2010年8月アーカイブ

以前にも書きましたハーバード大学のサンデル教授の特別講義が、先週金曜夜にアカデミーヒルズにて開催され、参加してきました。会場いっぱいの参加者は著書を出版している早川書房とアカデミーヒルズからの招待者とメディア関係者という顔ぶれでした。年齢層もばらつきが大きいようでした。

 

スタイルは、NHKでも放映された「白熱教室」と同じですが、同時通訳が入っているということもあり、白熱とまでは残念ながらいきませんでした。

 

サンデル教授の講義で関心したのは、発言者の名前を確実に記憶していることです。発言者は、最初にファーストネームを言ってから発言します。彼にとって日本人の名前は大変覚えにくいでしょうが、ほぼ間違いなく覚えていました。

 

もう一つは、多少ずれた発言に対しても、しつこく問いかけを繰り返すことにより、意味のある発言を引き出す技術です。

 

普通教壇に立つ人は、自分なりの進行イメージ(ストーリー)を作成し、落とし所を決めて臨むはずです。ストーリーは一本とは限りませんが、数本でしょう。そこから大きく外れると、混乱し不快感をあらわすこともあります。極端な場合は無視します。サンデル教授は、全体そうはしません。だから、多くの受講者が発言を求めて挙手するのです。

 

彼のストーリーイメージは、数本の線ではなく、縦横に広がるメッシュのイメージでした。各は発言者をそのメッシュの特定の場所に置いておきます。決して放置しません。そして、議論の展開がそちらに向かったりすると、前の発言者に再び質問したりします。発言者をメッシュ地図上に置いておくために、発言者の名前を記号として記憶する必要があるのでしょう。

 

このように、一言でいえば大変懐が深い講義の展開なのです。そのためには入念な準備と集中力が必要です。それを文化的背景も異なる日本で、しかも一発勝負で行って成功させるのですから、やはりさすがです。

 

一方、発言者側の特徴で感じたのは、論理的説明に慣れていない人が多い点です。言葉での勝負になれば、論理性は必須です。思いは強いのだけど、うまく言葉で組み立てられないもどかしさを、何人もの発言に感じました。これは、そういう学校教育や職場での訓練を受けていなければ、仕方がないことなのかもしれません。

 

ただ、このような思考を促す対話型クラスは、講師の能力さえあれば日本人相手でも十分可能です。政治哲学ですから正解があるわけでもありません。正解を求める傾向が強い我々日本人ですが、終わったあとの参加者の様子を見る限り、うまく思考を強いられたことで大変満足していようでした。慣れていないだけに新鮮でもあったのでしょう。

 

やはり、問題は教える側の能力が全然追いついていないことでしょう。あらためてそれを痛感しました。

国立能楽堂で狂言の会を観ている時のことです。最後の演目でした。能も狂言も、最後の動きが終わると、静寂がおとずれ、そのまま演者は橋掛かりを静かに歩いて舞台から去ります。この静寂が特徴とも言えます。その日も、最後の動きが終わりました。

 

その時です。正面席後方あたりから、電子音で「オワリノジカンデス。オワリノジカンデス。オワリノジカンデス。・・」と繰り返し聞こえてきました。一瞬、何が起きたのかと、観客全員が思ったことでしょう。確かに、舞台はちょうど終わりを迎えた瞬間でした。

 

一瞬、能楽堂では、終演の合図を流すようになったのかと、頭をよぎりました。しかし、すぐに否定しました。そんなことはあり得ない。そう、一瞬混乱したのです。すぐに、携帯電話のアラーム音だと気づきましたが。

 

もし、電子音がコトバではなく、ブザーみたいな明らかなアラーム音だったら、ここまで混乱せず、「ちぇ、まったく」で済んだように思います。個人的にはダメージは、今回の「オワリノジカンデス」のほうが断然大きかったです。おかげで、せっかく素晴らしかった舞台も、最後の最後で醒めてしまいました。

 

 

 

間接戦略論で有名なリデル・ハートは、「戦略とは、予期せぬ行動によって敵を攪乱し、反撃する力を破壊すること」としています。正面から妨害するよりも、混乱させるほうが、はるかに大きなダメージを与えることができると、今回身をもって実感した次第です。

 

 

