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忖度と社長の視座

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日本企業の生産性の低さは、今では有名です。ひとりひとりは優秀で、手を抜くことはあまりせず、集中力も決して低くはない。にもかかわらず、なぜ生産性が低いのでしょうか?

 

 

ある大企業の新任執行役員を集めて研修を行うことになりました。例年であれば、リゾートホテルに集まり、社長講和や役員としての心構えや法規制などのレクチャーを受け、翌日ゴルフして解散というパターンでした。

 

ところが、昨年就任した新社長はそれでは不満で、もっと勉強させろという指示が事務方に降りたのです。

 

事務方は慌てていろいろ検討しました。そして、こう考えました。

昨年の社長就任とともに、新中期経営計画を発表した。その計画を実行に移すための方策を、新任執行役員に考えて欲しいに違いない。その発表を、ホテルでの研修の際に行うことにしよう。

 

このコンセプトのもとに準備が始まりました。部門を超えたグループで検討を進め、発表するものです。発表の相手は社長です。社長はこの機会に、新任執行役員ひとりひとりの品定めをすることは、容易に想像できます。メンバーのプレッシャーも相当なものになるでしょう。

 

できるだけ、期待に応えられるように支援することが、私たちのミッションです。

 

事務方は、体制や運営方法もつめ、社長に最終確認を得るべく報告しました。貴重な社長の時間を使うのですから、完璧に詰め想定問答も準備した上でのぞみました。

 

ところが、中期経営計画について取り組ませたいと説明した瞬間、社長はばっさり否定。「そんなものは、普段仕事で考えていることだろう。もっと、その大元を考えさせなければダメだ。」

 

そして、すぐに対案を指示。

「歴史観、社会や経済の構造変化、そして日本の生産性向上について考えさせよう」

 

事務方としては想定外の展開でした。

 

経営計画について検討させるのと、歴史認識について考えさせるのでは、あまりに次元が違い過ぎるように感じました。しかし、もともと社長が考えさせかったのは、そういうことだったのでしょう。

 

過去のパターンから中期経営計画がテーマでよいと想定し、それに基づいて準備を進めてきたのが間違いだった。

 

もしかしたら、社長はそういう仕事の進め方自体を変えたいと考えているのかもしれません。かつては、こういった阿吽の仕事の進め方が生産性を高めていたのかもしれませんが、もうそういう時代ではないことをわからせたい。

 

過去の枠組みをとっぱらうために、一時的な生産性低下(これまでの準備)を甘受する。現場は振り回されるでしょうが、変革のために必要なステップなのでしょう。

 

また、もうひとつの想いは、新任執行役員には、少しでも社長の視座に近づいてほしいということ。

 

しかし、このテーマで社長に発表するのは、本当に大変です。

厚生労働省の統計問題は、ますます混迷を極めています。それについて、言いたいことはいろいろあるのですが、今日は特別監察委員会を題材にして考えてみたいと思います。

 

まず、特別監察委員会報告は最初の報告で、国民からダメ出しされ、先日の二度目の報告でもまた議論を呼んでいます。情けない失態です。なぜ、こんなことが起きたのでしょうか?

 

報告内容以前に、特別監察委員会とその活動の客観性に関する認識の違いがあったと思われます。想像力をはたらかせて、厚生労働省官僚の思考を追ってみましょう。

 

・特別監察委員会は第三者委員会でなければまずそうだ

・しかし、全く厚生労働省のことを知らない人に監査は無理だろう

・厚生労働省の外郭団体のトップであれば、ある程度役所の文脈も理解できるし、知的レベルも高い立派な人だし、役所の人間ではないので適任だろう

 

 

また、最初の監察委員による職員へのヒアリングに、厚生労働省幹部が同席していたというのも驚きでした。そこも想像してみましょう。

 

・職員へのヒアリングでは、正しい発言をしてもらわなければならない

・しかし、職員は管理者のいないところでは、どんないい加減な発言をするかわかったものではない

・管理者(幹部)は、職員の発言に責任を持たなければならない

・また職員は管理者のオーソライズがなければ、責任ある(?)発言はできない。なぜなら、もし自分の発言内容で問題が起きても、自分では責任を取れない。管理者がオーソライズしてくれていれば(同席だけであっても、そこで否定しなければ)、責任はその管理者が取るはずなので

・したがって、ヒアリングには管理者が同席しなければならない

 

これはあくまで想像ですが、役所全体がこういう思考でなければ、今回の事態は理解できません。

 

