2009年2月アーカイブ

当代の名人、柳家小三治師匠を約三年間取り続けたドキュメンタリーです。落語という芸の神髄、間の本質、師匠の芸への取組姿勢、兄弟弟子入船亭扇橋との枯れた友情、など、ははーんと唸るところ満載ですが、あえてやはり師匠と弟子の関係について考えてみたいと思います。

 

小三治.jpg 

弟子の三三(さんざ)の真打昇進が決まり、師匠と二人で慣れないインタビューに答えていました。

 

インタビュアー「師匠の稽古のおかげですね」

三三:「師匠には、一度も稽古をつけていただいたことはありません。」

横の師匠は、当然という顔をしています。

 

インタビュアー「二ツ目の名前のままで真打昇進ですね。三三という名は、かっこいいですよね」

師匠「かっこいいとしたら、名前がそうなのではなく、こいつがそれだけのことをしてきたということだろう。クソみたいなやつが名乗ればクソみたいな名前になるというものだ」

インタビュアー「もし、三三が変えたいと言ってきたらどうしました?」

師匠「三三は一番いい名前だと思ってつけた。変えないで昇進してくれて、ありがたいと思う。もし、変えたいと言ってきたら、本当に困っただろうなあ」

 

 

師匠の独演会に、弟子の禽太夫を前座として同行させました。前座が終わり、禽太夫は、出来映えに満足できず楽屋に戻ってきました。そして、モニターで師匠の高座を聞きながら、自分の着物を畳む。その表情には、悔しさと情けなさと申し訳なさなど、なんとも言えない表情でした。

 

ある日の楽屋。師匠は、これまであまり取り上げたことのない噺「鰍沢」をこれから演じます。黙々と自分で書いた噺のメモを目で追っています。その隣の部屋、といっても襖は明け放たれた続きの間では、弟子たちはバカ話に盛り上がっています。しかし、師匠が高座に上がると、弟子たちは食い入るようにモニターに集中しています。

 

楽屋で弁当を食べた師匠は、御手拭きでテーブルを拭きながら、

「知らず知らずに拭いている。これが、柳家なんだねえ。みんなそうだ」

 

 

師匠が、語ります。

「歌手にとって、楽譜は手段だ。物書きにとって、文字は手段だ。どっちも必要なのは心だ。心を表現するために、楽譜や文字があるんだ」

 

 

師匠は、観客に対してだけでなく、弟子に対しても心をストレートにぶつけているのでしょう。心は愛情と言い換えてもいいかもしれません。曇りのない心で接していれば、稽古などつける必要はないと言いたいのかもしれません。心に応えて、弟子が勝手に学ぶと。

先週開かれた「加藤周一さんお別れの会」で、大江健三郎さんお別れの会.JPG『日本文学史序説』にある留学時代の森鴎外がナウマンに反論した話を引いて、
「相手を完全に理解せよ、そして自分の弱点を見抜け」
という加藤さんの言葉を、若い人へのメッセージとして紹介されました。

 

 

私は、『日本文学史序説』を読んでいないので、大江さんの意図を正しく理解していないかもしれませんが、とても重たい言葉だと思います。相手を理解しようとすることはできます。しかし、人間は、自分の思考を通してしか理解できないため、完全に理解することなど不可能と思えるほどです。

 

では、どうすべきか。相手を理解する前に、起点となる自分自身を理解しなければならないでしょう。特に、人は自らの弱点には目をそむけがちです。だからこそ、知らず知らずのうちに、自分の弱点からゆがんだ形で相手を理解してしまうのです。自分が潜在的に弱いと感じている部分が、相手は強いと感じると、無意識に抵抗してしまうことってありますよね。そうならないように、弱点を中心に自分自身の思考特性を見抜いておくべきなのです。

 

さて、自分や相手を理解するにしても、どのような面を理解すればいいのでしょうか。「私は、○○な傾向を持つ人」、と言ってみても、そこには無限の切り口があります。状況によって、切り口を使い分けるのが好ましいのかもしれませんが、私を含め多くの人はそれほど器用ではありません。そこで、何らかのフレームワークが欲しくなります。

 

抽象的な思考が好きな人と、具体的でないと思考できない人がいます。また、論理的思考が得意な人と、直観的に思考するタイプの人がいます。この二軸で、思考タイプを分類することは、説明力が高いような気がします。

 