公演会場では、携帯電話はマナーモードでなく電源を切りましょう。

最近、管理職研修を見直したいとの話をよく聞きます。そもそも、管理職に研修を実施する意味はどこにあるのでしょうか?管理職への教育は、もともと工場の労働者管理から始まった経緯から、かつては部下指導や評価の方法、業績管理に関する知識など、コントロールのノウハウ伝授の色合いが濃かったように思います。

 

しかし、管理職の大部分はホワイトカラーになり、環境が一変しています。企業経営全般の視点に立てば、もはや管理職研修というくくりよりも、会社の屋台骨を支えるミドルの能力開発という切り口のほうが、近年では一般的になっていると思います。管理職研修が、ミドルに対するマネジメント研修に拡大されたのです。その中で、最低限管理職として必要な知識を伝授することもあるでしょう。あるいは、その部分だけを切り出して、管理職昇格時に実施することもあるでしょう。

 

では、今の企業のミドルにはどのような役割が求められているのでしょうか。それが明確にならなければ教育の企画も立てられません。管理職やミドルには、リーダーシップが必要だ、なのでリーダーシップ研修をやろう!という非常に短絡的な考えも見られなくはありません。

 

仮にそうだとして、どんなリーダーシップスタイルが自社には必要なのか?を突き詰めないと、なんとなく面白かった研修で終わってしまいます。そもそも、ミドルに最も必要なのは、リーダーシップなのでしょうか?今や、リーダーシップは思考停止ワードの代表格です。

 

話をミドルの役割に戻しましょう。私は今のミドルを役割を考える上で、現在に着目するか未来に着目するかと、ゼネラリストかスペシャリストかのニ軸が有用だと考えています。そのマトリクスで4つの役割が規定されます。

 

・現在Xゼネラリスト:場のかじ取り役

・現在Xスペシャリスト:実践家(その職種におけるチャンピオン)

・未来Xゼネラリスト:プロデューサー

・未来Xスペシャリスト:構想家/設計士

 

企業によって上記4役割の比重は異なります。また、ミドル個人レベルでも異なるのは当然です。我社のミドルには、こういう役割を求めており、そのために会社は全面的に教育支援をしていく、というメッセージを打ちだすことが必要だとおもいます。

 

その上で、研修という手段ではどのようなプログラムを設計するか、それが人材開発担当者の腕の見せ所だと思います。

サラリーマンNEOというNHKの番組が好きです。サラリーマンの生態を風刺を利かせて面白く、時に悲しく描くコメディー(古い表現?)です。

 

一昨日の午後、ジムのランニングマシンで走りながら、設置された小型TVでたまたまNHK-BSニュースを観ていたときです。信じられない光景が飛び込んできました。

 

カメラは京都府庁の職場に入っていきます。一見、普通の机が島型にならんだにぎやかな職場の風景なのですが、なんか違います。カメラが近づいていくと、なんと!職員が座っている机の向かい側や、斜めヨコに住民にみたてたマネキン人形が座っているのです。ちゃんと、それらしい服も着 K10034824811_1008210611_1008210618_01.jpgています。

 

そこで、インタビュアーが解説します。

 

「京都府庁では、職員の生産性を向上させるために、職員ごとに住民の人形を設置することになりました。常に、住民が目の前にいるような緊張感を持って仕事をしてもらうことで、生産性をあげようという取組みなのです。人形には、全て名前がついています。」

 

ここで、カメラは若い男性の人形によります。

「この人形は、現在就職活動中の24歳の大学院生。名前は福雅治さんです。向かいに座っている方に聞いてみましょう。」

 

労働政策担当の中年男性が、まじめに答えます。

「はい。ひしひしと視線を感じます。人形にいつも見られていることで、効率性が上がっているような気がします。」

 

その後、子育て中の主婦(人形)人見知子さん(32歳)も、担当職員とともに紹介されました。好評につき、人形を増やすことを検討中とのことです。

 

 

一瞬、これはサラリーマンNEOかと疑ってしまいました。でも、もしそうなら雰囲気が違います。あくまで、まじめな公務員の職場の取材風景なのです。こうなると、なにがギャグでなにが現実かわからなくなってしまいます。ついに、ここまで来たのかと、感慨深く見入ってしましました。しかし、NHKはしごくまじめに取材し、ニュースで取り上げています。

 

うそだと思う方は、以下見てください。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100821/k10013482481000.html

 

 

 

 

私の感覚がずれてしまったのか・・・・。常識は、常に変化するものです。大多数の人がそう思えば、それが常識です。香川沖のヘリコプター墜落事件における、司法修正生向けのデモ飛行を隠蔽した問題も、官庁の世界では常識的判断だったのでしょう。

