文化と芸術: 2012年3月アーカイブ

人にとって最も大きな喜びとは、自分自身が成長していることを実感すること、そして他者が成長するプロセスをみること、さらにできればそれに関わることではないでしょうか。この映画『ピナ・バウシュ 夢の教室』を観てあらためてそう感じました。

 

この映画は、ピナとその長年のパートナー、ジョーとベネディクトが、全く素人の高校生40人を10ヶ月間指導して、「コンタクトホーフ」という舞踏作品を舞台に上げるまでのプロセスを追った作品です。

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この作品からいくつものことを学びました。

 

●人は自分を解き放つことに大きな抵抗がある。しかしもし解放できれば、大きな成長が期待できる

 

子供たちは当初、漠然した恐れから身を固くしているようでした。それがピナらの指導と仲間との信頼関係の高まりとともに、自分自身の感情を認め表現することが恥ずかしいことではないのだと気づいていったようです。それはそれまで抱いていた、自分はおかしな人間なのではないのかといった思春期特有の不安や自信の無さを払しょくし、自信をつけていくプロセスでもありました。自信を持った彼らは、みるみる目の色が変わり、プロのダンサーの顔になっていきました。その過程を目撃することが、こんなに喜びをもたらすとは思いませんでした。

 

 

●たとえ子供であっても、(自分にとっては)重たい多くの経験を持つ。それを外化することで表現の幅が広がる。その結果、他者への共感も高まる

 

ジョーとベネディクトは、それぞれの子に皆の前で恥ずかしかったことや悲しかったことを話させます。最初は面白おかしく語っていた子も、だんだんシリアスな経験を語り出します。それによって強い絆が結ばれたように感じました。そして、重たい経験を共有しあった仲間や指導者の前では、ますます自己を解放すことができるようになったようです。

 

●解放し外化するためには、他者による辛抱強い働きかけと、身体に対して繰り返しプレッシャーを与え続けることが有効

 

経験を語る関係となるのは容易ではなかったでしょう。そこに至るまでで、同じ動作を何度も何度も繰り返させる(例えば予告編になるように、大笑いしながら走り周る動作)ことは非常に有効な手段でした。余計な思い入れや邪推、恥ずかしさを振り落とすことで、本性だけが残るのです。また、ひと組の男女が舞台の両側に向かい合って坐り、下着以外の服を少しずつ脱ぎ捨てるラブシーンがありますが、当然のことながら当初二人は強く抵抗しました。まさか本当にできるとは思いませんでしたが、真摯で辛抱強い指導の結果、二人は大ぜいの観客の前でやり遂げたのです。公演時の二人は、まさにプロでした。魔術のようであり、人間の大きな可能性をも感じさせました。

 

 

●それができる他者とは、深い愛情と情熱と気配り、そして絶対的な信頼を持っているものでなくてはならない

 

ジョーが稽古中に、「完璧にできなくても構わない。彼らが一生懸命やっている姿を見るだけ涙が出てくる」と言っています。普段練習をつけているジョーとベネディクトは、真剣そのものです。得てして真剣になり過ぎると、できない子らに強く当たってしまいそうですが、そんな雰囲気は微

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塵もありませんでした。一緒になって悩み、そして励ますのです。時折しか顔を出せないピナは、そういう二人と子供たちを、大きな慈愛で包容しているように見えました。柔らかくて透明感のある眼で。

 

 

2009年にこの世を去ったピナは、その前年にこのプロジェクトを成功させました。この作品は、ピナが我々に残した遺言なのかもしれません。

 

「怖がらずに踊ってごらん。ほら、これまでとは違った自分と違った風景が見えるでしょ」と。

成瀬巳喜男監督作品はどれも大好きですが、私にとってのNo.1は、この『流れる』(1956年)です。先日7年ぶりに観ましたが、そ

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の思いは変わりません。さらに、この映画のすごさを発見した思いです。映画作品に国宝制度があったとしたら、真っ先に国宝に指定されるべき作品です。

 

女性を描かせたらピカ一の成瀬監督ですが、当代の名女優をこれでもかと登場させ、しかもどの女優もこの人でなくてはという役を、見事に演じ切っています。女優の力と演出の力がシンクロして、それぞれくっきりとその役柄の性格を浮かびあがらせています。だれもが素晴らしい演技です。

 

大川端近くの芸者置屋「つたの家」が舞台。花柳界の没落を扱った作品ですが、そんな時代の大きな変化の「流れ」の中で、人々はどう生きていくのか、そういった普遍的なテーマをくっきりと描いています。

 

山田五十鈴演ずる「つたの家」の女将つた奴は、時代の変化を感じつつもどうしようもなく、時代の流れと運命をともにする弱くやさしい女。

 

杉村春子演ずる年増の芸者染香は、時代の変化に小賢しく立ち回ろうとするのですが、自らの小ささゆえ意図しないまま流されていくみじめな女。(勝代に酔って悪態をつくシーン、さらに後日つた奴に詫びるシーンのうまさには目を見張ります)

 

高峰秀子演ずるつた奴の娘勝代は、古い時代を嫌悪しつつ、自らの力でなんとか地道に新しい時代を生き抜こうとする、この時代を象徴する新しい女性。

 

栗島すみ子演ずる芸者あがりの料亭女将お浜は、時代の流れに棹して乗っていく、助ける振りをして利用することも厭わない強く賢く非情な女。(彼女は往年の大女優だそうですが、その貫禄たるや凄まじい!)

 

そして、田中絹代演ずる「つたの家」の女中お春(梨花)は、古い時代に卒なく適応しつつ、次の時代にも活かせる(普遍的)能力の高さを買われて新しい時代に抜擢されるのですが、それを潔しとせず、静かに身を引く見た目とは正反対の武士のような女性。

 

 

これら五人の女性は、大きな時代の流れに対する人間のパターンを代表しているのではないでしょうか。そういう意味で、非常に普遍的なテーマを扱った作品だと感じたのです。

 

私個人としては、お春に最も共感しました。経済的にはお浜がもっとも新しい時代に適応して成功することでしょう。戦後のどさくさで成功した人の多くは、お浜のような人だったのかもしれません。でも、今の時代から振り返ってみれば、それにどれだけの意味があるのかと考えてしまうのです。

 

日本の経済も社会も、バブル崩壊後大きな時代の流れに翻弄されています。それは昨年の大震災と原発事故をきっかけに、さらに加速するかもしれません。

 

しかし、そもそも時代の大きな流れとは、その渦中にいるときは、なかなかそうだと気づくことは難しいもの。映画の観客だから、上記のような分析ができるのであって、当事者となったら見えなくなるのが人間です。

 

ただ、たとえ見えたとしても、自分の振る舞いを決めることができるでしょうか、また決めたとしてもそれを実行できるでしょうか。そう考えていくと、結局どんな人間も「流される」ことでは変わりない。所詮人間の力とはその程度のもの、見えない何かに流され、操られている木偶なのかもしれません。

 

 

おまけ:

原作の幸田文は、自らの置屋での女中体験に基づいて、この作品を書いたそうです。つまり、お春が幸田文であり、ひとり静かに身を引いたとしても、時代が彼女の能力を放っておかず執筆に向かわせたと想像すると興味深い。作者も「流された」一人であり、流された結果この傑作が生まれたとしたら・・・。

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