この思考回路には、隠れた前提があります。

まず監察委員の構成について。

・役所のことは役所内部の人間でなければ理解できない

・そうして役所の人間が下した結論に、間違いはない

・国民はその結論に従うべきだ

 

次に、ヒアリングへの幹部の同席について。

・「正しい」発言とは、真実を指すのではなく、役所のピラミッド機構を維持するための発言を指す

・その機構において、下の者は上の者の意向を想像してそれに沿った行動を取ることが正しい

・究極の上の者とは、国民ではなく官僚機構トップであり、さらに言えばその上司にあたる首相である

・職員は組織の一員であって、独立した個人ではない

 

このように、「第三者委員会」や「第三者委員会によるヒアリング」という言葉も、我々のような一般の人と、役人では全く異なるものとして捉えているようです。

 

私は、厚生労働省の役人が、悪意を持ってこうした思考をし、行動したとは思えません。もし、悪意があればもっとうまくやり、隠しおおすことだって、彼らの才覚を持ってすればできたはずです。

 

つまり、これが「普通だ」と思ってなしたのだと思います。彼らの世界では一貫性のとれた思考。私は悪意があった場合より、こっちの方が恐ろしい。悪意であれば自制が働く可能性はありますが、無意識であれば、同じようなことが何度も繰り返されるでしょう。国家の中枢が、こんな世界観で動いている。

 

役人の頭に浸みこんでいるこうしたディスコース、すなわち思い込みや言説をどうすれば変えていくことができるのか?

 

しかし、これは役所に限定した問題ではなく、会社でも国民レベルでも、どこにもあることです。

 

組織変革と物語

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組織変革という言葉は、既に手垢がついてしまっています。手垢がつくということは、人によってその言葉の解釈がばらばらになっている状況です。にも関わらず、キーワードとしては頻繁に使用されるため、それぞれの解釈の違いを確認することなく、何となくわかった気になって使用され、コミュニケーション齟齬をきたすことが、まま起きることになる。

 

組織変革という言葉は、組織構造を変える、組織構造を変えないで担当者や役割を変える、社員の意識を変える(意識って何?)、企業文化を変える(文化って何?)、評価方法を変える、就業に関するルールを変える、などなど、様々で使われています。もちろん正解はありません。

 

私の定義は、「組織が持続的に成果を出し続けることができるような状態になっている」ことです。持続的に成果を出すためには、環境変化にも適応できなければなりません。Aという状態をBに変えるというイベントではありません。変革をイベントと解釈することがありますが、そうではなく、常に変化し続ける状態が組織変革の理想です。

 

優雅に川に浮かぶ白鳥が、実は水面下ではすごい勢いで足を漕いでいるイメージでしょうか。一見すると安定しているが、実は常に細かく変化している。

 

こうした組織変革を可能にする能力を組織のケイパビリティとするならば、それはSkillWillに分解できます。Skillとは、どうすれば実現できるかの知識を持ち、かつそれを実行できること。Willは、一般には意欲とか動機づけとか言われますが、向かうべき方向性や従うべき規範に沿って動いてしまう心の状態だと解釈しています。つまり、戦略がこうだからこっちに向けて行動しようと意識することではなく、無意識にそう行動してしまう。インストールされている。

 

自動車に例えれば、アクセルやブレーキ、やハンドルがWillで、エンジンがSkill。スムーズに運転しているときは、足の操作やハンドルは意識することなく勝手に反応するでしょう。


SkillWillが揃って組織のケイパビリティ―といえるのです。そして、組織が置かれた環境によって、SkillWillを操作する必要があります。

 

Skillを向上させるために、上司が指導したり研修したりします。では、Willはどうやって獲得・向上させるのでしょうか?

 

その前に、Willとは何かをもう少し考えてみる必要がありそうです。組織のWillを形づくるものは何か。

 

私は、それは物語だと思います。個人的な例で恐縮ですが、私は約30年前に新卒で銀行に入行しました。就職活動中、当初私は銀行にお堅いネガティブなイメージを持っていました。しかし、リクルーターや人事部の方々と会ううちに、それは少しずつ変わっていきました。時代はまさに金融自由化元年といわれた頃。銀行は自由化、グローバル化に対応するためにこれまでとは異なる人材を必要としている、そんな言説に共感していきました。自分の中でそういう物語をつくりあげたのでしょう。

 

