2017年10月アーカイブ

ファシズム初期の兆候

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 昨日、伊藤塾の伊藤真塾長の講演を聴く機会がありました。とても熱い方で、緻密な論理とともに想いがビシビシと伝わってきました。お話の中で紹介していただいた「ファシズム初期の兆候」が大変興味深かったので、ここに記録しておきます。それは、アメリカにあるホロコースト博物館の研究者が、世界中の過去の様々なファシズムを研究してまとめたものだそうです。

 

 

・強力で継続的なナショナリズム

・人権の軽視

・団結の目的のため敵国を設定

・軍事優先(軍隊の優越性)

・はびこる性差別

・マスメディアのコントロール

・安全保障強化への異常な執着

・宗教と政治の一体化

・企業の力の保護

・抑圧される労働者

・知性や芸術の軽視

・刑罰強化への執着

・身びいきの蔓延や腐敗(汚職)

・詐欺的な選挙



ファシズムは遠い昔の出来事だったと思っていましたが、案外そうでもないかもしれません。



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一昨日は大雨の総選挙投票日。見るに堪えられない日本の政治状況と大雨が相まって憂鬱な一日になりそうでしたが、幸いそうならずにすみました。

 

ベネズエラ発の音楽運動である「エルシステマ」のフェスティバルにいったからです。エルシステマのモットーは、「奏で、歌い、そして困難を乗り越えろ」。10/22のガラコンサートでは、相馬子どもコーラス、ベネズエラのヴォーカル・アンサンブルグループである「ララ・ソモス」、そして井上道義指揮フェローオーケストラの三部構成でした。

 

相馬子どもコーラスの子供たちの歌は、ラッキイ池田による振付も効果的で驚くほどの完成度。また東京ホワイトハンドコーラスとも共演。東京ホワイトハンドコーラスは6月に結成したばかりで、今回初お披露目。ホワイトハンドコーラスとは、ベネズエラで22年前に誕生した聴覚障害者や自閉症などの困難を抱えた子供の参加を重視した合唱団です。白い手袋をしたパフォーマンス(手歌)を行うことからそう呼ばれています。耳が聞こえない子供だって合唱を楽しみたいはず、そういうことから始まったのだと思います。

 

今回は10数人の子供を中心とした公演でした。相馬子どもコーラスの歌に合わせて白い手袋をつけた手で、歌を表現します。(手の動き/サインマイムは子供たちも一緒になって考えたそうです。)耳が聞こえないため、耳の聞こえる指揮者が歌に合わせて白手袋でパフォーマンスし、それを子供たちが見て同期するように動かすわけです。ベネズエラからホワイトハンドコーラスの指揮者がわざわざ来て指揮しました。中には落ち着きがなく、なかなか合わせられない男の子もおり、後ろで演技する(多分)お母さんが手を焼いていましたが、なんとかやり遂げました。そういう子であっても仲間と一緒にコーラスに参加できることの価値はとても大きいと思います。人間は仲間と協働することに喜びを感じる動物であり、協働するための最も重要な能力は言葉を聞いて発声することです。しかし、生まれながらうまく発声できない子供には、協働することがなかなかできません。ましてや、みんなで音楽に合わせて歌うことなど不可能だと思われていたでしょう。でも、それを「乗り越える」ことを、エルシステマは可能にしたのです。素晴らしいことです。本当に子どもたちは楽しそうでした。

 

第二部のララ・ソモスは、視覚障害者と聴覚障害者それぞれ6人くらいからなる大人の楽団です。聴覚障害者はホワイトハンドコーラスのメンバーでもあります。視覚障害者の歌う歌に合わせてホワイトハンドが動きで歌詞を表現する。視覚障害者と聴覚障害者の双方に指揮者がいます。コーラス(歌)の指揮者は普通の指揮をしますが、視覚障害者の歌手にはそれが見えません。歌い手たちは軽く手をつないでおり、その中の一人は多分目が見えるのでしょう、指揮に合わせて両手のひらを軽く動かしサインを送っていました。それが歌いはじめの合図なのでしょう。歌いはじめれば、後は耳が聞こえるので全く問題ない。目が見えないことで、聴覚が研ぎ澄まされるのでしょう。素晴らしハーモニーでした。この日のために準備してきたであろう「上を向いて歩こう」は絶品でした。

 

