文化と芸術: 2015年10月アーカイブ

先生のMさんへの対応はその後も厳しいものだった。しかし、数年後、先生が大病を煩いそこから生還すると、Mさんへの対応ががらっと変わった。Mさんのどんな質問にも丁寧に答えてくれるようになったのだ。死期を悟った先生は、Mさんを育てることで自分が積み上げてきたものを後世に残そうとしたのかもしれない。

 

数年の調査を経て、Mさんはある結論にたどり着く。その茶碗の作者は本阿弥光悦であると。これは陶芸研究の世界でも究めて異端の学説であり、その後Mさんは萩光悦の研究にとりつかれることになる。

 

二年ほど前、先生と父親(三代目)があいついで亡くなった。父親とは、最後まで意見が合わず認めてもらうことができなかったのは、Mさんにとっても心残りだった。

 

しかし、感傷に浸っている暇はなかった。家業であるM店の経営は依然低迷を続けており、いかんともしがたい経営状況になっていたのである。四代目店主となったMさんは、父親との約束通り自分のやり方で店を再建しようと歩み出した。

 

まずは、それまでの安い陶器の問屋業から転換を図るべきだと考えた。問屋業では、陶器が売れなくなってきていることはよくわかるが、では消費者がどのような焼き物を欲しているのか全くつかめない。また、問屋である限り、全国数多ある窯元と競争しなければならない。問屋の売り先である百貨店などでは、日本全国の産地から商品を集めるようになっていた。物流が発達し、それは容易なことなのだ。

 

やはり、直接使用者である消費者と接点を持つことが必要だ。仮にそうしたとして、何を売るのか。萩焼というだけで売れる時代ではない。Mさんは、これまで仕入れていた無名の多くの生産者との取引をすべて止めることを決断した。自分が扱う商品は、自分自身が惚れ込めるものだけにしたかったのだ。それは先生の教えでもあった。

 

とはいえ、扱いたい高品質のお茶碗の作家はすでにみな知名度も高く、Mさんはこれまで取引したこともない。それどころか、かつて困っていた萩焼作家との契約を切ったのは二代目や三代目だった。父や祖父がそういう目にあった作家たちが、容易にMさんの依頼に応じてくれるはずもなかった。しかし、後がないMさんは毎日毎日一軒ずつ窯元を回り、少しずつ信頼を得て取引を承諾してもらっていった。

 

Mさんは自分の店を、国内唯一の一流の萩焼抹茶茶碗のみを扱う専門店へと変えていった。すでに萩市内であっても萩焼茶碗の専門店は存在しなかった。萩焼の作家も、抹茶茶碗では食えず、ごはん茶碗や湯呑みや急須、箸置きなどのあらゆる陶器をつくって生計を立て、その収入で本当に作りたい抹茶茶椀を細々と作り続けるような生活だった。そんなときに現れたMさんの、かつて毛利藩ご用窯で作っていたような茶器を今の時代に復活させたいという、熱い思いに共感したのだろう。

 

ただ、一流の萩焼抹茶茶碗を店頭に並べたからといって、お客さんが店に来てくれるわけでもない。既に萩焼の名前だけでお客さんをよべる時代ではないのだ。そこで、Mさんはもう一つ情熱を傾けてきた光悦研究を使って、店にお客さんをひっぱることを考えた。

 

自分が人生を賭けて見つけてきたともいえる、光悦作を信じる茶碗。Mさんは、その後も光悦作の萩茶碗を探し続け、他に2つの茶碗を手に入れたのだ。それらを「萩光悦」と名付け、社会に発信を続けた。

 

Mさんは、日本にふたつしかない陶器の国宝のひとつ、光悦作「不二山」も一般に言われている楽焼ではなく、萩で焼かれた萩焼でなないかと考えている。あの天才光悦が、萩で茶碗を焼いていたことは萩焼に新しい光を当てることを意味する。それが萩焼復活の起爆剤になるのではないか。

 

Mさんはとんでもことを始める。M店においてお客さんに「萩光悦」を有料で見せるというものだ。博物館でもない一陶器屋さんが、お金を取って陶器を見せるなんて、普通に考えられることではない。

 

「~萩光悦研究家Mの主観による~ 光悦茶碗特別鑑賞会」と銘打って、完全予約制、2時間4千円の企画だ。

 

萩焼に興味がなくても光悦に興味はある人は大勢いるだろう。先の三つの萩光悦とともに、光悦が伊賀や瀬戸などで焼いた、合わせて七つの光悦作の茶碗を公開し、Mさんが解説を加える。光悦目当てで来たお客さんも、本物の茶碗に触れることで萩焼のお茶碗の魅力にも目覚めていくかもしれない。