しかし、入行してみるとその物語は木端微塵に吹き飛びました。銀行という組織は、これまで通りの物語に従って動いていた(当たり前か!)。人事部は本当に新しい物語を信じていたのかもしれません。しかし、それは人事部や経営幹部の一部にしか共有されていない、希望的物語だったのです。そのギャップのため、二年で私を含め二割近くの同期が退職しました。(原発神話も、日本国民全体を巻き込んだ壮大な物語でした・・。)

 

物語に類した言葉に、「思い込み」や「前提」などありますが、それらはいわば点です。物語は面であり、広がってあらゆる思考や行動に影響を及ぼします。また、物語は組織を構成する人びと全体に共有され、自分だけ別の物語を生きるということは、ほぼ不可能です(私が辞めたように)。こうして組織文化ができあがります。

 

企業の環境が大きく変わる場面では、物語を編み直すことが必要になることがあります。(それをイベントとしての組織変革ということもできます)

 

まず、その組織が持つ物語をひも解いて、それを言語化し意識化することから始める必要があります。組織の内部の人間だけでは、その作業は難しいでしょう。全ての壁と天井が赤に塗られた部屋でしか暮らしたことがない人は、その部屋が赤いなんて知りようがないのですから。

 

現在の日本のあらゆる組織で、こういった作業が必要なのではないでしょうか。私は、それを組織を耕す作業としてイメージしています。

ここのところの人材開発のトレンドのひとつは、ダイバーシティ教育でしょう。女性管理職比率が低い、もちろん役員においても。また外国人の役員も少ない、などといったことが、新聞等でも盛んに指摘されます。もちろん、ダイバーシティには他にも、人種、宗教、障碍、LGBT、年齢、世代などいろいろな多様性があります。

 

ある尊敬する経営者から、なぜ企業においてダイバーシティが必要だと思うか?と質問されたことがあります。

 

不確実性の大きい経営環境においては、組織の中にも多様性を保持したほうが変化へ対応しやすく、また創造性も高まるからじゃないでしょうか、と教科書的な回答をしました。

 

するとその方はこうおっしゃいました。

「創造性とか変化対応とか、みんないろいろ理屈をつけるけど、経営者はそんなことは考えていない。もっとも企業が勝ち続けられるフォーメーションを考えれば、必然的に多様化した集団になるんだ。」

 

私は、目から鱗が落ちた気分でした。世間ではダイバーシティが目的化しているが、ダイバーシティは目的ではなく手段です。すくなくとも、民間企業においては。本来の目的は、企業が強くなることです。

 

では、なぜ本来の目的を追求することを忘れ、目的化した手段に汲々としているのか。考えてみましょう。

 

・日本では、少なくとも戦後の高度成長期においては、画一的な労働者(つまり非多様性)を基盤にした組織が有効だった(理由は明らかでしょう)

・ヒトは何らかの共通的を持った人びとで集団を形成したがり、その集団を維持する力がはたらく

・その結果、集団内でメリットを配分するとともに、異なる集団を排斥することで集団の結束力を高める

・そうした環境に長期間置かれることで、それに都合のいい「理論」ができあがり、集団内で信念として共有されていく

(例:女性は数字に弱いので高度な仕事にはむいていない、など)

・そうした「理論」は、無意識のバイアス(そもそもバイアスとはアンコンシャスなもの)となってその理論にそった思考や行動を導く

・集団において、そう考えるのは自分だけじゃないと認識されれば、さらにそのバイアスは強化されていく

・そうしたバイアスのもとでは、たとえ「理論」を否定するような事象が起きたとしても、やがて肯定する事象に変化しがち。その結果、やはり「理論」は正しかったと確信される=ピグマリオン効果(予言の自己実現)

(例:数字に強い女性がそれを活用できる仕事を任されてとして、周囲の男性の協力が得られず、やがて他の部署に異動させられてしまう。そして、やっぱりな、と周囲の男性は安堵する)

 

かつては、こうした画一化が合理的だったとしても、経営環境は変わっていき、環境不適合となっていくわけです。しかし、こうした状況は、ヒトの心理面に深く刻まれるため、なかなか脱却できません。そのため、グローバルで競争している企業は、海外企業との競争に負けていくことになります。このままではまずいということになり、「ダイバーシティ」が大事だ!ということを言いはじめたのです。

 