 

大多数の人の意見と異なる小数意見は、この国では排除すべき意見になってしまいます。府庁の人形施策に疑問をもってしまう私は、排除されるべき人間になっているのでしょうか?怖い話です。

 

昨日の日経夕刊に、美術作家の束芋さん(1975年生まれ)のインタビュー記事がありました。彼女の作品は、一見おどろおどろしいですが、ハッとさせられる刺激に満ちているので好きです。見たくない真実を突き付けられる、そんな心の揺さぶりを与えてくれるのです。

束芋.jpg 

このインタビューで、世代論に関してこう言っています。

 

団塊の世代は自分の専門に誇りを持ち、その道を究めようとする。個性あふれる一人ひとりは、いわば太巻きの具。各人が、米や干瓢、キュウリとして役割に徹し、ノリのような優秀なまとめ役に率いられれば、集団としてとてつもない力を見せる。

 

これに対して、断面の世代(注:ほぼ団塊ジュニア世代)は太巻きの切断面そのもの。全部が揃うが、いかにもぺらぺらな存在だ。しかし、ぺらぺらだからこそ、それらを集め直せば、面白い太巻きができるかもしれないし、そこから新たな世界が見えてくるかもしれない。

 

 

私自身はどちらの世代にも属していませんが、非常にシャープに現実を切っているなあと感じました。これは彼女自身が親子関係などの中で感じてきた違和感から来ているそうです。

 

アーティストの素晴らしいところは、実は誰もが感じているけど実態がよく分らないもの(たとえば違和感)を、言語ではなく目に見える作品で表現し、伝えることができることです。それに、私たち一般人は、ドキッとさせられ、考えさせられるのです。

 

 

たまたま昨日書いたブログの「ゼネラリスト」も太巻きの海苔のことかもしれません。バブル前は、束芋さんのいう具を巻くことの長けたノリが求められていた。しかし、それ自身では味がないノリばかりになると、美味しい太巻きは作れない。そこで、具(スペシャリスト)の重要性が強調された。しかし、それも限界が見えてきた。そして、現在は、太巻きの様々なぺらぺらな断面を合わせて巻き合わせて、以前とは異なる新しい太巻きを作り上げることが求められるようになってきた。

 

ちょっと、こじ付けっぽいですが、そんな空想も膨らみます。だから、現代美術は面白い。

 

今、大阪の国立国際美術館で 「束芋 断面の世代展」が開かれているそうです。行ってみたいですね。

私が人材開発の仕事に関わるようになった90年代前半、「ゼネラリスト」や「総合(商社や電機など)」という言葉は、強みがない事の象徴のようだったような気がします。スペシャリストや専門化を追及することが正しいと。それまでの反動もあったのでしょう。クライアント・サーバー・システムの浸透と並行したかのように、企業組織の分散、分権化が進み、数多くの子会社が設立されました。

 

しかし、近年は子会社の統合や本体への吸収が、急速に進んでいるように思いますます。パナソニックがその代表でしょう。部分最適より全体最適を追及するようになったのです。

 

そもそも、90年代に分散が進んだのは、そのほうが起業家精神が発揮されやすい、意思決定スピードが速まる、社員のコミットも深まる(上場すればなお)、といったメリットの追求でした。大きな絵を描くよりも、それぞれの小ユニットが頑張れば、その集合体は結果として強くなる、という前提があったのでしょう。

 

そして現在。上記メリットを上回る統合の効果が、きっと見出されたのでしょう。私には、まだよく見えませんが・・。

 

いずれにしろ、全体最適を求める経営にシフトしたとすれば、必要とされるマネジメント人材像も変わることでしょう。それは、大きな絵を描く構想力や、利害や強みの異なる組織や人材を束ねて大きな仕事をさせるプロデュース力などでしょうか。これが本来のゼネラリストの仕事です。

 

ただ、これは元来もっとも日本人が苦手とする能力です。日本人は、ミクロを積み重ねて最終的にマクロができてしまうのは得意です(日本建築が 桂離宮.JPG  そうですね)。しかし、マクロを構想した上で、ミクロに分解していくのは大の苦手なのです(日本外交がまさにそう)。

 

