意思決定の最近のブログ記事

人間は、「言葉」によって考えることは間違いありません。

しかし残念ながら、日本語は厳密で抽象的な表現は得意でないように思います。なので、我々日本人は「考える」ことが苦手なのかもしれません。

 

では、「考える」とはもう少し詳しくいうとどういうことなのでしょうか。考えることは、大きくは二種類に分けられると思います。分析的に考えることと、創造的に考えることです。

 

考える目的は、いろいろな言い方ができると思いますが、私は「意思決定」だと思っています。何かを決めるために考える。その際に、まず分析的に考えた上で、創造的に考えるというステップを踏むのではないでしょうか。

 

例えば、今日の昼ごはんをどの店で食べるかを決めることも意思決定です。その際、

・最近どの店にどんな頻度で行っていたか(できるだけ多様にしたい)

・時間の余裕とお天気はどうか(時間があって天気が良ければ散歩がてら遠出もいい)

・今日の懐具合はどうか(給料日前は節約しなきゃ)

・今日の体調はどうか(昨日飲み過ぎたからさっぱりした食べ物がいい)

 

など、意識しているかどうかは別にして、様々な評価軸を自分で設定し、それぞれの評価軸ごとに対象となるお店を評価していきます。この評価軸に従って、A店はB店よりも倍くらい望ましい、なんて頭の中で比較対照しているわけです。この作業そのものが、分析的に考えることです。

 

ただ、どれだけ分析しても、それで自動的にお店が決まるわけではありません。もちろん、評価軸ごとにお店を点数化し、さらに評価軸もウェイト付して、総合点で自動的に決めることもできなくはありません。でも、私の経験ですと、得てしてそういうアプローチを取るとうまくいかないことが多い気がします。

 

では、どうするか。上記の分析的作業をざっとやった上で、最後は「えいや」で決めます。この作業は全く分析的ではありません。むしろ直観です。「いろいろ考えたけど、やっぱり今日はチャーハンが食べたい」となるのです。その理由を言語で説明することはできません。でも、いろいろと分析的に考えた結果やそれ以外の過去の経験や今の自分の気分など、様々な要素が何らかの形で統合されて、それが直観となって表れてきたのでしょう。

 

であれば、分析などせず最初から直観で決めればいいともいえそうですが、やっぱり分析のステップを踏んだからこそ、いい直観が閃いたと言えるのだと思います。分析は材料出しであり、その材料をどう料理するかを考えることが創造的に考えるということなのです。

 

(さらにシビアであることは言うまでもありませんが、)仕事も同じですね。分析的思考しかできなければ、正しい判断はできません。そういう人は、コンピュータやAIに代替されてしまいます。新規事業提案は、どんなに分析してもいいアイデアは出てこないのです。

 

徹底的に分析的に考えた上で、それ以外の様々な要素も盛り込んで、最後に創造的に考え抜くことが必要なのです。でも、創造的思考には、分析のようなツールがないので難しい。

 

考え抜くとは、あらゆるものを今考えているテーマにどのように使えるかという視点で常に接するということです。だから時間がかかります。凝り固まった思考がもっとも大きな障害です。広く澄んだ心で、あらゆるものを受けとめる、そんな心構えです。また、その前提として、明確な問題意識を持たねばなりません。

 

普通、それだけの時間を費やすことができません。時間の制約というよりも、こんなもやもやした状況に心が耐えられなくなる。手っ取り早いところで手を打ちたくなる。スマホの時代、ますますそういった忍耐が持てない。逆に言えば、知的忍耐力がこれからますます重要になってくるでしょう。

 

 

創造的に考えるということは、「分ける」ことではなく「統合する」ことです。大事なのは、統合する材料をできるだけたくさん頭の引出しにしまっておくこと、そしてそれが必要となった時にタイミングよく引き出して、「つなぐ」ことです。

 

ジョブズは、有名なスタンフォード大学でのスピーチで、こう言っています。

 

将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ...、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。

 


いろいろなことに興味を持って高いアンテナを張り、たくさんの経験を積む。それを楽しむ、開かれた心を持つ。「考える」ことは人生そのものなのですね。

グローバル人材育成が、近頃のトレンドのようです。国内市場の成熟が明らかとなった今、海外に打って出ることが多くの日本メーカーの唯一の生き残り策となっていると考えられているからなのでしょう。