ホワイトハンドの指揮者は、コーラスの音に合わせて白手袋での指揮をします。彼ら彼女らの表現力も素晴らしい。歌詞の意味は分かりませんでしたが、手と腕で世界を表現していました。やはり耳が聞こえないことで、健常者以上の表現力が身に付くのかもしれません。視覚障害者と聴覚障害者のコーラス団なんて想像もできませんでしたが、潜在能力を活かしあうことで高いレベルの芸術表現ができることを実証。ハンディキャップを新たな能力を発揮するための機会にしうるのです。

 

第三部では、ベルリンフィル、コントラバス奏者のエディクソン・ルイスも共演。彼は17歳でベルリンフィルのオーディションの合格したエルシステマのOBです。最後は、相馬子どもコーラス、東京ホワイトハンドコーラス、ララ・ソモス、フェローオーケストラの全出演者で、ベネズエラの第二の国歌と言われている歌を大合唱。エディクソン・ルイスも相馬の子供たちのバックを楽しそうに務めていました。

 

パラリンピックの浸透により、日本でも徐々にハンディキャップを「活かす」という考えが広がってきていますが、音楽のフィールドでそれを実現しつつあるエルシステマ・ジャパンの活動をこれからも応援していきたいと思います。

 

今晩は選挙一色のTVを観たくないなと思いながら、東京芸術劇場を後にしました。

「組織」を考える

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近頃またまた日本組織の不祥事や失敗が頻発しています。日産、神戸製鋼といった日本を代表する企業で「インチキ」が行われてきたとのこと。いずればれるとわかっているのになぜ?不思議です。また、希望の党の小池代表。「さらさら受け入れる気などない。排除する」との発言。実際そうだとしても、その発言が生まれたばかりの党組織や有権者に与える影響をどう考えたのか。どちらの例にしても、適切な組織マネジメントができないから起きた事象だと思います。

 

「組織」という言葉はとても多義的であり、簡単には説明できませんが、私が一番ピンとくるのは、こんな定義です。

 

複数の個人が相互関係を結ぶと同時に、それがまた個人を変化させる絶え間ない循環過程

 

つまり、組織図のような静態的なモノではなく、常に変化し続ける「状態」だという理解です。また単なる個の「集合」ではない組織であるからには、共通の目的と協調の意志とコミュニケーションが必要です。言い方を変えれば、皆の求心力となる「神話(物語)」が必要です。人類は150人くらいまでなら、リーダーが全員の顔を覚えられ影響力を直接行使することができるそうです。しかし、それを超える組織となるためには、共通の「神話」が必要です。さらには、構成する個人が常に情報交換を行う開かれた認知システムを持ってなければ相互関係を結べません。

 

このように組織を捉えると、トップダウンで組織を動かすことがいかに難しいかイメージできます。かつての軍隊組織であれば、トップダウンの組織運営が機能しましたが、その軍隊も不確実性が高いテロとの戦いではもう機能しないそうです。軍隊ですら機能しないのであれば、なおさら企業組織では無理です。

 

しかし、ほとんどのビジネスパーソンの頭の中では、旧式軍隊の組織がいまだに会社組織の中でも無意識にイメージされているのではないでしょうか。例えば、上司の指示で部下は動くのが当たり前と考えるように。経営学は戦略論も組織論も軍隊を参考に始まっているので、無理ないかもしれませんが、軍隊は例外的組織であり、現実は大きく異なります。

 

自転車の運転と自動車の運転の違いに近いでしょうか。自転車に乗れるからといって、すぐには自動車の運転はできない。とはいえ、見よう見まねでとりあえず自動車を動かせるようにはなるかもしれません。しかし、不安ですね。なぜ自動車は動くのか、どこをどう動かせばどう作用するのか、どんなリスクがあるのか、といった知識を知っておいたほうがいい。だから免許制度がある。

 

軍隊組織は自転車の運転のようにシンプルです。規律を強制することで、刺激と反応が直結するからです。しかし、現代の企業組織はもっと複雑です。刺激と反応の関係もよく見えない。

 

大きさに関わらずリーダーとは、「組織」という自動車の運転手。考えてみれば恐ろしいことです。自動車が動く理屈も知らず、教官に同乗してもらっての試験運転もせず、いきなり自己流で高速道路を運転するようなもの。猛スピードで、突然現れる他の車や障害物や道路規制あるいは故障などの突発事態に、瞬間的に自らの判断で操作できるような準備が必要です。しかも、かつては広々と見えた道路も、今では窮屈で運転技術も以前より高いものが求められるようになりました。

 