しかし、戦略のかじを切ったのなら、組織や人材もそれに適合せざるをえません。そこに大きなチャレンジがあるように思います。

今朝の日経朝刊に三菱ケミカルホールディングス小林社長の面白いインタビュー記事がありました。以下、抜粋します。

 

 

今の経営学は企業のやっていることを、後から整理するだけでしょう。何が面白いのですか。後講釈の経営学は要りません。・・・新しい理論を創造する学問の領域があるはずです。いまだに欧米の学説を翻訳しているような学者が多いのではないですか。・・・

 

 

なかなか厳しい指摘です。自然科学をバックグランドに持つ小林社長だから、余計そう感じるのでしょう。

 

経営学はそもそも真理を追究するわけではないので、仕方ない面もあると思います。しかし、いまだにヨコをタテにして生きているのであれば情けないですね。

 

これを読んで思ったのは、文学評論家と作家の違いです。評論家は過去と現在の膨大な情報に基づいてある種の創造をします。一方、作家は言うまでもありませんが、情報もなにもない未来に向けて創造します。役割も前提も大きく異なります。たぶん評論家は、分析に基づく創造力が、作家は直感に基づく創造力が必要なのです。優れた評論家でも、作家にはなれないでしょう。そのまた逆も、です。

 

経営学者は文学評論家であり、経営者は作家なのです。読者は、自分の立場や期待によって、評論を読みたい人もいれば小説を読みたい人もいるでしょう。ようは、読者が選択すればいいのです。

 

作家である小林社長は、文学評論に何を求めているのでしょうか?新しい小説のネタでしょうか?執筆のための新しい方法論でしょうか?いえ、きっと小説を構想する際に刺激となるような、何らかのシャープな「インスピレーション」なのだと思います。毎日こもって執筆三昧の作家には思いつかないような斬新な・・。

 

小林秀雄や加藤周一の名前を出すまでもなく、一流の評論家は一流の創造者です。創造性溢れた後講釈をするのです。そういう評論家、つまり(日本人)経営学者を私も待望します。

東京は住むにはきつい所(特に夏は)ですが、芸術作品やその創作者に出合える機会が、圧倒的に他の地域より多いことは確かです。今日も改めてそのことを実感しました。

 

午前中、映画 「朱鷺島」を観てきました。この作品は、観世流能楽師津村禮次郎さんが、佐渡で創作能「トキ」を公演するまでの、朱鷺.jpgいわばメイキング映画です。佐渡の小学生からトキに関する詩を集め、津村さん自身が能の歌詞を書きます。そして、囃子方や地謡、ワキ方らと共同で完成していくのです。

 

さらに、佐渡をベースに世界で活躍する太鼓集団「鼓童」の藤本吉利さんや踊りの「花結」の方々ともコラボします。創作能といえども、能の公演に他のジャンルのアーチストが交ることは、異例です。

 

驚くのは、全員揃って稽古するのは、公演当日の1回だけだということです。能関係者同士であれば、普段から共演しているので、いくら新作といえども一回で合わせることはそう難しいことではないのかもしれません。しかし、今回は異ジャンルの(別の次元に入りこんだ感じだったと花結のメンバーは言っていました)アーチストも一緒なのです。

 

しかも、その1回のリハーサルの中で、中身がどんどん変わっていくのです。ある意味、ものすごい組織能力です。ある分野において卓越した技能を持つ者同士は、きっと共通の波動のようなものを持ち、それが共鳴しあうことでコミュニケーションが図られ、さらに進化していくのかもしれません。大鼓の大倉正之助さんと鼓童の藤本さんが並んで、叩きながら相談している風景は、ちょっと感動的でもありました。

 

もう一つ驚くのは、津村師のプロデュース力でありリーダーシップです。能の世界ではシテ方がいわばプロデューサーの役割を担います。この新作能においてもそうです。津村師は、決して強いリーダーシップは採りません。みんなと一緒に、わーわー言いながら創り上げていくスタイルです。能の世界は、家元制度に代表されるように、シテ方の宗家をトップにしたピラミッド構造なのかと、勝手に想像していましたが、全くそうではありませんでした。年齢も役割も性別も関係なく、同じレベルで意見を出し合っていました。その雰囲気をうまく作っているのが津村師なのです。シテ方という役割でリードしているのではなく、(もちろん実力があるのは当然ですが、何しろ人間国宝ですから)人間性でリードしているように見えました。人柄が素晴らしいのです。後で、作家の篠田節子さんも指摘していましたが、極めて日本人に合った理想的なリーダーシップスタイルだと、私も感じました。あえて言えば、「対話型リーダー」でしょうか。ちょうど、経営者教育にダイアログの考えを取り入れられないかと考えていたところだったので、非常に参考になりました。

