2010年1月アーカイブ

今朝の朝日新聞に載っていたサッカー岡田代表監督と福岡伸一氏の対談が面白かったです。

 

福岡氏には「動的平衡」という著書がありますが、岡田監督はその概念をチームづくりの参考にしようとしているようです。

 

岡田監督がこんなことを話しています。

岡田監督.jpg 

フォワード選手がシュートすべき場面で、パスしてしまったとする。かつては、試合後そのビデオを見せながら、ここではシュートすべきだと指導していた。すると、その選手は後の試合で、ここはパスかシュートか迷ってしまった。同じ場面は二度とないのだから。今では、同じようなことが起きても、ミーティングで見せるビデオ作りを工夫している。過去パスで成功した映像をたくさん集め、その中に一つだけシュートして成功したシーンを混ぜておく。そして、他の選手にも聞こえるように、「今のは、いいシュートだった」という。

 

一方、守備の選手への対応はちょっと違う。防御は、ある程度がロジックだ。そうすべき理由を丁寧に説明する。

 

 

うろ覚えですが、こんな内容でした。攻撃と守備で対応が違うのも、言われてみれば確かにそうです。主導権が自分にある場合、必要なのは定石云々よりも、一瞬のひらめきでしょう。先手を取れるわけですから、そのアドバンテージを最大限利用すべきです。だから、迷わせるような指導はいけないのです。より重要なのは、定石を知っているかどうかよりも、判断スピードです。

 

それに対して、守備は後手です。不確実性が高い守りでは、できるだけリスクを最小化しなければなりません。そのためには、定石、ロジックに従うことが、もっとも失敗確率を小さくするのです。

 

あと、ビデオの使い方も面白いですね。多くのパスシーンにシュートシーンを挟み込む。選手は、パスする自分を見て満足しながらも、「シュートも悪くないかも」と気づく。そのちょっとした自信が、潜在意識にインプットされ、迷うことなく無意識のうちにシュートするかもしれません。フォワードには、指導より「気づき」のほうが有効なのでしょう。

 

これは会社でも同じです。銀行業務のようなリスク回避型の仕事では、ルールの徹底とロジックの理解が大切です。よって、指導が必要。一方、創造性を重視する仕事では、どんなに「創造せよ」と指導しても無意味です。本人の気づきを促す、場を整備することしかできません。その使い分けこそが、マネジメントだと思います。

 

生命科学を踏まえたサッカー日本代表チームができあがったら、結構ワールドカップで暴れるかもしれません。

ダイアローグ(対話)の重要性が、だいぶ企業の中でも浸透してきたように思います。効果的なダイアローグを進めていくには、問いかけの力が欠かせません。

 

これが実は非常に難しいのです。質問と何が違うのか?

 

質問とは、疑問を相手に投げかけ、答えをうることにより聞き手が満足する行為です。問いかけは、相手に対して、思い込みや固定したマインドセットに目を向けさせる行為です。従って、聞かれた人が、自分自身で気づいていなかった自分に気づき、満足するはずです。

 

的確な問いかけは、相手にメタ認知させるわけです。メタ認知とは、自分自身をもうひとりの自分が上空から眺めている状態のイメージです。(元ヤクルトの古田さんは、優れた捕手には、上から見ているもう一人の自分がいると、言っていました)

 

では、メタ認知を促す問いかけを発するには、どうしたらいいでしようか。これには、ある程度の経験が必要ですが、代表的な型もあるような気がします。

 

他にもあるでしょが、以下4つが思いつきました。

●前提を疑う:「そう言うけど、本当にそう?」

●可能性を広げる:「他の方法もあるんじゃない?」

●根っこを掘る:「それは、実はXXだからじゃない?」

●やり直しを問う:「もし、今だったらどうする?」

 

思い込みや偏見、勝手な前提によってがんじがらめになったと感じたら、だれかに問いかけてもらうとういいかもしれません。案外、自分のことを一番わかっていないのは自分だと、あらためて気づくかもしれません。