 

店頭には、当代一流の萩焼作家の抹茶茶碗を並べ、お客さんが手に取って味わえるように工夫した。光悦に興味がある参加者は、総じて美意識が高い。本物のお茶碗を有料で体験した参加者のうち、10人に一人でも萩焼のお茶碗に興味を持ってくれればこんなに有り難いことはない。

 

さらには、光悦を入口にして萩焼に興味をくれたお客さんたちに、当代一流の萩焼陶芸家の窯元を案内するサービスを、「萩焼窯元巡りツアー」と称して始めた。2~3時間程度で窯元を2,3軒を巡り、一人2千円。Mさん自らが運転して、窯元を案内する。焼物に興味があっても窯元まで訪ねる人は多くはない。窯元は山間部に点在しているのが普通で、自動車以外ではなかなか周ることはできない。そういった焼物好きのニーズに応えるサービスだ。

 

申し込んだお客さんを最初にM店に案内する。そこで、現代の陶芸家の作品を見せ説明しながら、お客の志向や知識レベル、購入意欲などを把握する。それに基づいて案内する窯元を決めるのだ。さらに移動中、Mさんは好きなだけ萩焼の魅力を話し続ける。密室の車中、お客は逃げることはできない。普段は口下手な方のMさんも、ここ時ばかりは流暢に話し続ける。話したいことが次々に思い浮かぶのに、口が追いつかないもどかしさを感じつつ。

 

萩市は、世界遺産に登録された明治の産業遺産、明治維新のふるさと、空襲にも合わず残った江戸時代の街並み、豊富な海の幸、そして萩焼、これだけ魅力的な素材を持つにも関わらず、街に勢いはなくシャッター通りは増える一方である。Mさんのような新しい発想が、萩の街に活気を呼び戻すことを期待したい。

先月末の週末、先日触れた版画家立原位貫さんの個展を観に、初めて萩市を訪れました。個展は予想通り素晴らしものでした。今回は一泊二日と時間が余りないため、日曜の午後は萩焼をみてまわろることにしました。たまたま目にしたチラシで、萩焼窯元を専門家が案内してくれる窯元巡りを見つけました。レンタカーを借りるような旅行ではなかったので、車で廻ってくれるのは好都合です。その日の朝、申込みました。その企画をたて、案内してくれたのがMさんです。

Mさんの話がとても面白かったので、ケースっぽくして二回に分けて書きます。


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山陰地方の人口五万人ほどの毛利家の城下町萩市。この町は空襲にあうこともなく、今も江戸時代の町並みがそのまま残っている。一楽二萩三唐津と言われる萩焼の古里でもある。萩焼は江戸初期、毛利家お抱えの坂家と三輪家によって発展してきた。

 

Mさんは、萩市で最も古い陶器のお店の四代目だ。五代前までは、輪島漆器の小売店だった。昭和初期まで、漆器の需要は旺盛でM店は多いに栄えた。初代が萩焼を扱い始めたのは偶然だった。江戸時代、萩焼は大名家とそれに準ずる名家が茶道で使うための道具であり、庶民には無縁の存在だった。

 

ところが、明治維新により高価な萩焼の購入者は激減、陶芸の家は食いつなぐため、抹茶茶椀以外の日常雑器も作り、自ら販路を開拓せねばならなくなったのである。そして、M店に萩焼を扱ってもらうべく売り込みに行く。初代は、庶民が買いやすい器を中心に、店の端に少し置くことにした。それが当たった。庶民は、お金持ちしか持てなかった萩焼を自分も持てるということを喜び、数年後には漆器の売上を上回るまでになった。

 

そして、二代目は漆器の扱いをやめ、萩焼専門の問屋に業態転換をした。そこから今のM店が始まる。安い陶器を大量に仕入れ、料理や旅館、百貨店などに安く大量に卸す。少しずつ日本も豊かになり、庶民の家でも、冠婚葬祭には大量の陶器を購入するようになっていった。

 

当初は付き合いあった萩焼の有名な作家の商品も、高価なため店の方針に合わず、徐々に取引はなくなっていった。困っていた時、初代に助けてもらったと感謝していた陶芸家も、M店の冷たい扱いに落胆し、自ら都市の百貨店などに売り込む道を歩むことになった。その中の何人かは、高いステータスを獲得し成功をおさめた。

 

一方のM店は、安く大量に販売する路線で規模拡大することに注力し、三代目の時代、バブル期にピークを迎え、一時は20人近い店員を雇うまでになる。しかし、バブル崩壊とともに、急激に売上は減少。そんな頃、四代目は大学を卒業し、深く考えることもなく、家業のM店に入った。

 