しかし、人びとはなかなかぴんときません。それは、ダイバーシティを重視しなくても、まだまだ生き残れる企業の方が大多数だからでしょう。腐っても鯛、世界第三位のGNPを誇る日本です。まだまだ国内市場は大きい。減ったとはいえ、まだ規制で守られている業界は多い。また、グローバル企業からみると、日本は限界市場であると判断し、本気では参入しようとしない。だから、生産性が多少低くても生き残っていける。(日本企業のホワイトカラー生産性が低いのは、それが維持できるからです)

 

こうして、役所や経済界が旗を振っても、日本全体の「空気」にはなっていない。上辺の形だけ整えて、やり過ごそうとする。(社外取締役の起用など、手段が目的となり実施することで安心する)

 

保守的大企業の「空気」を変えるには、まだまだ力不足なんです。

 

しかし、このままでいいのでしょうか?私は典型的な「ゆでがえる現象」だと思います。まだまだ、と思っているうちに茹で上がってしまう。では、どうすればいいか。

 

これまで培ってきた「理論」を、ひとつひとつ否定することは非効率です。それよりも、これまで集団に守られてきた社員の思考パターンを変えさせる必要があります。それには、

・自分が当たり前だと考えていることを、必ずしも他者はそう考えない現実を見せる

・相違が発生するのは、自分はある「フィルター」(バイアス)を通してものをみる特性があることを気づかせる

・同様に、他者も独自のフィルターを持つことに気づかせる

・従って、自分と他者に相違があり、それを受け入れる必要があること認識させる(異文化受容)

・異文化を受容する能力には個人差があることを理解し、それを高めるための方策を知り実行する

 


上記のプロセスは、考えてみればダイバーシティ教育に限るものではありません。ヒトが社会の中で生きていくためには、絶対に必要なスキルです。だから、本来これらは、学校教育や家庭内教育でなされているべきかもしれません。


もともと集団主義の傾向が強い我々日本人が、たまたまアメリカの庇護のもとで長期にわたって巨大な国内市場で成長を謳歌してきたのですから、社会や組織における多様性の必要性を感じなかったし、したがって教育しなかったのも当然かもしれません。

 

しかし、明らかに時代は変わりつつある。他者との違いを認めて、その違いを最大限活用するスキルが、今後さら不可欠になることは間違いありません。ダイバーシティ教育という狭いスコープで捉えるのでは、手段の目的化を脱することは、茹で上がるまでできないでしょう。今からでも、教育すべきだと考えます。

 

最近最も注目されるM&A交渉は、富士フィルムによるゼロックスの買収案件でしょう。当初はすんなりいくかと思いきや、ゼロックスの大株主アイカーン氏の反対でこじれてきています。友好的なMAだったはずが、敵対的なM&Aになりつつあるという状況。

 

今後どうなるかは予断を許しませんが、富士ゼロックスの存在がキーになることでしょう。富士ゼロックスは1962年、富士フィルムとランク・ゼロックスの50%ずつのJVとして設立されました。当初は、ゼロックス製品をアジアで販売する販社でした。しかし、徐々にキヤノンなど競合日本メーカーが現れ、日本市場に適応した製品が求められるようになり、富士ゼロックスも生産機能に加え、製品開発機能も備えるようになっていきました。

 

富士ゼロックスの商圏はアジア地域に限定されているため、アメリカやEUの市場では販売できません。しかし、ゼロックス本体の製品では欧米市場ニーズに応えることが難しくなり、ゼロックスは富士ゼロックスから製品の提供を受けて欧米市場に販売していくようになります。

 

徐々にゼロックスの経営は厳しくなり、2001年ゼロックスは所有する富士ゼロックスの株の25%分を富士フィルムに売却します。これで、富士ゼロックスの株式は、75%を富士フィルムが、25%をゼロックスが保有となりました。

 

そしていよいよ今回の一連のM&A騒動は、名門ゼロックスを富士フィルムが完全買収する計画です。交渉決裂した場合、ゼロックスと富士ゼロックスとの契約が解除され、袂を分かつ可能性もあります。

 

問題はゼロックスが富士フィルムとの関係を断って、単独で生き残れるかどうかです。ゼロックスは富士ゼロックスから製品を入手できないならば、と競合であるコニカミノルタやリコーに納入の打診をしたが断られたとの報道もあります。断られるのは当然でしょう。

 

一方、富士フィルムは、これまで販売できなかった欧米市場に富士フィルムのチャネルを使って、富士ゼロックス製品を販売できると豪語しています。ゼロックスはアジア市場にチャネルを持たないだろう、と添えながら。複写機はフィールドサービスが重要なので、容易には新規市場には参入できません。