先週の土曜日、「サードプレイスコレクション2010というイベントに参加してきました。家庭でもない、職場でもない、「第3の場」の可能性について考えるというパーティーです。そこで、私が考えたのは、遊びと学びと仕事の関係についてでした。

 

一般に、「学び(勉強)」の反語のひとつは、「遊び」でしょう。また、「仕事」の反語のひとつも、「遊び」でしょう。すると「遊び」=「仕事」といえなくもないですね。(かなり、こじつけですが・・)

 

そこで、「遊び」とはなんだろうかという疑問を持ちました。すると、たまたま聴いていたFMラジオで松尾貴史氏が「遊び」の定義を話していました(誰かの受け売りだそうですが)。曰く、

 

「遊び」は4つの条件を満たしている。

1)    めまい:ジェットコースターに代表される不規則な身体的刺激

2)    物真似:ままごとに代表される何者かになりきること

3)    偶然:人生ゲームやギャンブルに代表される不確実性にさらされ、スリルを感じること

4)    競争:鬼ごっこやかけっこに代表される他者との競い合い

 

確かにどんな遊びも、何らかの形で4条件を満たしているような気がします。たとえば、私の謡の稽古も一種の遊びです。大きな声を出すことより、軽いめまいを覚えることもあります。もちろん先生を真似ることがベースであり、稽古仲間の進歩を意識するということは、実は競っているのかもしれません。謡い方の基本ルールはありますが、状況により変化することも多く、未熟な私から見れば偶然性に依存しているようにも思えます。この遊びの4条件を満たすから、謡も遊びとしてわくわくし楽しめるのかもしれません。

 

このような「遊び」から、学んでいることは確かです。子供は遊びから、社会生活の要素を学びます。学びが仕事に役立つこともきっとあるでしょう。そして仕事が充実すれば、遊びにも力が入ろうというものです。

また、反対の回転もありそうです。仕事を通じて学び、学びのプロセス自体が遊びになっていき、遊びの中から仕事のヒントがうまれるというサイクルです。

 

どちらにしても、遊びと学びと仕事は対立概念ではなく、それぞれ補完し合うものだと考えるべきでしょう。そうなると、先ほどの遊びの4条件を、学びや仕事にも適用してみたくなりますね。

 

ところで、土曜のパーティの帰りに、プレンゼンターの一人だった上田信行さんの著書「プレイフル・シンキング」を見つけ買いました。そこにこういうフレーズがありました。

プレイフル・シンキング
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プレイフルとは、物事に対してワクワクドキドキする心の状態をいう。どんな状態にあっても、自分とその場にいる人やモノを最大限に活かして、新しい意味を創りだそうとする姿勢(中略)。プレイフルな状態を生みだすための思考法が、「プレイフル・シンキング」である。(中略)

 

人生を楽しく豊かにしてくれる一番の経験は、「学び」である。学びとは、学校や本での勉強ではなく、人やモノとのかかわりにおいて自分の頭で考え、発見し、創造していく学びのことだ。日々の実践を通して人は学んでいくのだと考えれば、働くということもダイナミックな学びの場だといえる。そして、楽しさの中にこそ学びがある。

 

「プレイフル・シンキング」とは、遊び心のことかもしれません。学びも仕事も、何事も遊び心をもってのぞめば、楽しく前に進んでいけそうな気がします。

昨日、日本CHO協会主催「スマートHRD養成講座」の第三(全四回)回を開講しました。企業で人材開発に携わる方々のレベルアップを図ることを目的とした講座です。一貫したテーマは、「経営戦略遂行のために人事・人材開発が何をすべきか」です。

 

初回は、拙著「人材開発マネジメントブック」(日本経済新聞出版)の内容を、ざっとインタラクティブレクチャー形式で行い、第二回は「花王―研修取組2006」というKBS開発ケースをつかって、ケースメソッドを、そして昨日の第三回はライブケースとして、旭化成㈱の事例を取りあげました。