 

 

さて、映画終了後、津村師と篠田節子、そして撮影兼監督の三宅流さんの三人が舞台に上がり、トークショーがそのまま行われたのです。何という贅沢なことでしょう!!だから東京暮らしは止められません。

 

そして終わりごろ、質疑応答に入りました。でも、誰も手を挙げません。私も、時々逆に質問を受ける立場になり、手が上がらず困る、というかガッカリすることがあります。なので、つい右手を挙げてしまいました。

 

「トキの詩を書いた小学生たちも、きっと舞台を観たと思いますが、どのような反応だったのでしょうか?そこも映してもらえると良かったのですが。」

 

と、余計なひと言まで発してしまいました。すると、津村師が答えました。

 

「三宅さんは一人で撮影もしていたので、なかなか手が回らなかったと思いますが、・・・」

 

回答自体は省略しますが、私のやや失礼な質問に対して、まず三宅監督を気遣う発言から始められたのです。すごい!と思いました。これが日本人にあったリーダーの姿だと思いました。

 

トークショー終了後、三人はまだロビーにいらして、観客と言葉を交わされました。私も津村師にご挨拶だけと思い、「先ほどは失礼しました」と申し上げました。すると師は、素晴らしく明るい表情で、「何かやってらっしゃるの?」と言われるので、「はい、矢来(観世家)で喜正先生に習っています」と申し上げると、さらに素晴しい笑顔で返してくださいました。きっとこの笑顔だけでも、人はこの方のために一肌脱ごうと思うのでしょう。

 

最後に、主観を徹底的に配した三宅監督の手腕も確かなものを感じました。子供のコメントは、やはりなくて良かったですね。

 

 

今日は朝から、素晴らしい時間を過ごすことができました。

 

 

ところで、今月29日(日)小金井公園での「小金井薪能」で、この「トキ」が上演されます。うーん、観に行きたいのですが・・・・。

毎号「文藝春秋」に連載されている塩野七生さんのコラムは、立ち読み含めて愛読してきました。ローマから世界や日本を客観的に見つめるその視点は、やはり新鮮です。

最近それらが新書にまとめられ出版されましたので、あらためて読んでみました。

日本人へ リーダー篇 (文春新書)
塩野 七生
4166607529

 

それぞれの時の出来事に関するコラムが多いので、少し懐かしくもありますが、本質は全く古くはなっていません。かえって、その後の出来事を知っているだけに、彼女の洞察力に驚かされます。

 

珍しく企業の人事政策、しかも成果主義について書いてあるコラム(成果主義のプラスとマイナス)があります。これが、とてもいい!

 

彼女は人間を3種に分類しています。

    刺激を与えるだけで能力を発揮する人(2割)

    安定を保証すれば能力を発揮する人(7割)

    刺激や安定を保証しても成果を出すことができない人(1割)

 

そして、戦後日本の成長は、他の国々が①に頼っている時期に②を活用したことにあると喝破します。しかし、時代が変わるとそれも変えなければなりません。そして、②の人々に①の人々にしか要求できないことを一斉に求めた。それが成果主義だというのです。・・・なりほど、です。

 

その弊害として3点挙げています。

A)①と②の差は、能力の絶対差ではなく、質の違いだということを無視した。従って、安定を保証されなくなった②の生産性は低下してしまった。

B)腰を据えて一つのことに集中するという、日本人の強みを崩してしまうリスクがある。

C)成果を上げることしか考えない人が犯しやすい、拙速につながる危険性がある。

 

どうでしょう。非常に人間を洞察した意見ではないでしょうか。「経営は人なり」と、どの経営者も言います。しかし、このような人間に対する洞察をもって人に対峙する経営者やマネジャーがどれだけいることでしょうか。

社員の自律化は、現在の日本企業共通のテーマのようです。経営環境がそれを促しています。それは事実でしょう。そして、常に参照対象となるのは、欧米企業における社員と企業との自立した関係です。いわく、個人が自律しており、会社に依存せず、自らの判断で行動している、不確実性がますます高まる状況においては、日本企業の社員もそうあらねばならない。

 