また、人間は、思考特性とともに行動特性も持っているでしょう。行動の癖を理解しておくことは意味があります。思考は簡単には見えませんが、行動は一目瞭然なので、即相手に影響を与えるからです。相手に対して本当の自分を表現できるか、高いエネルギーレベルで相手に向かうことができるか、一方、時に自分を抑え相手を受け入れることができるか、こういった他者に対する行動の癖を知っておきたいものです。

 

大人とは、自分自身と相手を、(思考と行動特性にとどまらず)深く理解し、適切な対応を取ることができる人のことをいうのかもしれません。道は遠し、です。

(尚、上記の思考特性と行動特性については、「エマジェネティクス」http://www.egjapan.net/で学びました。)

先日eラーニングと集合研修のブレンド型について書きました。http://www.adat-inc.com/fukublog/2009/02/e.html

eラーニングが登場したのは、そもそも時間と空間に縛られず学習させたい、しかも学習者の進捗管理などきめ細かくしたい、というニーズからだったと思います。

 

時間と空間の自由度から、学習及び研修を整理してみたいと思います。時間の自由度とは、いつでも好きな時に学べるかどうかですね。また、空間の自由度とは、特定の場所に出向く必要があるかどうかです。

 

そうすると、二軸のマトリクスができます。さらに同心円を描き、内側ほどインタラクティブ性が高いことを表します。(図 参照)

時間X空間jpeg.jpg 

OJTを中心としたⅣ象限は除くとして、一般にⅢ、Ⅱ、Ⅰの順で、そして内側から外側の順で効果は高いと考えられます。しかし、その順でコストも高くなるはずです。そして、企業はコストと効果の見合いで、学習の手段を選択していくわけです。

 

ある特定テーマ修得のために、単純にある象限とある象限の手法をブレンドつまり組み合わせて、双方のいいところを取るということは、時に必要かもしれません。ただ、それでは効果と効率が単に平均化されるだけでは、あまり面白くありません。

 

それよりも人材開発担当者は、

    状況やテーマによって、手法を賢く使い分けられるような選択眼を高める

    既存手法で効果最大化すべく、学習者への「働きかけ」を練る

    eラーニングやWBTを内側にシフト、すなわちインタラクティブ性を高めるようにテクノロジーの進化を促す

 

という方向を目指すべきではないでしょうか。

 

昨日の「おくりびと」のアカデミー外国語映画賞受賞は、記憶に新しいノーベル賞の複数受賞に続いて、明るい話題を提供してくれました。

 

おくりびと.jpg 

昨年夏、伯母を亡くし、大人になって初めて通夜から葬儀を体験しました。死者を送る行事を、身をもって認識したところなので、この作品が世界に認められたことは、とても驚きとともに嬉しさを感じたのです。

 

 

納棺師の存在や、人々の死者への対し方は、多くは日本独特のものでしょう。それが、アカデミー賞という世界の舞台で評価されたということは、そこに普遍性があったからに違いありません。

 

 

死は確かに普遍的なものですが、本映画のテーマの一つでもある生と死がつながっているとする生死一如の考え方は、少なくとも西洋にはないものと思います。でも、実は深いところで理解された、というのがこの受賞だったのではないでしょうか。

 

 

人は、いろいろなアイデンティティーを持っています。例えば、日本人、仏教徒、男性、会社員、上司、親、子供などなど、場面によっていくつものアイデンティティーを使い分けているのです。時に、それらが自分の中でぶつかることもあります。

 

 

社会人一年目の新入行員時代、配属された支店では、支店長以下目標達成に汲々としていました。目標の一つにATMの稼働率があり、窓口業務からATMの顧客をシフトさせることが目的でした。そこで、全体業務量に占めるATM扱いの比率を上げるべく、行員がおのおのATMに並んで自分の口座から預金を引き出し、また預けるということをしていました。

お客さまの間に並んでそれをするのです。当然、お客様の待ち時間は長くなります。いいことではありませんが、皆それもやむを得ないと考えていたようです。

 

 

銀行員になったばかりの私は、どう考えてもおかしいと感じました。まだ、銀行員のアイデンティティーが確立されておらず、一個人としてのアイデンティティーが強烈な違和感を覚えさせたのです。

 

 

社会で生きていく上では、様々なアイデンティティーを使い分けることは必要です。危険なのは、特定の集団だけが持つどれか一つに傾倒してしまうことではないでしょうか。民族、宗教というアイデンティティーが、多くの戦争の原因になっていることは事実です。

 

 