 

 

同社労政・人事部長の元田勝人さんに来ていただき、「旭化成におけるグループ人事マネジメント」というテーマで約45分間講演いただいた後、三つの設問を提示しました。設問を簡単に書くと以下です。

 

1)分社化(2003年持株会社制に移行)に伴い,各事業会社独自の専門能力開発と、グループ全体で必要な能力開発をどうバランスとっていくか

2)求心力を高めるため、経営理念の浸透をいかにはかるべきか

3)グローバル展開加速に向けて、どのような目標と施策を打ち出すべきか

 

そして、グループごとに検討、発表し、元田さんも交え対話を進めました。

 

 

意見の詳細は書きませんが、会社や立場こそ違え、本質的な課題は多くの企業で共通だということがよくわかりました。受講者の皆さんは、「うちも全く同じなんだよな」などと言いながら、熱く発言されていました。皆さん、いくつかの共通するトレードオフに悩んでおられるのです。

 

問題の本質は共通でも、様々な理由により対応の方向性や打ち手、その反応は、会社によって異なります。なぜ、異なるかを認識することが、自社の特徴や状況を浮かび上がらせることになります。

 

ずっと企業の中で議論していても、なかなか自社のことは見えないものです。深い検討を進めるには、一度客観視してみることが必要で、そのためには、同じような問題意識を持った外部の人たちと対話することが最も効果的なのだと思います。

 

東大の中原さんではないですが、シリアス・ファンで対話するこういう「場づくり」を、もっともっとやっていきたいですね。

 

 

私の拙いファシリテーションではありましたが、最後に元田さんから、「今日はいろいろヒントをいただいた」とおしゃっていただき、少しほっとしました。(元田さん、ありがとうございました)

 

なお、次回(最終回)は、他社ではなく受講者自身の会社の経営課題を題材にして、対話を行います。みんなで真剣に知恵を絞り、具体的なアイデアを生み出す場にしていきたいと思います。

本日の日経朝刊、スポーツ欄のコラム「フットボールの熱源」に、こうありました。

 

あるJリーグの中心選手のこんな嘆きを聞いた。「うまくないたいと思っているのだけど、どこに問題があって、じゃあ何をどうしたらいいのかと、自分で考えないプロがいるんですよ。そういう選手を見ていると、もったいなあと思う」(中略)

 

サッカーについて、奥行きのある話のできない選手がわりと多い。それは普段サッカーについてとことん考え抜いていないからではないか。サッカーは監督やコーチが教えてくれるものと思っているのではないか。(中略)

 

選手の独学精神を育むことこそ、指導者の最も大事な仕事なのではないか。

 

 

これを書いている吉田誠一記者のサッカー記事には、以前から気になっていましたが、やはり面白い視点です。

 

Jリーガーですら、「学校の生徒」みたいになっている。いわんや、ビジネスパーソンをや。上司や先輩が自分を育ててくれると、待っているのでしょうか。

 

このコラムで一番共感したのは、最後のフレーズです。指導者とは、指導することよりも、選手が自分で学ぶように躾けることだと言っている点です。

 

 

数日前の「カンブリア宮殿」で、劇団四季の浅利慶太氏が、オーディションで何を見るのか?との質問にこう答えていました。

 

「部屋に入り、名前を述べた時点で、だいたいの才能はわかる。歩き方で、骨格や体の使い方がわかるし、話せば声量や声の質はわかる。しかし、わからないのはどれだけ根性があるかどうかだ。これが重要なのだが、取ってみなければわからない。」

 

そういう所には才能あふれる人しか集まりません。何がその後の成功を決めるかといえば、運と根性なのでしょう。根性は、独学精神にも通じる気がします。世界は違いますが、イチローにしろ、松井にしろ、有り余る才能に強烈な独学精神を持っているのは明らかです。

 

