2017年4月アーカイブ

人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書)
井上智洋
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近頃話題のAIですが、それが人々の社会や経済に与えるであろう影響について、わかりやすくコンパクトにまとまった良書です。特に、社会の歴史的変遷を視野に、AIが第四次産業革命を引き起こすという説明には説得力があります。

1760年 第一次産業革命:蒸気機関

1870年 第二次産業革命:内燃機関、電気モーター

1995年 第三次産業革命:PC,インターネット

2030年 第四次産業革命:汎用AI,全脳アーキテクチャー

 

 第三次産業革命で遅れを取った日本が、第四次産業革命にも乗り遅れた場合、ロボットがはたらく無人工場を所有する外国資本からサービスや商品を購入しなければばらなくなり、極論すれば日本企業は全く収入が得られず、日本人収入の道は絶たれるということにもなりかねないと、筆者は懸念します。

 

AIが労働者に置き換わり、AIを所有する資本家だけが利潤を得る恐ろしい世界が待っているかもしれない。資本と労働が手を携えて価値を創造し続けるのが資本主義なのですが、労働が不要になればもはや資本主義ですらなくなってしまう。

 

労働が不要になるのであれば、人々は遊んで暮らせるユートピアが実現できるでしょう?そんなことはありえません。利潤は全て資本家のものであり、労働者に配分されることは、ふつう有りえないからです。

 

そうなると、そもそも人間は何のために存在するのかという哲学的疑問が生じます。筆者は「おわりに」も最も言いたいこと記しているようです。

 

 

資本主義に覆われたこの世界に生きる人々は、有用性にとりつかれ、役に立つことばかりを重宝し過ぎる傾向にあります。(中略)ところが、その勉強は未来の利益のために現在を犠牲にする営みであるとも言えます。現在という時が未来に「隷従」させられているのです。

 

役に立つが故に価値があるものは、役に立たなくなった時点で価値を失うので、その価値は独立ではありません。

 

バタイユは「有用性」に「至高性」を対置させました。「至高性」は、役に立つと否に関わらず価値のあるものごとを意味します。

 

私たち近代人は、人間に対してですら有用性の観点でしか眺められなくなり、人間はすべからく社会の役に立つべきだなどと偏狭な考えにとりつかれてように思われます。

 

機械の発達の果てに多くの人間が仕事を失います。役立つことが人間の価値の全てであるならば、ほとんどの人間はいずれ存在価値を失います。従って、役に立つと否とに関わらず人間には価値があると見なすような価値観転換が必要となってきます。

 

 

AIの出現が人間存在の意味を問い直すという筆者の思いには、大いに共感します。我々は、資本主義とそれを支える「有用性」にどっぷりつかっています。役に立つ者が偉く、そうでないものは無価値だと、心のどこかで思っていませんか?この延長線上に相模原の障害者施設の事件もある気がします。

 

真・善・美は、古来から人間が追い求めるものとされてきていますが、それらは短期的には有用性は低いかもしれません。今の時代、真・善・美を追い求めるのは、非合理で価値の低いことだと思われている気がします。

 

でも、数千年前から人間はそれらを追い求めているのであり、「有用性」基準なんてほんのここ2300年くらいのことでしょう。本来の人間のあり方に立ち戻ること(価値転換)を、AIが促しているのだと本書は主張しているのです。

人間は、「言葉」によって考えることは間違いありません。

しかし残念ながら、日本語は厳密で抽象的な表現は得意でないように思います。なので、我々日本人は「考える」ことが苦手なのかもしれません。

 

では、「考える」とはもう少し詳しくいうとどういうことなのでしょうか。考えることは、大きくは二種類に分けられると思います。分析的に考えることと、創造的に考えることです。

 

考える目的は、いろいろな言い方ができると思いますが、私は「意思決定」だと思っています。何かを決めるために考える。その際に、まず分析的に考えた上で、創造的に考えるというステップを踏むのではないでしょうか。

 

例えば、今日の昼ごはんをどの店で食べるかを決めることも意思決定です。その際、

・最近どの店にどんな頻度で行っていたか(できるだけ多様にしたい)

・時間の余裕とお天気はどうか(時間があって天気が良ければ散歩がてら遠出もいい)

・今日の懐具合はどうか(給料日前は節約しなきゃ)

・今日の体調はどうか(昨日飲み過ぎたからさっぱりした食べ物がいい)

 

など、意識しているかどうかは別にして、様々な評価軸を自分で設定し、それぞれの評価軸ごとに対象となるお店を評価していきます。この評価軸に従って、A店はB店よりも倍くらい望ましい、なんて頭の中で比較対照しているわけです。この作業そのものが、分析的に考えることです。

 

ただ、どれだけ分析しても、それで自動的にお店が決まるわけではありません。もちろん、評価軸ごとにお店を点数化し、さらに評価軸もウェイト付して、総合点で自動的に決めることもできなくはありません。でも、私の経験ですと、得てしてそういうアプローチを取るとうまくいかないことが多い気がします。

 

では、どうするか。上記の分析的作業をざっとやった上で、最後は「えいや」で決めます。この作業は全く分析的ではありません。むしろ直観です。「いろいろ考えたけど、やっぱり今日はチャーハンが食べたい」となるのです。その理由を言語で説明することはできません。でも、いろいろと分析的に考えた結果やそれ以外の過去の経験や今の自分の気分など、様々な要素が何らかの形で統合されて、それが直観となって表れてきたのでしょう。

 

であれば、分析などせず最初から直観で決めればいいともいえそうですが、やっぱり分析のステップを踏んだからこそ、いい直観が閃いたと言えるのだと思います。分析は材料出しであり、その材料をどう料理するかを考えることが創造的に考えるということなのです。

 

(さらにシビアであることは言うまでもありませんが、)仕事も同じですね。分析的思考しかできなければ、正しい判断はできません。そういう人は、コンピュータやAIに代替されてしまいます。新規事業提案は、どんなに分析してもいいアイデアは出てこないのです。

 

徹底的に分析的に考えた上で、それ以外の様々な要素も盛り込んで、最後に創造的に考え抜くことが必要なのです。でも、創造的思考には、分析のようなツールがないので難しい。

 

考え抜くとは、あらゆるものを今考えているテーマにどのように使えるかという視点で常に接するということです。だから時間がかかります。凝り固まった思考がもっとも大きな障害です。広く澄んだ心で、あらゆるものを受けとめる、そんな心構えです。また、その前提として、明確な問題意識を持たねばなりません。

 

普通、それだけの時間を費やすことができません。時間の制約というよりも、こんなもやもやした状況に心が耐えられなくなる。手っ取り早いところで手を打ちたくなる。スマホの時代、ますますそういった忍耐が持てない。逆に言えば、知的忍耐力がこれからますます重要になってくるでしょう。

 

 

創造的に考えるということは、「分ける」ことではなく「統合する」ことです。大事なのは、統合する材料をできるだけたくさん頭の引出しにしまっておくこと、そしてそれが必要となった時にタイミングよく引き出して、「つなぐ」ことです。

 

ジョブズは、有名なスタンフォード大学でのスピーチで、こう言っています。

 

将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ...、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。

 


いろいろなことに興味を持って高いアンテナを張り、たくさんの経験を積む。それを楽しむ、開かれた心を持つ。「考える」ことは人生そのものなのですね。

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