一方、あらゆる人々のアイデンティティーに共通する考えや思いが、普遍的なものと言えるのでしょう。社会が複雑になっている現在、バランス感覚をもって自らや他者のアイデンティティーに向き合い、さらに根底にある普遍性への尊重を心掛けることがますます重要になってきているのだと思います。そういう意味でも、「おくりびと」のアカデミー外国語映画賞受賞は、とても嬉しいのです。

国立劇場での文楽二月公演の際に、竹本住大夫の近著「なほに、なほなほ」のサイン本を購入しました。数年前の「私の履歴書」をまとめたものです。新聞で読んでいたので、買うのを躊躇していたのですが、サインに負けてしまいました。

なほになほなほ―私の履歴書 (私の履歴書)
竹本 住大夫
4532166799

 

 

住大夫の大阪弁で半生が語られ、芸と人間性の内側が垣間見える楽しい本です。いくつか、心に残った話がありますが、その中でも襲名に関する話に、考えさせられました。

 

住大夫は、最初は古住大夫という名前でスタートし、その後、文字大夫を襲名し、そして昭和60年に現在の住大夫を襲名します。

 

文字大夫の襲名披露公演で、非常に難易度の高い出し物を語ることになりました。襲名披露で、恥をかきたくないと抵抗するのですが、師匠に押し切られました。しかし、本番では三味線や人形遣いの師匠らによって、これまで経験できなかった高みにまで登れたそうです。そして、「これが襲名というものなんや」とつくづく思ったそうです。想像するに、師匠連中が、これから自分の力で上がるべきハイレベルの世界を、文字大夫に垣間見せたのではないでしょうか。

 

一段階上の名前を襲名することを認めるのは、一座です。一座は、それを認めたからには全面的にバックアップします。襲名披露の口上では、舞台中央に本人が座り、その両側に一座の重鎮が並びます。そして、次々に重鎮が襲名を祝うと同時に、本人への支援を願い、観客に深々と頭を下げていきます。慣れない世界で一人立ちする息子への支援を頼む親の姿のようです。

 

この一体感が、襲名した芸人に覚悟を迫るのでしょう。親の期待に応えられない子は、この世界で生きていけなくなります。襲名は、ゴールではなくさらに高いレベルを目指すスタートです。

 

住大夫も、「名前がどうあれ、コツコツ勉強していくことが大事で、襲名は目的ではないんです。いうたら、『努力を重ねて、さらに芸を磨きます』ということを内外に宣言するのが襲名やと思うております。」と述べています。

 

これまで襲名披露を何度か観る機会がありましたが、確かにその後、芸の質が一段階上がるように感じます。本当に芸のレベルが上がったのか、それとも私の見方が変わっただけなのか、それははっきりわかりませんが・・。文楽に限らず、日本の古典芸能の世界における襲名という仕組みは、組織のスキルレベルの維持向上、一体感の醸成、新陳代謝などに、非常に有効な役割を果たしていると思います。

 

ところで、日本企業では、かつて社員を名前でなく、役職で呼ぶことが一般的でした。部長、支店長、課長など、私もかつて上司を役職で違和感なく呼んでいました。時代も変わり、残念ながら、私は呼ばれた経験はありません。だから想像するしかないのですが、きっと昇進し新たな役職で呼ばれることは、襲名と同じように、自分自身をもう一段階上のレベルに引き上げることを宣言する、覚悟を決めることだったのでないでしょうか。上も、決めたからには支える。部下や同僚も、これまでとは異なる見方をするようになる。そうして、そのような組織全体の雰囲気というか圧力が、期待を現実のものに変えていったように思えるのです。

 

役職で人を呼ぶことは前時代的であり、「さん付け運動」を進めるべきだと、私も考えていました。でも、もしかしたら、それは違うのでは、と近頃思うのです。

 

昨日、ある方とeラーニングと集合研修のブレンディド型研修について意見交換しました。

 

Eラーニングは、10年くらい前からインターネットの爆発的普及とともに、普及しました。と言っても、当初の予想ほどではないのではないでしょうか。

 

どんな事業でもそうですが、サービスの普及当初は、ハード面に目が向きです。eラーニングで言えば、ラーニング・マネジメント・システム(LMS)の拡販とともに、eラーニングソフトが開発されました。供給者から見れば、事業の立ち上がり時、単価が相対的に高いため、ハードの売上規模はある程度期待できますが、ソフトの売上規模は普及が一定規模にならないと大きくならないため、投資のインセンティブが湧きにくくなります。ましてや、ゲームソフトと違って創造性を発揮する余地はそれほど大きくないため、ソフトでの差別化は困難です。その結果、ハードベンダーとソフトベンダーが分離し、両者の相乗効果を図ることが難しいのです。だから、想定ほどには市場が立ち上がっていないのでしょう。

