリスチャンでもある新渡戸稲造です。

「籠城主義もいいが、それは手段であって目的ではない。寄宿舎の窓を開いてもっと世の中に接し、社会的観念を養成して実社会に活動できる素地をつくれ」(明治39/1906)

 

世界にも目を向けた新渡戸の考えは、「修養主義」「人格主義」と呼ばれました。戦後の教育基本法にも、その思想が引き継がれたそうです。

 

その後、世界は第一次世界大戦(1914-1919年)による大きな影響を受けます。欧州での戦火により日本は戦争景気に突入。まさにバブル。しかし、戦争終結後の反動はその分大きく、日本は一転大不況へ。さらに、1923年には関東大震災、1927年には世界大恐慌。戦争景気で供給力が大幅に増強された日本経済は、そのはけ口として、大陸への侵攻を目指すことが期待されるようになります。そして満州事変が起こります。(昭和6/1931年)

 

一方、第一次世界大戦後の社会改造の要求に伴う世界的な不安によって、日本においても1919-1920年に思想動乱の絶頂がもたらされます。そこから、生活の根本の見直しが生じ、精神のあり方として文化への態度が重視されるようになりました。(「文化住宅」は1921年からつくられました)

 

この頃の思想は、「文化主義」と呼ばれ、和辻哲郎、吉野作造、阿部次郎といった今日でも有名な方々が盛んに発信しました。文化主義とは、文化の向上・発達、文化価値の実現を人間生活の最高目的とする立場・主張であり、ドイツの新カント学派の影響を受けています。

 

文化主義を説明する際には、以下の表現が使われることが多いようです。

批判主義的、反原理主義的、反理念優越性、反自然主義的、理性主義的、普遍主義的、目的性、価値性、人格主義、人道主義、自由主義、歴史性、統合性、全体性、反独占主義、反軍国主義

 

こうした、文化主義のいわばエリートから大衆への啓蒙の流れとともに、大衆からの自発的な展開も時を同じくして広まっていきます。大正初めには、早くもカフェ文化が始まり、1915年には日本橋三越開店、1919年には宝塚音楽歌劇学校が開校、1920年代に入ると大正デモクラシーの波に乗って、モボ・モガが街を闊歩するようになります。

 

このようにエリート発と大衆発のふたつの流れが文化主義にはありました。しかし、前者つまりエリート発の文化主義は、政府によって弾圧されていきます。1909年(明治42)には、反共産/社会主義の観点から新聞紙法が成立し、新聞統制が始まります。1911年には大逆事件、社会主義者幸徳秋水が明治天皇暗殺を謀ったとの捏造で死刑に処せられました。また、1919年には新聞言論統制が強化され、1930(昭和5)には、治安維持法違反で三木清が逮捕、いよいよ社会主義者ではない文化主義者まで拘束されていきます。

 

1932年には青年将校が5.15事件を引き起こし、犬養首相を殺害。1935年(昭和10年)には天皇機関説が排撃され、国体明徴声明がなされました。あとは敗戦までまっしぐらです。5.15事件の裁判では、多くの国民が加害者たる青年将校たちに同情的だったそうです。政党政治への失望と昭和恐慌による農村の疲弊が、大衆の既存体制への攻撃を促し軍部を支持するようになっていきます。

 

エリート発の文化主義は、格差が急速に広がる日本社会の中で、理想主義的で無力な存在だと失望されていったのではないでしょうか。政府の弾圧がそれに拍車をかけた。一方の大衆発の文化主義は、それほどは弾圧されず、文化主義自体は衰えても大衆は力を蓄えていきました。その力を、軍部と政治が、ポピュリズムを実行するための対象としてうまく利用していったようです。賢い文化的エリートが唱える文化主義は弾圧し、大衆の文化主義はうまく育て国家の意図通りに動くように飼いならし動員する。非常に賢い行動だと思わずにはいられません。

 

こうして、大正デモクラシーのもと花開いた文化主義が、見事にわずか15年の間に国家主義/軍国主義を導いたのです。バブルとその崩壊、不況、大地震、格差社会、政党政治の劣化・・・、なんだか現在の状況と似ているようで、薄気味悪くなります。

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