 

今やそのトップランナーである、ユニチャームの高原社長の講演を先日聴きました。それによると、海外進出成功の秘訣は、国内のエース級を率先して海外赴任させることにあるそうです。例えば、国内の営業で高い実績を挙げている20年選手を、いきなり駐在させ10年単位で任せる。TOEIC250点でも全く問題ない。語学が得意で海外経験も豊富な中途採用者や若手は間違っても出さないそうです。重要なのは「(担当分野において)仕事ができること」と「ユニチャームの価値観を体現していること」のふたつだけです。ものすごくシンプルです。

 

現在の執行役員も半分以上は海外駐在中かその経験者です。会社にとって海外市場は戦略的に重要だからそこに優秀な人材をシフトさせる。結果的にその経験者が出世していく。会社の方針がシンプルで明確、一貫性があります。当たり前といえば当たり前ですが、多くの企業ではそれができない。

 

この考えの前提には、「本来能力の差なんてたいしたことない。大事なのはそれを開発、発現させる機会を会社が適切に提供しているかどうかだ」という考え方があります。国内で成果を出せる社員であれば、海外でも出せるはず。さらには異なる経験を積むことで、さらに能力が開発されるだろうというわけです。

 

えてして人材開発担当者は、経営陣の意向を受けて「グローバル人材」というなにか特殊なスキルを持った人材を発掘、育成しようと努めます。またそれを売りにするコンサルタントやベンダーが跋扈します。本来果すべき役割は、グローバル人材を育成することではなく、内外問わず成果を出せる人材を育成することです。それすらよく考えられていないにもかかわらず、新たなグローバル人材というお題を与えられて、右往左往しているかのようです。

 

 

私が戒めとしている言葉のひとつに、「小人閑居して不善をなす」があります。人間としての小物は、暇を持て余すと悪いことに走りがちという意味でしょう。だから「できるだけ忙しくしていよう」とも読めますが、私は「考える時間や余裕があると、つい考え過ぎてしまって物事を複雑にしてしまい、結果として意図せず周囲や自分に悪い影響を与える判断をし、行動してしまう」と解釈しています。これは個人レベルだけでなく組織にも言えることで、避けがたい人間の習性といえます。

 

その解毒剤は「シンプルに考える」ことに尽きると思います。なぜアップルは、あれだけ巨大企業になっても、創造性も一貫性も失われずにいられるのか。その秘密は、ジョブズが非常にこだわった「シンプルさ」への信仰にあったのだと、「Think Simple」(ケン・シーガル著)を読んで腑に落ちました。

 

「小人閑居して不善をなす」とは、「Think Simple」の反語だったのです。シンプルなんて使い古され手垢が付きまくっている言葉ですが、成熟した時代にその重要性はますます高まっていくことでしょう。



 

Think Simple―アップルを生みだす熱狂的哲学
ケン・シーガル 林 信行
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個人レベルでは当たり前だと思うことが、組織(集団)では当たり前ではなくなる。こういう経験は誰もがお持ちではないでしょうか。

 

ソニーやパナソニックが薄型TVの販売不振を主要因として、前代未聞の大赤字を計上した事実は、その典型事例かもしれません。

 

エコポイントとデジタル化効果で、薄型TVが飛びように売れていたのは、ほんの1,2年前のことです。どちらの効果も期限が明確であり、終了後はその反動で需要が落ち込むことは、子供でも予想できたことでしょう。なのに、生産調整がかけられなかった。優秀な経営陣が揃っている両社で、なぜそんなことになってしまったのか。不思議ですね。

 

今朝の朝日新聞で、一橋大学の沼上幹教授がそれをとりあげています。

 

例えば117月を境にテレビを大幅減産して、テレビ部門の人員を他の事業所に配置転換したり、リストラしたりする、という厳しい意思決定は簡単ではない。どれほど厳しい予想数値が事前に出ていようと、実際に血の流れる意思決定を単なる「予想」に基づいて行うのは、二の足を踏まざるを得ないのだ。(中略)「これほど売れているのに、なぜそのような後ろ向きのことを言うのか」と批判的になる人も出てくるだろう。(中略)組織が大規模で、合議的な意思決定を行う傾向の強い会社ほど、意思決定の遅れが深刻化する可能性がある。