 

そのような状況のもとで、eラーニングと集合研修のブレンドという発想が出てきます。eラーニングと集合研修双方の弱点を補いあう、素晴らしいサービスというわけです。eラーニング陣営から見れば、集合研修とセットすることにより差別化が可能と考えます。一方、集合研修ベンダー陣営は、クライアントのコスト削減圧力に対する対応として、消極的にeラーニングの組み込みを考えることでしょう。

 

しかし、ことはそう簡単ではありません。eラーニング陣営が積み上げてきたマスに対して規模を獲得し、初期投資を一気に回収するビジネスモデルと、集合研修ベンダーが磨いてきたハイタッチな擦り合わせ型ビジネスモデルとは、大きく異なります。それぞれ異なる思惑の中で、ブレンド型を成功させることは、ハードとソフトの融合以上に難しいかもしれません。

 

とは言え、ユーザーである企業側が、ある程度ブレンド型を望んでいることも間違いないでしょう。サービス提供側が、ニーズに創造的に応えることができるか、ベンダー企業の力量が試されます。

「すぐ伝わる」と「深く伝わる」。

 

東京芸術大学の布施英利准教授 布施准教授.jpgが、エンタテイメントと芸術の違いを、こう表現していました。エンタテイメントは娯楽と言い換えたほうがいいと思いますが、良い表現だと思いました。芸術作品といわれるものは、触れた時にはそれほど感じなくても、あとでじわじわと何らかの感情が芽生えてきます。展覧会で絵を観にいったとき、一巡した後で何だかひっかかって、また観たくなる絵ってありますよね。

 

マンマ・ミーア!.jpg

 

 

先日、映画「マンマ・ミーア!」を観ましたが、まさに一級の娯楽作品でした。当然、観てすぐ楽しめます。深くはありませんが、それでいいのです。誰も深さを期 待してそれを観ないでしょう。しかし、深く考えさせられる映画もあります。私は、どちらかというとそっちが好きですが、気分で観分けていると思います。

 

 

 

 

 

日常生活や仕事の中でも両者は、使い分けられているはずです。とはいえ、時代のスピード感がどんどん速くになるにつれて、「すぐ伝わる」が優勢になっているのではないでしょうか。

 

「すぐ伝わる」と「深く伝わる」は、一見両立しそうで、するのは難しいように感じます。ルーティンの世界では「すぐ伝わる」を重視すべきですが、複雑で困難な局面や教育の場面では「深く伝わる」ことが大切です。そのアクセントを、時間に追われ中で、なかなかつけづらくなっているのではないでしょうか。

 

教育の世界でいう「気づき」とは、外部からの情報が刺さるように伝わり、その結果これまでの前提を覆すほど深く自己認識することでしょう。それは、芸術に触れることと同じなのかもしれません。自分自身を成長させるためは、芸術に数多く触れ、気づきを促す感性を磨いておくことも必要なのかもしれません。

今朝の日経新聞にこんな小さな記事がありました。

 

「機械商社の日伝は2009年度から、新入社員の研修期間を従来の倍の五カ月に延ばす。景気後退による仕事量の減少を逆手に取り、講師役も外部の専門家から社員に切り替える。(以下略)」(日本経済新聞 09/2/16朝刊)

 

景気が悪くなると、利益をすぐに生まない研修費用は真っ先にカットされるというのが、これまでの常識でした。しかし、今回はそれとは少し異なる対応を取る企業が増えているように感じます。

 

先日も、あるSIベンダーの社長からこんなことを伺いました。

「昨年夏までは、人手不足で満足な教育もできなかった。それが一転、急に受注が激減した。契約終了で、SEが続々と現場を離れてきている。こんな時こそ、これまで手が回らなかった教育に力を入れる。もちろん、直近は苦しいが、いずれ景気が回復した時に、今の教育が必ず生きてくるはずだ」

 

仕事がないのだから社員を減らすべきと考えるのが、株主重視の経営かもしれません。しかし、人材を資本と考える企業では、投資の好機と捉えます。それは、評価期間を、四半期とみるか5年以上と見るかで異なるとも言えるでしょう。

 

