2015年7月アーカイブ

 ちょうど昨日から、鶴見さんの座談集「昭和を語る」を読みだしたところでした。残念でなりません。

 

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加藤周一、梅原猛、そして鶴見俊輔、私が好きな方(肩書がよくわからないので、方としておきます)に共通するのは、特定の大学の教授という身分を飛び出して、自分の学問的城を築いたという点です。

 

日本では、有名大学の教授ほど、安穏とした生活ができる職はありません。(もちろん、安穏とせず常に走っている教授もたくさんおられます)それを、蹴ってリスクを取り自分の主張ややりたいことを貫く、それこそが本物の研究者であり思想家だと思います。

 

鶴見さんは、同志社大学教授だった1970年、大学への警官隊導入に反対して教授を辞任したそうです。また、戦時中は、海軍軍属としてバタビアへ赴任しました。人を殺す命令をされた時のために、毒薬を携帯していたそうです。軍属だから上司の命令には逆らえない(逆らうべきではない)。しかし、人殺しは絶対にしたくはない。だから、自分で自分を殺すしかないと考えていたのです。自律した個人とは、こういうものの考え方をする人なのです。(企業は「自律した個人」を望んでいるといいますが、本当にそうでしょうか?)

 

雑誌「思想の科学」の意義を振り返るシンポジウムで壇上に立った鶴見さんは、こう述べたそうです。「思想の科学の誇りは50年間、ただのひとりも除名者を出さなかったことだ。」

 

この言葉に鶴見さんの本質が現れています。思想や主義主張が異なるのはある意味当然のことだが、自分と異なる立場の人たちを絶対に排除してはならない、それが根本の考え方なのです。現在のヘイトスピーチや数の論理で政策を通そうとする政治家の態度は、最も忌むべきものであったに違いありません。

 

また、固定観念に縛られず、徹底的に自分の頭と言葉で考え抜くことを貫いた人だと思います。常識的には低俗と見られていた漫画やチャンバラといった風俗を真剣に研究の対象としたり、無名の書き手(例えば映画評論家の佐藤忠男氏)を内容だけで評価し支援したり。常に弱者に寄り添い、とにかく自分自身の眼と頭脳と言葉を頼りに、未踏の荒野を切り拓いてきた鶴見さん、こういう人間が社会の進歩を促していくのだと思います。

 

西郷隆盛のこの言葉が、ふと思い浮かびました。

 

命もいらず、

名もいらず、

官位も金もいらぬ人は、

始末に困るものなり。

この始末に困る人ならでは、

艱難(かんなん)をともにして

国家の大業は成し得られぬなり。

 


2004年に、小熊英二氏とともに鶴見さんを3日間インタビューした記録を本(「戦争が遺したもの」)にした上野千鶴子氏は、追悼文で当時を思い出しこう書いています。

 

最終日、鶴見さんの饗応(きょうおう)で会食したあと、わたしはこんな機会はもう二度とないだろうと、別離の予感にひとりで泣いた。

 

泣かせます。たとえ世界でたった一人であったとしても、こんな涙をみせる人がいたら、その人の人生は幸福だったといえるでしょう。

 

ご冥福をお祈りいたします。

昭和を語る: 鶴見俊輔座談
鶴見 俊輔
4794968442

戦争が遺したもの
鶴見 俊輔 上野 千鶴子 小熊 英二
4788508877

日本代表する大企業であり、またガバナンス改革の先駆けとも評価されていた東芝が、2008年以降で純利益の約1/3にあたる1500億円も利益をかさ上げしていた今回の事件は、日本企業の経営についていろいろなことを考えさせます。

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報道を見る限り、西田元社長と佐々木前社長の軋轢がこういう事件を引き起こしたのであり、田中現社長を含むこの三人を解任することで幕引きのようにも見えなくもありません。

 

また、現在強烈に推奨されている社外取締役をはじめとしたガバナンス改革は意味がないのでは、との意見も見られます。

 

まず、はっきりさせるべきはこの事件とガバナンス改革とは無関係ということ。ガバナンスとは、正しい情報が経営陣(社外役員含む)に提供されることが前提で、その上でその情報に対してどのような意思決定がなされるか、そのプロセスが適切になされるための仕組みです。ガバナンス制度が正しいからといって、正しい結果がでるとはいえません。必要条件であり、十分条件ではありません。

 

では、今回なぜこのような事態が起きたのか。素人でも思いうかぶ疑問を列記します。

 

1)社外役員がこの不正を見抜けなかったのは理解できますが、なぜ詳細な会計情報を把握している監査法人が見抜けなかったのか?