スポーツや演劇の世界であろうが会社であろうが、独学精神を育むことは、ものすごく大変でしょうが、「学び方を学ばせる」ことなら、なんとかできそうな気がします。そんなところから、地道に始めるのがいいかもしれませんね。

内田樹さんの「日本辺境論」に、こんな記述がありました。 

 

弟子はどんな師に就いても、そこから学びを起動させることができる。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であっても、その人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する。(「日本辺境論」P149

 

日本辺境論 (新潮新書)
4106103362

 

内田さんは、辺境人たる日本人は、こうして「中心」から学ぶための、素晴らしく効率のいい学びの技術を修得したのだと指摘しています。

 

 

また、世阿弥は「風姿花伝」にこう書いています。

 

上手は下手の手本、下手は上手の手本なり

 

上手が下手の手本は当たり前ですが、下手も上手の手本になると言っているわけです。上手にも悪いところがあり、下手にもよいところが必ずあるもので、自分の技能がある程度のレベルに達したら、「下手のよき所を取りて、上手の物数に入るる(芸の一つに加える)こと」が肝要だとも説いています。つまり、すべてが師になり得ると。

 

 

いっぽう、比較の心が芽生え、自分が偉いと思ってしまう(慢心)と、学びが起動しなくなってしまいます。それを、世阿弥は、以下の言葉で指摘します。

 

稽古は強かれ諍識(じょうしき)はなかれ

 

諍識とは、慢心から生じる争う心のことです。他者を自分と比較して、劣ると見下すことです。そういう心を一切排除して、稽古に励めと説いているのです。稽古とは、古(いにしえ)をかんがえることだそうで、古来の型をひたすら真似ることです。そこに、比較対象はありません。世阿弥は、日本人の学びの大先生です。

風姿花伝 (岩波文庫)
4003300114

 

 

ところ、最近の職場で、「若手が学ばない」と嘆く声をよく耳にします。あるいは、上司の育成力が落ちているとも。

 

もし、以前は職場での学びが機能していたとすると、何が変わったのでしょうか。暗黙のうちに伝授されてきた、学びの作法が、現在職場で失われつつあるのかもしれません。

 

「上司は、若手に対して、なぜそれを学ばなければならないかを、合理的に説明しなければならない」、「最近の若手は、理屈で納得しなければ動かない」

 

といったフレーズもよく耳にします。確かにそういう側面はあるのでしょう。「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いが、話題になるような時代です。

 

しかし、そういう風潮が、日本人の強みであった学びの力を落としているのかもしれません。理屈はともかく、まず稽古(型を真似る)することで、学びを起動させるアプローチに立ち返ることが必要なのではないでしょうか。一見非効率に見えて、実はそれが最も効率的だという気がします。

教えることは学ぶこと。これには二つの意味があると思います。ひとつは、教える現場での学び、二つ目は準備段階での学びです。

 

 

ひとつめ。

特に企業研修の場では、講師も受講者も「学ぶ」という一点においては同等です。受講者がビジネスパーソンの場合、講師より経験でも知識でも上回ることは珍しくありません。また、自分(講師)にない視点を提供してくれます。なので、講師が、教えながら受講者から学ぶのは当たり前のことです。

 

 

ふたつめ。これが、ものすごく重要です。

講師を務めるには、膨大な準備が必要です。担当するテーマについて、講師は豊富な経験や知識を持っているのもまた当然ですが、それらは断片的な経験や情報、知識の蓄積であり、倉庫に雑多にぶち込まれている状態です。とはいえ、本人はどこに何があるのかは把握しており、必要があれば割と容易に引き出せます。

 

ところが他者に教えるとなったら、話は全く別です。他者たる受講者に、そんな倉庫をただ見せても、何がなんだかわかりません。

 

そこで、倉庫内の棚卸と整理が必要になります。これが大変です。まず、何が教えるのに値するのかの仕分けが要ります。そこでは、一定の概念化がなされるはずです。単なるデータや情報ではなく、ある目的に合致した知識のレベルに抽象化しないと、伝えることはできません。