景気は悪くなる一方だったが、三代目は商売のやり方を変えない。若き四代目は疑問を持ちながらも、父親に従うしかなかった。Mさんは、自分なりに商売を梃入れしようと、いろいろなアイデアを父親にぶつけてみたものの、一切聞く耳を持ってはくれなかった。「俺が死んだら好きにやってもいいが、それまで俺のやり方でやる」と。

 

Mさんはやる気を失い、外回りに行くと言っては、喫茶店で時間を潰す日々が続く。

 

そんなあるとき、Mさんはいつもの喫茶店で、不思議な老人と言葉をかわすようになる。その老人はMさんが老舗陶器問屋の四代目だと知ると、陶器について専門的な話しをしてくるにようになった。老人は驚くほど知識が豊富だった。一方、家の商売に全く興味のないMさんはほとんどまともに相手ができず、さすがに恥ずかしい思いをした。

 

ある日、老人はMさんを誘った。「自分が焼物について教えてやろう。毎日私の家に来なさい。」どうせ暇なのだからと、それから毎日、車で一時間ほどの老人の家に通った。Mさんは骨董商だった。萩市は戦災にも合わなかった城下町、町中にはまだ古いいいものが眠っていた。老人は、毎日萩に軽トラックで通い、骨董品を買い集めていたのだ。

 

後で知ったことだが、Mさんが老舗の倅と知り、M家の倉に掘り出し物が眠っていると当たりをつけ、Mさんに接近してきたのだ。以前、三代目に倉を見せて欲しいと頼んだことがあったが、にべなく断られたそうだ。世間知らずのMさんなら手玉に取れると思ったに違いない。

 

Mさんは毎日老人の家にある倉庫に通い、片付けを手伝った。毎日お茶を出してくれるものの、特に何かの教えてくれるわけでもない。次第に飽きてきたMさんは、老人に早く焼物について教えてほしいと頼んだところ、「毎日教えているではないか。学んでいないのはお前自身だ。」と言われてしまう。毎日違った古い茶碗でお茶を出してくれていたが、その茶碗はどれも一級品、それに毎日触らせているのに、何もわかっていなかったのだ。Mさんは情けなくなる。さらに老人は言った。「いい茶碗かどうかもわからないのは、身銭を切っていないからだ。これから、自分でいいと思った茶碗を買ってこい。俺が判断してやる。」

 

三十代初めだったにも関わらず、500万円くらいの貯金があったMさんは、貯金を崩して茶碗を買いまくった。しかし、ことごとく老人は首を横に振るのだった。

 

10年以上Mさんは、M店での下働きを終えた後、老人の家に通い続けていたが、父親は好い顔はしなかった。自分の言うことは全然聞かないのに、訳の分からない老人を師匠とし、従順にいうことを聞いている、そんな息子が許せなかったのだろう。

 

とうとうMさんの貯金は底をつきかけた。そんな時老人はヒントをMさんに与えた。「お前は茶碗を買って儲けようとか人から誉められたいとか思っているだろう。欲で買う奴には、いいものを見極めることはできない。純粋な目でみるんだ。」

 

その言葉にはMさんは気づいた。確かに自分は欲の目でみていた。真っ裸で、真っ白な目でお茶碗に対峙してみようと。

 

そんな時、気になるお茶碗を見つけた。とにかくそのお茶碗が気になって仕方なくなったのだ。でも、お金が足りない。頭を下げて、父親と祖母から15万円を借り、最後の貯金と合わせて購入した。これが最後の買い物と覚悟した。

 

先生(その頃Mさんは老人をそう呼んでいた)に恐る恐るその茶碗を見せた。反応はこれまでと同じだった。落胆したMさんは、やる気を失い先生のところに通うこともできなくなった。

 

数ヶ月ぶらぶらしていたところ、不意に先生から電話が入った。「あの茶碗はもう売ったか。もし売れないのなら、可哀想だからお前が買った値段で俺が買ってやろうか。」

 

それを聞いたMさんは勝った!と心の中で叫んだ。十数年の先生との付き合いから、先生は自分が欲しいと思ってもすぐにはそう売り手には言わず、しばらくしてから助けてやろうかと持ちかけるというやり方で、いいものを手に入れていることを知っていたからだ。やはり、自分が最後に買ったお茶碗は先生の目にも叶う名品だったのだ。もちろん先生には売らなかった。

 

それからMさんは自分の目を信じられるようになった。開眼したのだ。その後Mさんは先生とともに、「最後の茶碗」の作者は誰なのかの調査を始めた。それは、「最後の茶碗」が他のどんな萩焼とも違う唯一無二の萩焼茶碗だったからだ。この調査は、Mさんのライフワークになっていく。


(続く)

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