 

これが人間のリアリティーだと思います。慣性で動いているものを止めるには思いもよらない力が必要です。もし止めたことで損害が発生したら、その当事者への責任追及は熾烈となります。一方、止めなかったことで損害が発生(今回のケース)しても、慣性を維持するという「空気」を共有した人々は同罪であり、それはすなわち誰も責任を取れない、取らないことになるでしょう。だって悪いのは「空気」なんですから、「仕方がない」。これが日本の組織の意思決定です。

 

原発の安全神話もこれと同じメカニズムです。「だって、もう何十年も大きな事故もなく稼働しているじゃないか」原発のケースは低そうな確率の問題でしたが、薄型TVの問題はかなり高い蓋然性でした。それでも動けない。

 

その根幹には日本人特有の言霊信仰があると考えます。言葉に出した時点でそれが実現するという信仰です。「縁起でもない。そんなことを口にするな」というやつ。誰も望んでいないことは口にしてはいけない。だから神話となる。

 

ちょうど昨日の日経朝刊にその逆を示す記事がありました。ギリシャ危機に関するIMFの対応の記事です。

 

 

「テール・リスクを考えて準備を始めた」。複数のIMF筋がこう明かす。「テール・リスク」とは、確率分布曲線が細るしっぽ部分になぞらえ「想定外」のリスクを示す時に使う。確率は低いものの、いざ発生すれば国際的に大損失が発生する事態。つまりギリシャのユーロ離脱という衝撃をIMFが視野に入れ始めたことを意味する。ある幹部は、「考えたくないが、債権者としては当然の準備」として、ギリシャの債務返済の一時猶予宣言まで見据えた危機シナリオを打ち明けた。

 

テールであろうとなかろうと、言霊を乗り越えてリスクと真剣に向かいあう勇気を日本の組織(政府も含めて)が持てるかどうか、これがこれからの日本経済および社会を大きく左右することになるでしょう。「先のばし」は高度成長の時にしか通用しないのですから。

 

必要なのは、ぶれない軸と覚悟、そして勇気です。

中央高速道路をよく利用するのですが、一番嫌なのは渋滞にはまることです。渋滞しそうな時間はずらすようにしているのですが、事故や工事による渋滞もしばしばです。

 

昨日も工事渋滞にはまりました。工事は事故とは違ってある程度計画的に行うものです。大規模な工事であれば事前に告知されますが、ほとんどの工事は行ってみなければわかりません。

 

深夜など交通量の少ない時に工事すればいいと思うのですが、交通量の多い時に限って工事しているような印象を受けます(あくまで印象ですが)。きっと、深夜に工事すれば、作業員に支払うコストも高くなるのでしょう。平日の昼間であれば、割増料金もなく割安なのかもしれません。

 

その計算の前提では、顧客である通行者が負担しているコストをゼロと考えています。つまり、渋滞にはまったことによって顧客が被った費用を考慮していないのです。高速料金とは、その道路を利用することで、一般道路を利用することにより得られる経済的なメリットの対価のはずです。したがって、メリットが渋滞によって得られなくなったのであれば、何らかの金額を払い戻すことが合理的です。(鉄道の特急料金には、そういう制度があったように記憶しています)ETCの導入により、それも可能になったのではないでしょうか。

 

また、メリットの受取り損ない以上に、渋滞で到着が遅れたことにより実際に金銭的な損害を被る人もいることでしょう。その損失を補填するかどうか、実際に払い戻すかどうかは別にして、顧客が被った機会費用を認識することにより、渋滞を発生させないような、つまり顧客に迷惑をかけないような工事の仕方やアナウンスの仕方を工夫するようになるはずです。社員に顧客志向を盛んに植え付けようとしても、それだけではなかなか動きません。そう行動することが、会社ひいては個人に金銭的メリットがあることを見せることが大切ではないでしょうか。

 

日本では、公的機関を筆頭に機会費用の認識が非常に薄いと感じます。たとえば、一年前の計画停電。これによって発生した東京電力管内の機会費用も、本来損害賠償に加えるべきだとの議論があってしかるべきです。会計上の費用や目に見えるキャッシュアウトしか損失とみなさない風潮は、効率的な社会を形成するうえで大きな障害となっている気がします。機会費用を見える化することが、これからますます必要になってくることでしょう。