 

次に、教えたい情報や知識(コンテンツと呼びましょう)が、それぞれどういう関係にあるかを整理します。一見ばらばらに見えるコンテンツにも関連性があります。そして、学ぶのに最も役立つのは関連性だからです。

 

次には、学び手の頭の構造を想定した上で、コンテンツを展開する流れ、すなわちストーリーを創る必要があります。やはり、ドラマチックな展開のほうがインパクト強く学び手の頭に入りますので、それも意識したいです。自分が言いたい順番と、他者が知りたい順番(すなわち渇望感)、そして他者が理解しやすい順番は異なります。

 

このように、結構大変です。このプロセスは概念化とコミュニケーションのプロセスともいえます。つまり、他者の視点を組み込んだ(したがって独りよがりではない)経験学習がなされているとも言えるのです。非常に効果的な学習がなされるはずです。そして、それは大きな財産となります。一度、このプロセスをやりおおせれば、自分の頭の中が整理できるだけでなく、経験学習の仕方も体得できるからです。そうなれば、学習能力もぐんとアップするでしょう。

 

こんなに素晴らしい体験を、外部の講師だけにやらせておくのはもったいない。研修といった特殊な状況に限定せず、社員が教える機会を、もっともっと増やすべきだと思います。忙しさにかまけて教えないと、自分も学べなくなるのです。ただし、倉庫を開けるだけでは意味がないことは、言うまでもありません。正しい手順に従いましょう。

ヒューマンキャピタルという言い方は、やっと一般的になりつつあるようです。ヒトは、減損する資源(リソース)ではなく、蓄積・拡大する資本(キャピタル)であるとの考えに基づくのでしょう。企業サイドから見れば、その通りだと思います。また、個人としても自分自身のキャピタルを意識すべきでしょう。

 

ところで、最近個人であろうが組織であろうがナレッジ・キャピタルとレピュテーション・キャピタル、ポリティカル・キャピタルの3資本が欠かせないと考えています。(長いので、それぞれKCRC,PCと略します。)

 

まず、KCですが、経験や学習によって獲得したナレッジは、基本的には蓄積されます。その意味では、典型的キャピタルです。過剰適応の問題はありますが、KCの蓄積はどういう環境であろうが持続すべきですし、質の良いKCを蓄積することを心がけるべきです。

 

次にRCです。レピュテーションとは、名声、評判そしてそれらにより構築される信用やブランドを表します。これも、ネガティブなRでなければ蓄積されます。ただし、時間の経過によって、薄れる特徴があります。それが資金との大きな相違点です。したがって、継続的な獲得活動が必要になります。名前を忘れられないように。

 

最後のPC。ここでのポリティックとは、他者(他社)へ影響力を行使できる力を表します。これは、KCRCの結果ということもできるでしょうし、それ以外にもたくさんその源泉はあります。権力、おカネ、人脈、知名度、人柄、人気、期待などたくさん考えられますね。PCの源泉には、固定的性格のものもあれば、移ろいやすいものもあります。新政権は、100日以内は国民とハネムーン期間だと言われますが、そのPC100日間しか有効ではないということです。(その間に大きな成果を上げれば、PCは増大します)

 

さて、これらのキャピタルはお金で測ることができず、従ってBSPLに表記されません。さらに、それぞれの獲得を目的とした投資とリターンの関係も明確にはわかりませんし、リターンが見えるまでに長い時間もかかるでしょう。

 

しかし、その重要性は日に日に高まっています。したがって、3キャピタル獲得を信じて、日々継続して地道に活動するしかないのです。信念と忍耐強さが欠かせません。

「ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争 上・下」を読んで、「大きな物語」の重要性を再認識しました。戦闘でいかに勝つかも重要ですが、もう少し時間軸を延ばして判断・評価することはさらに重要です。(ここでの「物語」は、本の内容の意味ではありません)