さらに、講師役も外部から内部へ切り替える動きが出てきています。それは、コスト削減効果だけではなく、教える側の社員の人材開発も期待しています。「教えること」以上に、効果的な学習方法はないからです。

 

また、研修という場を通じて、若手(受講者)と中堅(講師)との間のインタラクションが発生します。研修という場で講師を経験した中堅社員は、現場でのOJTのコツもつかむことでしょう。

 

研修で扱う内容も、どの会社にも通用する一般的なものから、自社にカスタマイズしたものにシフトしていくでしょう。そこでは、仮に講師が外部であったとしても、研修に関わる社員のコミットは深くなります。

 

つまり、この不況を利用して、組織内にインタラクションを巻き起こし、学習する癖を植え付けようという動きなのです。

 

こういった組織内ラーニングの設計を「狙って」実行できる企業は、必ずや景気回復局面で大きく飛躍することでしょう。

昨日、ある講師から経営幹部向け研修の内容について相談を受け、意見交換をしました。その際、受講者が求めるのは、個別解なのか普遍解なのかについて議論になりました。

 

受講者の特性やレベルによって、講師への期待内容が変わります。あるグループの受講者は、自分が業務ですぐ使える解答、つまり個別解を求めます。研修内容が、自分の属する業界や業務とかけ離れていると、役に立たないと考える傾向にあります。たとえば、メーカーの技術者にサービス業の企業の事例を語っても、自分とは違うという態度をしばしば取ります。

 

別のグループの受講者は、必ずしも個別解を求めません。個別事例を使って考えさせるよりも、普遍的な答えを求める傾向にあります。例えば、「(それが普遍かどうかは別にして)グローバルスタンダードではどうなんだ」とか、「理論的には、正しいのか」といったことを気にするようです。普遍解を知りたいという単純な好奇心もあるでしょうが、普遍解から自らの個別解に展開することができる能力を備えているのでしょう。研究者や大学の先生の講義を、もっとも有効に活用できる人たちです。

 

最後のグループは、普遍解であろうが、別の個人にとっての個別解であろうが、あまり気にしません。自分の仕事とは程遠い仕事に関するノウハウ、すなわち個別解からも自らの個別解に解釈し直すことができるのです。

  他者(講師含む)の個別解 → 普遍解 → 自分にとっての個別解

こういう思考ができる人は、オープンな姿勢を持ち、どんなものからも学ぶことができる、学習能力が高い人なのです。

 

このような人には、できるだけ多くの事実をぶつけることが望まれます。しかも、できるだけ生々しいリアルな事実です。表面的な事実や理論をいくら提示しても、なかなか満足しません。講師の(極端に言えば)人生をさらけ出すような、真剣なぶつかり合いを求めているのです。講師にとって、楽な相手ではありません。しかし、うまくいった場合の受講者の学びの深さは、講師冥利につきるものでしょう。また、講師自身が学ぶことも多くあります。

 

講師にとって、対する受講者グループが、上記のうちのどれに属すかを見極めることが大切です。それによって、多くの抽斗の中からどれを選ぶかが決まってきますし、アプローチも決まってきます。

先週、企画協力させていただいた本「感性はビジネスを支配する」が出版されました。




感性がビジネスを支配する感性がビジネスを支配する
木暮 桂子

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本書は、ビジネス・コミュニケーションにおける「非言語コミュニケーション」に焦点を当てた実践書です。

 

コミュニケーションは、企業研修においても、常にニーズのトップを飾るテーマです。コミュニケーションを課題に挙げない企業はないほどです。

 

コミュニケーションには、コンテンツの側面とコンテクストの側面の二つがあるでしょう。コンテンツとは、伝えたい中身そのものと、それを言葉(言語・文字)に転換したものを指します。一般に人間は、頭に浮かんだアイデアを言葉に転換して伝えます。相手も、受け取った言葉を、いったん頭の中でアイデアに転換して理解するわけです。メールで重いファイルを送信するときの圧縮、解凍のプロセスに似ていますね。

 

中身の言語化に大きな役割を果たすのが論理思考力です。圧縮、解凍の方法は、論理がベースになるからです。この分野の重要性の理解は、ここ10年間で大いに進んだのではないでしょうか。(私も、それに加担した一人です。)

 

しかし、今それだけでは「伝わらない」との声が大きくなってきています。正確に言うと、伝わらないのではなく、もし伝わっても行動に結び付かないということではないでしょうか。

 