 

渋滞の運転席で、そんなことを考えてしまいました。

一般に、「わかる」ことができれば「できる」ようになると考えられています。一方で、「わかる」ことと「できる」ことの間には、大きな壁があるという人もいます。

 

では、「できる」とはどういうことで、そのための「わかる」とはどういうことなのでしょうか。ビジネスのシーンを想定して考えてみましょう。

 

「わかる」とは、限られた情報から何らかのルールを見つけ出すことだと考えます。例えば、顧客との交渉において、相手が意思決定するまでのプロセスや判断基準、という非常に曖昧模糊としたものを分なりに捉える必要があります。つまり、相手の頭の中にある「世界」のルールを見つけ出すのです。(それを「概念化」という人もいます)そして、それを記述します。ふつう言語で記述するのですが、もし数字を使って記述できればさらに強力です。なぜなら、数字は世界共通語ですので、他者との共有が容易だからです。

 

自分なりに腑に落ちるルールをみつけ記述に成功すれば、同じような場面に適用することができます。交渉においてその顧客のルールがわかれば、次回以降の交渉でそのルールを適用して、自己に有利な交渉が「できる」ようになります。このように「わかる」ことで「できる」ようになるのです。

 

以下で思考実験してみましょう。

 

1,5,11,19,29・・・・・・・・

さて、29の次にはどの数字がくるでしょうか?

 

隣り合う二項の差が、4,6,8,102ずつ大きくなっているというルールを見つけた人がいるかもしれません。

 

また、An=n²+n-1 というルールを見つけ出した人もいるかもしれません。どちらも、次の数字は41ですね。いずれにしろ、ルールを見つけ次の数字を見つけることが「できた」のです。

 

ここで強調しておきたいのは、二つのルールが存在したことです。ルールはあくまで仮説であり唯一無二の解ではありません。いくつもあるに違いない。自分だけが正しいのではないと自覚することも大切です。

 

そもそも、自分が見つけたルールの絶対的な正しさを証明することは不可能です。大事なのは、ビジネスでの実用性であり、関係する他者の納得感が得られるかどうかです。上司や同僚が、「確かにそうみたいだね」と言ってくれて、しばらく通用すればそれでいい。でも、いつかは通用しない事例がでてくることでしょう。その時は修正すればいいのです。こういった、仮説構築→共有→検証→修正 を繰り返すには記述が欠かせません。

 

このように、世界を記述するルールを見つけ出すスキルは非常に重要です。人間は本能的に、何でもルールを見つけ出そうとします。それは生き物としての生存本能に由来するものかもしれません。しかし、与えられたルールに適用することしかしていなければ、そのスキルは、動物園に入れられた野生動物のようにどんどん劣化していくことでしょう。

 

ところで、頭で「わかる」ことと「できる」こととの間に大きな壁があるのは、自分でルールを見つけるのではなく、他者からルールを教えられ、それを単にうのみにしているからなのかもしれません。たとえ教わったのだとしても、自分自身で納得いくまでそのルールの背景や文脈、成り立ちまでも掘り下げてみる(それを「知的強靭さ」と呼んでいます)ことで「わかる」ことができるでしょう。その手間を惜しんでばかりいれば、「できる」はずもありません。

 

 

原発事故発生から一年が経過しました。まだ、私たちは「原発の世界」について何もわかっていない気がします。共有、共感できるルールを早く見つけ出したいものです。そうでなければ、本来一歩も前に進むことができないはすなのですから。

震災や原発事故によって、自粛ムードが蔓延しています。たとえば、東京都は花見禁止令といういようなスタンスを打ちだしています。また、鉄道各社は節電のために、本数削減、照明や暖房を削減、エスカレーターも止めている駅も多いです。これは一体何なんでしょうか?山本七平いうところの「空気」による支配が頭をもたげているのかもしれません。

 