 

例えば、日露戦争での勝利が太平洋戦争での敗北を導いたという見方もできるでしょう。だとすれば、日露戦争で勝ったことが日本にとって良かったことなのか。

 

先の本で言えば、朝鮮戦争への介入で新生中国は国内のみならず世界でも地位を固めたといえます。しかし、それが毛沢東の独裁を招き、その後の文化大革命などの悲劇を導いたともいえます。朝鮮戦争に介入しなかったソ連が漁夫の利を得たという見方もできますが、それがアメリカの冷戦志向を強化し、ソ連崩壊を促したともいえます。

 

ハルバースタムはそうは書いていませんが、朝鮮戦争で最も得をしたのは日本かもしれません。しかし、そこで原型が造られた経済構造に、今日本が苦しんでいるのもまた事実です。

 

また、アメリカも、朝鮮戦争からベトナム、そしてイラク、アフガニスタンへと脈々とした流れができます。結局アメリカも、大きな物語で捉えるのではなく、国内政局や特定企業の利害といった小さな物語で動いているのだと、本書は主張しているようです。

 

このように、ある事象の成否はどの時間軸で見るか次第です。そして、長い時間軸で捉えたものが「大きな物語」であり、それを描けるリーダーがいるかどうかが、国家においても企業においても、死活問題になる気がします。別の言い方をすれば、それが戦略的思考なのかもしれません。

 

残念ながら今は、「小さな物語」の中でいかに得をするか、に皆が汲々としているように思います。その際の基準は、現時点における他者との比較です。いわば空間スケールでしか判断せず、時間スケールが欠落しているのではないでしょうか。

 

 

今年のNHKの目玉「坂の上の雲」や「龍馬伝」は、それぞれの時代における「大きな物語」を描いていこうとしているのかもしれませんね。時代は、あらためて「大きな物語」を求めているような気がしないでもありません。是非、そうあってほしいです。

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上
山田 耕介
4163718109
ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 下
山田 侑平
4163718206

恥ずかしながら、先日初めてシルク・ドゥ・ソレイユ(コルテオ)を観ました。競争のない新たな市場空間を創造する「ブルーオーシャン戦略」の代表例であることは、本で読んで知っていましたが、観てはいなかったのです。

シルク.jpg 

物語調のサーカスくらいに思っていましたが、そんな簡単に言葉で置き換えられるようなものではありませんでした。確かにブルーオーシャンです。

 

一流のサーカスでも、一流の芝居でも、一流のミュージカルでもない、それはまさしく「シルク・ドゥ・ソレイユ」でした。

 

 

        ただ、高度なスキル(オリンピック選手クラスだそうです)をアクロバティックに披露するのではなく、舞台に立つ出演者全員のハーモニーの中で見せる

        技術に驚き興奮するだけでなく、それに観る側の想像力を融合して楽しむことができる。たとえば、トランポリンの演技ではあるものの、ベッドにトランポリンを組み込み、子供時代の遊びを想起させる

        多くの演目が、ある道化師の夢と再現という、大まかなストーリーに沿って、次々展開されるため、さらに全体の大きな物語を想像しながら演技を楽しむことができる

        楽団による生演奏と、演技が一体となって進行する。背景としての音楽というよりも、音楽が演技の一部を構成。その意味では、オペラや近い。

 

サーカスやミュージカルの比較でいうと、

既存のサーカスが、技で驚かすのに対して、技で観客とコミュニケーションする。

既存のミュージカルやオペラ、芝居が、台詞や歌による言語も使って表現するのに対して、研ぎ澄まされた肉体と、それを完璧にコントロールする技術だけで表現する。

 

 

課題設定の重要性を痛感します。

これまではあるレールの上で、課題解決(技を磨くなど)を追求してきたのでしょうが、そもそも課題そのものを変えてしまったのです。楽しさや興奮をいくら追及し、競争してもおのずと限界があります。フィールドを、パフォーマンスの知的洗練度と芸術性に設定し直したのが、シルクです。そこがブルーオーシャンでした。