単に圧縮ファイルを送っても、解凍してくれるかどうか分かりませんが、圧縮ファイルに、綺麗なリボンがついてればほどきたくなるかもしれません。また、テキスト情報で送るより、写真データを一枚送ったほうがはるかに行動に結びつくかもしれません。つまり、中身だけでなく、どう伝えるかや言葉以外で伝える方法が重要だと気付き始めたのだと思います。それが、コンテンツでないコンテキストです。「人は見た目が9割」という本が、少し前にベストセラーになりましたが、それも同じ主旨です。

 

コンテンツ作成と伝達の上で、論理思考は確かに重要ですが、どうもそれで十分だという風潮が、特に若手ビジネスパーソンの間で蔓延しているようにも感じます。こんな時代だからこそ、あらためてコンテキストの重要性を再認識すべきではないでしょうか。

日曜日、大好きな文楽を聴きに行ってきました。演目は、「女殺油地獄」。文字通り油屋で、女が油まみれになって殺される、救いのない怖い話です。鬼気迫る緊張感を大いに楽しんできました。

 

私が文楽を面白いと思うのは、とても日本的な芸能だと感じているからかもしれません。まず、歌せりふを「語る」太夫がいます。その横に三味線が座ります。そして、舞台では人形遣いが人形を操るわけです。この三業が、それぞれの役割を果たしながら、他の二業と合わせていく必要があります。ただ、単に合わせるのではだめだそうです。たとえば、太夫と三味線は相手に合わせるのではなく、ぶつかりあい、せめぎ合わなければ観客に訴える緊張感は生まれてこないそうです。人間国宝の太夫、竹本住太夫はこう言っています。

 

「むしろ合わせにいったら絶対あきまへん。相手の顔色を窺ってたら、切っ先が鈍る。それぞれが鎬をOnnagoroshi2.jpg削るような、真剣勝負の舞台でなければ、お客さんの心に響かないんですよ。」

 

一方の人形遣いは、基本三人で一体の人形を操ります。メインは主遣いで、あと左遣いと足遣い。声を発せず一人の人間(人形)の整合した動きを微妙に表現しなければなりません。三人の息が合うと、人形遣いの姿は視界から消え、人形が人間以上に人間らしくなります。

 

このように文楽とは、自分の個性を出しながら、周囲との整合もとり、かつ火花を散らすようなぶつかり合いもし、それでも全体が一つの演目として完成されている、というなんとも微妙なバランスのもとでの擦り合わせの妙の芸術だと言えるのではないでしょうか。しかも、主導権は太夫にあるものの、指揮者のような役割はありませんし、三業揃って稽古することも、公演前の一度だけなのです。

 

また、おもしろいのは、舞台上で他の業によって自分の潜在能力が引き出されるという点です。例えば、若手の太夫がベテランの三味線と組むと、太夫はこれまで自分が到達できなかったレベルにまで芸を引き上げられることがあるそうです。さらに、観客からも力をもらうといいます。住太夫は、言います。

 

「お客さんのほうが興に乗ってこられる。その熱気に釣り込まれて、普段できなかったことがパッと演れてしまうことがある。そんな時は楽しいですよ。」

 

文楽って、日本の組織のありようと、とても似ていると思いませんか。日本の組織とは、単に自律した個人の集合体(合計した全部)ではなく、場すなわち演目に合わせて相互に影響を与えあっている柔らかいヒトの一座(全体)だという気がします。そんな理想の組織を、文楽を聴いて観ながら、味わっているのかもしれません。

鉄腕アトム1.jpg今年は、手塚治虫没後20年ということで、様々な催しが企画されているそうです。NHKも手塚治虫のいくつかの番組を放送しています。たまたま、昨日観た番組で、山下達郎さんが「アトムの子」という自作曲について述べていました。

 

山下さんは、子供からの手塚ファンで、20年前に手塚が亡くなったことを聞き、あらためて「鉄腕アトム」を読みなおしてみたそうです。そうしたら、いかに自分が手塚漫画によって育てられかたを痛感し、そして「アトムの子」を書いたそうです。

 

いうまでもなく、「アトムの子」とは、アトムの血を分けた子という意味ではなく、鉄腕アトムという漫画によってさまざまなことを学び、影響を受けて成長して来た人という意味です。同じ番組で、坂本龍一さんも手塚漫画から、例えば、戦争は絶対良くないことだということを学んだと言っていました。ただ、頭ごなしに戦争は悪だと先生に言われたとしても、たぶん自分は理解しなかっただろうとも言っていました。