節度ある都民は、花見の際も被災者へ共感すればおのずとどんちゃん騒ぎはしないでしょう。日本はお葬式の直後に精進落としとして、参加者同士で酒を酌み交わすことが普通の国です。花見=酒=どんちゃん騒ぎ=不謹慎、というロジックにはかなり無理があります。私は、はかない桜を愛でながら、被災者や亡くなった方々に思いをはせながら酒を酌みかわすことは、今立派な行動であり、それを禁止するのは馬鹿げています。今、花見で馬鹿騒ぎするような愚かな人が、この東京にそんなにいるとは思えません。いたとしても、良識ある都民から、それこそ圧力がかかることでしょう。こういったことを役所が「指導」する発想自体おかしいと思います。

 

鉄道各社の節電も方向性としては賛成しますが、はたして常時エスカレーターや照明、暖房を止める必要があるのでしょうか?電気が不足するのは事実ですが、不足するのは電力使用のピーク時だけです。その時間以外は不足しません。したがって、非ピーク時の節電は、今回の電力不足には無関係です。駅はでお年寄りや体の不自由な方が、エスカレーターを使えず苦労しています。また、病気でも電車に乗らなければならない方が、暖房の効いていない車内で震えているかもしれません。意味のない節電のために。

 

なぜこういうことが起きるのでしょうか。上記のいずれも被災者への共感でもなく、合理的判断でもありません。なにやら漠然とした「空気」によるものではないでしょうか。「こんなときに酒とはいかがなものか」、「こんなときに節電に協力しないとはいかがなものか」、といった「いかがなものか」という「空気」が、人々の行動を制限しつつあるような気がしてなりません。


空気とは、考えてみれば放射線に似ています。臭いも音も振動も形もなく、出どころもよくわからないまま知らない間に人々を覆い尽くします。そうして、少しずつ行動に影響を及ぼし破壊する。

 

日本人は何かと極端に「触れやすい」民族だと思います。それは、空気の支配力が強いからでしょう。今回の自粛ムードも極端に触れる可能性があります。危機の場面で一致団結する素晴らしい資質と、極端に走ってしまう悪弊はコインの裏表です。

 

今必要なのは、まず空気に支配されず、自分自身の頭で考えること。そして共感によって判断するのか、合理性によって判断するのかを自分で確認することです。共感による判断は、人間の深いところにある感情を評価軸とするのであり、他者にとやかく言われる筋合いはありません。花見をすることで被災者の方々と共感する人はたくさんいるはずなのです。また、特に社会的に影響の大きい機関や組織は、こんなときだからこそ合理的判断が重要です。東電の「計画停電」実施は、近年まれにみる非合理な意思決定だと思います。合理的に判断したとしたら、このような形式を取らなかったはずです。理性ではなく国民の「情」に訴えたかったとしか思えません。東電も政府も、「国民は愚かだから合理よりも情だ」と判断したのかもしれません。


過剰な自粛は消費を減らし、ただでさえ落ちている日本の経済力をさらに悪化させます。それは復興の最大の障害になるでしょう。こういう「理屈」は「空気」の前では無力であり、議論の俎上に上がりにくいのでしょう。

 

大人の判断、大人の議論ができない国は、他国から尊敬されるはずがありあません。確かにこれまでの被災地の方々の行動は賞賛にされて当然です。しかし、これから日本を見る目は、日に日に厳しくなっていくような気がしてなりません。

今年に入ってからチュニジア、エジプトといったアラブ諸国で起きていることを年初に予測した人は、おそらく世界じゅう探してもいないでしょう。それまで治安警察などに抑え込まれていた民衆が、危険を顧みず大規模なデモを繰り返し、完全に民主的な方法で政権を崩壊させたのです。な

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ぜ、民衆はリスクを恐れず行動したのか。フェイスブックの力は確かに大きかったでしょうが、この革命の本質は違うところにあると思います。

 

現在のひどい状況が、将来さらに悪くなると多く人々が確信したので、リスクを取る行動を示したのではないでしょうか。

 

現在の状況とは、絶対的なレベルではなく、過去や他者との比較で認識されるでしょう。アラブの状況で言えば、以前より豊かになっているかと、貧富の差が拡大していないかの点です。日本の敗戦直後のように、皆が貧しければ耐えられるのです。チュニジアもエジプトも、全体的には豊かになっていますが、貧富の差の拡大は大きな問題となってきていたようです。政府は、豊かにしてやったのだから多少の貧富の差は我慢せよとの意図だったのでしょうが、貧富の差は想定以上に大きな不満の種だったのです。貧富の差の固定化を促す治安警察の抑圧と食糧価格高騰が、それに拍車をかけます。