 

ここまで富士フィルムが強きに出られるのは、相対的に強力な製品を持つ富士ゼロックスの株式を75%押さえているからですが、そもそも富士ゼロックスが単なる販社から組織能力を高めて、現在のメーカーとしての競争力を獲得したことが極めて大きい。さらに、JV設立時には市場として魅力が小さかったアジア市場が急成長し、一方でその反対に欧米市場は縮小を続けるという逆転現象。遅れたアジア市場を割り振られた富士ゼロックスにとっては、怪我の功名でしょう。

 

しかし、なぜ富士ゼロックスはいわば師匠を超えるような組織能力を獲得できたのか、ずっと不思議でした。そこには、日本の製造業が磨いてきた「現場発の経営革新」の存在があったと、本書を読んで知りました。QCとか現場主義といえばトヨタですが、他にもその能力を磨いてきた企業があった。

 

本書「現場主義を貫いた富士ゼロックスの『経営革新』」は、日本企業が強かった秘密を、具体的に教えてくれる名著だと思います。過去形を現在形にするための、ヒントがたくさんあります。

現場主義を貫いた富士ゼロックスの"経営革新"―品質管理、品質工学、信頼性工学、IEの実践論―
土屋 元彦
4526078549

森友問題に付随する財務省の決裁文書書き換えは、いよいよここまで来たのかと思わざるをえません。官僚が決裁文書(しかも国会に提出する)を書き換える、いや改竄するのは、銀行員がお客さんから預かったお金をちょろまかすのと同じことです。まともな銀行員であれば、どんな指示があろうとも絶対できません。そういったことが財務官僚で起きたことは、官僚がまともでなくなったか、犯罪行為をせよとの指示が上司からあり、それを断れないような組織の規律に成り果てたのか。どちらにしても、「常識は壊れた」と遺書を残した近畿財務局職員の言うとおりなのでしょう。

 

これまでも政治家による行政の介入はいろいろあったでしょう。今回の問題がそれらと異なるのは、官邸に権力が集中している構造で起きたということです。私見ですが、日本人は権力集中した組織構造をマネージするのが、極端に苦手です。戦中、戦前の軍隊がそうです。朝廷と幕府が権力を分担させてきたのも、権力集中すると安定しないという知恵があったからなのかもしれません。(正確にいえば、朝廷の権威VS幕府の権力ですが)

 

戦後はその反省から、三権分立を憲法で定めたわけですし、また実態では官僚機構と政治家と経済界が拮抗することで社会が安定する仕組みを整えてきた。

 

大部分が日本人集団によって構成される日本企業も同じです。従来の日本企業では、御神輿経営とも呼ばれ、社長は御神輿に担がれる役であり、実質的な権力は持たなかった。実質的な力を持っていたのは、ミドルであり現場だったのです。社長は権威を持ち、ミドルと現場が権限を持ち、年功序列によって分配は高齢者が厚く得る。このような、力の分散と拮抗の仕組みが、日本組織を安定させてきたと言えるでしょう。

 

しかし、弱点は急速な変化対応ができないことだった。対応できなかった日産は、ルノーに買収されることでガバナンスを変えた。日本人が大部分を占める組織と、欧州によるガバナンスは、美しく融合したかにみえましたが・・・。ゴーンCEOによるトップダウンも機能しているように見えましたが、まだ断定するには早い気がします。

 

日産はガバナンスを変更しましたが、それもなく手法だけ取り入れて失敗した企業がいかに多いことか。

 

やはり日本の組織では、権力集中しないで拮抗させる、あるいは力を分散させることで、皆に「花を持たす」平等精神のようなものが必要だと感じます。一人がすべてを握ってしまうのでは、日本組織の長所は活かされない。ほおっておくと、日本人は慮ることや忖度が得意なので、すぐ上をみて仕事するようになってしまう。そうなると、かならず組織能力は劣化します。

 

政府にしろ企業にしろ、自らの体型を自覚しないまま借り物の衣装を着たがために、転んでしまわなければいいのですが。

「組織」を考える

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近頃またまた日本組織の不祥事や失敗が頻発しています。日産、神戸製鋼といった日本を代表する企業で「インチキ」が行われてきたとのこと。いずればれるとわかっているのになぜ?不思議です。また、希望の党の小池代表。「さらさら受け入れる気などない。排除する」との発言。実際そうだとしても、その発言が生まれたばかりの党組織や有権者に与える影響をどう考えたのか。どちらの例にしても、適切な組織マネジメントができないから起きた事象だと思います。