 

たまたま一昨日の夜、やはりNHKでロックの歴史をゲストと観客が語るという番組をやっていました。観客は、ロックに大きな影響を受けてきたほとんど40代以上のおじさん(と少しのおばん)30人くらいです。見た目は、必ずしもロックぽくなくても、語る言葉は熱いです。つまり、「ロックの子」なのでしょう。

 

「○○の子」という言われ方ができる人を、少し羨ましく感じました。彼らは、○○によって生き方や考え方の軸ができているのです。しかも、その軸は自分が大好きで選んだものです。考えてみれば私のまわりにもいました。ガンダムの子、竜馬がゆくの子、宝塚の子、などなど。

 

人が成長する上で、なんらかの指針や軸、あるいは視点は必要です。価値観と置き換えてもいいかもしれません。2日のブログで書いた師匠の殿堂の佐藤さんは、先生からの一つの問いが生きていく上での視点を与えたのです。佐藤さんのような「心に刺さった一言」も、いつも日光のように浴びている○○も、形は違いますがどちらも、人の成長に影響を与えるという意味では、同じ教育なのかもしれません。

 

では、教育をする立場になった○○の子は、今度はどうやって自分の子供や部下たちを成長させることができるのでしょうか。

きのう、アダットパートナー講師でもある藤井清孝さんの「グローバル・マインド」出版記念講演が、八重洲ブックセンターで開催されました。私もその出版に少しだけ関わっていたこともあり、聴講してきました。100席のところ、120人の予約を受け付け、さらに当日参加で立ち見の方もおられるほど盛況でした。

4478007659グローバル・マインド 超一流の思考原理―日本人はなぜ正解のない問題に弱いのか
藤井 清孝
ダイヤモンド社 2009-01-17

by G-Tools

 

 

講演の内容も良かったのですが、質問への回答が、さすがと唸るほど素晴らしいものでした。今回は、その質問のひとつへの回答について考えてみたいと思います。

 

それは、

「藤井さんは、どんな言葉でほめられたたら最も嬉しいですか?」という質問です。

質問者自身も言っていましたが、これはその人の生き方や価値観を如実に表すことになる質問です。

 

藤井さんも、しばらく考えた末、まずこう答えました。

「マッキンゼー時代は、『うちに来てよ』とクライアントから言われるのが一番嬉しかった。『いいコンサルタントだね』と言われると、それは暗に『コンサルタントとしては、優秀だが、実業は無理だろ』と言われているように感じた」

これは、かつてコンサルタントをしていた人間として、非常によく分かります。コンサルタントとしての評価に満足している人は、コンサルタント以上にはなれません。現状維持はがまんできないのです。

 

さらに、続けました。

「今なら、『藤井さんらしいですね』と言われるのが最も嬉しいですね。良くも悪くも私自身のことを理解してくれた。伝わったということですから」

 

いっぱんに、「あなたらしいですね」という言葉は、必ずしも褒め言葉ではありません。暗に「だから、あなたはだめなんです」と言っている可能性もあるわけですから。でも、それも含んで、ありのままの自分を理解してくれることが嬉しいというのは、なかなか言えるものではないでしょう。そこには、もちろん自信もあるでしょうが、それを超えて人と素直につながることに最大の価値を置いているからではないでしょうか。

 

褒めることは、人の動機付けの中でも最も重要なものの一つです。では、どうすれば相手は褒めらたと感じるのか。単純ですが、難しい問いです。相手の価値観を理解する感性がなければ、褒めることもできないということを、あらためて感じさせられました。

 

ところで、私は何と言われてほめられたいか?うーん、むずかしいです。

落語に三題話というのがありますね。寄席で、お客さんから出された何の脈絡もない三つの言葉を使って、ひとつの話を創るという、あれですね。例えば、「屋根とノーベル賞とホームレス」、これらを使って、不思議なほど見事な話を創りあげます。

 

与えられた三つの言葉を使わなければいけないというのは、大きな制約です。でも、

制約があるから、面白い話が創れるとも考えられるのではないでしょうか。池に、三つの小石を同時に投げいれたとします。三か所にばらばらに落ちて、それぞれが波紋を広げます。そして、どこかで波紋が重なります。屋根という言葉には、さまざまなイメージが含まれており、それがどんどん頭の中で膨らんでいく。同じように、ノーベル賞やホームレスからも、イメージがどんどん膨らんでいく。そして、どこかでそれらが重なるのでしょう。