 

多くの民衆の感じ方は、

『国は以前より豊か<自分は他者よりも貧しい』、だと思います。

 

もうひとつは、未来の予測される状況です。今回のデモの主流は若者でした。彼らは最も失業に苦しんでいる世代です。国が豊かになってきているのに、自分たちには職がなく生活が苦しい。その傾向は改善するどころか悪化している。その原因の一つには、グローバル化を前提とした、リーマンショック以降の世界同時不況や中国をはじめとする新興国の需要爆発による物価高騰もあるでしょう。しかし、大事なのは若者にとって職、すなわち未来がないこと、そしてそれが改善される見込みが立たないことです。

 

『国は豊になっていく<自分には未来がない』

 

つまり、ひどい現状がさらに悪くなると確信すれば、政府に反旗を翻すという大きなリスクを取ることも正当化されるのです。もちろん、リターンすなわち革命の成果はまだ見えません。ただ、見えない将来のリターンにも見合うくらいの現状のひどさと希望喪失があったのでしょう。

 

デモ中のタハリール広場(カイロ)では、持ち物検査のために長い行列ができたり、イスラムの礼拝の時間にキリスト教徒による人間の楯で守ったりしたそうです。さらに大統領辞任が決まり広場から撤収する時は、皆で掃除をしていたそうです。これらはそれまでのエジプトの国民性からは考えられないことだということです。リスクを見積もってその結果一歩踏み出すことは希望を持つことであり、希望は人に誇りと倫理感をもたらすのかもしれません。

 

翻って現在の日本、そして中国はどうでしょうか。

近年、ベンチャーの評判が芳しくありません。確かに、上場基準が大幅に緩和されたのに乗じて、2003年頃からそれを悪用する輩がたくさんいました。それが、今のベンチャー離れを呼び、さらに反動して大企業志向が再び高まってしまう事態となったわけです。日本経済全体としては、非常に好ましくない方向だと思います。

 

ところで、日本ではベンチャーが育たないとの論はずっと以前からあります。いわく、リスクマネーが出ない、日本人は創造性が低くリスクを取らない国民性だ、大企業が本来ベンチャーを手がけるような事業まで参入する、などなどいろいろな理由が流布しています。

 

それぞれ一理あるかもしれませんが、私は大企業における意思決定の方法に大きな理由があるのではと考えています。

 

ベンチャーを起こし成長させるには、既存企業(特に大企業)との取引が欠かせません。既存企業の担当者に、なんとか高い評価をもらったとしても、その担当者が上司やそのまた上司に決裁を仰ぐ必要があります。いわゆる稟議制度です。彼らを説得させるのは、簡単ではありません。

 

ここで二つのパターンがあります。現場の担当者の申請をほぼ、無条件に決裁する上司(めくら判)と、重箱の隅を突くようにだめだしをする上司です。

 

前者の上司は部下を信頼しており、大枠のみしかチェックしません。後者の上司は、自分の存在意義は否定することだとでも思っているかのようで、リスクの最小化が判断基準です。したがって、ベンチャーとの取引は、真っ先に否定されるべきものです。それを慮って、部下は上司にリスクの低い申請しかしなくなります。

 

前者の企業が相対的に多ければ、ベンチャーが伸びる余地が大きいといえるでしょう。しかし、現実はまだまだ後者が大半を占めるのではないでしょうか。

 

コンプラなどのリスク対策の重要性はますます高まっています。その意識が、通常の取引選定にまで影響を及ぼしているとしたら、ますますベンチャーの芽は摘まれることになるでしょう。

 

 

戦後、ソニーやホンダといった当時のベンチャーがたくさん輩出されたのは、高成長を続ける経済のもとでは、上司は部下に任さざるをえなかったからかもしれません。今の中国がきっとそうですね。もし、そうなら今のようなデフレ経済では、ますます成長しづらいという悪循環にはまりそうです。

 

 

私は周囲を巻き込む稟議制度は日本人に合っていて、悪い制度ではないと思っています。しかし、それがスピード感や変化対応力を弱めたり、ベンチャー育成を妨げるのであれば、仕組みを変える必要がありそうです。でも、それは非常に難しい。