 

「組織」という言葉はとても多義的であり、簡単には説明できませんが、私が一番ピンとくるのは、こんな定義です。

 

複数の個人が相互関係を結ぶと同時に、それがまた個人を変化させる絶え間ない循環過程

 

つまり、組織図のような静態的なモノではなく、常に変化し続ける「状態」だという理解です。また単なる個の「集合」ではない組織であるからには、共通の目的と協調の意志とコミュニケーションが必要です。言い方を変えれば、皆の求心力となる「神話(物語)」が必要です。人類は150人くらいまでなら、リーダーが全員の顔を覚えられ影響力を直接行使することができるそうです。しかし、それを超える組織となるためには、共通の「神話」が必要です。さらには、構成する個人が常に情報交換を行う開かれた認知システムを持ってなければ相互関係を結べません。

 

このように組織を捉えると、トップダウンで組織を動かすことがいかに難しいかイメージできます。かつての軍隊組織であれば、トップダウンの組織運営が機能しましたが、その軍隊も不確実性が高いテロとの戦いではもう機能しないそうです。軍隊ですら機能しないのであれば、なおさら企業組織では無理です。

 

しかし、ほとんどのビジネスパーソンの頭の中では、旧式軍隊の組織がいまだに会社組織の中でも無意識にイメージされているのではないでしょうか。例えば、上司の指示で部下は動くのが当たり前と考えるように。経営学は戦略論も組織論も軍隊を参考に始まっているので、無理ないかもしれませんが、軍隊は例外的組織であり、現実は大きく異なります。

 

自転車の運転と自動車の運転の違いに近いでしょうか。自転車に乗れるからといって、すぐには自動車の運転はできない。とはいえ、見よう見まねでとりあえず自動車を動かせるようにはなるかもしれません。しかし、不安ですね。なぜ自動車は動くのか、どこをどう動かせばどう作用するのか、どんなリスクがあるのか、といった知識を知っておいたほうがいい。だから免許制度がある。

 

軍隊組織は自転車の運転のようにシンプルです。規律を強制することで、刺激と反応が直結するからです。しかし、現代の企業組織はもっと複雑です。刺激と反応の関係もよく見えない。

 

大きさに関わらずリーダーとは、「組織」という自動車の運転手。考えてみれば恐ろしいことです。自動車が動く理屈も知らず、教官に同乗してもらっての試験運転もせず、いきなり自己流で高速道路を運転するようなもの。猛スピードで、突然現れる他の車や障害物や道路規制あるいは故障などの突発事態に、瞬間的に自らの判断で操作できるような準備が必要です。しかも、かつては広々と見えた道路も、今では窮屈で運転技術も以前より高いものが求められるようになりました。

 

個人の集合体が組織になるわけですが、単純合計ではない。単なる個人と、組織に属する個人では、自ずと性格が異なります。(呑み屋にいけば観察できます)また、組織自体がまるで人間のような行動をとることもあります。(企業の暴走と構成員の暴走は別物です)

 

日本人は集団主義的だから組織での戦いには強い、という神話がありましたが、もうあまり信じる者はいない。今、あらためて「組織」が生成し行動するロジックと、それを踏まえた適切な運営手法について、深く考えてみる必要がありそうです。

強い組織をつくる

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どんな企業であっても、強い組織をつくることは大きな課題でしょう。では、強い組織とは何でしょうか?持続的に競合より高いパフォーマンスを上げることができる組織だと言えます。

 

強い組織を作るには、いくつかのアプローチがあります。

1)構成する人材の能力を高める(人材開発)

2)強い組織となることを促すような制度やシステムをつくる(ハード)

3)組織を構成する個人間の関係性を開発する(組織開発1

4)仕事で密接な組織間の関係性を開発する(組織開発1

 

主なアプローチはこの四つです。これまで日本企業では、1)の人材開発をすれば必然的の組織が強くなるとの思い込みがありました。確かに欧米企業に比べ「組織化」の必要性は今でも低いと思います。部署をつくり人をアサインすれば、何となく役割分担もできて、「組織」が出来上がっています。これは日本人の長所です。いい人材さえ集めれば、そのままいい組織ができていた。

 

融和的な組織づくりは得意ですが、ではできた組織の生産性は高いのかというと、かなり低いと言わざるを得ません。とういうよりも、生産性という観点が欠落しているようにも思えます。この点は伊賀氏が「生産性」で書いているとおりです。

 

融和的な組織はできても強い組織にはなっていない。だから人材開発だけでなく、組織の開発が必要なのです。具体的には、生産性が高まるような関係性の開発です。生産性が高まる関係性の開発とは何でしょうか?