 

また、フィギュアスケートの採点ではないですが、肉体を駆使したパフォーマンスでは、スキルと芸術性は独立した価値として扱われてきたように思います。芸術性を高めるには、技術の難易度を下げようかと発想します。しかし、シルクはスキルと芸術性の両立があって初めて観客を感動させることができると考えているようです。

 

そういう意味でいえば、トレードオフを解決したともいえそうです。価格と品質のトレードオフを実現したかつてのトヨタのように。ただ、トヨタと違うのは、トヨタがそれによって既存市場の中でシェアを奪ったのに対して、シルクは新しい市場空間を創造したことです。サーカスやミュージカルの顧客を奪ったのではありません。それまでサーカスやミュージカルに関心を示していなかった人々をひきつけたのですから。

 

物語や想像力の重要性、課題設定の巧拙、市場創造、トレードオフなど、いろいろなことも考えさせてくれた、素晴らしいパフォーマンスでした。

 

あらゆる分野の一流が結集すると、まだまだ凄いことができるのですね。

昨晩、加藤健一事務所による「シャドーランズ」を観ました。正月から、人間の死と愛をテーマとした重い芝居でした。

 

いろいろ考えさせられましたが、二つの台詞(うろ憶えです)が印象に残っています。背景には、カソリックの教義があるようです。

 

 

「元来、人間は石のようなものだ。神がノミで削りながら、完成させていく。だから、痛いのは当たり前だ」

 

「苦労は買ってでもしろ」と日本でも言いますが、それと表面的には同じような意味でしょうか。ただ、映像をイメージさせるこの台詞には、説得力があります。死ぬまで完成はしないのでしょうが、少なくとも少しずつは完成に近づきたいものです。そう思わされました。

 

また、痛みの積極的な意味合いを気づかせてくれます。今の世の中、痛みを抱えない人はいないでしょう。痛みをポジティブなものにするか、ネガティブなものにするかは、その人次第です。勇気を与えてくれる言葉です。

 

 

「神に祈るから神が願いを叶えてくれるのではない。それなら、神が取引をしていることになる。祈ることによって、自分が変わるから願いが叶うのだ」

 

他力による自力とでもいえるでしょうか。以前、「われは木偶なり」という言葉について書いたことがありますが、それにも通じるものだと思います。祈るという謙虚な行為が、邪念を振り払い本来の自分に立ち返らせてくれるのでしょう。

 

これを読んでおられる方は、そんなの当たり前だ。あえて書くほどのこともないだろう、と感じていらっしゃるかもしれません。それは当然です。私は、昨晩観た芝居を思い浮かべながら書いているわけで、そのコンテクストをあなたと共有できるとは思えません。言い方を変えれば、演劇の力が、強い説得力の源泉にあるのです。

 

 

ところで、組織文化を変えることは非常に難しいことです。変えることの必要性をどれだけ合理的に説明されて、頭で理解したところで一人一人のマインドセットはなかなか変わりません。

 

合理性ではない物語や演劇の力が、企業変革や組織開発には欠かせないことを、あらためて確認した思いです。(ちょうど組織文化変革について考えていたので・・・)

 

シャドーランズ.jpg

 

「本物にどれだけ触れてきたかが、長い目で見れば人間としての能力や魅力の大きな差につながってくる」

 

昔何かの本で読んだことがあり、それがずっと頭の中に残っています。流行に左右されるものでない本物は、人間の核を形成するのに大切だと思います。

 

また、田中清玄がこう書いていました。

 

「あらゆる物質は、核がなければ結晶しない。人間も同じ。哲学のある人、信念を持っている人とそうでない人とでは、大変な違いがある。」

 

核とは、歴史に耐えてきた本物なのでしょう。本物に触れ、そこから何かをつかみ取り、自分自身の核を形成していく。そのことの重要性を、思い出させてくれたのが、1/4の日経朝刊に掲載されていた、今井賢一氏による「経済教室」の論稿でした。