2)トップが目標達成に向けて、下にプレッシャーをかけるのは当然です。でも、なぜ麻薬のように明らかに後で大変なことになることが分かりきった不適切(違法でなかったとしても)な会計処理を、歴代の社長は(暗にであったとしても)促し続けたのでしょうか?(オリンパスを思い出します)

3)同様に、なぜそのトップの指示に対して、その下の責任者は拒否することができなかったのでしょうか?

 

問題の原因は、三人の経営者固有の資質やスタイルにあるとは思えません。もっと構造的問題がありそうです。

 

目先の利益を優先し、将来より大きな損失が発生する可能性に目をつむるという心理です。実際、今回の事件で東芝が失うであろう損失は、1500億円を大きく超えるでしょう。

 

なぜ、経営者がそんなことをしてしまうのか?

ひとつには、自分の社長任期(4年程度か)にさえ露見しなければ逃げられるとの楽観的認識があったのかもしれません。

 

もうひとつは、自分は直接的には不適切な指示は出していない、部下がそう解釈したにすぎないとの、言い逃れができるとの安心感もあったのかもしれません。確かに、日本の社会では、直接的に表現しないでも、相手が慮って解釈してくれる、そういう人こそ「大人」でありできる人間だ、との暗黙の了解がある気もします。しかし、相手が拡大解釈して、発信者の思惑を超えてしまうような間違いもよく起きます。

 

こうなると、「誰が悪いのか」を誰もわからなくなってしまいます。新国立競技場のドタバタもまさにそう。犯人が分からないので、何となく責任追及が曖昧になり、その結果同じ間違いをえんえんと繰り返す。これは役所も企業も同じです。

 

では、プレッシャーを受けた部下の方はどうでしょうか。なぜ拒否できなかったのか。ひとつは、不適切なことをやってしまったとしても、その責任は自分ではなく上にある、との逃げ道があると思い込んでいたのか。しかし、この論法は先に述べたように、相手方にも逃げ道があります。

 

もうひとつは、「私腹を肥やすためではなく、会社のためにやっているんだ」と自分に言い聞かせているのかもしれません。それは事実だとは思いますが、「会社のため」になると確信を持てているのでしょうか。

 

責任をだれが取るか、誰のためかの議論以前に、「不適切なことは、何があってもやらない」との信念があるかどうかです。その信念がないから、こういう事件が起き続ける。これは、トップも現場責任者も同じです。日本を代表する俊英が集まっている企業の、さらにその上澄みの人たちが、なぜそうなのか。ここが最も大きな疑問です。


絶対的神を持たない多くの日本人ですので、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の心理が、善悪の基準を曖昧にさせるということはあるかもしれません。(「みんな」とは「うちの会社」のみんな)

 

今朝の日経新聞で、日本取引所前CEO斉藤惇氏はこう述べています。

「新しい形を入れようという試みは悪い事ではない。けれども、その後の人材育成などを含め、真剣に会社を変えるための行動が伴わなければ、空回りに終わってしまう。経営者が自分の頭で考えることがますます重要になってくる。」

 

新しい形を作ることで満足してしまい、その後は思考停止に陥ることは、よく見られます。しかし、「自分の頭で考え」ない経営者がいるのでしょうか?驚きです。多くの経営者を見てきた斉藤氏がいうのだから、そうなのでしょう。

 

したがって、今回の東芝の事件から導き出される最も重要なメッセージは、「経営者は自分の頭で考えろ」なのではないでしょうか。なんとも情けない話ですが。考えない経営者の下に、考える部下が大勢いるとはとても思えません。まずは、経営者の考える力を高め、さらに順々に下の層にもそれを広めていく。なんとも寂しい結論になってしまいましたが、それが現実であり、そこから手を付けるべきなのだと思います。そのように、経営者の首に鈴をつける役割が、最も(よその人である)社外取締役に期待されていることなのかもしれません。やれやれ、・・・です。