個人の集合体が組織になるわけですが、単純合計ではない。単なる個人と、組織に属する個人では、自ずと性格が異なります。(呑み屋にいけば観察できます)また、組織自体がまるで人間のような行動をとることもあります。(企業の暴走と構成員の暴走は別物です)

 

日本人は集団主義的だから組織での戦いには強い、という神話がありましたが、もうあまり信じる者はいない。今、あらためて「組織」が生成し行動するロジックと、それを踏まえた適切な運営手法について、深く考えてみる必要がありそうです。

総選挙報道を見ていると、日本政治も来るところまできたかと嘆息してしまいます。国会議員の多くは国家よりも自分が大事と考えていることが、毎日明るみに出ています。ただ、国会議員を嘆くことは、国民を嘆くこととほぼ同義。日本国民は、みみっちくて気の短い自分のこと目先のことしか考えていない人々の集団なのでしょうか。私もその一人であることを認めざるを得ません。

 

熟議がもともと苦手。他人の意見にすぐ左右される。問題があれば、手っ取り早くすぐに解決する結論が欲しくてたまらない。未解決の状況に耐えられない。

(本質的に解決されなくても、「XXX会議」「YYY革命」というものを立ちあげれば解決した気になる)

 

企業研修の場面でもしばしばみられる光景です。「で、答えはなんですか?」経営に正解はないと何度言っても、「じゃあ、先生の考える結論を教えてください。」問題を最短時間で解くことを求められたこれまでの人生、いきなり正解はないと言われても困ってしまう。とりあえず、すっきりすればそれで満足。

 

ここで受講者が望むような速最短で問題解決できる能力を、「ポジティブ・ケイパビリティ」といいます。特に近年、この能力開発に焦点があてられています。

 

それに対する「ネガティブ・ケイパビリティ」とは何でしょうか?本書によると、

不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ、不思議さや疑いの中にいられる能力。

 

以前私は「知的強靭さ」と表現しましたが、似ています。

 

手っ取り早い結論にすぐ飛びついて自分の心理的不安定さを解消するのではなく、そこを耐え、立ち止まってより本質を追求しようとすることができる能力です。この力によって、詩人キーツは本質に近づくことができたのですし、著者は精神科医として患者に向き合うことができたのだそうです。

 

道端に咲く花を見ても何も感じない人もいれば、その花の美しさに感動し詩や絵画で表現できる芸術家もいる。その病気を治癒することができないとわかって受診を拒否する医者もいれば、患者に共感し寄り添い続けることでいい影響を与えることのできる医者もいる。

 

人の判断は、ほとんどが過去の経験や知識に基づきます。つまり自分の持つ小さなフィルターを通してしかものを見て、そして判断せざるを得ません。そして結論を急げば急ぐほど、そのフィルターは小さくなりものが見えなくなります。問題も単純化せざるを得ない。短期的にはそれでもいい。(コンサルタントはその道のプロです)

 

しかし、人間が生きていくということは、単に問題を次々に解決し続けることではない。問題に直面したときに安易に判断せず、場合によっては問題と共存し時間を経ることで適応していくことも大切です。そこで必要なのがネガティブ・ケイパビリティです。

 

不確かさの中で、それから逃れることとは違います。かつてバブル崩壊直後、銀行の不良債権が積み上がっても、いずれ地価は上昇するだろうと高をくくって手を打たなかった銀行。これは、不確かさから逃れる態度です。一方、不確かさや曖昧さに正面から向き合うということは、心理的にはダメージがあるとしても地道に不良債権処理を進めることです。前者は、本当に地価が再上昇すると予測したのではなく、不良債権処理という後ろ向きな仕事をしたくないと思うが故の、希望的観測に基づいていたのは明らかです。それよりも、勇気を持って問題を正面から受け止め向き合うことが、適切な道であったことは歴史が証明しています。

 

これからますます不確実性が高まる世の中になっていきます。過去の知識に基づくポジティブ・ケイパビリティ―の威力はどんどん低下していく一方で、ネガティブ・ケイパビリティの必要性は高まる。

 

ネガティブ・ケイパビリティは、寛容とも近い概念です。拙速に敵味方、善悪、損得を判断し選別することの正反対です。たとえ異なる意見であっても、熟議し共通点を見つけて歩み寄る、それこそが「日本的美徳」だったのではないでしょうか。不寛容は日本だけでなく、世界中に渦巻いています。溜息がでます。

4022630582ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)
帚木蓬生
朝日新聞出版 2017-04-10

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