文化と芸術: 2016年10月アーカイブ

歴史を知らないことは、なんて恥ずかしく愚かなことなのか。最近観た二つの映画は、それをまざまざと私に自覚させてくれました。

 

「チリの闘い」は、1970年代で前半のチリのアジェンデ政権崩壊を扱った、全三部(4時間半)から成るドキュメンタリー映画です。1973年選挙で民主的に選ばれたアジェンデ左派政権は、歴史上画期的でした。革命や戦争でなく選挙で成立した世界最初の左派政権だったのですから。しかし、既得権益を持つスペイン系住民は面白くありません。第一部のタイトルが、「ブルジョアジーの叛乱」、第二部が「クーデーター」、そして第三部が「民衆の力」。タイトルが内容を的確に表しています。

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アジェンデ政権崩壊とその後のピノチェント軍事政権で起きた悲劇は、五木寛之の「戒厳令の夜」などで、何となくは知っていました。しかし、この圧倒的ドキュメンタリー映画を観て、全く理解していなかったことを痛感。

 

グスマン監督は、命懸けで撮影フィルムを国外に持ち出し発表しました。本物の映像の迫力と説得力は圧倒的です。

 

このチリの出来事は、1968年の「プラハの春」を完全に裏返した事件だったのだと理解しました。民主的で正統な手続きを経て成立した新政権(ドプチェク政権/アジェンデ政権)が、既得権者の後ろ立てになっている大国(ソ連/米国)の軍事的圧力により崩壊するとういうストーリー。ソ連は自ら戦車を侵攻させたのに対して、米国はCIAが裏で支援しチリ政府軍を動かしたという違いはありますが、本質は同じです。このスタイルは、今も続いているのではないでしょうか。

 

 一方、「アルジェの戦い」は、195557年アルジェリアにおける、アルジェリア民族解放戦線(FLN)に率いられた独立運動とそれに対抗する支配者たるフランスとの戦争を描いた、ドキュメンタリーではない戦争劇映画です。プロの俳優は一人しか出演していません。(FLN幹部役を本人が演じている!)しかし、撮影は実際の現場で地元の人を使って、事件後10年もたたない時期になされました。ドキュメンタリーと言われれば信じるくらいのリアルさ。日本でも、「ひろしま」という映画が、原爆投下8年後に制作されています。大きな事件後、その記憶が生々しい時期に制作された映画は、画面から伝わってくる想いの強さが全く他の映画とは違ってくるのでしょう。

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映画「アルジェの戦い」ではムスリム系独立派組織(FLN)は壊滅しフランス軍が勝利するのですが、その後民衆の力を押さえることができなくなり、1962年にアルジェリアを独立させます。

 

この映画には、現在のISによるヨーロッパにおけるテロ活動の源流を見つけることができる気がします。FLNはフランス系住民を無差別に殺害するテロ組織です。その意味ではISと同じかもしれません。しかし、この映画の優れているところは、テロを仕掛ける側とそれを取締り撲滅させる側を、同じ目線で描いていることです。どちらにも正義があり、善悪の二分法で判断することの無意味さが感じ取れます。それがリアルであり、現在の状況でも全く同じなのだと思います。しかし、善悪をつけてしか認識できない人間の性。アルジェの戦いからISとの戦いまでずっと陸続き、残念ながら人類は学ばないのだと認めざるをえません。

 

チリで米国がやってきたことも(ソ連がチェコでやったことも)、アルジェリアでフランスがやってきたことも、実は、姿を変えながらも現在まで脈々とつながっていることを、忘れてはいけません。歴史を理解することで、現在の状況が立体的に見えてきます。

 

ドキュメンタリーと劇映画という、手法は正反対のこの二作品ですが、歴史を理解することの重要性を再認識させてくれました。どちらも、観終わってすぐには座席を立つことができませんでした。こういった、既存の認識枠組を揺さぶる映画は本当に貴重です。映画のパワーを感じます。

原節子が亡くなって一年。一周忌のイベントとして、原節子映画特集が某映画館で先週まで開催されていました。その中で、最後に観た「秋日和」、もう観たのは何回目かわかりませんが、毎回味わいが違う。