 

東京の強みは、「多様な技術・文化変換装置」としての優位性にあるそうです。世界のあらゆるハード・ソフトの技術と文化を吸収し、修正し、複製を超えて再創造し、違うものに変換して再び世界に戻す能力にかけては、東京は世界一だと論じています。

 

そして、東京にそれが可能なのは、東京の奥に存在する京都・奈良に「歴史に培われた本物」があり、それにつながっているからだといいます。本物につながっているからこそ、新しいものを貪欲に取り入れ変換することができる。

 

奈良.jpg 

私も10年前くらいまでは、京都・奈良との接点がほとんどなく、東京の喧噪に流されているように感じていました。その後、仕事の関係で関西方面に行く機会が増え、京都・奈良にも何度も通うようになりました。そこで、何度も「なんだ、こういうことだったのか」と、現在と過去のつながりに気づかされたものです。それによって、少しは物事を立体的に捉えることができるようになった気がします。

 

 

都市も人間も、その意味では全く同じなのでしょう。日本という国や日本人として、まだまだ誇りを持ち世界に発信できるものがたくさんあります。何かと元気がなくなる話題が多い今日この頃ですが、歴史に培われた本物を核として、世界に貢献することを考えていきたいものです。

新年明けましておめでとうございます。

 

 

普段あまりTVは観ないのですが、年末年始はわりにたくさん観ました。といっても、ほとんどがNHKです。

 

関口知宏さんが、海外でユニークな活躍をしている日本人を訪ねる「ファースト・ジャパニーズ」という番組(再放送を数話連続放映)を二話観ました。スイスで切り絵のアーチストとして活躍しつつある主婦と、モロッコで花屋を始めた方でした。

 

いずれも三十代の女性です。ステレオタイプ的には、女性のほうが会社組織などに縛られないため、自由な生き方をする人が多いということはあるかもしれません。

 

たぶん昭和30年代くらいまでは、女性のほうが束縛が多く、自由な生き方ができなかったでしょう。それが、いつのまに女性のほうが自由になったのか。

 

 

かつての社会的束縛は、「家」に付随するものでした。それがその後「会社」に変わったのです。家に縛られていた女性は、それから解き放たれましたが、だからと言って会社に束縛されているわけではないようです(もちろん人によりますが)。一方、男性は、まだまだ「会社」の束縛が強い気がします。「家」は秩序を、「会社」は安定を保証するのだとの前提があり、男性はまだまだ安定を志向しているのでしょう。

 

 

モロッコで花屋を営む女性は、三十歳になろうとしている自分はこのままでいいのかと、会社や結婚、将来のことなどで悩みながら、モロッコの海岸の町に辿りつきました。たまたま入った骨董屋の主人と話し込み、その不安を口にしたところ、「それなら、この町に住んで自分で何か始めればいいじゃないか」と言われて、目が覚めた思いがしたそうです。

 

彼女も、当然のように「あるべき日本の三十代前半の女性像」に縛られていました。それが悩みの背景にありました。しかし、その前提自体を、深く吟味・検討したことはなかったのでしょう。だから、その前提を全く考慮しない骨董屋の主人の言葉が、彼女に気づきをもたらしたのだと思います。

 

もし同じような境遇の男性が、彼女と同じような出会いをしたとして、どう感じたか・・・。やはり、一般的には女性のほうが、残念ながら一歩も二歩も先に行っている気がします。

 

 

思い込みやマインドセットを変えることは、言うまでもなく難しいことです。ある時期には、それが有効だったのですから。しかし、状況は確実に変わります。それに気づくのに、時間がかかるのです。

 

あまり長い時間をかけずに思い込みをはずせる人が、「軽やかで、しなやかな人」なのでしょう。

 

 

今年は、「軽やかに、しなやかに」暮していきたいと、彼女たちを観て思いました。

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