 

 

 

では、どうするか。意思決定する際の意識に働きかけたい。それは、日本における大企業を頂点にしたピラミッド意識(それはある種の差別意識かもしれません)を払拭することです。

 

そのためには、大企業に、ベンチャーの力を取り込むことで大きな価値を生み出しうることに気づかせることが近道と思います。ベンチャーを保護するという意識ではなく、合理的に活用する道を示すのです。トヨタの米電気自動車ベンチャーのステラ・モータースへの出資が、その魁になればと思っています。残念ながら、相手は米国企業ですが・・。

 

 

伝統ある一部上場アパレルメーカーのレナウンが、中国企業の傘下に入ることになりました。もはや、日本企業が中国企業に買われるレナウン.jpgことは珍しいことではありません。「変われない企業が買われる」のは、資本主義の必然です。

 

レナウンの北畑社長が会見で、「変わりきれなかった・・。」と発言したのが、印象的でした。細かい情報は知りませんが、業績が長期低迷する中で、たぶん様々な取組みをしようとしたのでしょう。製造小売(SPA)がアパレルの主流になるなかで、時代から取り残されている感は否めませんでした。

 

では、なぜ変革できなかたのでしょうか。様々な理由はあるでしょうが、やはりトップが決断できなかったからだと思います。

 

変革によって失うもの、例えば過去のブランドイメージや仕事の手順や減っているとはいえ現在の「売上」などの大きさと、変革することによって得られるかもしれない将来の大きなリターンとの、トレードオフの中で、大きな意思決定ができなかったのでしょう。なぜできなかったのか。

 

たとえば、50億円を確実に失うことと将来100億円を得られるかもしれないことの比較を、合理性に基づいて行うことは案外難しいものです。将来の100億円の価値を、リスクファクターを考慮した上で現在価値に割り引いて、合理的に評価はできなくはありません。それが、仮に60億円だったとします。合理的に考えれば、50億円を失っても変革すべきです。でも、感情をもつ人間の意思決定はそうはなりません。確実に失う50億円のほうが、合理的に計算された60億円より価値が大きくなる傾向にあります。それが感情です。(プロスペクト理論)

 

レナウンも感情(変革はできればしたくない)と合理性との間で大きく揺れたことでしょう。そして、感情が勝ち小さな改善を繰り返すことで延命を図ったに違いありません。人間は案外楽観的です。時間が経てば、状況は好転するかもしれないと思いたいし、思うのです。

 

でも、やっぱりだめだった。それが、北畑社長の「変わりきれなかった・・・・。」の発言に表れていたのではないでしょうか。

 

重大な局面での判断を、間違えないようにする秘訣はあるのでしょうか。

 

判断を間違う要因を、まず考えてみたいと思います。自分自身の数ある失敗を思い越してみると、情や我欲に引きずられる、狭い視野で考えている、小さな理屈にこだわりすぎた、そんな要因があった気がします。

 

では、どうすれば、正しい判断を妨げる要因を排除できるのでしょうか。ひとつには、「ここ」と「いま」から離れることだと思います。意思決定するのは、今ここで、です。そうすると、判断の材料もどうしても今、ここに偏りがちです。

 

例えば、大きな問題となっている雇用問題。経営者は、今いる社員をどうするのか?リストラしなければ今期営業赤字に陥る、それでいいのか?株主にどう説明すればいいのか?など、「いま」「ここ」での対応に頭を抱えていることでしょう。

 

大企業の経営者くらいになれば、「いま」「ここ」だけでなく、未来や社会への影響も考慮に入れるべきでしょう。ましてや、政治家は。

 

 

「いま」「ここ」からいったん離れて、普遍的な思想なり価値の視点を持って判断すべきなのでしょう。そのためには、一人孤独に思考する場所が必要かもしれません。さらに、時間的空間も超えるべきです。たとえば、歴史や古典に遊ぶことでしょうか。

 

 

時間に追われ、どこに行っても、携帯電話やメールでがんじがらめになってしまいがちな私たち。強い意志を持って実行しなければならないでしょうが、その対価は大きいように思います。

 

不動清水の木.jpg

 

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