 

ひとつは、生産性の分母であるインプットを最小化すること。無駄をなくして効率性を高めることを目指します。改善を中心に、ここは日本人の得意分野です。

 

もう一つは、分子であるアウトプットを最大化すること。関係性の開発によってアウトプットを高めることにも、二つのアプローチがあります。ひとつは、アウトプット創出の妨げとなっていた障害を取り除くこと。もうひとつは、新しい「知識」を創造することです。これらは、裏返しの関係のように思えるかもしれませんが、そうではありません。557だったものを、10にするか15にするかの違いです。1015は、程度の違いではなく別ものです。

 

どちらにしろ、ルーティーンに埋没している当事者が、それを実現するのはとても難しい。内部適合の結果として、障害物が構築されているのですから。したがって、第三者による組織に対する直接の働きかけ、すなわち介入がなければ実現できません。

 

 

それから、強い組織を作っていくにあたって、既存の強みを強化する方向と、これまで持ってない強みを獲得していく方向では、全く方法論は異なってきます。

 

このように、強い組織を作る手段としての人材開発だけでは、もう難しくなってきています。そこのところに、ぽっかりと穴が開いているのです。

マネジャーとリーダーが同じ意味で使われ、その結果当事者が混乱することが多いようです。

 

マネジャーという言葉は、従来あった管理職の翻訳として使われてきた経緯があります。本来管理職とは、労働組合員に対立する概念で、経営者の委任を受けて組合員を管理し、経営者の意図するように行動をさせる役割だったと思います。だから、管理職になると組合員でなくなる。

 

経営者は組織が大きくなると、自分の意図が末端にまでなかなか伝わりにくくなり混乱するので、レイヤーを作り管理可能な組織に分割していって、その小さな集団を任せる相手がマネジャーです。

 

別の言い方をすれば、組織の拡大に伴って増す複雑性をできるだけ小さくするために、管理職が必要なのです。目的は、不確実性の低減なのです。

 

こういった経緯から、マネジャーの役割は以下に整理できます。

 

1.  経営者の意図を解釈して部下に適切に伝える(短期スコープ)

2.  管轄する組織の業績が大きくぶれないように、部下を指導したり、組織の関係性を良好に保ったり、そのために関係者間の調整を図る(短中期スコープ)

3.  長期的な不確実性を低減させるために、部下を育成する(長期スコープ)

(指導は短期的スキル向上のため、育成は長期的成長のためと整理できますが、もちろん重なってきます)

 

最後の部下育成は、本来はマネジャーの役割とはいえません。なぜなら、育成の成果が出るのはずっと先のことであり、その時にはもう自分の部下ではなくなっている可能性も高いからです。にもかかわらず、その責任を引き受けるのは、終身雇用が前提の日本企業においては、自分の将来を支えてくれる若手が必要不可欠であり、長期的には自分のメリットにもなるからです。その前提で、経営者マネジャーに育成を委任し、マネジャーはそれを引きうける。ただし、その前提が疑わしくなってきている現在、部下育成は大きな問題にぶつかっているのです。

 

ところで、リーダーは全く異なる概念です。日本で頻繁に使われるようになったのは、バブル崩壊あたりではないでしょうか。リーダーとは、集団の「結果」を出すことに責任を持つ人です。極端に言えば、マネジャーは結果(ビジネスでは数字)を出すことよりも、担当組織の不確実性低減のほうが大事です。しかし、リーダーは逆です。不確実性などよりも、今の結果のほうが遥かに大事。そう、成果主義の考え方に基づきます。だから、バブル崩壊後の業績不振に苦しむ日本企業は、少しでも今の数字を上げるために、成果主義を取り入れリーダーを重視したのです。現在、成果主義の看板を下げる企業は増えていますが、リーダーはますます重視されているようです。そこに、矛盾があります。

 

 もう少し言えば、マネジャーは経営者から委任された「役職」であり、リーダーは本来役職ではなく「役割」です。この差は大きい。役職とは経営者から公式な責任と引き換えに人事権という武器を与えられる立場です。しかし、「役割」にはそういう武器は与えられません。逆に言えば、そういう武器がなくても責任を果たすことができる人だけが、「リーダー」だとフォロワーから認められるのです。