一方、自律が孤立を招き、利己主義に陥りやすいこともまた事実でしょう。個人主義と集団主義と、簡単に二分法で考えるのは危険ですが、両者にとって非常に重要かつ難しい問題です。

 

その厚さと重さゆえ、買っておきながら手を付けていなかったもう一冊の本を読了しました。

 

逝きし世の面影 (日本近代素描 (1))
渡辺 京二
4751207180
98年出版の渡辺京二著「逝きし世の面影」です。

 

「日本近代が前代の文明の滅亡の上にうち立てられた事実を鋭く自覚していたのは、むしろ同時代の異邦人たちであった。彼らが描きだす古き日本の形姿は実に新鮮で、日本にとって近代が何であったか、否応なしに沈思を迫られる」

 

と帯にありますが、それが的確に本書の内容を表しています。近代化とはひとつの文明が滅んだことなのです。それを理解できたのは、日本人自身ではなく、維新前後に来日した外国人でした。詳細な記録探索から、著者はそれを読み解いていきます。多くのことを考えさせられる、評判通りの名著です。

 

しかし、その文明が完全に滅んだわけではないと思います。私自身も、その残滓を感じることがあります。だから、その意味で日本はまだ特殊な国なのです。

 

最終ページにこうあります。

 

おのれという存在にたしかな個を感じるというのは、心の垣根が高くなるということだった。(中略)しかし、心の垣根は人を疲れさせるだけではなかった。それが高いということは、個であることによって、感情と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させ得るということだった。オールコックやブスケは、そういう個の世界が可能ならしめる精神的展開がこの国には欠けていると感じたのである。

 

現代のわれわれ日本人も、心の垣根はまだ相対的に低いのでしょうか?だから、個の力を高めることが下手なのでしょうか?今以上に、心の垣根を高くしたとき、何を基軸にして暮らしていけばいいのでしょうか?

 

 

自律化とは、言うほど簡単なものではない気がします。

ある友人(女性)が嘆いていました。

 

彼女は、某大企業からその子会社(女性が多い職場)へ役員として出向していました。当初はテキパキと自分で判断して決めてきたのですが、ある時部下の意見をできるだけ聞いてから決めるようにと変えたそうです。でも、いくら尋ねてみても、自分の意見をなかなか言わない部下(40代男性)に非常に手を焼いたとのこと。そこで意を決して、その部下になぜはっきり意見を言わないかを直接問いただしたそうです。すると、

 

「僕は、聞かれるたびに●●さんが期待する答えを一生懸命考えてみるのですけど、なかなかわからないんです。そうこうしているうちに、●●さんがいらいらしてくるのが分かるし、余計わからなくなってしまって、・・・。本当にすみません」

 

 

と答えたそうです。彼女は愕然としました。彼自身の意見を尋ねていたのに、彼は彼女の期待する答えをしようと、必死だったのです。

 

彼女は私に言いました。

「男って、組織の中では周囲の意見や空気に、いかに合わせるかばかりを考えているのね」

 

私は否定しました。それは男性だからではなく、その人個人の問題じゃないですか?不適切な一般化はやめてください、と。寅さん.jpg

 

でも、彼女は意見を変えるふうではありません。言った私も、自信が持てなくなりました。だとしたら、男ってつらいな。

 

一昔前は、女性は男性の顔色を伺って生きているようなところもあったと聞きます。ところが、今や、女性はわが道を生き、男性は多くの荷物を背負って、周囲の空気を読みながら、なんとか無難に生きていこうと努力している。そんな世の中なのでしょうか。

 

 

寅さん、男はますますつらくなっていますよ。

誰でも、記憶に残る映画やドラマなどの映像作品があると思います。私の場合、まず挙げたいのが、小学校低学年の頃にTVで観た映画「冒険者たち [DVD]
ジョゼ・ジョヴァンニ
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です。ネズミが主役のアニメじゃないですよ。リノ・バンチュラとアラン・ドロンが主役のフランス映画です。名曲「レティシアのテーマ」とともに、鮮明に記憶に残っています。なぜ、それほど印象深かったのか、今でもよくわかりません。

 

それと、803月放送の向田邦子脚本NHKドラマ「あ・うん」です。これは今でも非常に有名な作品ですが、彼女が描く微妙な感じに、強くひかれます。81年に向田邦子が飛行機事故で亡くなったので、余計に強烈に残っているのかもしれません。それと、81年から放送された早坂暁脚本の「夢千代日記」。挿入歌のあがた森魚「赤色エレジー」も鮮烈でした。