 

経営もそれと似ているように感じます。たくさんの制約、つまり足枷の中で、結果を出していくのが経営と言えるでしょう。ホンダが自動車で成功の礎を築いたのは、1972年にアメリカの厳しい排気ガス規制をクリアするためにCVCCエンジンを開120px-CVCC.jpg発したことによるといわれています。また、トヨタのカンバン方式も戦後、資本が不足している中で生産を拡大するために生みだされたそうです。足枷があるから、それをクリアするために想像力と創造力を駆使して突破口を見つけ出すのが人間です。三題話と同じで、制約は足枷ではなく、創造の種なのかもしれません。

 

敗戦後しかり、オイルショックしかり、公害問題しかり、バブル崩壊しかり(円安の貢献は大ですが)、日本人は制約を梃に進化する力が優れているのではないでしょうか。

 

そういうスタンスで現在自分が置かれている状況を見渡してみれば、また違った世界が見えてくるかもしれません。

845_shop1.jpg経営はすべてトレードオフです。

Aを選ぶとBがだめになる。Bを選ぶとAがだめになる。

 

熊本に味千ラーメンというチェーンがあります。以前、何度か食べたことがありますが、積極的に海外展開も図っていると最近知りました。

 

その会社の上海にあるスープ工場が不良品を出したそうです。袋詰めのスープが分離してしまった。納期は刻一刻と迫る。「袋から開けて加熱すれば商品にできる」と、現地のコンサルタントが言うのを押しのけ、社長は全品廃棄を指示し、大きな損失が出る道を選んだ。

 

短期の視点では、加熱すべきでしょう。味に大きな変化がなければ、損失を回避することが経営者の務めです。しかし、長期の視点では、廃棄すべきとの判断もあります。それまで品質第一でやってきたのに、ここでごまかして妥協すれば、それを見て、真面目に汗水たらして工場で働く現地従業員のモチベーションが下がり、いずれブランドの劣化を招く。この社長は、長期の視点で判断したのです。これが高価なブランドものならともかく、ラーメンです。でも、社長は廃棄した。これは、合理的判断なのでしょうか。

 

経営のトレードオフにおける判断は、どの期間で評価するのかと、何と比較して評価するのかによって決められるのではないかと思います。ここでは、期間の問題でした。長期を選ぶことには勇気がいります。何しろ、目先のことはわかっても、将来はどうなるか分からないのですから。そうです、不確実性が高いのです。そして、責任ある人間は、少しでもリスクを回避したいものです。確実な短期を、不確実な長期より選びたいものです。もちろん、それが正しいこともあるでしょう。でも、そうじゃないことも当然あります。その時に、リスク回避の誘惑に負けないで意思決定できるかどうか。

 

管理された楽観主義と勇気と信念、これらを持つ経営者が、不確実性の高い経営環境に立ち向かっていけるような気がします。

 

自分にとっての師匠とは、どういう人でしょうか。

普通の人は、落語家や職人と違って、別に誰かに弟子入りしているわけでもないですし、私淑している人がいるわけでもありません。

昨日の新聞に、作家の佐藤亜紀さんが面白いことを書いていました。

大学生の頃、英文の先生から「嵐が丘」を読んだかと尋ねられ、そんなものは中学生の時に読んだと自慢顔で答えたところ、「それで、本当にわかったのかい」と聞き返された。胸騒ぎを覚えて、あらためて読み返してみても中学生時代とそれほど違いはしなかった。でも、この胸騒ぎは以後もやむことがなかった。

この問いひとつで、その先生は佐藤さんの「師匠の殿堂」入りしたそうです。この、なんだか分からない胸騒ぎは、ずっと佐藤さんの考え方に影響を与えているのです。そんな問いかけをする人が、自分にとっての師匠なのかもしれません。決して、手取り足とり指導してくれる人ではなく。

19世紀イギリスの教育学者ウィリアム・アーサー・ワードという人がこんなことを書いています。

「凡庸な教師はただしゃべる。良い教師は説明する。優れた教師は自らやってみせる。そして、偉大な教師は心に火をつける。」

「それで、本当にわかったのかい」の一言は、佐藤さんに静かに決して消えない小さな火をともしたのでしょう。こういった師匠は、自分の周りにいく人もいるのに、ただ自分がそれに気付かないだけなんでしょうね、きっと。それに気付くかどうか、その差がヒトの学習能力を決めるような気がします。

 

 

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