 

だから、リーダーは必ずしもその組織内の上位者である必要はありません。ある状況において最もその役割を果たせる人が、その場でのリーダーになればいい。リーダーシップとは、組織の成果を出すための能力です。いわゆるフォロワーであっても、組織の成果創出のためのリーダーシップの発揮の仕方があります。強い組織とは、全員が状況によってリーダーになれ、しかもそれぞれの立場でリーダーシップを発揮できる集団です。

 

ここまで述べてきたように、マネジャーとリーダーは、正反対とは言わないまでも大きく異なる概念です。経営側も管理者側も社員も、この二つの概念を混同して使っているため、様々な問題が発生しているのではないでしょうか。

 

今の日本企業により求められているのは、リーダーであることは間違いない。そこで、組織の成果を出すことができるリーダーの役割をもう少しブレイクダウンしましょう。いろいろな考え方はあると思いますが、私は以下の4点を重視します。

 

1.  自組織のゴールを定義する

2.  先頭を切ってリスクを引き受ける

3.  腹を括って決める

4.  メンバーそれぞれに合った形で影響力を行使する

 

これは大きなテーマなので、またじっくり整理していきたいと思います。

 

「企業の能力」開発

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企業が持続的に維持・成長するには、企業の能力を高めなければなりません。当たり前ですね。では、「企業の能力」を高めるとは、どういうことでしょうか?

 

この場合の「企業」という言葉には、個人と部門(チーム)と企業体の三つが内包されていると考えると理解しやすいと思います。企業体は部門の集合体であり、部門は個人の集合体です。

 

次に、「企業の能力」を高めるためには、この三つの主体の関係性に着目する必要があります。それらは重なっているものでもあり、外から影響を与えるものでもあります。主体でありながら客体でもあります。

 

少し話はそれますが、このうち日本企業で特に重要なのは、部門(チーム)です。もう少し詳しくいえば、「職場」です。職場とは、顔の見える人々の集団です。大企業であれば、「課」でしょうし、中小企業であればそれが「部」であったり「会社」であったりするでしょう。個人は「職場」に埋め込まれているイメージです。

 

さて、企業の能力を高めるために、どのような手段を取ることができるでしょうか。その主体に直接働きかける方法と、「場」や環境を整えることで間接的に影響力を行使する方法の二つがあります。

 

一般によく行われているのは、「企業」が「個人」に直接、間接に働きかける方法でしょう。研修やMBOインタビューなどが直接で、人事・評価制度、予算制度などが間接にあたります。企業から部門を経由して個人に働きかけるという一方向の流れです。スピードは劣るけれどもカスケードダウンで、確実に会社の意図が浸透されるというスタイルです。経営環境の変化が少ない時代であれば、これで十分でした。

 

しかし、現在は経営の不確実性が高まり、安定性よりもスピードや変化への適応力が重要になっています。そうなってくると、これまでの一方向の流れでは柔軟かつ迅速に適応ができません。そこで、三つの主体間の相互への働きかけが必要になってきます。賢い「企業」(本社)の指示を待っている間に、競争に負けてしまうリスクが高いからです。変化を察知した主体が、それ以外の主体に迅速に働きかけることができるかどうかが、あるいは主体自らを変化させることができるかどうかが、生き残りの決め手になってきていると考えます。

 

もう少し具体的に、能力開発の場面を想定してしましょう。例えば、「部門」が「企業」に働きかける動きも必要になってきます。自部門(A)の能力を高めるには他のX部門との協働作業が必要であるとA部門が判断すれば、自ら動いてX部門に働きかける。本来、部門間調整は本社の役割ですが、それを待っていては遅れてしまう。本社は追認すればいい。結果としてA部門が「企業」に働きかけたことになります。

 

あるいは、「個人」が「企業」の能力開発のために働きかけることも必要です。例えば、そのための直接的手段としてモラルサーベイがあります。しかし、ただアンケートを取って分析するだけでは無意味です。サーベイの結果によって企業を動かすくらいに本気でなければなりません。そのくらいの緊張感を持って企業は個人の働きかけを受容して、初めて企業として変化に適合できる能力を開発することができるのです。

 

このように、個人と部門と企業の双方向の関係性という観点で、企業の能力開発を図っていくことが、不確実性のますます高まる2017年、必要になってくると思います。そのためには、多少強引にでも関係性に「介入」することも検討すべきでしょう。

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