 

 

なぜ急にこんな昔のことを思い出したかというと、実は先週の金曜日21時から、やはり昔好きだった作品がある映画館で上映されると知り楽しみにしていたのですが、満席で入れなかった、ということがあったからです。それは、1978年NHKで放送された佐々木昭一郎演出「四季・ユートピアノ」です。

 

佐々木の演出は独特です。ドキュメンタリーと芝居の中間といった感じです。また、使われる音楽が非常に効果的に繰り返され、映像と一体となるようです。

私もこの作品を観てから、マーラーの交響曲第四番が好きになりました。

 

今回上映されたのも、「佐々木昭一郎というジャンル」というタイトルで1週間だけ彼の4作品が公開されたのです。こんなニッチな作品、しかも21時からということで安心していましたら、なんと前売りで完売だったのです。やっぱり、私以上の熱狂的ファンがたくさんいるのですね。

 

しかし、本当に魅力的で不思議な作品です。その魅力を言葉で表現するのは困難です。20年くらい前に、横浜にあるNHK放送ライブラリーまで観に行ったほどです。

 

「冒険者たち」はともかく、他のドラマはそれも私が中学生から高校生の頃に観た作品です。その影響で、一時はNHKのプロデューサーになりたいと思いました。ちょうどその時代にすぐれた作品が多かったのか、それとも私の感性がその頃鋭敏だったからなのか、理由はよくわかりません。

 

いずれにしろ、それらの作品に大きな影響を受けたことだけは確かでしょう。

先日、ある業界の横断機関からの依頼で、2つのセッションを行いました。ひとつは、各社の経営企画担当者向け、もう一つは人材開発担当者向けで、ちょうど1週間間隔でした。

 

先に実施した経営企画担当者向けセッションは、戦略をいかに組織や人に落とし込むかがテーマで、後の人材開発担当者向けは、人材・組織開発をいかに戦略実現にかなうものにするかがテーマでした。それぞれ別の依頼でしたが、なんのことはない、やったことは戦略と組織のリンケージを、それぞれの角度から理解し実行できるようにしようということでした。

 

経営企画担当は、組織を単なる実行ツールとみがちですし、人材開発担当はあまり戦略を意識しないようです。それゆえ、その必要性を納得して頂くことは、そう簡単ではありません。

 

 

経営企画担当者は、他のセッションでは戦略策定のノウハウなどを学んでいます。それに対して私は、「戦略は創るものではなく、組織の日常活動の中から生まれてくるものだ」なんて言うものだから、最初は???という雰囲気でした。

 

最初の半日(午後+午前の、のべ一日セッション)は、ショートケース3本を使い、戦略と組織の関係を実感してもらいます。その上で、そもそも組織って何?と考えてもらいます。「組織って、●●みたいなもの」の、●●を各自ポストイット5枚以上書いてもらい、それをグループでまとめてもらい全体ディスカッションしかす。

 

翌日の半日は、自作のケース「ヤマト運輸の戦略転換」でディスカッションです。ケースは前後編に分かれており、前半では「宅急便」事業開始までの事実が書いてあります。その情報をもとに、

・宅急便事業のKey success factorは何?

・どんな組織ならそれが実現できそう?

ということを考えてもらいました。

 

その後、後半のケースをその場で読んでもらいます。後半には、実際にヤマトが参入にあたって創った組織や人事施策などが記載してあります。そして、

・なぜ実行面でも成功したか?

・リスクは何か?

について考えてもらいました。

 

 

ヤマト運輸の宅急便事業開始は、非常に大きな戦略転換です。社長や企画スタッフが机上でそのプランを考えることは、簡単ではありませんが、可能ではあったでしょう。しかし、5千人を超える社員の意識やスキルのギャップを超えて、実現させることは並大抵のことではありません。それを実現した小倉昌男社長率いるヤマト運輸には、戦略と組織をつなげるヒントがたくさん詰まっているのです。

 

 

戦略・企画担当と、人事・人材開発担当は、なかなか日ごろ接点がないようです。しかし、両者が手を取り合って事業を企画し推進することが、今後ますます重要になってくることでしょう。今回は、それぞれ別々にセッションを行いましたが、合同で行うともっと高い効果が得られるようにも感じました。

 

 

大変ではありましたが、このような機会を頂き、大変感謝しています。

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