 

現代において、経営者の役割の多くを企業変革が占めているといってもいいでしょう。右肩上がりの時代であれば、組織をうまく調整して秩序を維持しながら、組織の力を発揮させる環境整備が、経営者の役割でした。神輿に乗るにもそれなり力量が求められていました。しかし、今は違います。あらゆる業界において、不確実性のレベルが全くそれまでとは異なるからです。

 

では、過去の自分のそして組織としての経験が活かせないこういう時代の経営者をどうやって育成するのか。ひとつは、そういう経験者の話を聞き対話することで、気づきを得る方法です。

 

その場合は、外部から企業変革の経験者をよび対話することになります。なぜ、外部か?社内には経験者がいないから。仮にいたとしても、社内の年長者の経験談を、公式の場で話してもらう場合、多分にバイアスがかかることが多いからです。本音の話をすると、必然的に社内の他のだれかを傷つけることになります。それは、まだその話が新しければ新しいほど、日本の組織社会ではタブーとなるのです。大人げないと。そこで、外部から経験者をよぶことになるのです。

 

外部の人であると、率直な質疑応答が可能になります。受講者が、講演者の話を自分の問題と紐付けて聞き、そこで生まれた疑問をすぐに質問できることは、とてもいい学習機会となります。

 

ある企業の経営幹部を対象とした研修に、外部から変革を実行した経営者を招へいしたプログラムを数年にわたって実施しています。講演60分、質疑応答30分の設定ですが、質疑応答は毎回時間がたりません。

 

経営者として企業変革を何度も経験する人はほとんどいない。ほとんどの人は、一生に一度しか経験することができないにも関わらず、大きな責任を抱えてその一度に挑むことになるのです。だから、経験者との対話は役立つはずですが、他の人の経験から得られた知識が、そのまま自分の企業で使える可能性は、実は高くはない。あまりに、問題の個別性が高いからです。

 

したがって、そういった知識の量ではなく、大事なのは他人の経験を抽象化して、自分の状況と照らして合わせて考えることができる能力です。この能力があって、はじめて経験者との対話を活かすことができます。その点で、先ほど述べた企業の受講者のレベルは高い。だから非常に有効です。他人の経験から学ぶことができれば、世界中に先生がいることになるわけですから、その後の成長スピードは速い。

 

もうひとつ重要なのは、やはり自分自身の世界観や事業観です。それがなければ、自分にとってのいい「先生」を選ぶことができない。数多くの先生の中から、現在の自分の状況にフィットする人(つまりフィットする教え)を選ぶことは、非常に難しい。同じ状況であったとして、わたしとあなたでは選ぶべき先生は違ってしかるべきだと思います。

 

結局、意識しないとしても選ぶ基準はそれぞれが持っているのです。それを規定するのが、世界観です。世界を、日本を、自社を、人間をどのようなものとして認識するのか、ということです。

 

これまで日本の大企業の変革で成功した事例は、そのタイミングで最もふさわしい世界観を持つ経営者が選ばれたケースではないでしょうか。(最近の事例ではJALと稲盛氏)

 

経営者候補自身の観点からいえば、どれだけ独自の世界観を持つことができるか、その上でどんな自他の経験から学ぶかが勝負です。一方、長期的に会社全体の利益を追求するもの(一般には株主とされる)の観点からは、そのタイミングでどんな世界観を持つ人を経営者に選任するか、そこが勝負です。しがらみを抱えた社内役員だけで、そういう冷徹な判断をすることは難しいでしょう。だから社外取締役が求められている。

 

ただし、オーナー企業やオーナーが存在感を示す企業(トヨタ、ユニチャームなど)では、社内役員でもある創業家出身者が、企業の長期的繁栄を第一に考える傾向があるため、経営者を選択する能力が高い気がします。

 

結局のところ、学習能力が高く独自の世界観を持つ人間を複数見つけ、その者たちに多くの学ぶ機会を与え、適切な時期において適切な世界観を持つものをその中から選び経営を託す、その繰り返しが優れた企業のやり方なのだと思います。

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