 

何というか、「品」がありますね。その理由として今回気づいたのは、背景に置かれた美術工芸品の素晴らしさです。これまでと違って、今回は注意して観ました。すると、法事の後の座敷での食事の場面や鰻屋で使っている食器が、どれも一見していいものなのです。清水焼のとっくりや漆のお椀、湯呑みも急須もどれもセンスがいい。また、会社の会議室や飲食店のお座敷には、ほとんどといっていいほど絵画がかかっています。それらも、その場面に馴染んだ一流のものとお見受けしました。小津監督は、毎回赤坂の喜多川という美術工芸品の店で、撮影用の備品を揃えさせていたそうです。道理で。

 

しかし、それらは主張し過ぎてはおらず、決して映画の邪魔にはなっていません。だから、普通に映画を観ている分には気づかないでしょう。でも、得も言われぬ本物の「品格」がスクリーンから滲み出てきて、観る私たちをいい気分にさせているに違いないのです。本物の力とは、そういうものなのです。(原節子が着る着物も、みるからにいいものです。私には評価能力がないので強くは言えませんが。)私たちが日々仕事や生活をしていくことにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか。ニセモノはいずれ本性が現れる。地味で面倒で一見無駄であろうが、やはり本物に接し本物を目指すべきだと教えてくれます。

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ところで、「秋日和」という映画のストーリーはいたってシンプル。亡き友、三輪の七回忌に集まった大学時代の同級生、間宮(佐分利信)、田口(中村伸郎)、平山(北竜二)の三人が、未亡人の秋子(原節子)と娘のアヤ子(司葉子)二人同時に結婚相手を世話しようと画策し、最後にアヤ子のみ嫁入りするという話です。おじさん三人は、学生時代全員秋子に惚れていたのですが、三輪にさらわれてしまったという背景があります。そして、秋子の再婚相手の候補は、妻に先立たれた平山(北竜二)だったんですが・・。

 

間宮と田口は大企業の役員クラス、平山は大学教授。1960年(昭和35年)の映画ですが、高度成長期の日本企業社会が垣間見られて面白い。間宮は社用車を使って、訪ねてきたアヤ子と昼飯を食べに鰻屋へいったりします。もちろん、ビールも。岩下志麻演ずるかわいい受付嬢に、毎回お客を自分の部屋に案内させます。出かけるときは受話器をあげ、「おい、車」と随分エラソーですが、当時はそれが普通だったのでしょう。時代の余裕を感じます。

 

アヤ子に結婚を決意させるために、秋子を平山とくっつけようと画策した三人組の言動は、アヤ子を混乱させ母に対して誤解による怒りを抱かせてしまう。それを知ったアヤ子の親友百合子(岡田茉莉子)が三人に対して、「そんなことして何が楽しいの!!」と怒りをぶちまけます。知らない若い女性から突然責めたてられたおじさん三人組みの対応がいい。確かに、大人としては少々軽率な行動を取ったおじさんたちですが、いきなり怒鳴られては立つ瀬がない。しかし、間宮は丁寧に詫びつつ、言いたいことを言わせた上で、でもお互いに秋子とアヤ子の幸せを願うことでは共通だと説き、最後には怒る百合子を味方に付けてしまう。さすが大企業の重役、人の扱いに慣れている。近年キレるオヤジが増えているそうですが、やはり当時の大人は「オトナ」だ。その懐の深さに関心することしきりです。

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おじさん達の猥談すれすれの会話やアヤ子を悩ませた軽率な行動も、下品じゃないんですね。三人のキャラクターもあるのでしょうが、会話の間が良いからかもしれません。がつがつしていないのです。これも品ですかね。こういう、余裕のようなものが映画のスクリーンから、やはり浸みだすのです。

 

映画を観終わって、ふと私自身この三人の設定年齢とあまり変わらないことに気づきました。

 

「人間は、少しくらい品行は悪くてもいいが、品性は良くなければいけないよ。」

と言ったそうです。

 

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