2017年6月アーカイブ

知識と知恵

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幹部候補を対象とした企業研修では、知識の獲得を目的とするものは少ない。知識の多くは、本やネットで容易に獲得できるからです。では、何のためにわざわざ貴重な時間を使って集合研修をするのでしょうか?

 

私は知識を知恵に変えるためだと思っています。その前に、知識と知恵を定義づける必要があります。「知恵磨く方法」(林周二著)では、こう整理しています。

B06XKN826D知恵を磨く方法―――時代をリードし続けた研究者の思考の技術
林周二
ダイヤモンド社 2017-03-16

by G-Tools

 

知識とは、僕らが他者から継受した知のことであり、知恵とは、自分自身が自分の体内ないし脳内から生み出した知のことである。(中略)先人たちの知恵=後人にとっての知識、ということになろうか

 

 

先人が獲得してきた知恵の集積を、私たちは本などで知識として学ぶことができます。ただそれは借り物にしか過ぎません。インプットした知識を、自分自身の経験などに照らしながら、自分だけの「理論」(マイセオリー)に昇華させることができて、初めて自分が使えそうなものになります。すべからく企業研修の目的は真理の追究ではなく、学んだ知識を適用してビジネスの実践で使えるようにすることです。つまり、知識では意味がなく、そこから知恵を創造させなければなりません。

 

知識を学ぶことは一人でもできますが、知恵を生み出すのは一人でうんうんうなってできるものではありません。他者との対話によって、知識が自らの経験と紐付きやすくなります。もちろん、最も知恵が生まれるのは実務の現場ではありますが、効率性を高めるため「模擬実践現場」としての研修現場を活用するのです。

 

また、自分の認識や経験を相対化して再認識することができることも重要です。自分では当たり前だと思っていたことが、他者との対話を通じて実は当たり前ではなかったことに気づくことがあります。もしかしたら職場で上司から「それは違う!」と常々言われていたことかもしれませんが、それが研修という仕事とは(一応)関係ない場(安全地帯)で利害関係のない他の受講者との対話からだったから「気づく」ということが結構あるのです。そうした気づきが知恵を生むきっかけになる、あるいは知恵を生むのに障害となっていた思い込みを除去する効果も期待できます。

 

したがって、研修の現場ではインプットよりもアウトプットが重要になります。インプットとアウトプットの繰り返しの結果、知恵が創造されるのですから。

 

最近の国会での討論、見たくもないものをさんざん見せつけられてしまいます。これは、日本だけの現象ではなく世界的現象のようです。そんなとき思うのは、人間って進歩しない生き物なんだということです。もちろん、科学技術は驚くほどの勢いで進歩しますが、それと人間の進歩は同じではないでしょう。

 

そういうときの私にとっての解毒剤は、芸術に触れることです。昨日のETV日曜美術館で「糸から生まれる無限の世界~ヌイ・プロジェクトの挑戦~」を見てあらためてそう思いました。

 

鹿児島の知的障害者支援施設「しょうぶ学園」の取組を紹介した番組です。その施設では、以前は高級な着物の刺繍を下請けとして、単純な繰り返し作業が得意な利用者にさせていました。しかし、高級な着物です。少しでもスペックにあわなければ指摘され、やり直しさせられます。利用者の表情は、どんどん暗くなっていったそうです。そこで、学園は考え直し、下請け作業ではなく糸を使って各自が好きな刺繍などをつくらせることにしました。すると、表情が見違えるように明るくなり、嬉々として作

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業に没頭するようになったそうです。そうして、見事な作品が生まれてきたのです。

 

彼ら彼女らは、我々が絶対できないような単調な繰り返し作業を、楽しく快適にすることができます。だから、気の遠くなるような手間をかけた作品を生み出すことができます。そして、単調作業に中に作成者のオリジナリティーが自由に発揮されています。

 

逆に言えば、私たちはそういった作業がなぜできないのかという問いを突き付けられます。面倒くさいから、意味ないから、疲れるから、飽きるから、刺激がないから、他にもっとやるべきことがあるから・・・・、いくらでもできない理由は思いつきます。それが社会化ということなのでしょうか。社会の中で他者と共働して生きていくために、大事な何かを失ってしまっている。障害者は、社会化ができないから「障害者」とされる。でも、いったいどっちが障害者なのか、考えさせられます。

 

番組の中で作業している女性に、高橋美鈴アナウンサーが握手をもとめました。するとその女性は、とても嬉しそうに握手に応じました。そして、その次にカメラマンにも、照明用の棹を持つスタッフにも次々に握手を求め手を差し出しました。スタッフは撮影中ですから困ったようですが、画面が多少乱れようとも握手に応じました。

 

普通の人であれば、出演者である高橋アナウンサーと握手すればそれですむと思うでしょう。それが番組の意図ですから。しかし、彼女にとって番組の意図なんて関係ありません。皆と握手したいんです。出演者とスタッフの区別はありません。これが「自由」ということなんだと、観ていて感動しました。

 

「普通」とされる人間は、状況を読み配慮し周囲から期待される行動を取ろうとします。つまり「自由」ではない。しかし、障害者は自由に本心のおもむくままに行動できる自由な存在です。

 

正常な人間とは、彼ら彼女ら「障害者」なのではないか。だからこそ、多くの人々の心を打つ作品を創り上げることができるのだと思います。

 

アール・ブリュットという概念を創出したジャン・デュビュッフェはこう言っています。

「われわれが目の当たりにするのは、作者の衝動のみにつきうごかされ、まったく純粋で生の作者によって、あらゆる局面の全体において新たな価値を見いだされた芸術活動なのだ」

 

ピカソもマチスも晩年は子供が描くような作品を多数生み出していますが、それも理解できるような気がします。

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私が携わる人材開発の仕事にも通じることがあります。人材を「開発」するということは、その人が本来持っている能力を発現させるということです。多くの人々は、様々な事情があって発現できなくなってしまっている素晴らしい能力を持っているという前提に立つのです。それは、仕事でも芸術作品でも同じなのです。

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